「世界史読本」新しい世界史の副読本

世界史,歴史,大学入試,論述問題,認知心理学

『世界史読本』とは何か(2)

世界史読本と教科書の違い(2)


 これを取り上げたのは、世界史を理解する上で非常に難しい部分、経済現象についての記述 を比べるためです。

教科書[2] 世界恐慌

■A社

 1929年10月、ニューヨーク株式市場(ウォール街)での株価の暴落から、アメリカ合衆国は空前の恐慌におそわれた。工業生産 の急落、企業の倒産、商業・貿易の不振がいっきょにすすみ、銀行など金融機関の危機に波及した。労働者の4人に1人が失業し、国民の 生活水準は大きく低下した。恐慌が合衆国ではじまった背景には、世界的な農業不況で農民が痛手をうけたこと、高関税政策や賠償・戦債 支払いが国際貿易の流れをさまたげたこと、合衆国に集中した資金が土地や株式への投機に使われたこと、などがある。世界経済・金融の 中心であるアメリカ合衆国の恐慌は全世界に波及し、アメリカ資本が引きあげられたヨーロッパ諸国も恐慌にみまわれた。合衆国のフー ヴァー大統領は1931年、賠償・戦債支払いの1年間停止(フーヴァー=モラトリアム)を宣言したが効果はなかった。恐慌はその破壊 的規模の大きさと期間の長さから、世界恐慌とよばれる。

  • あっさり( )で書いてあるが、なぜニューヨーク株式市場がウォール街なのかどれだけの生徒が分かるのだろうか。新聞 を よく読んでいる高 校生 なら分かるかも知れないが、そういう生徒がどれほどいるだろうか。

  • なぜ株価が暴落したのか、そして株価の暴落がなぜ恐慌になるのか分からない。そもそも恐慌というもの分からないだろう し、なぜ株価の暴落が 「工業生産の急落、企業の倒産、商業・貿易の不振がいっきょにすすみ、銀行など金融機関の危機に波及」するのか分からないだろう。

  • 世界恐慌の背景が、なぜ「世界的な農業不況で農民が痛手をうけたこと、高関税政策や賠償・戦債支払いが国際貿易の流れ を さまたげたこと、合衆国に集中した資金が土地や株式への投機に使われたこと、などがある」なのか、分からないだろう。

    なぜアメリカで恐慌が起きたのに、ヨーロッパからアメリカ資本が引きあげられるのか分からない。賠償・戦債支払いの1 年 間停止(フーヴァー=モラトリアム)を宣言しなければならないのか、分からないだろう。

  • つまりここは???だらけなのである。確かにこれを説明するには経済学の知識が必要で、5~10ページほどかかるだろ う。さらにそれは政治・経済の担当かも知れないが、世界史を学習する生徒が皆政治経済を学習するとは限らない。しかし、 だか らといって放置すれば、現代の経済現象は、どれも説明できないだろう。教科書に2008年リーマンショックが載る時代にはど うするのだろう。デリバティブも用語だけ載せるだけでお茶を濁すのだろうか。

■B社

 1920年代、アメリカ合衆国はかつてない好景気を謳歌していた。しかし生産が過剰となり、投機も過熱するなか、1929年10 月、ニューヨーク株式取引所で相場が大暴落して、大恐慌となった。合衆国は海外に投下していた資本を引き上げ、輸入を縮小したので、 その影響は各国に波及して、世界恐慌となった。とくにドイツが深刻な打撃を受けたため、合衆国大統領フーヴァーは賠償と対米戦債の支 払いの1年間停止(フーヴァー=モラトリアム)を実施したが状況は好転しなかった。恐慌は、おりからの農業不況と重なり、各国に重大 な影響をもたらした。失業者の数は、世界全体で3500~5000万人にのぼり、空前の大量失業時代となった。

  • やはりなぜ株価が暴落したのか、恐慌になったのか、「資本を引きあげた」のか、「とくにドイツが深刻な打撃を受けた」 の か、分からない。「投機」も分からない生徒が多いのでは。フーヴァー=モラトリアムについては、ドーズ案のところで一度説明 されている。

  • 失業者が「世界全体で3500~5000万人」が多いのか少ないのか分からない。%のほうが分かるだろう。

■C社

 アメリカ経済は、1920年代の繁栄のなかで生産過剰の状態におちいり、過度の株式投機熱も生じていた。この状況が、1929年 10月24日、ニューヨークのウォール街での株価大暴落をひきおこし、アメリカは未曾有の規模の恐慌に突入した。恐慌は、1920年 代にアメリカからの資金の流れに大きく依存するようになっていたヨーロッパ諸国に波及し、すべての資本主義国、さらには植民地・従属 国をまきこむ世界恐慌となった。そのなかで各国の工業生産は著しく低下し、大量の失業者がうまれた。1931年6月、アメリカ大統領 フーヴァーは、恐慌の拡大をふせぐため、賠償と戦債の1年間の支払い停止宣言(フーヴァー=モラトリアム)を出したが、効果はうす かった。多くの国では、恐慌の過程で中産階級が没落し、労働者の労働条件が悪化して、政治状況がきわめて不安定になった。これはファ シズム勢力の台頭をゆるす条件となった。一方、植民地・従属国では、恐慌によってとりわけ農民が経済的打撃を受け、人人の不満がひろ がって、民族運動の高まりにつながっていった。

  • やはりなぜ株価が暴落したのか、恐慌になったのか、「資本を引きあげた」のか、「とくにドイツが深刻な打撃を受けた」 の か、「投機」とは何なのか、なぜフーヴァー=モラトリアムを出したのか、分からないだろう。

  • 中産階級の没落、労働条件の悪化がなぜファシズム勢力の台頭につながったのか分からない。ファシズムも、ナチスの台頭 の 後でやっと説明がある。また、そもそも、「台頭」の意味が分からないだろう。

  • 恐慌によって「植民地・従属国では、農民が経済的打撃を受けた」のか、分からない。サラリーマンはどうしたのか?商人 は どうしたのか?という疑問を持つだろう。この教科書は、用語は多いが説明が非常に少ない。帝国主義時代の植民地社会がどんな ものか、分かりづらいのである。

■D社

 1929年10月、ニューヨーク証券取引所で株価の大暴落がおこり、深刻な恐慌がアメリカを襲った。物が売れなくなり、物価が下 落し企業倒産があいついだ。賃金は物価以上に切り下げられ、労働者の生活水準は大幅に悪化した。さまざまな分野で需要・供給のバラン スが崩壊するなど、原因は構造的なものだったので、恐慌は長期にわたった。世界経済の中心だったアメリカ経済の破綻は、ヨーロッパと アジアにも深刻な影響を及ぼした。アメリカ市場に依存していた輸出産業が打撃を受けただけではすまなかった。アメリカの金融界が、国 内でこうむった損害を埋め合わせるために、各国に投下していた資本を回収したのである。こうして、アメリカ発のこの恐慌は世界恐慌と なった。資本主義経済から孤立していたソ連のみが、恐慌の影響をまぬかれた。

 アメリカは1931年にフーヴァー=モラトリアムを宣言し、恐慌がヨーロッパに波及するのを防ごうとした。しかし、それは期待さ れたほど効果を生まなかった。

  • 全体的な意味は4つの中で最も分かりやすいが、やはりなぜ株価が暴落したのか、恐慌になったのか、「投下していた」資 本 とは何か、なぜフーヴァー=モラトリアムを出したのか、「期待されたほど効果を生まなかった」のはなぜか、分からないだろ う。


  • 世界恐慌は2008年リーマンショックとも共通するとあちこちで書かれているので、興味を持つ生徒も多いはずだが、こ れ では参考にならないだろう。

世界史読本では

■世界恐慌を記述する前に、投資や投機、インフレとデフレ、株や株式市場について数ページにわたって解説している。その中で、19 世紀の「大不況時代」のおさらいや、20世紀末の日本のバブル崩壊と「失われた10年」、21世紀初頭のリーマンショックについても 言及している。

■次に1920年代のアメリカの繁栄のところで

 アメリカは、大戦中にヨーロッパ諸国の工場が軍需品生産に振り向けられたことから、民生品の受注を多数引き受けることで大戦景気 に湧いた。このためヨーロッパから富が流入した。また第一次大戦が総力戦となり、各国の財政が厳しさを増すにつれ、英仏などは財政支 援、食糧支援をアメリカに戦債、つまり後払いの形で頼るようになった。
 こうした結果、アメリカは大戦前には22億ドルの債務超過(対外債権=貸金より、債務=借金のほうが多い)状態だったのに、大戦後 になると64億ドルもの巨額の債権を持つようになったのである。18世紀の新興国家は、慢性的に資金の足りない債務国から他国に資金 を貸す債権国家へと成長を遂げたのだった。
特に海外投資は、大戦前までは主に隣国のカナダやメキシコにに集中していたのが、大戦後はヨーロッパ諸国はもちろんのこと、英仏が独 占していた中東の石油資源にまで手を伸ばすようになっていた。アメリカが中東の歴史に関わる、つまり2000年代に米ブッシュ政権が イラク戦争をしかける足がかりがこの時代に始まっていたのである。
 アメリカ経済は、大戦直後こそ軍事物資生産の打ち切りで一時的な恐慌が発生したものの、その後はヨーロッパの復興景気が続き、好景 気は1929年まで続く。こうした好況は、通算では19世紀末から約30年続いた。これだけ長く好況が続けば、人はそちらのほうが普 通だと勘違いしてしまう。これがこの後、世界恐慌を引き起こす伏線となるのだが、とりあえず1920年前後にはそんな兆候は一かけら もなかった。

(中略)

 こうした時代背景の中、庶民も含めて投資ブームが起こった。大戦中、大戦後は戦争景気と復興景気で、多くの会社が好景気の恩恵を 受けていた。企業は少しでも業績を上げようとして企業活動を拡大しようとし、資金として株式や債券を発行したが、どちらも庶民からす れば一口あたりの価格が高く、敷居が高かったのである。当初は株式や債権に詳しい専門家が投資家のほとんどを占めていた。
 それが1924年に、庶民の少額資金を集めてまとまった額にし、その金額を投資のプロが運用するという投資信託という手法が発明さ れ、だれでも手軽に投資ができるようになった。株や債権は一口あたりの金額が大きいし、企業の情報に詳しかったり数字に強い人でない と手を出しにくいものだが、投資信託なら手数料は取られるがプロが運用してくれるので安心だ、ということで非常に人気が出たのであ る。
 一般的に、株式投資の利回り(利益)は平均5%~6%、預金の利子は2%~3%で、株式投資のほうが利益は大きい。しかし株取引に は、会社の倒産による投資資金の消失という危険もある。預金はその可能性は少ないため安全である。どちらを手持ち資金の運用先とする かは、個人の自由なのだが、1920年代のアメリカではほとんどの会社が好況の恩恵を受けていたため、よほどのことがない限り会社は つぶれないと思われていた。となれば、利回りの少ない預金より、やはり良いのは株式投資だ。おまけに投資信託を使えば、ほとんど知識 が無くてもプロが運用してくれる。なんて楽、なんて素晴らしい。アメリカ万歳、というわけだった。
 こうしたことから、庶民のなけなしの、しかし塵が積もって山となった莫大な投機資金が株式市場に流れ込んだ。株価は年々上がり、上 がるにつれてさらに資金が流れ込むという具合いに、雪だるまのように株式市場を席捲した。
 こうして1929年10月末に、著名な経済学者アーヴィング=フィッシャーが「株価は恒久的に高いままの、ちょうど高原のようなも のに到達したようだ」と言い切ったように、アメリカの繁栄がずっと続くことを、誰もが疑わないようになっていた。アメリカは「永遠の 繁栄」を享受する史上初の国となったと思われたのである。しかしそれは思い違いだった。破局は誰もが気づかないうちに忍び寄っていた のである。しかもすぐ数日後に。アメリカ経済の足下にまで破局は押し寄せていたのである。
ちなみに、空前の繁栄が続いていた2000年代前半のアメリカでは、1997年ごろから、フィッシャー教授と似たようなことを言う経 済論者が出現した。1930年段階のフィッシャー教授がこれを聞いたら、いったい何といっただろうか。

(中略)

 話は「永遠の繁栄」期のアメリカに戻る。アメリカ経済の好調は1929年の6月頃まで続いていた。しかしその頃にはすでに異変の 兆候があちこちで生じて いた。
まずは農業である。アメリカの農業生産は1870年代の冷凍船の発明や機械化の進展でヨーロッパ向けの販売が大きく発展したが、 それ も1920年代になると生産過剰気味になっていた。しかし大戦の復興景気に沸くヨーロッパ向けの輸出は全体的には好調だったので、す ぐには表面化しなかった。しかしヨーロッパ諸国の農業が復興して価格競争が始まると、農産物価格は急速に下落し始め、1928年には 農業恐慌と呼ばれる事態となった。アメリカ国民の懐はその分だけ厳しくなっていたのである。また、工業生産の方も1929年の6月頃 にはピークに達し、それ以後はゆるやかに下がり始めた。こうなるとソ連の承認をアメ リカ 合衆国が頑として拒否し続け、ロシア市場が失われたままであったことが産業界にとっては痛かった。
 現代人の目から見れば、こうした客観的なデータからは山ほど不安な要素が見られるのだが、当時の経済界、特に株式市場にはまだ大戦 以来の好景気の余韻 が残っており、農業の不振も工業生産の落ち込みも軽視された。何より、株式市場にはどんどん流れ込む資金を飲み込んで1920年代を通じて上がり続け、 「市場最高値を更新」とい う言葉はもはやニュースにならないほどだった。つまりアメリカ経済は、経済の実態が株価に反映しないしくみができあがっていたのである。こうしたアンバラ ンスは経済のどこかに歪みを生じさせるものであり、一部にはそれ を指 摘する声もあったのだが、「永遠の繁栄」に浮かれた人々の耳には届かなかったのである。

(中略)

 すでにこの頃には景気はピークに近づいていたのだが、人びとは永遠の繁栄がまだ続くと信じていた。新聞やラジオは、20年代 初期 の頃は冷静で、好景気に対しても客観的な態度をとっていたのだが、繁栄は次第に彼らの神経を蝕んでいった。20年代末期になると、株 式市場のルールが未整備なことを良いことに、インサイダー取引や、カラ売りといった手法が横行していた。メディア関係者の中に は、イ ンサイダー情報を提供してもらってこうした不公正な取引きに手を染めていた人間も大勢いたのである。彼らからすれば、「違法でない行 為をやって何が悪いのだ」ということになるのだ。こうした取り引きが横行すると内部の人間だけが有利となり、一般投資家が不利となる から、結果として一般人は取引に失敗して排除 さ れ、株式市場の信用が失われてしまう。このため今ではこうした行為は基本的に禁止されている。現代の株取引が公平で公正なのが原則と なっているのは、世界恐慌に対する反省から来ているのである。
 しかし、こうした不公正な取り引きが横行していたものの、それでも取引総額は年々うなぎ登りに上昇していた。株式市場に流れ込 む資 金も、初めは株取引を専門とする人々の資金が集まるだけだったのが、次第にそれ以外の人々の資金も集まるようになった。好況が続いて 手持ち資金に余裕ができた人が増え、より良い投資先(つまり本業以外の良い金儲け先)が求められていたのである。現在の中国での 株 ブームと同じである。
 1920年代末になると、本国より良い利率に引きつけられた外国人投資家の資金までが 集 まってきた。この結果、ドイツ経済がおかしくなり始めた。せっかくシュトレーゼマン改革の成功以来好調で堅実だったドイツ経済に向か うべき資金が、手っとり早く儲かるアメリカ株式に振り向けられるようになったからである。
 このように1920年代後半の株式市場は、1720年代のイギリス(南海泡沫事件の前)や1999年のアメリカ市場(ITバブ ル発 生期)と同様、実体経済に基づかない欲にまみれた投機資金によって市場の暴落が防がれていたのである。株式市場は本来なら企業の業績の成績表となるはずで ある。企業は業績を公正に公表し、投資家はそれに基づいて公正に取引する。結果として好調な企業の株式は高 く評 価されて株価は上がり、そうでない企業は株価が下がる。企業は株価を上げるために懸命に努力し、それが経済全体を健全に保ち、発展が 続くという仕組みである。投機は、こうした正常な動きを阻害するたのである。しかしいくら投機資金が下支えをしても限界があった。破 局は突然訪れた。

 1929年10月24日10時25分、当時世界最大の自動車メーカーであったゼネラルモーターズの株価がほんの少し、わずか 80 セントだけ下落した。まるでこれが合図だったかのように、以後の株式相場は売り一色となった。後に「暗黒の木曜日」と呼ばれた悲劇の 日だった。
 この日の内に、株券の形で巨額の資産を持っていた人たちの何人かが、すっかり財産を失って悲観して自らの命を絶った。急きょ世界屈 指の大富豪モルガン財閥を始め、何人かの資産家が極秘で会合を持ち、翌日には大規模な株価の買い支えが行なわれた。実はこの手法は、 十年ほど前にあった大暴落の時に行われて効果を発揮したやり方であり、この日はそれで株価下落が止まり、関係者はホッと胸をな で下 ろした。
 しかし翌週になってニューヨーク株式市場の大暴落が全国の新聞に書き立てられると、もうこの手法は通用しなかった。月曜日と水曜日 の二回にわたって大暴落が起き、下落が始まってから一週間で、当時の国家予算の10年分にあたる300億ドル(約3兆円)という巨額 の資金が株式市場から消えた。株価の平均は1929年9月3日に最高値を記録していたが、1932年になるまで下がり続けた。そ の時の価格は最高値の十分の一でしかなかった。
 ただし株価の大暴落が起こったからと言ってそれが即「世界恐慌」になったわけではない。それは不自然な経済状況が正常に戻る過程 が急 すぎただけであり、その時に起きる悲劇的な現象であった。この後に株式市場関係者や政府、経済界や産業界が適切に対応していれば、そ の後の本当の悲劇は防げたのかも知れなかったのである。
 フーバー大統領は一連の大混乱を、当時の経済学の正統派の理論に従って分析し、悲劇的だが歴史上しばしば起こる仕方のない現象 だと 正しく捉えていた。後の評判と違って、彼はアメリカ最高の学府の一つスタンフォード大学卒の非常に優秀な人物であり、彼のブレーンた ちもやはり粒ぞろいだった。当時は、市場は万能であり、政府の介入は可能な限り避けねばならないというのが常識であり、彼はそれに 従って辛抱強く我慢した。さ らには大統領の責任を最大限に勤めるために、「間もなく景気は回復する」「むしろ今が株は買い時なくらいだ」と国民を安心させ続けたの である。ここまでの対応は、完璧に教科書通りのみごとな対応だった。

  • これでも当時の事態の半分以下だろうが、状況はわかるだろう。

  • 別の所に書いてあるが、フーヴァー大統領は名門スタンフォード大出身の単なるエリートでは無く、若い頃天津に駐在して い た時に義和団戦争にまきこまれ、約1ヶ月間の包囲戦を余儀なくされた経験をしている。中国にいたのも、鉱山技師として働いて いたためであり、若い頃から国内外の庶民や辺境の人々に触れる生活を送っていた。

  • このように、大学での理論と世界の隅々まで経験した実地経験をもっていたのがフーヴァーであり、同じ名門ハーヴァード 大 出身で元大統領の甥で富豪の出であるフランクリン=ローズヴェルトと比べると、好対照である。1929年当時に大統領選があ り、フーヴァーとフランクリン=ローズヴェルトが争ったら、おそらく圧倒的多数でフーヴァーが勝利しただろう。そんな フー ヴァーが失敗し、フランクリン=ローズヴェルトは英雄となったのが現実なのである。

  • そうした状況は教科書からは読み取れない。もちろん必ず知る必要も無いが、知っておくと理解が深まるし、何より忘れら れ ない。入試用としてはそれが何より重要だろう。

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