世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇産業革命

■産業革命の始まり

18世紀になって、かつてのヨーロッパの辺境、今まさに経済大国となろうとしていたイングランドで、新たな社会 変動が始まろうとしていた。産業革命である。産業革命とは、これまで人間が物作りにおいて逃れることができなかった「手を動かして作らね ばならない」という制約から解放されたことを指す。すなわち以後人は、その手をほとんど煩わせることなく、機械でものを作るように なった のだ(ただ実際には、いきなりすぐに大きな変化が起こったのではなかったということで、最近ではより穏やかな「工業化」という言い方に変 わってきている)。

実は物作りにおける効率化は、時代と共に進んできていた。その歴史をたどると、まず、古代から中世にかけては職人が各々の家で必要な もの を作っていた時代(家内制手工業)が長く続いたが、やがて材料の仕入れと製品の販売は商人などの専門家(問屋)が行い、職人は製造のみに 集中できる分業の時代(問屋制家内工業)へと移っていった。それが15世紀頃にはさらに進んだ形態、すなわち商人等が工場を作り、そ こに 職人を集めて材料の供給から製造までを一貫して行い、安価に製品を販売できる形態(工場制手工業もしくはマニュファクチュアという)が出 現していた。このやり方だと工場経営者の判断で生産調整がしやすかったり、中世以来生産流通の合理化の足を引っ張っていたギルドと関 わら なくても良いというメリットもあった。すなわち生産効率をより向上できるのだった。ところが、一方では生産の主導権が職人から工場経営者 に移るため、職人の賃金や待遇の悪化をまねいてしまうデメリットもあった。

一方、この頃のヨーロッパは、服装の歴史の上で大きな転換期を迎えていた。古代から16世紀までの王侯貴族や上流市民の服装の素材 は、絹 織物や毛織物、そして毛皮だった。一方庶民は、麻織物か毛織物の服が普通だった。絹は高級品で、当時イタリアでも作られてはいたが、ほと んどは中国からの輸入品だった。麻は繊維が荒く風通しがよいので、夏にはよいが冬は何枚も重ねて着るしかなかった。毛織物は冬は暖か くて 良いが、当時はぶ厚い物しか織れなかったので使い勝手は悪かった。おまけに染織技術も低かったこともあって、どの素材も染めにくく、色は 基本的に素材本来の色しか使えず、地味なものばかりだった。

毛織物工業は16世紀にはスペインやネーデルラントが中心で、どちらもフェリペ2世の所領だった。そのネーデルラントで技術革新がお こ り、薄手毛織物(新毛織物とも呼ばれた)が発明された。これは名前の通り薄くて重ね着することができる上、従来品より染めやすかったこと でデザインの面でも大きな変化が起こり、一気に服装素材の主流になっていった。ところがこうした技術革新に対応できず、壊滅的な打撃 を受 けたスペインの商工業者たちが国王に泣きついた。フェリペ2世は、かの地で広まっていたプロテスタントを苦々しく思っていたこともあっ て、これを機会にネーデルラントの商工業を弾圧したのだった。こうして起こったのがネーデルラント(オランダ)独立戦争であったが、 これ はスペインの敗北に終わり、以後スペインは没落の一途をたどるのである。

17世紀のはじめにはイギリスでもこの新毛織物産業が立ち上がり始めた。この時作りはじめたのは、もちろん生っ粋のイギリス人もいた が、 独立戦争で混乱が続くネーデルラントを逃れてきたオランダ人たちが多かった。貧しかったエリザベス1世時代のイギリスは彼らを喜んで迎 え、仕事がしやすいように制度を整えたのである。これはオランダからすれば、今で言うところの産業の空洞化という現象であり、イギリ スか らすればオランダ系資本の進出であり重商主義の実施と言うことになる。こうした傾向は、この世紀の半ばすぎにオランダとイギリス、そして フランスが戦争を始め(英蘭戦争やルイ14世の侵略戦争)、オランダが戦場となると、より加速した。イギリスはこの間、進んでオラン ダの 優れた経済システムを導入し、さらに改良して市民の便宜を図ったのである。これがオランダがイギリスにとって代わるようになった原因の一 つだった。

新毛織物は当初、非常に利益が大きかったことから、羊毛生産のための牧畜業も非常に発展することになった。そこで、イギリス特有の地 方政 治を牛耳っていたジェントリと呼ばれる階層に属する一部の悪徳大地主が、法律に疎い農民をだまして土地をだまし取って牧場に変えていくと いう事件が相次いだ。土地を奪われた農民は仕方なく生活のためにロンドンなどの大都市に流れ込み、郊外の劣悪な環境の土地に住み着い た。 そうした人たちは、低賃金労働に従事せざるを得なくなり、中にはホームレスとなってロンドン橋や大寺院周辺に勝手に小屋を作って住み着い たりして、都市環境悪化の一因となっていた。ヘンリ8世~エリザベス1世時代の政府はこれを黙って見逃すことはできなかったため、何 度も 取り締まりを行ったが、現代のホームレス対策同様、効果的な取り締まりはできなかったのである。この辺りは東京や大阪の人ならよく理解で きるだろう。

かつての歴史学ではこうした農村から都市への下層民の移動を過大に見てしまい第一次囲い込み運動(エンクロージャ)という名前までつ けて いたが、現在ではイングランドのごく一部のことだったことが分かっている。ただ、この小さな動きは150年ほど後に非常に大きな動きと なってイングランドの社会を大きく変えていくのである。

こうした一方で、17世紀は海外との貿易が急拡大した時代でもあった。エリザベス1世の晩年の1600年にイギリスは東インド会社と いう 世界最古の株式会社を立ち上げている。「東インド」とは、コロンブスが発見した「西インド」諸島を含むカリブ海地域に対して、本来のイン ドを指す言葉で、要するにアジア貿易を専門に扱う総合商社だった。東インド会社は政府からアジアの産品を特権的に独占して取り扱うこ とを 許され(つまり会社以外は勝手に取り引きできない)、出資者は利益の一部を配当として受け取ることができ、それは全体的にはかなり安定し た利益を生んでいた。

イギリスはオランダと競ってアジアの産品(初期は何と言っても香辛料)を扱ったが、しだいに取引の中心は利益の上がるインド製品に 移って いった。こうした傾向は東南アジアのモルッカ諸島にて現地オランダ総督との間で起こった有名な1623年アンボイナ事件の敗北で決定的と なった。

インド製品の中でも最もイギリス人を魅了した物が綿織物だった。あのガマが立ち寄ったカリカット港から輸出される綿織物は特に良質で あっ たが、この港の名がなまってインド綿織物の総称であるキャラコ(またはキャリコ)となった。キャラコは新毛織物より薄く軽く肌触りもよ く、はるかに染めやすくて発色も良く、おまけに洗濯が可能という画期的な素材だったから、イギリス人、そしてヨーロッパ中の人たちの 心を 魅了したのだった。東インド会社はその輸入によって莫大な利益を得たのである。

しかしキャラコの流行とその大量流入は、当時の主力産業であったイギリスの新毛織物産業に大きな打撃を与えてしまう。このため工場主 たち は、かつてのスペインの業者同様、当時の国王ウィリアム3世に泣きついたのである。そこで王は、1700年にキャラコ輸入の禁止を決定し た。何かどこかで聞いたような話の経緯だが、フェリペ2世もウィリアム3世も政治的には当然の結論を出したのである。毛織物業界はこ の決 定にさぞやホッと胸をなで下ろしたことだろう。そして怒ったインドの人々がイギリスから独立したなら、「歴史はくり返す」となるのだが、 ここではそうはならなかった。

一度経験したキャラコの手触り肌触りを忘れられるほどイギリス人は鈍感ではなかった。まもなく決定の抜け穴をついて、インド綿糸の輸 入が 始まる。ウィリアム3世の決定では、キャラコとは何かという定義がされていなかったし、未染織の白布は除外されていた。やむを得ず作られ たイギリス産綿織物は、キャラコに比べれば量は少なく、織りは粗雑であったにもかかわらず、その感触に飢えていた人々に爆発的に支持 され た。また政府が海外製品を取り締まろうにも、それを実施するだけの予算もなかった。たとえ見つかっても抜け穴がある以上、「国内産」です と言い張れば通ったかもしれない。つまり決定はほとんど効果はなかったのである。こうして綿織物の国産化が始まった。こうして作られ た商 品は、あまり大っぴらに国内で売りさばくことはできないが、北米や中南米の植民地など、作ればいくらでも買い手はいて儲かった。

しかし当時のイギリスの生産技術では、いかんせん品揃えも供給量も少なすぎた。だれもが生産量の増加を願ったが、織物職人の数は絶対 的に 不足していた。こればかりはどうしようもなかった。しかしそれでもあきらめない人たちがいたのである。

■機械の発明

18世紀中頃。政治の世界ではピョートル大帝が亡くなり、そしてマリア=テレジアとフリードリヒ2世が死闘を繰り広げようとし、そし てロ バート=ウォルポールが慣れない初代首相の職務をつとめていた頃、イギリスでは発明ラッシュが始まっていた。そうした発明の先駆けとなっ たのが、イギリス中部ランカシャー地方の二人のジョン=ケイであった。ただし二人は同姓同名の別人である。

まずマンチェスター市に住んでいたジョン=ケイが、1733年に画期的な発明に成功した。それが飛び杼(Flying Shuttle)である。従来、布を織るときには、機織り職人が杼(梭とも書く)と呼ばれる糸を巻いた器具を手で操作していたのだが、彼はそれをヒモを 引っ張るだけで自動的に操作できるように改良した。そしてその単純な工夫だけで生産量が3倍にもなり、おまけに従来より幅広の織物も 織れ るようになった。これは工場主たちを喜ばせ、彼も発明の特許料が得られることを期待した。しかし当時のイギリスの発明者に対する態度は現 代の中国以下であり、彼の発明はすぐにコピーされ、代価は得られなかった。おまけに生産性が上がったことで、それまでは高額の報酬を 得ら れた上に工場主からはチヤホヤされていた職人たちが、一転して賃金を下げられたり首になったすることになったのである。

職人たちの恨みはケイに向かうようになり、彼は何度も職人ギルドに命を狙われることになった。たまらず彼はフランスに逃げ、そこで彼 の発 明を売り込もうとしたが、結局これにも失敗し、そのまま貧困のまま亡くなってしまう。しかし彼のこの発明は、その後の多くのイギリスの発 明家に大きな刺激を与えることになるのだった。

マンチェスターのジョン=ケイが異国で亡くなった頃、同じランカシャー地方にもう一人の時計職人のジョン=ケイが住んでいた。その頃 は、 飛び杼の発明で機織りは大幅にスピードアップされたのだが、今度は糸が不足するようになった。機械の扱いが得意だった彼は、発明仲間のト マス=ヘイズとともに、糸紡ぎ機の自動化に取り組んだ。当時、すでにこの分野においてはハーグリーブスが画期的なジェニー紡績機を発 明し ていたが、細い糸を大量に作れるもののが、機械の操作が非常に難しいという欠点があり、改良が望まれていたのである。

ヘイズとケイは改良のアイデアは思いついたのだが、残念なことにそれを完成するための資金が足りずに試作品段階でストップしてしまっ た。 そこでこれを知った、同じく発明家で資産家のアークライトが二人に資金の援助と引き替えに発明品の利益の大半を得ることを申し出てきた。 ヘイズは断わったが、ケイとアークライトは改良品の完成に取り組み、そして完成したのが水力紡績機であった。ところが法律に詳しい アーク ライトは、ヘイズとケイたちが特許を取っていない(取れるかどうか微妙だった)のに気づいて、すぐに特許を申請して独り占めし、「水力紡 績機の発明者」の名誉を得たのだった。その名声はあまりにも大きく高く、誰もが彼の発明だと信じたのだった。

しかし彼の真の姿は、後に起こされた裁判の場で暴露され、判決で特許は取り消された。しかしもはやヘイズやケイの名誉を回復するには 遅す ぎた。ただし、当時の「新発明」というものは一般的に新規性があいまいで、この裁判結果もそのまま信頼するには難しい面があることは知っ ておいて欲しい。

この件はアークライトにとっては汚点だったが、それを除いても産業革命に果たした彼の功績は大きかった。特に彼は機械を組み合わせた 一貫 生産システムを世界で初めて作り上げるのに成功した人物であり、イギリス産業界はこのため大いに発展することとなったのである。その後も 彼は織物工場の経営などで多大な利益を得、後にイギリス経済界への貢献が認められて国王から貴族の位をもらっている。

さて話を発明に戻そう。水力紡績機によって糸を紡ぐスピードは、以前の600倍にも達するようになったが、これには太い糸しか作れな いと いう欠点があった。発明家クロンプトンはさらにこれを改良し、ジェニー紡績機の長所を取り入れてミュール紡績機を完成させた。ちなみに ミュールとは馬とロバをかけ合わせたラバという「あいの子」の生き物で、それをひっかけた名前である。ただこの機械も操作に慣れが必 要な 点ではジェニー紡績機と同じでまだまだ改良が必要な代物だった。その後改良が進められた結果19世紀にはジェニーの70倍以上の量の製糸 ができるようになった。そしてアメリカ人のカートライトが、後述する蒸気エンジンを組み合わせた力織機を発明し、紡績機の標準になっ て いったのである。

■エンジンの発明

こうして18世紀から19世紀にかけて製糸から織布までの作業はどんどん自動化され、高速化されていったが、問題はまだ残っていた。 それ が動力の問題である。こうした初期の製糸機や紡績機は人力や畜力、そして水力で動かされていた。しかし自動化と高速化が進むにつれて、こ うした力に共通する問題が表面化していった。それはパワーそのものの問題も大きかったがそれだけではなかった。人や家畜、さらに水力 は、 動くと疲れたり、水圧が一定しないなど、安定した力が得られないことも、初期のデリケートな機械にとっては問題だった。最も安価で安定し た力が得られる水力などは、大量の水があるところ、すなわち川の側にしか工場が作れないという問題もあったのである。しかしそうした 場所 は多くはすでに住宅があり、工場を作るにはいろいろ問題があった。

こうした動力の問題を解決したのが蒸気機関の発明である。蒸気機関は、もとはといえばフランスで新教徒の科学者が研究していたのだ が、ナ ント勅令の廃止後のルイ14世の迫害で彼がイギリスに亡命してきたことで、イギリスに研究の場が移ってきたのだった。そして18世紀初め にニューコメンが初めて商業用の蒸気機関を完成させた。それは鉱山の坑道内の排水用ポンプの動力であったが、装置が非常に大型であっ ただ けでなく、システムにムダが多くて鉱山で掘り出された石炭の1/3がこのポンプを動かすために使われる始末だった。

この欠陥を改良したのがワットであり、フランス革命直前でヨーロッパ全土に飢饉が広がっていた1785年に発明されたこのシステム は、ま だまだ大がかりなものの、効率は非常に良かった。ワットのエンジンは工場を川から解放し、以後は交通の便の良いところ、多くは都市の郊外 に建てられるようになった。ただしこのエンジンは、蒸気を閉じこめる金属の材質が弱かったため、爆発事件が相次ぐような危険な代物 だっ た。しかし、ワットのエンジンはその後効率化が進んだため、すぐにさまざまなものに使われるようになっていった。まず織り機に採用され、 カートライトによって力織機が発明された。紡績機にも採用され、ミュール紡績機を動かすようになっていった。

当時としては意外な応用例が、輸送機の推進力だった。蒸気機関が発明され実用化された時代はナポレオン戦争の時代であり、当時の陸上 輸送 で大活躍していたのが馬車鉄道と呼ばれる、決まった区間を往復する、複数の馬によって曳かれる貨物車両だった。ところが馬自体が戦争のた めの軍馬として需要が高まって値段が高騰していたため、それに代わる牽引装置が求められていた。

鉱山会社の技師だったトレビシックは1800年頃に友人の発明家が高圧に耐えられるエンジンを開発したのに刺激を受けて、より完成度 を高 め小型化することに取り組んで見事成功した。トレビシックがさらに改良に取り組んだ結果、彼のエンジンは自分自身が据え付けられた台車自 身を動かせるほど小型で強力になっていった。そして1801年、世界初の蒸気機関車と自動車の中間の乗り物が生まれた(どちらかとい えば 自動車に近いので、蒸気自動車とされる)。彼はこの世界初の乗り物に「パフィング・デビル(煙を吐く悪魔)」と名付けた。

この頃はレールにも材質の面で問題があった。当時は比較的軽量な馬車鉄道用の、細くて弱い鉄でできたレールが使われていた。これに対 して トレビシックの蒸気自動車は小型軽量化されたとはいえ数トンあり、何度動かしても必ず本体かレールのどこかが壊れてしまうのだった。その ため、彼は1804年には世界初の蒸気機関車も発明しているが、同じ理由でこれも実用化には至らなかった。残念ながら時代がトレビ シック には早すぎたようだ。

未完成に終わった自動車も、こうした道路の問題があったために研究開発はストップしたが、ゴムチューブの発明やクッションの改良が行 われ た結果、ようやく19世紀の終わりになって実用化される。そしてその頃には蒸気機関よりはるかに強力で安全なガソリンエンジンやディーゼ ルエンジンが積まれて今日に至っているのである。

トレビシックの失敗後も蒸気機関車を実用化しようとする多くの人たちの試みが続いたが、成功した者はいなかった。そして失敗作の多く は遊 園地の乗り物に使われるしかなかったのである。

初めて蒸気機関車の実用化に成功したのはジョージ=スティーブンソンである。当時は珍しくなかったが、スティーブンソンの両親は字が 読め ず、そのため彼の家は非常に貧乏で、学校に行くことができないほどだった。このため彼は、17才で仕事に就くと、自費で夜間学校に通って 字を読むことと算数を学んだのである。やがて石炭坑の機械の操縦技師(天空の城ラピュタの主人公パズーと親方がやっていた仕事)の仕 事に 就いた彼は、たまたま調子の悪い蒸気エンジンを調整する役目を任せられるようになり、これが縁でやがて蒸気エンジンの専門家になっていっ た。

彼は33才の時に初めて蒸気機関車を設計している。これは石炭運搬専用だったが、なかなかの能力を持っていた。そして1825年彼が 36 才の時、彼の発明した「ロコモーション号」は、イギリス北部の港町ストックトンと炭坑都市ダーリントンの間を結ぶ貨物鉄道の実用化に成功 した。しかしまだ安全性の問題があって、人を乗せて走る機関車の製造は許可されなかった。そして4年後、彼と息子のロバートとが共同 製作 した「ロケット号」は、この年の蒸気機関車発明コンテストに優勝し、ついに乗用蒸気機関車の運営が議会で許可されたのである。スティーブ ンソン親子設計によるこの世界初の乗用機関車は、招待された紳士や淑女たちを乗せてこの44kmあまりの区間を時速40キロの「猛ス ピー ド」(現代のママチャリでも簡単に出せる速度)で走って驚かせたのである。

ちなみに、このロケット号は、これ以後現代に至るまでのすべての蒸気機関車の基本的な仕組みを備えており、その完成度は非常に高かっ た。 そのためしばし彼を蒸気機関車の発明者とする誤解が定着しているが、実際にはそうではない。

次に蒸気船の話に移ろう。話はトレヴィシックが蒸気自動車を発明した1800年頃に戻る。その頃、アメリカ人の発明家のロバート=フ ルト ンという人物がフランスにいた。時は絶頂期のナポレオン時代で、フランスに親近感を持っていた彼は、フランス軍に(当時としては空想上の 産物だった)潜水艦や、イギリス上陸作戦用の蒸気船の試作品を売り込んだりしたが、失敗する。実は彼の発明自体には、フランス軍も、 さら には敵であるイギリス軍さえも興味を示したのだが、結局は採用されなかった。これは当時英仏の大戦争が間近に迫っていると考えられてお り、両軍とも、第三国のどこの馬の骨とも分からない男(実際、フルトンは以前は画家であった)の発明品を採用するほどの余裕はなかっ たの だろう。結果としては、もしこのときフランス軍が全力でもって蒸気船の実用化に協力していたら、ナポレオンの運命、そしてその後の時代は どうなったかわからなかったろうに。

その後フルトンは、たまたまフランスで出会った駐仏アメリカ大使の資金援助を得て、蒸気船を完成させることに成功した。そして実際に セー ヌ川で実験航行することにも成功したのである。しかしそれでもフランス政府から色よい返事はなかった。失意のフルトンはアメリカに帰る が、駐仏大使はその後も彼への援助を惜しまなかった。これに勇気を得たフルトンは、1807年に新造船クラーモント号での実験航海を 成功 した。当時の航行速度は時速7.5キロと、最新鋭の帆船よりは少し遅い程度だったが、このスピードが逆風でもほとんど変わらなかったこと から非常に大きな反響を呼んだ。その後蒸気船は、推進装置が外輪からプロペラに変わったこともあってどんどん速度と馬力を上げられる よう になり、半世紀後には10倍のスピードが出せるようになっていた。もはや帆船に生き延びる道はなかった。こうして2000年以上続いた帆 船の時代が終わりを告げたのである。

□産業革命がもたらしたもの

■社会基盤(インフラストラクチュア)の整備

こうした機関車や蒸気船の発明においては、新しい移動手段を人類が手にしたということはもちろん重要であるが、もう一つ忘れてはなら ない のはその普及に伴う鉄道網や運河網の普及である。蒸気機関車にはその重い重量を支えるための鉄製レールが必要である。トレヴィシックを苦 しめたレールの問題は技術的にはスティーブンソンの頃に解決されたが、その普及のためには長大な敷設工事が必要で、必要な鉄資源の量 も莫 大であった。鉄の製造には、初めは燃料として木材が必要だったが、当時のイギリスには十分な森林資源が無かったため、ウェーデンやロシア からの輸入に頼るしかなかった。それがダービー親子によるコークス製鉄法(石炭を蒸し焼きにすることで得られるコークス炭によって、 高温 で製鉄する方法)によって良質の鋼鉄がイギリス国内でも作れるようになった。以後のイギリスでは鉄鉱石のみ輸入し、鋼鉄自体は国産化する ことに成功した。ただしそれでも鉄道網を引くのには時間がかかり、陸上輸送の主流になるのは19世紀なかばになってからであった。

こうした鉄道網の整備を誰がやったのか、と言うことについては、意外かも知れないがイギリス政府はほとんど関与していない。産業革命 が起 こる以前からすでにイギリスの初期の資本家たちは海外貿易でかなりの利益を得ていたが、英蘭戦争の頃から整備された金融制度、保険制度等 は利益を増やす手段と安全性を増加させた。もちろん今と比べれば失敗する危険性は高かったが、それでも他の国々よりは比べものになら ない ほど良かった。彼らはそうして得た利益の一部を、片方では社会基盤の整備に費やし、また片方では発明家たちに投資していたのだった。発明 とは必ず成果を生むものではないので、そうした投資の大半は失敗に終わったが、それでも発明や改良は相次いだことから、トータルでは 十分 報われていたのだった。また発明への投資と言っても、史料集などを見ればわかるように、当初の機械はほとんどの部品が木製で安くつくもの であり、投資する額などたかがしれたものだった。工場の経費にしても、建設する場所の土地代は借りれば安くついた。実は一番金額がか かっ たのは製造工程よりは、製品を作るための材料や完成品の輸送に必要なレールや運河や道路の整備、さらには労働者の住宅の整備といったイン フラの整備だったのである。先行者がたどる困難な道の常例であるが、イギリスではこうした整備に政府の支援を期待することはできな かっ た。ただそれでも、インフラさえ整備できれば、競争者がまだ少ないこの時代には、十分利益はあったのである。

蒸気船にとってのレールは運河である。この時代、蒸気船が機関車より有利だったのは、運河がすでにヨーロッパでは相当発達していたこ と だった。というのも、近代以前は世界中どこでも道路が舗装されておらず、雨が降ると泥道となるのが普通だったため、安全確実に輸送と移動 するために、すでにローマ帝国時代から運河網の整備が行われていた。この点は中国も事情は同じで、むしろヨーロッパと同じかそれ以上 に進 んでいたくらいである。何にせよ19世紀初めに機関車と蒸気船が開発された時点では、陸上で物資を輸送するには、すでにかなり整備されて いた運河網に蒸気船を走らせるほうが鉄道網よりはるかに安く大量に物資を運べたのである。蒸気船の実用化は、19世紀前半のヨーロッ パや アメリカで運河網の整備をさらに加速することになり、長距離輸送の手段としては当初は蒸気船のほうが蒸気機関車より圧倒的に便利だった。

しかしそれも、鉄道網が整備されエンジンとレールが改良され続けて、鉄道が蒸気船以上に大量に速く物資を運べるようになった19世紀 半ば になると、輸送の主力は完全に取って代わられてしまうのだった。そしてエネルギー源こそ蒸気から電気へと変わったが、20世紀の終盤まで 機関車は物資輸送の王座を守り続けるのだった。

また、機械やエンジンが改良され続けるにつれて、それらの製造技術も向上していった。新しい機械は新しい部品を必要とした。そして新 しい 機械や部品を作ることは、次々と新しい技術上の問題を表面化させた。そして技術者たちはそれを次々と新しいアイデアで解決していったので ある。それは工作機械の発明や改良となっていった。たとえば今では身近な金属製のネジやマイナスドライバーといった工具の発明は18 世紀 末である(プラスドライバーは20世紀)。産業革命の第一段階は機械やエンジンの発明だったが、第二段階は機械を作る道具や技術の革命 だった。そしてそれは、従来「科学」の陰に隠れていた「工学」という分野が陽の目を浴びるようになった瞬間だった。

■産業革命の広がり

面白いことにイギリスの工業の生産性は、産業革命前後を比べてもそうたいして上がっていなかったことが分かっている。イギリスは18 世紀 末から19世紀に入った頃までは「世界の工場」の異名とは裏腹に、農業の存在のほうがまだまだ大きかった。ようやく諸産業の中で工業の存 在が大きくなるのは19世紀初めの鉄道や蒸気船の普及によってであった。これは現代でも似た話がある。産業界ではIT革命(第四次産 業革 命)と呼ばれる変化が起こっているが、そこでも生産性の向上がほとんど無いということが分かっている。そこで一部には、IT「革命」とい う言葉はふさわしくないのではないかという批判があるのだが、それと似たような話である。産業「革命」は、発明品の華やかさと比べ て、意 外と地味なものなのだろう。

このような変化は、技術と社会条件さえ整えばどんな国でも起こるものである。イギリスではそれが18世紀の中頃に起こったのだが、似 たよ うな条件を持つ国は他にもあったから、そうした国でも条件が整い次第、次々と産業革命が起こることになるのである。フランスでは七月革命 でブルジョワ階級が政権を握ったのがきっかけになり、ドイツでは1834年の関税同盟成立が、アメリカは1812年の米英戦争頃から 始ま り1861年からの南北戦争後に本格化、ロシアは1861年の農奴解放令から始まり1891年の露仏同盟・シベリア鉄道工事開始から本格 化、そして日本は政府の殖産興行政策実施で始まり、1894年の日清戦争後に本格化するのである。

運河網や鉄道網が整備されることにはもう一つありがたい面があった。それは安全面である。近代以前は町と町の間には広大な人口空白地 帯が 広がっており、そこはアウトロー(一般的には無法者と訳される。全て犯罪者というわけではない。)の天下だった。山中には山賊がおり、河 川には水賊(湖賊、川賊)、そして海に海賊である。こうした者たちにとって鉄道や蒸気船の出現は厄介であり、やがて彼らは国家の取締 りも あって消えていくのだった。しかしこうした変化はまだささやかなものであり、最大のものは社会全体に及ぶものだった。

■イノベーションと生活の変化

産業革命は文字通り新産業を生みだした。まず機械とエンジンの発明で最初に多大な利益を享受できたのが繊維産業だった。18世紀当時 は作 れば作るほど儲かる状態だった。しかしやがてそれは繊維産業同様に、単純な工程で作られていた製品に及んでいく。マッチやロウソク、鍋や 釜、そしてベルトのバックルやブローチといった単純製品の工程が、次々と自動化されていった。

また、蒸気機関の改良の副産物として軽くて強い鋼鉄を作ることができるようになったことは、機械が木製から金属製に変わっていっただ けで なく、農作業に使われる鎌や鍬、日用品である包丁やナイフまで質が向上するという副産物も生みだした。進歩は実感でとらえられるほどに なっていったのである。

このように産業革命は、多くの人にとっては生活が安全で便利になることであった。啓蒙思想の余韻が残るこの時代、人類の知恵と創意工 夫に よって時代は確実に良い方向に向かっていると受けとられた。今ではただの騒音としか思えない工場の機械音でさえ、当時最も時代の恩恵を受 けていた中産階級の人々にとっては、新鮮で心地よい音楽と捉えられている人も多かっただろう。これは現代人でも、初めて自分専用のコ ン ピューターを手にした経験のある人なら少しは理解できるのではないだろうか。新しい技術や考え方は新たな価値を生み出し、社会的に大きな 変化を起こしていく。18世紀から19世紀にかけて生まれたこうした変化は、後の20世紀初期の経済学者シュンペーターによってイノ ベー ションと名づけられた。

科学技術の変化についてはもう少し詳しく書こう。産業革命の発端に、ルイ14世の科学アカデミー出身者の関与があったことは前に書い た が、科学の進歩はその後も産業革命に大きな影響を与え続け、科学技術者たちの研究や実験はアメリカ独立革命やフランス革命といった政治や 社会の動乱の中でも行われ続けていた。そうした例は数多くあるが、ここでは二人だけ挙げよう。凧を揚げて雷が神の怒りではなく自然現 象で あることを証明したベンジャミン=フランクリンが、アメリカ独立革命において外交官としてフランスやオランダを参戦に導き、他の諸国を武 装中立同盟に導いて独立戦争を勝利に導いた影の功労者であったことは前に書いた。

もう一人、フランス人のアントワーヌ=ド=ラヴォアジエはボストン茶会事件の翌年に質量保存の法則を発見、独立宣言の余韻が残る頃に は燃 焼の仕組みすなわち物質と酸素が結合することを発見した。しかし実験費用を稼ぐために徴税請負人になっていたことが災いし、革命政府が集 団ヒステリーに陥っていた1794年にギロチン台の露と消えてしまった。この様子を見ていた天文学者のラグランジェは「彼の頭を落す のは 一瞬だが、彼のような頭が再び生まれるには100年かかるだろう」と嘆いたという。

火と灯りの変化も世界を変えた。まずマッチがこの頃実用化され、火打ち石や火つけ棒といった火おこしの作業や、種火を灰中に保存する とい う面倒な作業から人類を解放したが、これには硫化リンや塩素酸カリウムといった物質を取り扱う技術の進歩が背景にあった。蒸気機関車の原 型の発明者の一人ウィリアム=マードックは、1792年に石炭に高温の水蒸気を当てることにより生成される石炭ガスを利用したガス灯 を発 明し、人類の夜から闇が無くなる時代が始まった。ただしガス灯はガス管の設置に経費がかかることからその普及は主に都市部に限られてい た。ようやく19世紀中頃になると石油ランプが普及するようになり、多くの家庭で夜に明かりが灯され、夜の時間が人類に解放されるの であ る。一方で夜が明るくなると、夜間に活動する人たちが増え、従来なかったことが起こるようになる。1888年には、わずか2ヶ月間に「夜 の女」つまり売春婦5人が次々と殺される「切り裂きジャック」事件、つまり無差別連続殺人事件も起こるのである。

情報産業の元祖もこの時代に生まれた。売れる商品の発明や改良も重要だが、投資において重要なのは、どこの国でどのような商品が必要 とさ れているか、そしてそれが本当に売れるかどうかという情報なのである。

この点、当時最大の金融家の一人ネイサン=ロスチャイルドの逸話は有名である。ネイサンは若くして織物貿易と金融で成功したイギリス の投 資家だったが、その資産が危機に瀕したのがナポレオン時代だった。ナポレオンはイギリスを経済的に追いつめようとし、19世紀のある時期 までは、ある程度まで成功していた。しかしそれもナポレオンがエルバ島引退に追い込むことで、イギリスの資産家たちの危機は去ったよ うに 思えたのである。

その頃にはだれもがホッと胸をなで下ろしていたが、それも1年余りしか続かなかった。突如ナポレオンのエルバ島脱出と復位の報せが舞 い込 んだのだった。当時、ウィーン会議のまとまりのなさはロンドンでは有名で、果たして同盟諸国が勝てるのか誰もが不安を抱いていた。ネイサ ンもそれは同じであったから、彼はワーテルローの戦いの直前にはいち早くその結果を知る人脈と物理的な手段を講じていた。そして 1815 年6月18日、戦闘の結果が彼の元にもたらされた。ネイサンは証券取引所に暗い顔をして現れ、猛烈な勢いで所有している株式を売りに出し たのである。ネイサンの情報網の存在を知っていた市場関係者は、ワーテルローが敗戦だったと考え、損をしてはなるまいと彼に続いて 次々と 株を売ったため、市場は暴落一歩手前となった。パニックが広がる中、その後のネイサンの動きなど誰も気にしなくなっていた。やがて公式の 情報網で、ワーテルローでナポレオンが敗れたニュースを聞いて再び取引所に向かった投資家たちは、気がつけばネイサンが戦前よりはる かに 多くの株式を格安で手に入れていたのを知って、地団駄を踏んで悔しがったという。

こう書くとネイサンがまるで詐欺師のように思われてしまうが、一方で彼は自分が築き上げた情報網と人脈を利用して、イベリア半島でナ ポレ オンと敵対していたイギリス軍に軍資金を届けたり、ナポレオン戦争後の経済危機に苦しむプロイセンに資金を提供するなどして、一貫してイ ギリスの世界政策を援助し続けている。それはもちろん、彼がイギリスを勝ち馬だと判断して投資していたのにすぎないという見方もでき るだ ろうが、当時の情勢で果たして普通の人にそんな判断ができるかどうかは疑問だろう。

もちろん彼らにとっては、政府との関係も投資の理屈の中で考えるものである。実際、彼はイギリスにおいて莫大な資産を築き上げること に成 功したし、彼の兄弟もフランスやドイツにおいて同様に成功したことから、彼らロスチャイルド財閥はヨーロッパ最大の財閥として経済界に大 きな影響力を与えるようになっていった。また、ロスチャイルド家ほどではないものの、多くの大小の投資家が産業や貿易、そして商取引 に莫 大な資金を投じるようになっていき、それは政府さえも無視できないほどになっていくのである。ただ、こうしたワーテルローの時のような彼 らの抜け目無さと莫大な資産に対する嫉妬心が、ユダヤ系に対する中世以来の偏見や悪評を強化したのも確かである。それが彼らの20世 紀半 ばの不幸につながってしまうのである。

さて情報産業の続きである。産業革命が始まるまでは、情報といえばコーヒーハウスなどの私的な集まりで交わされるうわさ話が最大の供 給源 であったが、19世紀になると産業革命による技術の向上で大量印刷が可能になったことから、徐々に新聞が情報源の主役となっていった。ま た、貿易や投資が盛んになると、失敗に対する保障を商売にする保険業も発達し、今日残っている会社では最古の保険会社であるロイズ保 険会 社もこの頃その基盤が固まっている。ちなみに今日でも、日本も含めた世界中の多くの保険会社が保険の保険をかけている(つまりヤバくなっ た時に頼る)のがこのロイズ社である。

投資といえば18世紀初めに起こった南海泡沫事件はイギリス経済に大きな衝撃を与えた。これは国営貿易会社の一つである南海会社が起 こし た事件で、当時のずさんな株式会社制度が災いして、返せるあてのない事業に対する資金を集めた会社の株に対して、無知な人々が殺到したた め、驚くほど短期間に株価が上昇した。しかしすぐに事業は破綻し、株価は暴落。多くの人々が破産し、自殺する人も相次いだ。有名人で は学 者ニュートンや音楽家ヘンデルも大きな打撃を被ったという。ニュートンなどは「天体の運行なら計算できるが、人間の狂気は計算できない」 と苦し紛れの言い訳をしたという。これがきっかけで、会社の業績を第三者が検証する制度、公認会計士制度の誕生につながったが、しば らく の間株式会社は禁止されてしまう。また、事件のおだやかな解決に成功した功績で名声を得たのがロバート=ウォルポールであり、彼が世界初 の首相となるきっかけともなったのである。

こうした投資で利益を得た人々は、その一部を惜しみなく使うようになり、贅沢な生活を送るものが現われた。特に同じ仲間との交流に は、商 売上の利益も絡むことから特に熱心に使われた。こうして生まれたのが社交界である。社交界は、もとは18世紀啓蒙主義時代のパリで開かれ ていたサロンに起源を持つもので、フランスの王侯貴族や上層市民の社交の場であった。それが19世紀には各国で同様な場が持たれ、舞 踏会 (ダンスパーティー)や気品のある会話が楽しまれるようになり、そしてその人脈が政治や商売上のつながりを生んでいった。ちなみに、こう した舞踏会で好まれた踊りがワルツで、とくにウィンナ・ワルツは一世を風靡した。「会議は踊る」の言葉で有名な、ウィーン会議の舞踏 会で 踊られていたのもこのウィンナ・ワルツであった。

■自由主義の時代

このような喧噪の時代を代表する思想が自由主義である。それは中世カトリックの神学思想が勢いを失って以来、初めて現れた本格的な経 済・ 社会思想であった。その代表的な思想家がアダム=スミスである。スミスはスコットランド人で、1723年に生まれ1790年に亡くなる。 ほぼプロイセンのフリードリヒ2世と同じ時代の人間である。当時ヨーロッパはフランス帝国の崩壊が始まる時期であり、イギリスが大英 帝国 へと成長する時期であり、ウォルポールが始めた責任内閣制が定着した時代であった。しかしその一方では長引くフランス帝国との戦争がイギ リス財政を破綻寸前にまで追い詰めていた時期でもあった。またヴォルテールやケネーが活躍していた時期であり、ヨーロッパ大陸に旅行 した 時には彼らと交流している。

スミスはケネーらの『経済表』などの一国の経済分析を行うという手法などに影響され、また一方では前代のジョン=ロックの社会契約説 思想 を受け継いだ。彼は国家が市民の権利(自由権)を制限するのを悪とし、さらに市民個人が自由を行使した結果、あえて意識せずに自己の欲望 のままに行動したとしても、結果として社会全体には調和が保たれるということを証明し、それを市場取り引きにおける神の「見えざる 手」と 表現した。そうして書かれたのが『国富論』であり、彼はその中で経済政策における「自由放任」(レッセフェール)政策を主張したと言われ る。

この政策は、もともと前出のケネーらフランスの重農主義者たちが言い始めた説である。これはつまり、重商主義のような政府が意図的に 経済 活動に何らかの関与する政策は、(為政者が神のような知恵を持たないため)結果として経済の自然な発展を妨げてしまう。このため農業を国 の産業の基本として重視し、ギルドや囲い込みなどの農産物の流通を阻害する組織や行動を解体したり禁止し、その結果発展する商工業や 経済 に対しては不介入の立場で臨むべきと主張した。これはブルボン王朝とくにルイ14世以降のフランス政府の重商主義を堅持しようとし、その 結果得られた富をひたすら浪費するフランス絶対王政を批判する説であった。

スミスはこのレッセフェールを拡張し、政府の産業全般に対する態度としたのであった。すなわち、政府の意図的な経済への介入は経済を ゆが め、人々を不幸にする。人々はたとえその意図が自己の欲望に基づくものだけだとしても結果として経済は全てを、あたかも神が「見えざる 手」を振るうかのように自己調整してしまうのである、と。こうした考え方は当時絶大な支持を得て、20世紀まで続く大英帝国、そして それ に続くアメリカ合衆国の経済政策の根本原理となっていったのである。

■社会問題の発生

ここまでは当時の社会の上層部、産業革命のプラス面を享受していた人々を中心に社会を見てきたが、それだけではあまりに一面的であろ う。 そして社会のマイナス面を著わす人々、すなわち工場で働く労働者を見たとたんにその印象は一変するだろう。それは悲惨の一言だった。

産業革命で工場で働く労働者、それはもともと不思議な存在だった。当時は国家の仕組みこそ近代的になってきていたが、社会制度には中 世の なごりがなおも濃く残っていた。当時の人々は世界中どこを見渡しても支配者階級に属する者は王侯貴族、宗教者(神官僧侶)、地主、大商人 のいずれかであり、そして被支配者階級は農民、商人、職人のいずれかであった(アウトローや漂泊者といった社会から抜け落ちた人々も ごく 少数いたが)。しかしこうした人々はそれぞれ生業を持っているため、決して工場労働者になることはない。なのにイギリスには労働者、すな わち機械を操作し整備することを生業とする人々が、最初から数千、数万という数がいたのである。これこそイギリスで産業革命が爆発的 に生 まれた理由の1つだった。

産業革命の章の最初のところで、労働者の起源のことを少し書いておいたが、くり返すと、それは法に無知な農民を騙したジェントリに よって 生まれた経済難民だった。彼らは理解できない理由によって土地を取り上げられ、食べていくために仕方なしにロンドン郊外のスラム街に住み 着いていった。そこはもともと低湿地だったり治安が悪かったりだったりで人が誰も住むのを嫌がる場所だったが、いったん貧困家庭が集 中し て住むようになるとますますその傾向は強まる一方だった。政府も、人道的な見地から不法なジェントリを取り締まったが、効果はあまりな かった。幸いこの「第一次囲い込み」とよばれる現象はそう大きな動きにはならなかったが。

歴史はくり返すというが、18世紀の始め頃に囲い込み運動が再び起こる。しかも今度は違う経過で。

当時イギリスは海外貿易が好調で、多くの船がアジアやアメリカに向けて船出していった。当然それらの船は出航時に大量の食料を積み込 まね ばならない。重商主義政策をとっていた政府は、政府の責任においてこうした食料を用意する必要があった。ところが1世紀後の時代と違って 当時のイギリス政府は、穀物不足から起きる食料の値上がりやそれに伴う都市の暴動に対して、予算不足から有効な手段がとれず、外国か ら臨 時に食料を買うための資金にも不足していた。そこで政府が採った政策が、第二次囲い込み政策だった。これは新たに当時開発されたノー フォーク農法と呼ばれる、三圃制より生産性が高い農法を広めるためで、合法的・強制的に農民の土地を取り上げ、そして再分配する政策 だっ た。この政策は成功し農業生産はねらい通り高まったが、その副産物としてイギリスの人口が増加した。しかも人口増加率があまりに高くなっ てしまって、農村では生きていけないほどとなったために、あふれた人たちが結局は第一次囲い込みの時と同じく、そしてはるかに大規模 にロ ンドンのスラムに流れ込むこととなったのである。

スラムの道路は舗装はされずゴミは放置されたままで、最低限のインフラさえも整備されていない場所だった。住人たちは不衛生な水しか 手に 入らず、燃料はゴミ山から拾ってきた木片を薪として使用し、生業は露店商か靴磨き、廃品回収業(聞こえは良いが要するにゴミ拾い)しかな かった。現代人がこの時代のロンドンと現代の途上国のスラム街の写真とを見比べてもどちらがどちらか、一目では見分けは付かないだろ う。 それほど悲惨な光景が広がっていた。彼らは市当局にとっては厄介なお荷物でもあった。

それが産業革命の始まりで事態が変わる。厄介者が、工場経営者にとってなくてはならない働き手となったのである。当時の機械はまだま だ単 純で、簡単な指示で操作することができた。労働者の仕事は、織物工場なら織機に糸をセットし、電源を入れ、トラブルが起こったら修繕し、 一定の長さの布が織れたらカットして出荷部に回す、という単純なものだった。字が読めなかろうが、きちんとした言葉がしゃべれなかろ う が、全く問題なかったのである。ただし当時の機械は恐ろしくデリケートで、少しの温度や湿度の変化でも簡単にストップしてしまった。トラ ブルは頻発し、労働者はいつも機械の並ぶ列の間に潜り込み、糸を切らないようにしながらトラブルの原因を突き止めて解決せねばならな かっ た。こうした作業はなるべく小さな体の方が便利なので、子どもが大人に混じって雇われるのが普通だった。ただし、当時の親は子どもまでこ うした劣悪な環境で働かせることは嫌っていた。工場の作りは、温度変化を少しでも抑えるのと機械の秘密を守るためもあって、窓はほと んど 無いかごく小さくものだった。このため工場内はほとんど換気がされず、空気はいつも淀んでいて、空中には糸くずやホコリが充満していた。

工場内には巨大な機械が生産効率最優先で配置されていて、労働者の安全など全く考慮されていなかった。しかも労働災害は労働者の不注 意が 原因とされ、怪我をしたら即刻解雇された。健康保険など無いのが当たり前で、仕事上のケガは本人の不注意の責任にされ、りっぱな解雇の理 由となったし、下手をすれば損害賠償まで請求される始末だった。退職金や失業保険も存在しなかったから、大ケガが人生の終わりを意味 する ことさえあった。

労働時間の長さも驚くほどだった。当時は朝日が昇ると共に働き出し、日が沈むまで働くのが普通だったが、石油ランプなどの人工の灯火 の普 及も労働時間を延長する方向に働いた。労働者の多くは14~15時間働くことが珍しくなかった。一日の仕事が終わる頃にはクタクタで、後 は帰って寝るしかなかった。苦痛や憂さを晴らすために、仕事が終われば安酒(ジン)を一杯ひっかけてから帰るのが普通だった。賃金も 非常 に低かったので共稼ぎが普通で、労働者の家庭では家事労働などする余裕もなかった。教育も必要なかったから、子供たちは13~15歳にな ると工場に行って働いた。

労働者の家には、家具などほとんど置かれなかった。タンスが無いのは、当時は複数の服を持っているのは裕福な家庭だけだからであり、 ほと んどの貧しい人々はいつも同じ服を着ていた。机がないのは、労働者は字が書けなかったり読めないのが普通だったから、机で何かを書いたり 読む必要がなかったからである。家具はせいぜいベッドがあるくらいで、そこで一家全員が雑魚寝するのだった。ベッドだけがある理由 は、地 面に横になろうものなら、すぐあちこちから寄生虫や血を吸う虫が寄ってくるような環境だったからだ。ノミやシラミ、南京虫が大人にも子ど もにもごく普通に寄生していて、親子・友人同士で頭髪中のシラミを取り合うのが日課だった。

こうした環境は、コレラや天然痘、麻疹や猩紅熱そして結核などの病原菌にとって最高の環境だった。19世紀以降、イギリスを筆頭に多 くの 国で産業革命と共にこうした伝染病が蔓延するようになる。

労働者の食生活も悲惨なものだった。工場では休憩時間はせいぜい数分程度しかなく、無い場合も珍しくなかった。効率が優先されたため に、 食事は仕事をしながらで、作業の合間をぬってすることが普通だった。流動食のようなもの(スープにクッキーのかけらが浮んだような)が工 場主によって提供され、労働者は大急ぎでそれを胃に流し込んですぐ作業に戻るのが普通だった。

工業の発展に比べて労働者は慢性的に不足していた。そこで工場経営者が見つけた解決策が、孤児やストリートチルドレンだった。孤児院 で暮 らす子ども達は一般家庭以上に恵まれてはいなかった。お金をちらつかせて働かせるなど、そう難しいことではなかっし、子どもが職を得るこ とはりっぱなことだと思われていたから、児童労働が蔓延した。小学生になるかならないかという年齢から働く彼らのほとんどが、30才 の誕 生日を迎えることはなかった。しかし身寄りがないため、その声を代弁する者はなかなか現われなかった。

また、女性も男性と比べて手先が器用であったり身長が小さいことや、男性より賃金が安かったことから、児童労働に踏み切れない工場経 営者 に重宝された。しかし労働条件は男性と同じで、しばしば重労働も強制された。

このような悲惨な状況に、人間が長い間耐えられるわけがない。彼らの寿命の短さは驚くほどだった。1840年頃のリバプール市では上 流階 級の平均寿命が35才であった。これでも現代人からすれば驚くべき短さだが、職人や商人では22才、労働者では何と15才~19才という 短さだった。死亡率が特に高かったのは幼児である。3才まで生き残る率は恐ろしいほど低かったようだ。

ちなみに同時期の農村部では同じ階級の人の寿命がそれぞれ52才、41才、38才となっている。この差は伝染病の蔓延の有無もある が、そ の根源である水質汚染や大気汚染もあっただろう。当時の燃料は主に品質の悪い石炭であったので、ロンドンやマンチェスターなどでは、大気 は絶えず煙突からあがる煙で曇っており、ロンドンなどは気候的に霧が出やすいため、煙(smoke)と霧(fog)が混じり合ってス モッ グsmogと呼ばれる汚染された大気に覆われることが多かった。工場での廃棄物もまったく何の浄化もされないのが普通だったから、恐ろし いほどの汚染物質が空気中や河川に垂れ流されていた。これでは寿命が短くならない方がおかしいだろう。現代でも中国やインドに行けば 当時 の様子はある程度まで想像できるだろう。

ただ、この時代の工場での児童労働のひどさは、強調され過ぎている部分もある。当時は児童労働はごく一般的であり、工場で働く子ども より は農場で働く子どもの方が多かったようだ。工場は、やろうと思えば当局が監視をすることもできたが、農場では不可能である。どんなひどい 虐待が行われていたのか実態をつかむのは不可能である。実際、工場の実態がつかみやすいがために、児童労働のむごさが表面化したとい う側 面はあるのである。当時の日記や議会の記録には、それほどひどくはないという記録も残っているのである。また、いくら女性や児童労働が過 酷だったとしても、それでも彼らが現金を得ていたのは事実である。家計全体の収入を考えると、農村の家庭よりはよほど「豊か」であっ たこ とも間違いないようだ。ただしこれらはあくまで比較の上の話ではあるが。

ここまで読んで、気がついた人もいるのではないだろうか。そう、細かな部分で違っているとはいえ、「現代」はもうすぐそこまで来てい たの である。

■マルサスの予言

こうした貧困問題の発生をきっかけに、科学者や言論の世界では改めて理想的な社会を考えようという議論が高まっていた。また、アメリ カ独 立革命やフランス革命の勃発は、この議論にさらに火をつけることとなった。こうした中、ロバート=マルサスが著した『人口論』は大きな反 響を呼んだ。これは「人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加せず、その差により人口過剰、すなわち貧困が発生す る。 これ必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とするもので、啓蒙主義の影響が強かったこの時代、理性の重視や平等の実現さえ行わ れれば人間社会の問題はあらかた解決するという楽観論に水を浴びせるものであった。またこれは、人口の増加が貧困を生むのなら、貧困 の発 生は避けることはできず、それに多大な努力を払うことは無駄であり最低限の補助だけにすべきだという論も生むことになった。つまり福祉の 切り下げにつながったのである。当然これに反発する人々も生まれた。

こうして16世紀から始まっていたスラムや貧民の発生、産業革命に伴う人口移動、貧困階級を見つめる慈愛の目と冷淡な目。さらにやが て来 るアメリカとフランスでの革命。これらはいやでもイギリスに社会改革への議論を呼び起こすことになるのである。

■社会主義の誕生

こうした現代的な諸問題に対し、貧民、労働者たちのほうでも手をこまねいていたわけではない。中世のギルド時代から強者の不法には集 団で 対抗してきた国柄でもあり、自分たちの境遇を向上させるにはやはり集団で行動する道を選ぶのだった。まずは産業革命初期に起こったのが、 ラダイト(機械打ちこわし)運動だった。ラダイトとはノッティンガム地方のネッド=ラッドという人物(実は実在しない人物であったこ とが 「後で」わかった)が首謀者となって始まったことから名が付いた。注意しなければならないのは、この運動は産業革命によって職を失うこと を恐れた、マニュファクチュアに属していた工員や織り子たちが機械を壊してまわった運動であり、機械化された工場の労働者がやったの では なかったことである。

政府は当初こうした運動に対しては厳罰で臨み、1799年には団結禁止法を制定して運動を取り締まった。しかしバイロンやシェリーと いっ た19世紀初めの著名な文学者が運動を称賛したことで風向きが変わり、後には女性労働者の保護の問題や児童労働の問題に取り組むなど、の ちの労働運動の先駆けとなって認知されていった。また暴力的な動きも、ラダイトの参加者自身が機械そのものが真の原因ではないことに 気づ いたため収束していった。

ラダイト運動に代わって広まっていったのが正真正銘の労働運動である。こちらは工場労働者が始めた運動で、ラダイト運動の後期同様に 労働 条件の改善、というよりは非人間的な労働環境を無くすることを目的としていた。労働運動ではラダイト運動の失敗に懲りて、暴力的な運動を 避け、永続的、組織的な運動すなわち労働組合による政治運動をくり広げていった。運動はロバート=オーウェンの指導もあって、やがて 全国 的な組織となっていった。

ロバート=オーウェンは労働者階級の出身で、9歳から工場で働き始め、貯めた資金で20歳の頃には工場経営者になったという努力家で あっ た。こうした経歴から、人間形成における環境の影響を非常に重視し、自分自身がそうであった、労働者階級の悲惨な生活を改善することで、 工場の生産性が向上し、資本家も利益を得ることが出来ると考えていた。

彼はその主張を立証するためにスコットランドのニューラナーク村の紡績工場の環境改善に取り組み、労働者による労働者のための生活環 境を 作り上げることに成功し、経営の面でも成功したのである。また児童教育の重要さにも気がついていて、当時としては珍しかったが、工場敷地 内に学校まで作られていた。

続いて彼がとりかかったのがより大規模なニュー・ハーモニー村プロジェクトで、これは1825年北アメリカに広大な土地を購入して工 場を 建設し、職住一体・自給自足・完全平等という理想的な労働環境を実現しようとしたものであった。しかし残念ながらこれはあまりにも理想的 すぎて経営が失敗し2年後には撤退に追い込まれてしまう。

以後の彼は、着実に社会を変えていく路線に変更し、その成果として実ったのが、先に触れた1833年の工場法であった。実は労働者を 保護 する法律は、すでに30年前に労働時間を12時間以内とする法律はあったがほとんど守られていなかった。工場法はそれを10時間に短縮 し、実効あるものとしたのである。この法律の制定にあたっては、彼の説得が議員たち多数の理解を得ることに成功し、イギリスは労働者 保護 の面に一歩踏み出すことになる。そしてこれが「世界の工場」と呼ばれるイギリスの産業力を支える原動力となっていくのである。イギリスは これ以後も一層の時間短縮、さらに女性労働者の保護や年少労働の禁止などにもいち早く踏みきっていった。ただこうした改革が行われた 背景 にあるのは、ただ善意だけではない。実はもう一つ大きな要因があったのだが、それについてはまた後で述べよう。

こうしたオーウェンのような活動家を社会改良家という。彼は人類の英知と理性を信じ、人道的な立場から労働者の環境をなんとか良くし てい こうと考えてこうした行動をとったのである。こうした考えをさらに進めて、労働者中心の世の中を作ろうとする思想が社会主義である。オー ウェンの活動は力のない一般庶民が力を合わせて生活を改善しようとする生活協同組合運動(生協運動)の動きも生み、これも後世に大き な影 響を与えた。

ところで、工場法はできたものの、まだまだ労働者たちの生活は悲惨であり、それが改善される見込みは全く絶っていなかった。工場法は あく までも工場労働の条件の改善であり、生活面の改善などは考慮されていなかった。そこで労働者たちが期待したのが政治への参加であった。当 時おこっていた選挙権拡大運動には一時期待し、中産階級の運動に協力もしたが、1832年の選挙法改革では無視された。これは19世 紀に はまだ納税者のみが参政権を持つ(国家に寄与することができる者のみに国政への参加権がある)という考え方が強かったため、収入があまり にも少ない労働者に参政権を与えることはおかしいという論が強かったためだった。

そこで労働者たちは、労働者にも選挙権を求める動きと、将来的に労働者の人権を守る法律(人民憲章と名づけられた)の法制化をめざす 動き (チャーティスト運動)を始めたのである。当時審議されていた穀物法廃止運動では、廃止側の議員たちが「穀物法が廃止されればパンが安く なる」と支持を訴えたことから、労働者たちにも人民憲章への指示の期待も込めて賛成した。ところがせっかく穀物法廃止は成立したの に、人 民憲章の方はなかなか議会で取り上げられなかった。あせった一部の運動家は力で改革をなし遂げようとし、地道に改革をやっていこうとする 穏健派と対立するようになってしまう。政府や上層階級はこうした分裂につけ込んで、急進派に対する弾圧と同時に穏健派の指導者まで逮 捕し てしまう。指導者を失った運動は分裂の度合いを深めたが、それでも運動自体は何とか続き、大規模なストライキ(労働者が集団で一斉に仕事 を放棄したり、経営者に抗議したりすること)やデモ(集団で街頭に出て意志を表示すること)がしばしば行われた。しかしあまりにも頑 固な 抵抗を前に、40年代になると運動はより多くの支持を集めるために広範な要求を掲げるようになり、運動の目的も普通選挙の実施を求めるも のに変わっていった。1848年の諸革命「諸国民の春」の時には数万人の群衆を集めるに至ったが、それでも政府の強硬な反対から運動 の成 果は実らなかった。

さて、社会主義はイギリスだけで起こった考えではない。悲惨な労働者の生活があれば、そして、それを何とかしたいという人道的活動家 がい れば、どこでも社会主義は生まれるのである。オーウェンと同じ時代に、フランスではアンリ=ド=サン・シモンやシャルル=フーリエが活躍 しているが、オーウェンに比べれば現代での知名度は低い。彼らの思想はいずれも労働者たちの理想社会を強調し、理念が優先して現実的 な解 決手段を見いだしていないことから、後世のマルクスやエンゲルスらの社会主義者たちは、批判的な意味で空想的社会主義(ユートピア社会主 義)と呼んだ。この呼び名は、マルクスたちが自らの社会主義を科学的社会主義と自称していることに対応している。つまり自分たちの方 がす ぐれているというわけだ。現在では中立的な表現として、初期社会主義という表現が用いられている。

フランス人の社会主義者として有名なのは、少し時代が下った19世紀のルイ=ブランであろう。フランスでも1830年頃から産業革命 が始 まり、多くの労働者が生まれた。革命の本場であるので当然のように社会革命をめざす社会主義者が生まれることになる。中でももっとも有名 な活動家がルイ=ブランである。他にも、七月革命・二月革命の両方の革命に参加したブランキは、バブーフの影響を受けたその思想がさ らに ロシア革命の指導者レーニンに受け継がれることから有名である。

ルイ=ブランはもとはスペイン生まれだったが、パリで苦学して法律を学ぶうちに、貧困が生まれる原因についての考えを深めるように なっ た。そしてその分析が多くの人に認められ、社会主義・労働運動の理論家、指導者となった。二月革命後には臨時政府の一員に加えられ、当時 としては画期的なプロジェクトである国立作業所の責任者となった。

しかし臨時政府内のブルジョワ勢力には社会主義に対する不信感があり、国立作業所も初めからうまく行かない仕掛けが仕込まれていた。 これ には仕事があっても無くてもお金がもらえる制度があったため、名前と目的はりっぱだが、税金の浪費と無気力な失業者が全国から集まるだけ の結果となったのである。しかも財政難の政府は増税策を打ち出したが、これが国立作業所のせいだと思われて非難が集中することとなっ てし まう。こうして国立作業所は、ルイ=ブランの名声が地に落ちるだけの結果となり、さらに一般民衆には、社会主義というものは経費がかかる のに効果がないという評価がたつこととなってしまったのである。

さらに二月革命後初の選挙で完敗した社会主義者たちが武装蜂起(六月蜂起)を起こすと、こうした悪評は完全に定着してしまう。そして これ を口実に徹底的に政府に弾圧されてしまう。そしてしばらくの間、社会主義運動は立ち直ることができなかった。彼らが政治集団として人々の 信頼を勝ち取るにはまだ時期が早かったのである。

しかしながら、当時資本家たちの多くが言ったように、一所懸命働けば本当に誰でも豊かになれるのだろうか。資本主義は人を多くの人を 幸せ にするのだろうか。この問いに対して、明確にNoと言っていたのは社会主義者だけだった。まだこの時代、どこの国でも人口の多くは農民で あり、こうした問いかけをしていたのはまだまだごく一部、都市の労働者だけであった。問いを発する声は、まだ小さすぎたのである。

しかし産業革命が世界に広がり、その影響がより一層広く深く多くの人々に及んでいくにつれて、事態は変わっていく。19世紀は、時代 が 下っていくにつれて過去に例がないほど多くの人々が豊かな生活を経験し、そしてその数倍の人々がみじめな生活を強いられる時代だった。し かしそうした悲惨な生活の中、最底辺の労働者たちは明るい希望、生まれ変わった社会主義を見いだすのである。それは資本家たちにとっ ては 恐ろしい存在となっていく。やがて48年の諸革命が起こる直前には、この年出されたある本に書かれたように「化け物がヨーロッパに出没し ている―共産主義という化け物だ。古いヨーロッパのすべての権力が、これを退治する同盟を結ぶ」ようになるのである。

■社会主義の発展

1848年、ヨーロッパ全土に革命の嵐が吹き荒れたこの年に、ロンドンで『共産党宣言』という文書が出版された。この文書は、後に世 界の 労働運動・社会主義運動の理論的中心となっていくカール=マルクスとフリードリヒ=エンゲルスによって書かれたものだった。これはある国 際的な社会主義運動の組織の要請で二人が書いたものだったが、やがて世界の社会主義の理想を示したものとして、多くの人々に影響を与 えて いった。マルクスは一躍これで有名となるが、48年の革命の失敗後は母国のドイツで政府ににらまれてしまい再びロンドンに亡命せざるを得 なくなり、その後死ぬまでこの町で社会主義の発展に努力した。

彼は以前から社会主義に必要なのは理論であり、とくに実際の経済活動の分析がどうしても必要だと考えていた。そこでロンドンでの貧し い生 活の中、当時世界でもっとも諸資料が充実していた大英図書館に通いながら、資本主義の分析を行ったのである。それは今日『資本論』という 名の、世界でもっとも有名な書籍の1つとして残されている。

彼がその分析の中で明らかに証明したことは2つである。1つは、資本主義というものは労働者階級と資本家階級の対立によって、いずれ 社会 そのものが行きづまってしまうこと。そして2つめは、資本主義を越える新しい社会の仕組みとして社会主義がもっとも適切であること。別の 言い方をすると、現在資本家が持っている権力はいずれ崩壊し、いずれは人類の理想的社会としての共産主義社会へと移行する。その際に は移 行過程として社会主義革命が起こり、労働者が権力を握るようになってプロレタリア独裁体制になるということを、理論的に明らかにしたので ある。

マルクスの証明は、当時ヨーロッパで起こっていたさまざまな政治・社会現象を明確に説明するものに思えた。さらに、資本主義の限界を 理論 的に明らかにしただけでなく、人間社会はいずれ理想的な社会、すなわち誰もが生産手段を共有して、貧富の差が無く財産は互いに共有される 共産主義社会に向かうことを明確にしたのである。

こうした未来へのビジョン、言いかえれば予言は、貧困に苦しむ労働者の目には暗闇に輝く希望の星と映り、勇気を与えた。しかしこれら は当 時豊かさを享受していた資本家たちにとっては、明るい未来を奪う悪夢としか映らなかったのである。誰であれ、自分の希望を奪うものや否定 するものに反発するのは当然である。資本家階級の人々はマルクスをニセ預言者のように扱った。すなわち、ろくに字も読めず教養もなく 清潔 さとも無縁なあわれな労働者を、騙しているのだと信じ、まるで異端の宗教のように嫌ったのである。さらにこうした見方は、マルクス自身が 無宗教(つまり非キリスト教徒)を公言しており、その著書で「宗教は民衆のアヘン(=麻薬)である」と述べていたことから、よけいに 強化 されていった。こうしてマルクスのビジョンは、資本家と労働者の間にもとからあった対立をさらに激化させる結果となったのである。

しかしマルクスの予言には、まだ続きがあった。彼が起こると予言した社会主義革命は、先進工業国家で起こるものであり、けっして遅れ た工 業国では起こるはずのないものであった。となれば、革命はまずはイギリス、もしくはフランスかドイツで起こるはずだった。

彼は『資本論』を書き続けながら、生涯を通じてこうした国々で革命がより起こりやすい環境を作り上げる国際的な活動に身を投じていっ た。 1860年代にロンドンで始まった労働運動の国際的連帯運動第一インターナショナルには大いに期待し、その議長として運動の成功に尽力し た。また1871年にパリで社会主義者がパリ=コミューン政府を作ったときにも期待していたのである。

しかしながらこうした運動も革命も、結局は失敗してしまった。おまけに社会主義の世界でも、彼のグループはオーウェンやルイ=ブラン 以来 の伝統を誇るイギリスやフランスの社会民主主義グループと激しい主導権争いを演じることになってしまう。結局彼は社会主義革命が成功する ことを見ないまま、1883年に亡くなってしまう。

皮肉なことに、政権に加わるのはライバルの方が先だった。彼の死の翌年の1884年にイギリスでバーナード=ショーらを中心に結成さ れた フェビアン協会は、漸進的な社会主義を掲げてイギリス人の支持を得ていき、やがてこれを母体にして1906年には世界初の合法的社会主義 政党である労働党が結成されるのである。労働党は革命とは無縁ながら、その公約通りの合法的な活動を通じて1916年に初の政権参加 を勝 ち取り(ロシア共産党の1年前)、1929年には第一党となって単独政権を勝ち取るのであった。

■革命の時代

こうして「産業革命」は、世の中を確実に変えていった。その源流であるマニュファクチュア(工場制手工業)は17世紀までに生まれて いた し、生まれた場所もヨーロッパだけでなく、中国や日本で、そして西アジアやインドでも生まれていた。それはモンゴル帝国が旧世界を結びつ け、ヨーロッパ勢力が真に世界を結びつけて以来の世界経済の発展の結果とも言える。要するに世界が結びついた結果、イギリス人は綿織 物を 着る快感に目覚め、機械が織る安価で良質の木綿の服は、世界中の人々を魅了したのだった。

やがて彼らの安価で大量に作る手法は、他の手工業品にも及び、他のヨーロッパ勢力の国にも広まっていく。またこれ以後、商品というも のは 安く大量に作られるのが当たり前になる。たとえ収入は変わらなくとも、物価が下がれば実質的には使える額は増えていく。もちろん短期的に 見れば、その過程でインフレーション(物価の上昇に伴う収入の目減り)が起こったり、逆のデフレーション(物価の下落による不況と、 失業 の増加)が起こったりもしたであろう。しかし長い目で見れば、確実に生活レベルは向上していったのである。

まだこの19世紀初めの頃は、ヨーロッパの最強国家の首都ロンドンでも住人の平均寿命が20歳代という状態だったが、それから100 年後 には50歳前後と倍に伸び、さらに100年後の2000年頃には80歳前後に伸びていく。貧困層は19世紀初めからは比べものにならない ほど激減するが、それはイギリスだけでなくヨーロッパから北アメリカにまで広まる減少だった。

こうした「革命的」と言って良い人類の生活の変化は、産業革命が起こしたのではない。産業革命をさらに推し進めようとする人々の前に 立ち はだかったのは、旧来の政治・社会にしっかりと根を張った人々であり、彼らは新しき社会を嫌い、古い社会を良しとした。新しい社会は確か に豊かさをもたらしてはいたが、それはまだ人類のごく一部で、恩恵はまだほとんどの人に及んでいなかった。そしてその一方では、貧困 と公 害が多くの人の頭上に襲いかかっていたのである。現代でも、一瞬で数兆円が動くコンピューター取り引きが数千人を失業に追い込む状況など 無い牧歌的な時代を懐かしむ風潮はあちこちに見受けられ、それを支持する人は多い。当時もそれには似た状況があったのである。

新しい時代を嫌う代表は貴族/上層階級層だった。彼らはこれまでに無い新しい手法、新しい技術によって時代を切り開いていこうと考え てい たが、その彼らが目指していたのは、貴族と庶民が牧歌的に交流する社会であった。そこでは身分制は当然のものであり、労働もせずに良い生 活を送るのは自然なことであった。もちろん貴族上層階級層と言っても、全員が一致団結していたわけではなく、この時代のロバート= オー ウェンや後の時代のバイロン卿のように進んで労働者の社会状況の改善を支持した人々も少なくはなかった。

しかし社会の変化がいったん両者にとって妥協の余地がないところまで行った時には、両者は選択せざるを得なくなるのである。「新しい 社 会」を選ぶべきか、「旧き社会」を選ぶべきかを。そしてスコットランドのグラスゴー市で『国富論』をアダム=スミスが書き始めた頃、イタ リア領コルシカ島のボナパルト家では一人の男の子が生まれていたのである。そう、激動の時代、市民革命の時代が目の前に来ていたので あ る。

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