新しい世界史の副読本『世界史読本』

認知心理学 意欲はどうやって高まるのか(1)

意欲を高める

 ここまでで記憶力についてはあらかたおわかりになられたかと思います。 理解できることが必要なのだと。これは絶対に必要なことです。では分かりさえすれば、記憶できるのでしょうか。


 記憶力を高める方法の一つに、「意欲を高める」というのがあります。こ れは例えば、何か好きなものができると人は積極的に調べよう、理解しようとするのと似ています。鉄道が好きなら雑誌を買い、インター ネットや図書館でできる限り調べるでしょう。旅先で友人ができたら、情報交換でさ らに知識は増すでしょう。芸能人や異性が好きになったら、やはりできる限り調べたり、コンサートに行って目で見て声を聞きたくなるで しょう。そしてこれら調べたことは、決して忘れられないものになるでしょう。


 では世界史ではどうやって意欲は高まるのでしょうか。これを理解するた めには、高校生が世界史に何を期待しているのかを考えてみましょう。つまり世界史を学ぶ意味です。


 体育を学ぶ意味なんかは分かりやすいでしょう。体を健康に保ち、スポー ツを楽しむことを理解し、そのための具体的な技術を身につけることです。物理や化学などは世の中の物理現象や化学現象つまり力学や電 気、化学反応などを理論的に理解し、それを現実面でも具体的に理解する技術を身につけることです。いわゆる理系の仕事などでは実際の 仕事に直結するものです。


 もちろん世界史も、世界の歴史を理解するという点ではこれらの科目と肩 を並べるものですが、では「具体的に」という点においてはどうでしょうか。例えば、パレスティナ問題などでは、だいたいの教科書がカ バーしていますが、今の高校生にとってパレスティナ問題は、過去の話というイメージでしょう。一方で、最新の「中東の春」と呼ばれる 事態を教科書に求めるのは無理な話でしょう。では、アフガニスタン問題やイラク問題はどうでしょうか。現在の中国の急成長と野心むき 出しの行動はどう理解すれば良いのでしょうか。そして長引く不況を脱出できない日本という問題はどうでしょうか。


 私の知っている限り、進学校だろうが底辺校だろうが、高校生は皆、こう した具体的な世界と日本の状況に対する興味を持っています。また、はっきりした答えが無いのは分かっています。それでも彼ら/彼女らは、状況を理解したいのです。

 

確かにギリシア・ローマの話であっても、話が分かってくれば興味を示しますが、彼らはそれ以上に現代を理解したいのです。残念ながら教科書はそれに応えてくれません。かといって、他に応えてくれそうな教科もありません。この点はどの教科も同じです。


 では最初の実例を。グラックス兄弟の改革について。




 ローマにとって前3世紀から2世 紀にかけては領土拡大と経済的繁栄の時期だった。ローマ軍は天才ハンニバルをも打ち負かし、同盟諸都市との信頼感も揺るぎない事を証 明した。そしてローマは地中海全域の支配者の地位を不動のものとし、経済的な繁栄も手にした。毎年のようにローマの中心ユピテル神殿 には勝利の報告が届き、莫大な戦利品が市民に分配された。ローマには恐れるものなどなく、その地位が揺らぐことなど想像もできなかっ た。


 前述した小スキピオの妻には弟が二人いた。そのうちの兄ティベリウス=グラックスは、名門の出身らしく若くして元老院議員となっ た。ティベリウスがある時イタリア国内を旅していて気がついた。それは旅すがら出会う農民が、ほとんど外国人の奴隷ばかりだったとい うことである。つまり気がついてみればイタリアの農業を支えているのがイタリア人ではなくなっていたのである。ではイタリア人農民は どこにいったのか。


 実はこの現象の裏にハンニバル戦争があった。カルタゴ軍がイタリア中を荒らし回った10年余りの間、戦場になった地域では放棄され た農地が目立つようになった。ローマ兵のほとんどは農民であり、それが戦闘ごとに数千~数万人と死亡した。そしてその分の農地で耕作 者がいなくなっていたのである。また戦争以外にも、この時期ローマの戦いが広域化かつ長期化しており、兵役義務が最長1年という原則 は崩れていた。一家の主、男手が不在となれば、機械など無いこの時代、残った老人や子どもや女だけの家族が農業を続けることなど不可 能だった。いわゆる「独立自営農民の没落」という現象であった。土地を手放した一家は、首都ローマなどの大都市でなら何とか仕事を見 つけて生きていくことができた。こうしてローマなどには多数の貧民が集まるようになったのである。


 自営農民が減少する一方で、戦争 で得られた多数の奴隷がイタリアに連れてこられた。そして農業労働者不足と、この奴隷の増加という二つの要素が結合する。放棄された 農地を富裕な市民が引き取り、奴隷が耕作するという大規模農業経営(ラティフンディウムという。農園のことはラティフンディアとい う。)がイタリア中に広まった。ハンニバル戦争の被害の少ない地域では従来通りの自営農業は健在だったが、ラティフンディウムが奴隷 を駆使して労働コストが低いのにたいして、自営農家はそうではない。大規模経営に小規模経営はなかなか勝てない。勝つためには現代な らそれなりの工夫もあるだろうが、この時代にとれる手段はそうは無かった。


 ローマはすでに民主政になってい たのであるから、庶民にとって困った問題は誰かが動けば何らかの解決法が生まれそうなものだ。しかし現代の民主国家でも、社会の指導 者層にとって都合の悪い事態はなかなか解決が難しく、解決までに長い時間がかかる。では何が都合が悪かったのか。


 ローマ軍が地中海世界を征服し、 そこで彼らはギリシアやオリエント世界の繁栄とその文化の高さを知った。帰国した彼らは、かの地で見知ったさまざまなものをローマに 持ち帰った。それは東方の珍品といった素朴なものから、ギリシア哲学などの高度な知的活動まであった。こうしてローマではこの頃から 急速に東方趣味への傾倒が目立っていく。

 こうした中でも影響が大きかった のは、奢侈(ぜいたく)の風潮だった。ギリシアの上流階級やオリエントの王侯のような生活、すなわちあふれるほどの食物や光り輝く調 度品に囲まれた生活、知的な会 話。そして貧しい奴隷達を見る冷たい視線と態度、そうしたものを今やギリシアを支配したローマの指導者層は身につけていった。特にギ リシア哲学はローマ人の上流階級に好まれた。詩人ホラティウスはこうした風潮を「ギリシアを征服したローマは、文化的にギリシアに征 服され た」と表現している。彼らはより良い生活を求め、一族の子弟をギリシアに留学させるため、そしてギリシア人の家庭教師を雇うため、収 入を増やすことに邁進した。そんな嗜好を持った富裕層にとって、土まみれの自営農民の没落など他人事なのである。


 グラックス兄弟の兄ティベリウス そして弟のガイウスの二人がやろうとしたことは純粋に愛国的なものだった。それはローマ軍の根幹を立て直すこと、つまり没落しつつあ る農民を救うことだった。それが実現できれば、今まさに崩れつつある、建国以来続いてきた健全な市民中心の軍は復活できるだろう。し かしそのために、ハイレベルな生活を送っている人にレベルを落とさせることは可能だろうか?想像してほしい。毎年海外旅行に行 く家族、ピアノやバイオリン演奏を自分の人生の一部にしている人々が、それをあきらめることは可能なのだろうか?ティベリウスが始めた改革とは、そういう性格のものだったのである。




 格差社会が問題となっている今の世の中で、このグラックス兄弟の改革は、授業で扱う上では非常に良いテーマでは無いでしょうか。彼 らの改革は、決して農民がかわいそうとか、昔を懐かしむとかいうレベルの改革では無いのです。しかしこれくらい詳しく書かないと、改 革の本質は理解できません。しかし理解できれば、自然と興味がわきますし、グラックスやホラティウスの名、そしてそ の内容まで記憶でき、やる気も増すのです。 逆に記述を減らせば読む字数は減りますが、それだけ真実からは遠くなり、覚える努力は格段に増えてしまうのです。

 では次の例は現代の問題です> 


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