ではこの長期不況を理解するためにも、経済に関連して豊かさの問題に触れておこう。
最近の研究によれば、19世紀の、特に1820年代以降、ヨーロッパ諸国の生活レベルが上昇し始めたことが分かっている。まずこの時
代は
自由主義の時代であり、うまく時勢に適応して富裕な資本家になった者(例えばロバート=オーウェン)と、そうでない者の格差が拡大した。
イギリスの首都ロンドンで言うと、高級住宅街ウェストエンド地区に住む人々がパーティで盛大にシャンパンを開けていた頃、スラム街の
ある イーストエンドに住む人々は仕事帰りのジン(安いだけの酒)をあおるしかなかったのである。
さまざまなデータからこの時代のヨーロッパでは、国民の平均所得が過去のどの時代よりも上昇していた。またこれに比例するように、平
均寿 命も伸びていた。つまりヨーロッパ人の生活レベルはこの時代に上昇を始めていたのである。
これは、ほとんどの者にとって喜ばしい傾向である。上のグラフのように、人類は19世紀になるまで、経済成長のほとんど無い、つまり
生活
レベルの変化のない時代を生きてきた。ほとんどの民衆は文字も読めず、いつも明日の生活を心配していた。当然、庶民には世の中を変える力
など無く、主義主張(アピール)よりは食事(ミール)のほうが重要で、権力者たちはそうした庶民の姿を、決して呆れたりバカにするこ
とも
なく、ただただ当然のことと思っていた。朱元璋やナポレオン=ボナパルトのように、庶民の中から権力の座に登りつめる者が現れる例は無数
にあったが、一旦その座に着いたとたん、かつての同朋の困った状況を救うどころか、自分だけは二度とそんな世界に戻らなくて良いよう
に社 会の仕組みを変えるか、ただ忘れてしまったかのいずれかだったのである。
そうした時代が変わりつつあった。世界はまずヨーロッパから現代世界に近づき始めた。それは飢えを知らない、寿命を全うすることが当
たり 前で、字を読み書きできることが珍しくない時代である。
こうした豊かさを西ヨーロッパの人びとにもたらしたのは、一つには政治体制の変化であった。19世紀初期までは多くの国で身分制、す
なわ
ち一部の人間だけが特権で豊かさを独占する体制が取られていた。それは安定はしているが変化は少なく、支配層は比較的豊かだが生活レベル
は現代人と比べれば比べるまでもなく低い時代だった。それが17世紀以降になって、ようやく重商主義が行われ、国家も真剣に経済政策
を考 える時代になった。
しかしフランスを代表とするこうした旧体制の国家は、結局は自由主義を信奉する近代国家イギリスに敗れてしまい、イギリスは世界に覇
権を 及ぼす帝国となった。
これを打倒しようとしたナポレオンがやったことは、結局はイギリスと同じく近代国家になることであり、幸い革命期に抵抗勢力の多くは
ギロ チンによって一掃されていた。
ナポレオンの支配はイギリス以外の国々をフランスの属国(市場)にすることであり、そのためにフランス流の支配、つまり自由主義と近
代国
家化が強制された。フランスの支配に反発する各国も、そのやり方が効果的であることは否定できなかったから、彼を打倒するためには同じや
り方で近代国家になるしかなかった。そしてそれがどの国でも国民生活レベルの向上という結果となったのである。ただし忘れてはならな
いの は、それはフランス革命やナポレオンが引き金ではあったが、変化の土壌はそれ以前から備わっていたのである。
また19世紀は、一民族が集まって一国家を作ること、つまり民族国家という形が当然と考えられている国民国家の時代であった。近代国
家で
は平均して国民生活が豊かになった事から、国民国家・民族国家は良いものであると思われ、旧体制や封建制はそれ自体が欠陥だと思われた。
19世紀の国家は、民主主義でないほうが多かった。多くの国で少数派が民主主義の枠から外されていたのである。例えばアメリカ合衆国
にお
ける黒人や先住民などのカラード(有色人種)、イギリスにおけるケルト系(アイルランド人)、スペインにおけるバスク人、オーストラリア
の先住民アボリジニ、日本におけるアイヌ系などは、国民国家の枠組みから除外された。こうした少数派が、近代国家における豊かさの分
配の
恩恵から外されたのは、主流民族に同化しないという理由であった。彼らは一民族一国家という原則から外れている、当時の言葉で言い換える
と、「優れた」文化を受け容れない「劣った」民だということで、差別されていたのである。それは現代からすればおかしな理屈なのだ
が、民 族の優劣が本気で信じられていた時代には、決して許されない理由だったのである。
こうした民族の優劣を当然視する見方は、以前にも触れた社会進化論から来ている。これは、人間が生物界の頂点に座する最高の存在であ
り、
他の生物を支配するのが当然で、その根拠は人間のみが知性を持っているからであるという点であった。さらに人間社会は、原始の野蛮な状態
から未来の理想的な状態へと直線状に進化するものであり、現在はその途中の状態なのであるとされた。
また人間の中にはさまざまな人種が存在しているが、それらは人類が一つの理想的な姿に向かう途中の競争相手であり、最も優勢な白人
(コー
カソイド)が勝者で、黒人(ネグロイド)は敗者、黄色人種(モンゴロイド)はその中間であるとされた。こうした優劣は人種だけでなく人間
社会の諸要素、すなわち文化や芸術、宗教にさえも存在するとされ、最高のものだけが残ると思われていた。つまりこの論を信じる者に
とって
は、競争の結果勝ち残ったものは優れたものであり、敗れたものは劣ったもので、消滅しても仕方のないものである。それは大いなる原理(神
の摂理)の一部であり、万人が受け容れざるをえないものとされた。また競争は自然状態の中で行われるのが理想的であり、強大な力を持
つ政
府が介入することは競争をゆがめるもので、せいぜい治安維持と戦争時だけ社会に介入することが許されるとされた。すなわち社会進化論は、
自由主義を補強する論理として当時の主流思想に組み込まれていたのである。
自由主義は、キリスト教神学が力を失って以来、久しぶりに登場した主流派の思想だった。それは多くの国の思想家や指導者をとらえ、
人々の
常識となった。さらには、社会情勢からみても科学的な面からしても、非の打ち所がない思想であり、啓蒙思想が人間の理性に注目して以来、
ようやく人類は理想的なイデオロギーを手に入れたと思われたのである。
自由主義の経済版である自由貿易主義に対立する保護貿易主義でさえ、政府の保護は国内産業が成長するまでの一時的な措置であり、成長
後は
保護は無くして自由主義に切替えるべきとされた点で、その変種にすぎなかった。そして自由主義・資本主義と対立すると思われている社会主
義でさえ、理想的な状態(共産主義社会)を想定し、資本主義との優劣を競い合うという点において、社会進化論の影響を免れてはいな
かっ
た。すなわち19世紀に大きな経済・文化思想上の大きな流れであったものは、ことごとく社会進化論や自由主義の影響下にあったのである。
こうした時代には、他者に勝つこと、他者より優れていることに価値が置かれ、他者より劣ることは無価値であり、恥ずべき事であり、座
視す
べき事ではないとされた。政府が障碍者(障害者)や少数派、力のない女性や子どもに目を向けることは避けられ、産業界が出していた害毒
(公害や騒音、悪臭など)は見て見ぬふりをされ、被害者の多くは弱者や少数派であったために口をつぐむことを強いられたのである。
こうした風潮が支配する中、西ヨーロッパ諸国では1873年から始まった大不況が長期化し、世紀末から20世紀にかけて、かつては脅
威で
あったものの、今では「劣って」いて「いずれ放っておいても絶滅するはずの」アジア・アフリカ諸国を植民地化して利用することで克服しよ
うとした。しかし植民地争いは、第一次世界大戦という人類史上最大の戦争を引きおこすこととなった。結果としてロシア帝国・オースト
リア
帝国・オスマン帝国という三つの大帝国が壊滅し、大英帝国とフランス帝国に深刻なダメージを与える結果になった。モンゴル帝国の大征服に
始まり、オランダが下ごしらえをし、イギリスが打ち立てた一体化された世界は、重大な危機を迎えることとなったのである。
こうした中、崩れた世界のパワーバランスを調整するために開かれたのがパリ講和会議であり、ワシントン会議であり、国際連盟だった。
しか
しこれらはいずれも軍事バランスについての調整が中心であり、経済の問題についてはドイツのハイパーインフレが起こってからようやく議題
の中心になるという始末だった。またその結果出来上がった世界体制も、各国の利害が理念に優先されることになり、後日ファシスト達に
つけ 込まれる結果となった。
つまり第一次世界大戦以前の世界の動きは、経済危機がきっかけとなって政治・軍事上の危機が進行したのだが、戦後の平和構想では政
治・軍 事問題だけが話し合われ、その根本にある経済問題はまだオマケ扱いだったのである。
さてここからは、経済がわかっている人もそうでない人も含めて、これ以後ますます重要性が高まっていく、経済が世界の主役となった時
代に 立ち向かうために、基本的な用語や概念をおさらいしておこう。
経済の基本は、今日では貨幣、商品の流通、そして消費である。そしてその担い手は政府と企業そして消費者である。日本では多くのサラ
リー
マンが企業で働き、給与をもらい、それで消費生活を行い、税を負担する。今の日本の家計収入の総額は約400兆円であり、その8割が消費
され、残りは貯蓄や投資に回る。日本国内に拠点のある企業は年間約500兆円分のモノやサービスを作り出し、その9割が国内で売ら
れ、1
割が輸出に回される。租税は政府によって集められ、国の財政のもととなり、80~90兆円の予算が使われる。先進国は額こそ違うが、大体
が日本と同じような構造となっている。
経済で重要な概念のうち、まず貯蓄と投資について理解しよう。貯蓄は貯金と同じであるが、投資というのがわかりにくい。しかしこの投
資と 貯金は、最終的にはほぼ同じ働きをするのである。
われわれが貯金をするとき、それは銀行や郵便局に預けられる。世の中にはタンスや額縁の裏に預けるのが好きな人もいるが、それはこの
際忘 れよう。
われわれがなぜ貯蓄をするのかというと、それは預けるだけでお金が増えて返ってくるからである。タンスの中にお金を預けても、いつの
間に か消えて無くなっているが、銀行や郵便局ならそういうことはまず心配しなくて良い。ではなぜ預金は増えるのだろうか。
実は銀行は、預金者から預かった預金を集めて投資に回すのである。このことについて順番に説明していこう。
一般的に銀行は莫大な預金を預かっており、今の日本では地方銀行でもその総額は1兆円程度、中小の信用金庫でも数百億から数千億円く
らい
預っている。こうした預金は、企業や個人に貸し出される。企業や個人は借りた資金を使って企業活動や住宅の購入などに充て、利子を付けて
返済する。この際、銀行が貸す資金の返済利子は、預金者が銀行に預ける時の利子より高い。銀行の収入の大きな柱はこの二つの利子の差
から 生まれる。
この際、貸したお金が無事に利子が付いて返されないと大損になるので、銀行は貸す相手を慎重に選ぶ。また、貸したお金が返ってくるま
では
銀行にとって貸し出しとは損失でしかない。しっかり審査し、貸しても大丈夫だと判断されれば貸出がなされるが、無事返済されるまでは安心
できない。返済が完了して初めて融資は成功となるのである。
こうした銀行の一連の行為が投資である。つまり投資とはお金を増やすことであり、増える(はずの)ものにお金を使うことである。一般
的に
投資は、今すぐ使う必要のないお金を持っている人や組織なら誰でも行うものである。例えば親が子供にお金をかけるのは、愛情が最も大きい
理由だが、子供が成功すれば老後の面倒を見てもらえるという現実的な理由もあるだろう。その点において投資の一種と考えられる。他に
は農
業も、春に種を播き、多大な労力をかけて育て上げ、秋になって収穫という形で回収される形の投資であり、最初に播いた種と最後に収穫した
収穫物との差が利益となる。
投資は必ずしも順調にいくとは限らない。子育ては時代の影響を受け、農業は天候の影響を受ける。投資とは、日々の努力と情報収集、そ
して 時には運が必要な行為なのである。
最近は株取引を個人で行っている人も増えてきたが、株の売り買いも投資の一種である。株とは正確には「株券」や「株式」といい、企業
が発
行する証書(有価証券)の一種である。企業は活動する資金を得ようとする時に、先述した銀行からの借り入れという手段(間接金融という)
以外に、自前で資金を得る手段(直接金融という)を持っている。直接金融にはさらに2種類の方法がある。一つは株の発行、もう一つは
債券 の発行である。まずは債券の説明からしよう。
債券とは資金が欲しい企業や国などが発行する債務(=借金)の証書のことで、企業が発行するものは特に「社債」という。債券は借金な
ので
利子が付く。利率は固定されているが、確実に付いて返って来る。返済の時期は1年ほどの短期のものから、10年までという長期のものがあ
る。債券を買う、つまり資金を出す方からすれば、長期にわたって返ってこないものにお金を出すのだから、それなりの保証が欲しい。当
然長 期の債券の利子は短期のものより高くなる。
たとえば日本国債に付く利子は、日本国内の債券では最も利率が高く、しかも国が無くならない限り返済されるので人気が高い。しかし無
名の
企業が発行する社債は会社が潰れでもしたらただの紙切れにしかならないので売れ残る可能性が高い。一般的な商品なら売れ残ってもまた次に
売る機会もあるが、社債が売れ残ると言うことは、その分だけ計画した資金が手に入らないことであり、それが原因で会社が傾くと言うこ
とも
ある。当然、無名の会社が債券を発行することなどあり得ない。またこうした会社は将来性が見通せないので、銀行の融資も受けることはでき
ないだろう。
その点、できたての会社でも直接資金を手に入れられる方法が株の発行である。株券は、会社の経営方針に賛成する資金提供者(投資家と
い
う)が、大金を提供する代わりに受けとる証書である。会社からすれば借金みたいなものだが、債券と違うのは付随する権利の存在である。株
券は持っている者が会社の経営に口が出せるのである。
多くの国では、法律で株式会社は株主総会を開かねばならないようになっている。総会では会社の経営者が株主に会社の業績を公表し、翌
年度
の方針を示し、承認を得る必要がある。承認は投票で行われるが、これが普通の会議と異なるのは、一人一票ではなく、一株一票という事だ。
だから、株主Aが株式の51%を持ち、他の全ての株主が残り49%を持っている状況だったら、A以外の全員が反対してもAが賛成すれ
ば、 経営方針は承認されるのである。会社の運命を大きく握っているのが株主なのである。
株主にはまだ特権がある。会社は投資家に対して、利益から必要経費や研究開発費等を除いたものを投資のお礼として返金する。これを配
当と
いう。しかし余り多く配当を出し過ぎると、その分、社員の給料や研究開発費などが削られ、長い目で見れば会社の利益が減ってしまう。経営
陣と株主はトータルで会社のことを考えないと経営できないのである。
会社が好調なら、配当も高くなる。発行当初の株の取引価格は安いから、会社が成長すれば、投資額は少なくても配当が多くなって大きな
利益
を得ることができる。これからも高い配当を得られるなら、当然そんな株式は誰でも欲しいだろう。そんな会社の株式を売れば、高い値で売れ
る。こうして株式が、それ専門の株式市場で売買されて決まるのが株価である。株価は会社の評価が、市場で売買に加わる多くの人によっ
て価 格にダイレクトに反映する。高い評価の会社の株価は高くなり、会社の将来性に疑念が生じれば価格は下がるのである。
一方で会社の業績が悪化して倒産した場合、だれがその責任を負うことになるか。普通、債権者(借金されている側)は会社の残った財産
をす
べて清算、売却し、何としても元金を取り返そうとするだろう。それでも返ってくる額が少ないなら、会社倒産の原因となった経営者の財産を
取り上げたり、経営に責任をもつ株主の財産を取り上げようとするかもしれない。
株式会社ではこうした過度の責任追及は禁止されている。株式会社という形態を認めている国では、どこの国でも商法で株主および経営者
を含
む社員の責任については「有限責任」、つまり株主は出資金つまり株券購入時の資金を失うのみ、そして経営者や社員はその地位(および給
与)を失うのみとされている。会社が倒産することで全財産を失う危険があるなら、誰も出資などしなくなるからである。そうなれば株式
会社
という形態どころか、資本主義社会そのものが危機に陥ってしまう。「会社を倒産させた社長が全財産を失って自殺する」というのは、ドラマ
でよく使われる話だが、少なくとも現代では基本的に無い話なのである。
このように、株式会社は株主総会がある限り、そして株式市場という評価の場がある限り、株主が経営に参加し、監視の目にさらされる。
それ
によって、経営に誤りがあれば正され、承認が得られれば大手を振って前に進むことができるという、非常に合理的なシステムなのである。
17世紀の東インド会社の設立以来、非常に長く続いてきた背景にはこうした長所があったのである。
しかし逆に言えば、株主がきちんと経営に参加しなければ会社の経営は誤った方向に向き、会社そして自分自身が大きな損害をこうむって
しま う。しかし株主総会に参加したとしても、どうやって経営方針の正しさを判断すればよいのだろう。
それは何と言っても公表された各種情報、例えば統計数値を分析することである。株価に関してなら、日本では東証株価指数
(TOPIX)や
日経平均株価、アメリカならニューヨークダウ工業株30種平均株価が株価の動向を知る数値として有名である。他にも消費者物価指数
(CPI)、景気動向に関して中央銀行の経済報告、政府の貿易統計、鉱工業生産指数、雇用情勢に関する失業率・有効求人倍率統計な
ど、数
多くの統計数値が多くの国や国際機関で毎月、毎年公開されている。これらと経営者の方針や商品情報とを照らし合わすことで、経営方針が正
しいかどうかが検証できるのである。もちろん各種数値をそのまま一目で見て判断できる人間などいないだろう。これを可能にするのが、
統計 学である。
またこうした数値は、正しく取り扱われてこそ効果を発揮できる。経営者がどんな人間か、どのような経営理念や製品開発の方針を持って
いる
か。企業情報の中で、数値と同じくらい重要なのがこうした経営上の方針である。最近ではiPadで有名なアップル社のスティーブ=ジョブ
ス氏の例で有名になったように、カリスマ経営者がトップの場合には、その人物の健康に関する情報さえも公開が要求されるようになって
い る。
もう一つ説明しておく必要があるのが通貨に関するしくみである。通貨はその発明以来、19世紀までは実体貨幣つまり金貨などそれ自体
に価
値がある金属で造られた貨幣が使われ続けてきた。例外は宋王朝以降の中国での紙幣の使用であるが、これは中国と隣国以外に広まることはな
かった。
ところが19世紀になって西ヨーロッパ諸国とアジアとの貿易が急に拡大し、通貨用の金銀が大幅に不足した。19世紀半ばにはアメリカ
や オーストラリアでゴールド=ラッシュもあったが、それでも通貨としての金は不足した。
また金は、国を超えた資金の決済に使うには、金属であるがために重くかさばる。またそれ自体に価値があるため、輸送途中での盗難の危
険な
どにも注意する必要がある。つまり金は、多額の支払いをする手段としては使いにくいものなののである。こうしたことから、西ヨーロッパ諸
国では、国家が保持している金を元にして、いつでも交換できる保証をした紙幣(兌換紙幣)を発行するようになる。これが金本位制であ
る。
最初の例は1816年、イギリスがナポレオン戦争の終結に伴う経済混乱を収拾するために発行したソヴリン金貨と、それに対応した1ポ
ンド 紙幣の発行であった。
このシステムには大きな利点がある。それは貿易などの外国との経済取引を「自動的に」安定させる効果があるのである。具体的には図の
通
り、「取り引きの決済に伴って金が移動する」という単純なルールだけで貿易黒字国が赤字になり、赤字国が黒字になる。そして国際競争力が
強い国が弱くなり、その逆も「自動的に」起こるのである。これは「神の見えざる手」の一部と考えられ、自由主義の考え方に見事に則し
てい たのである。
しかし一方では、この特徴が問題を引き起こすこともある。それは紙幣の保有者が金と交換できない状況に陥る場合、例えば戦争などで国
家が
大量の金を消費して、外国に流出する時などである。こうした時には紙幣価値は減って当然先行きが不安になって銀行に交換に押し寄せるか
ら、放置すればシステムはたちまち崩壊してしまう。そうなれば、その時点で戦争自体も不利になってしまう。従って戦時には金本位制は
停止 され、紙幣の適切な管理のみを行う管理通貨体制に移行するのが普通であった。
現在多くの国で採られているこの管理通貨体制は、兌換紙幣など使っていないため金の保有量に縛られず、はるかに柔軟で経済変動にも対
応し
やすいのだが、そのためには、金本位制以上に経済状況を知るために、詳しく調査をし時には指示を出す必要がある。しかし19世紀のような
自由主義全盛の時代には、こうした政府の口出しは抵抗が大きすぎて不可能だった。このように、金本位制は自由主義こそが万能と考えら
れて いた当時としては最高の制度であり、管理通貨体制は非常時のみの体制であって必要悪と考えられていたのである。
分かりにくかったかもしれないが、金本位制という制度が、欠点はあるものの当時としては最高の通貨体制と考えられていたことはわかる
だろ うか。しかしその欠点こそがこの後、世界に致命傷を与えるのである。
ところでインフレーションについて触れたので、その反対の現象であるデフレーションにも触れておこう。経済の実態に比べて通貨が多く
発行
されすぎて起こるのがインフレーションなら、逆に少なすぎて起こるのがデフレーションである。通貨発行量が少なすぎる、つまり通貨の発行
元である銀行が発行量を少なくし、融資や投資を手控えると、客には通貨が回って来にくくなり、手に入っても少なめになる。手に入りに
くい
のは自分だけではないので、販売価格も下げざるを得ない。従来と同じ価格では売り上げが減るのは目に見えているからである。それも難しけ
れば、最後の手段として、販売する商品の単体の量を多めにするという手しかない(当社比○○%増!)。実質的な値下げである。
こうしてデフレーションの下では結果として物価は下がるが、逆に通貨の側から見れば、価値が上がるということになる。例えば、100
円の
アイスクリームが食べたいのに2人分のお金の合計が100円しかない。となればその100円でアイス1個を買って分けるしかない。不満は
残るが、アイスが食べられただけましだ。このような場合の100円はいつもの100円の倍の価値がある。これが貨幣価値の増大という
意味 である。
しかし、2人分のお金が少ない原因が、小遣いが減らされたのなら事態は深刻だ。アイスクリーム以外にも、出費を減らして欲しいものを
厳選
しなくてはならない。これは店からすればお客が減ることになる。お客の小遣いが減る例が増えれば、品揃えも低価格の物を増やさざるを得な
い。そうなるとたとえたくさん売れても、売上げ総額も利益も減ってしまう。となれば店の家の子どもの小遣いも減らさなければならな
い。
こうして収入の減少→売上の減少→不況→会社倒産や賃下げ、と言う現象が起こるのがデフレーションの特徴である。しかもこうした現象
は何
回転も連続し「負の連鎖」となるのである。この連鎖を「デフレ・スパイラル」と呼ぶ。スパイラルとは螺旋形のことであり、有効な対策を施
さない限り、どんどん深みにはまっていく、怖ろしい現象なのである。
この後説明する世界大恐慌とは、金本位制を中心とする19世紀以来の経済システムが機能不全に陥り、世界が初めて本格的なデフレー
ション
に陥った事件だった。そしてそれは、従来の世界をすっかり変えてしまうような変化をもたらした。では、この大事件について、詳しい経過を
見ていこう。
話は「永遠の繁栄」期のアメリカに戻る。アメリカ経済の好調は1929年の6月頃まで続いた。しかしその頃にはすでに異変の兆候があ
ちこ ちで生じていた。
まずは農業である。アメリカの農業生産は1870年代の冷凍船の発明や機械化の進展でヨーロッパ向けの販売が大きく発展したが、それ
も
1920年代になると生産過剰気味になっていた。しかし大戦の復興景気に沸くヨーロッパ向けの輸出は全体的には好調だったので、すぐには
表面化しなかった。しかしヨーロッパ諸国の農業が復興して価格競争が始まると農産物価格は急速に下落し、1928年には農業恐慌と呼
ばれ る事態となった。アメリカ国民の懐は、まずはその分だけ厳しくなっていたのである。
また、工業生産の方も1929年の6月頃にはピークに達し、それ以後はゆるやかに下がり始めた。こうなるとソ連の承認をアメリカ合衆
国が 頑として拒否し続け、ロシア市場が失われたままであったことが産業界にとっては痛かった。
現代人の目から見れば、こうした客観的なデータからは山ほど不安な要素が見られるのだが、当時の経済界はまだ大戦以来の好景気の余韻
が
残っており、農業の不振も工業生産の落ち込みも軽視された。株式市場は1920年代を通じて上がり続け、「市場最高値を更新」という言葉
はもはやニュースにならないほどだった。つまりアメリカ経済は、経済の実態が株価に反映しないしくみができあがっていたのである。こ
うし
たアンバランスは経済のどこかに歪みを生じさせるものであり、一部にはそれを指摘する声もあったのだが、「永遠の繁栄」に浮かれた人々の
耳には届かなかったのである。
そうした時代の恩恵を得て巨万の富を築いた人物の一人に、有名なケネディ大統領の父、アイルランド系移民二世のジョゼフ=ケネディが
い
た。彼はこの後襲い来る危機をうまく乗り切ったので有名である。1929年になって間もない頃、たまたま彼はニューヨークの街角で、ある
貧しい身なりの靴磨きの少年に靴を磨いてもらった。その時その少年は、いつものような世間話でなく、良い銘柄の株を教えて欲しいと彼
に話
を持ちかけてきたのである。それが気になった彼は、不安になって、すぐに全ての株を手放したという。本来、株の世界とは無縁であるはずの
少年までがその気になっていると言うことで、株式市況が異常だと感じたのである。ジョゼフの予感は的中する。
すでにこの頃には景気はピークに近づいていたのだが、人びとは永遠の繁栄がまだ続くと信じていた。新聞やラジオは、20年代初期の頃
は冷
静で、好景気に対しても客観的な態度をとっていたのだが、繁栄は次第に彼らの神経を蝕んでいった。20年代末期になると、株式市場のルー
ルが未整備なことを良いことに、インサイダー取引や、カラ売りといった手法が横行していた。メディア関係者の中には、インサイダー情
報を
提供してもらってこうした不公正な取引きに手を染めていた人間も大勢いたのである。彼らからすれば、「違法でない行為をやって何が悪いの
だ」ということになるのだ。
こうした取り引きが横行すると内部の人間だけが有利となり、一般投資家が不利となるから、結果として一般人は取引に失敗して排除さ
れ、株
式市場の信用が失われてしまう。このため今ではこうした行為は基本的に禁止されている。現代の株取引が公平で公正なのが原則となっている
のは、世界恐慌に対する反省から来ているのである。
しかし、こうした不公正な取り引きが横行していたものの、それでも取引総額は年々うなぎ登りに上昇していた。株式市場に流れ込む資金
も、
初めは株取引を専門とする人々の資金が集まるだけだったのが、次第にそれ以外の人々の資金も集まるようになった。好況が続いて手持ち資金
に余裕ができた人が増え、より良い投資先(つまり本業以外の良い金儲け先)が求められていたのである。現在の中国での株ブームと同じ
であ る。
1920年代末になると、本国より良い利率に引きつけられた外国人投資家や、銀行より良い利率に惹かれた貧しい庶民の資金までが集
まって
きた。この結果、ドイツ経済がおかしくなり始めた。せっかくシュトレーゼマン改革の成功以来好調で堅実だったドイツ経済に向かうべき資金
が、手っとり早く儲かるアメリカ株式に振り向けられるようになったからである。
このように1920年代後半の株式市場は、1720年代のイギリス(南海泡沫事件の前)や1999年のアメリカ市場(ITバブル発生
期)
と同様、実体経済に基づかない欲にまみれた投機資金によって市場の暴落が防がれていたのである。株式市場は本来なら企業の業績の成績表と
なるはずである。企業は業績を公正に公表し、投資家はそれに基づいて公正に取引する。結果として好調な企業の株式は高く評価されて株
価は
上がり、そうでない企業は株価が下がる。企業は株価を上げるために懸命に努力し、それが経済全体を健全に保ち、発展が続くという仕組みで
ある。投機は、こうした正常な動きを阻害するたのである。しかしいくら投機資金が下支えをしても、それには限界があった。破局は突然
訪れ た。
1929年10月24日10時25分、当時世界最大の自動車メーカーであったゼネラルモーターズの株価がほんの少し、わずか80セン
トだ
け下落した。まるでこれが合図だったかのように、以後の株式相場は売り一色となった。後に「暗黒の木曜日」と呼ばれた悲劇の日だった。
この日の内に、株券の形で巨額の資産を持っていた人たちの何人かが、すっかり財産を失って悲観して自らの命を絶った。急きょ世界屈指
の大
富豪モルガン財閥を始め、何人かの資産家が極秘で会合を持ち、翌日には大規模な株価の買い支えが行なわれた。実はこの手法は、1907年
にあった大暴落の時に行われて効果を発揮したやり方であり、この日はこれで株価の下落が止まり、関係者はホッと胸をなで下ろした。
しかし翌週になってニューヨーク株式市場の大暴落が全国の新聞に書き立てられると、もうこの手法は通用しなかった。月曜日と水曜日の
二回
にわたって大暴落が起き、下落が始まってから一週間で、当時の国家予算の10年分にあたる300億ドル(約3兆円)という巨額の資金が株
式市場から消えた。株価の平均は1929年9月3日に最高値を記録していたが、1932年になるまで下がり続けた。その時の価格は最
高値 の十分の一でしかなかった。
ただし株価の大暴落が起こったからと言ってそれが即「世界恐慌」になったわけではない。それは不自然な経済状況が正常に戻る過程が急
すぎ
ただけであり、その時に起きる悲劇的な現象であった。この後に株式市場関係者や政府、経済界や産業界が適切に対応していれば、その後の本
当の悲劇は防げたのかも知れなかったのである。
フーバー大統領は一連の大混乱を、当時の経済学の正統派の理論に従って分析し、悲劇的だが歴史上しばしば起こる仕方のない現象だと正
しく
捉えていた。後の評判と違って、彼はアメリカ最高の学府の一つスタンフォード大学卒の非常に優秀な人物であり、彼のブレーンたちもやはり
粒ぞろいだった。
当時は、市場は万能であり、政府の介入は可能な限り避けねばならないというのが常識であり、彼はそれに従って辛抱強く我慢した。さら
には
大統領の責任を最大限に勤めるために「間もなく景気は回復する」「むしろ今が株は買い時なくらいだ」と国民を安心させ続けたのである。こ
こまでの対応は、完璧に教科書通りの対応だった。
しかし事態は、政府が傍観する間に深刻化の度合を深めていった。失業者は街にあふれ、大暴落前には数%だった失業率が10%を越える
よう
になった。企業倒産は相次ぎ、銀行は次々と閉鎖に追い込まれた。関係者の間にも、どうも今回は勝手が違うぞという疑念が生まれ始めてい
た。
やむなく政府としても何らかの手を打たねばならなくなり、しばらく前から農家を苦しめていた農業恐慌への対応もあって、輸入品に保護
関税
をかけて企業や農家を少しでも救おうとした。当時は保護貿易政策に対しては、相手国が対抗して関税をかけるのが普通だったから、アメリカ
の輸出品に対しても高関税が掛けられる。高関税が掛かるとなれば、当然相手の国では商売にならない。つまり保護関税を設定すること
は、ま るでわざと壁を作って貿易相手を追い返すような効果となるのである。これを貿易障壁という。
こうした障壁は、アメリカが小さな国であるなら許されたかも知れない。しかし1930年頃のアメリカは世界最大の工業国であり、れっ
きと
した経済大国であった。そんな国が他国との貿易を遮断する方向で動いたのである。世界貿易に悪影響を与えるのは当然だった。そしてそれは
巡りめぐってアメリカ自身の経済に悪影響を与えることになるのである。
また、先述したようにアメリカ政府は国内の銀行の連鎖倒産を放置した。普通の経済情勢の中でなら、不良な企業が倒産することは、たと
え銀
行とはいえ仕方がないことである。しかし1929年の状況で銀行が連鎖倒産すると言う事態は、決して放置してはいけないのだった。銀行は
ただの企業ではない。経済の血液である貨幣・資金を直接取り扱いコントロールする特殊な存在なのである。銀行の連鎖倒産を放置すると
言う
ことは、人間で言えば心臓の停止を放置するのと一緒なのである。脳がまだ大丈夫だから心臓は多少止まっていても良いと考えるようなものな
のである。
こうした一連の政策は、いくら国内情勢のためと言え、大国としては無責任すぎた。今のアメリカなら政治家の多くがそう考えるだろう。
しか
し1930年のアメリカはそうではなかったのである。すなわち当時のアメリカは、すでにイギリス以上の経済大国になっていながら、大統領
を頂点として政治家やマスコミ、経済界などの国のリーダーたちが、世界一の経済大国としての責任というものについて無自覚な、まだ成
長し
きっていない幼い国であることを露呈していたのである。それは経済力や軍事力だけでは表わしきれない、国の真の力なのだった。さらにそれ
は、この時期大英帝国が、末期を迎えた自らの苦境を顧みずに世界経済に対応しようとした態度とは好対照であった。
ともあれ、アメリカは貿易障壁を設けてしまった。他の国は、対抗上同じような障壁を作らなければ不利となる。これ以後対米貿易の不振
を引 き金に、破産する企業が各国で続出した。ただ、それでもまだこれは世界恐慌の本番ではなかった。
それは1931年、海の向こうで始まった。5月にオーストリアの大銀行が破綻した。この破綻がきっかけとなって、ここから多額の資金
を借
りていた東欧諸国の輸出入も資金不足でストップしてしまう。となれば、こうした国々と深いつながりの深いドイツの銀行が危なくなる。こう
した情報が流れる中、実際に月末にドイツの大銀行が一つ破産に追い込まれてしまった。不安はまたたく間にドイツ経済界に広がり、各所
でパ ニックが起き、2ヶ月後にはドイツの全銀行が業務停止に追い込まれてしまった。
この頃にはアメリカで起こったことが世界中に知れ渡っていた。そして世界貿易が崩壊に瀕していることも、対処する方法を誰も知らない
こと
も知られていた。何かが起これば自分の財産がアメリカ人と同じように灰燼となると恐れられた。不安が不安を呼び、不信感が人々を支配し
た。パニックはグローバリゼーションの波に乗って、あっという間に国境を越えていった。
ともかく財産を守らねばならない。金本位制の時代、最後に頼りになるのは何と言っても金(ゴールド)である。多くの人が手持ちの資産
を金
に変えようとして銀行に押し寄せ、金は国の金庫から流出し始め、金本位制はまたたく間に危機に瀕した。イギリスが最初に停止を発表する
と、フランスやアメリカなどの国々はすぐに金本位制を停止し、事態に対応しようとした。
こうした最中、よりによって1930年に金本位制を実施したのが日本である。というのも、日本は1920年代になって始まった経済改
革に
関する長年の議論がちょうどこの頃ようやく決着が付いたからであった。しかしこの時期の日本の行為は「嵐の中で雨戸を開ける」愚策であっ
た。金を求める世界中の資本家の動きは日本に集中し、日本政府の保有していた金はあっという間に流出したのである。
しかもこの頃には日本にも世界恐慌の影響も及んできており、全ての施策が後手に回り、不況を解決できない政府への不満は国民の中に次
第に
大きくなっていった。この後日本では、この年締結されたロンドン海軍軍縮条約に反対し、不況の解決を軍事行動で解決しようと主張する軍部
への支持が強まっていく。こうした状況もあって、1930年に浜口首相が狙撃される事件が起こっても同情する声は決して大きくなかっ
たの である。
こうして各国は、なし崩し的に管理通貨体制に移行したが、どの国も経済への介入には及び腰であり、しかも管理するための手段も整って
いな
かった。結局は高い金利を設定して金の流出を防ぐだけで、景気が落ち着くのを待つだけだったのである。フーバー大統領もできる限りの安定
策を行おうとした。特に、深刻なドイツ経済を救うために第一次世界大戦の戦債の支払いを一年間英仏に対して猶予するフーバー・モラト
リア ムを発令したが、一年経っても状況に変化はなかった。全体的に金額が小さすぎ、対応が遅すぎたのである。
大不況の黒い雲、いや巨大な積乱雲が世界を覆い始めていた。少しでも売上と活動資金を得ようとして全米の企業が値下げ、賃下げ競争に
走っ
た。銀行の多くが機能を停止したから、企業とすれば活動資金を手に入れ、手元に残すにはそうするしかなかったのである。不毛な競争が不況
を悪化させるのは誰にも分かっていたが、会社がつぶれるのを防ぐにはそれしかなかった。高関税策の下では輸出に頼るなど考えるだけム
ダ
だったから、国内で目の前の客と取り引きするしかなかったのである。この恐ろしいデフレーション、最近では1990年代に日本人が経験し
たものをアメリカ人は、そして世界は1930年代に経験したのである。世界貿易には急ブレーキが掛かり、1933年の取引は大暴落前
の三 分の一にまで減少した。
もちろん全ての人が手をこまねいていたわけではない。事態を解決するために、各国は対応を手探りした。ここからはそれらを見ていこ
う。