世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇自由主義の勝利

■ヨーロッパに近代化をもたらしたもの

これまでは革命の嵐が吹き荒れた1848年とその前後のヨーロッパの状況をみてきたが、この章を始めるにあたっては、そうした「近代化」と呼ばれる現象が 各国でおこってくる背景となった状況について述べていこう。それがないと、なぜ各国は近代化を 急いだのか、なぜ統一国家を作ろうとしたのか、いまいちピンと来ないだろう。

まずはイギリスの存在感というものを理解する必要がある。当時イギリスはヨーロッパ各国の政争に表向きは関わらず、慎重に背後で動 き、た とえ自国の利益が多少損なわれようが、どんな勢力も大勢力にさせないように動いた。「勢力均衡」という政策である。これはイギリスが経済 的に弱体であった時代から国際社会で生き残るための知恵であり、強大になってからも最小限の費用で最大限の効果を生み出すという、最 上の 方法であった。

七年戦争(とフレンチ-インディアン戦争・プラッシーの戦い)で勝利したイギリスは、かつてのオランダに代わって世界貿易の主導権を 握る ようになり、その経済力は他を圧倒していた。アンシャン=レジーム末期にそのイギリスに敗れて政治・経済・軍事全ての面で瀕死の状態で あったフランスでは、大革命によって根本的な改革がなし遂げられ、事態を明確に理解していたナポレオンによって強力な国家として復活 し た。しかしそのナポレオンさえ打ち破ったイギリスは、この時期史上最大の繁栄期を迎えたのであった。

近代の権化ナポレオンを破ったのは、小ピット首相や海軍のネルソン提督といった優れた個人の活躍だけではなかった。何と言っても大戦 争を 支え続けたイギリスの近代的な経済・金融・軍事システムの威力だった。そのイギリスのやり方を取り入れ、改良したフランス革命政府とナポ レオン帝政、そしてナポレオンに押しつけられたフランス型の近代国家を経験した各国は、いずれもそれを実感するようになった。近代化 すな わち合理主義に基づく国家の変革こそ、これからを生き残る道である、と。それは階級社会の解体であり、産業の近代化であり、鉄道や運河の 敷設であり、金融制度の改変である。それは貧富の差を生み出し社会問題を発生させ、労働運動や社会主義をも生みはするが、国家は強力 にな りイギリスやフランスへの隷属化をはねのけることができる。

ウィーン体制期のヨーロッパでは、いかにしてこの近代化を旧体制に組み込むか、つまり体制を変えずにいかに近代的な手段を取り入れる かが 焦点となったのである。しかし各国で試行錯誤がなされたが、1848年に起こった諸革命によって、両者の融合や穏やかな移行は困難である ことが明確になっていくのである。そしてこうした試行錯誤は、この後アジアでも同じような試みがなされ、やはり失敗していくのであ る。

この19世紀半ばという時期は、人類の歴史における大きな転換期でもあった。20世紀に向けての巨大な変化がこの時期にいくつかの始 点を 持っているのである。それは大英帝国の絶頂期であり、その衰退の始まりの時期でもあった。列強と呼ばれ、今日では先進国と呼ばれる国々が その顔ぶれを表すのもこの頃である。このあと20世紀半ばまで世界中を席巻する人種差別主義もこの時期にその姿を現わしている。20 世紀 に世界を大きく変える科学技術上の発明が、その最大の負の側面である大量殺戮兵器と共に現れたのもこの頃だった。それでは、これらの現象 を一つづつ見ていこう。

■イギリスの絶頂期 ーー ヴィクトリア時代

イギリスの内政面での栄光は1832年に始まる。第一次選挙法改正によって成立した議会は、自由至上主義者の巣窟となった。アダム= スミ スの市場万能主義を信奉する議員たちは、次々と古くさい規制にかみつき、コブデンやブライトと言った政治家が、資本家団体からの多額の資 金援助を得て反穀物法同盟を結成し、労働者たちにもパンを安くすると訴えかけて1846年に穀物法を撤廃に追い込んだ。同様な経緯で 1849年に航海法も撤廃された。しかも、安い穀物の流入はイギリス農業を崩壊させると思われたのに、実際には危機感に駆られた大地 主ら が積極的に農業改革を行ったことで危機を乗り切ることに成功し、かえってイギリス農業は以前より強力になったのだった。これは規制緩和す なわち、自由主義の効用の成果とされている。

こうして19世紀中頃に、イギリス経済は空前の繁栄期を迎える。この時代を代表する人物がヴィクトリア女王であった。これまでイギリ スで は女王が君臨する時代は繁栄するというジンクスがあった(ただしメアリ1世は忘れよう)。ヴィクトリアは期待通りの存在となったのであ る。彼女は多くの子どもを産み、その娘たちはヨーロッパ各国の王室に嫁いでいき、その孫は皇帝になったり王妃になったりした。彼女自 身も 1877年にインド帝国の皇帝となっている。彼女は「ヨーロッパの祖母」として19世紀後半のヨーロッパの安定、すなわち大英帝国の繁栄 を側面から支えたのである。

イギリスの繁栄をこの時代最も物語るものが万国博覧会だろう。その国の産物を一堂に集めて披露する普通の博覧会を発展させ、多くの国 が参 加してその時代を代表する製品や手段を展覧し、人類の進歩を示すものとして催されたこの博覧会は、同時にそれを開催する国の発展の度合を 表すものとなった。1851年のロンドン万国博覧会は大英帝国の発展とその国力を表すものとなり、会場となったクリスタル・パレス (水晶 宮と訳される)は、ガラスと鉄骨のみで作られた、プレハブ建築の元祖と言われている。

イギリスではさらに、着々とイギリスを追撃してくるアメリカおよびドイツ産業界に対抗するためもあって、労働者の質の向上が図られる こと になり、1870年には普通教育法が成立し、13歳までの義務教育制度が始まった。また産業の発達にともなう労働者の増大と労働運動の活 発化で、労働者の支持を獲得することが政権の運営に重要となったため1867年の第2回選挙法改正では都市の労働者までが選挙権を得 るこ とになり、1871年には労働組合法が作られ、組合活動が合法化された。これは、繁栄の分け前を求める労働者たちに対して産業界が応えて いった結果であったが、一方ではそうすることで社会の安定化を図り、続発していた大英帝国を揺るがす事件に対応するためであった。

というのも、この時期世界経済は大きな曲がり角を迎えるのである。1873年に起こった経済恐慌をきっかけに、以後1890年代初め まで 約20年,世界中でほぼ一貫して物価の下落が続く。ドイツとアメリカにおける工業生産の急増(イギリスは1870年代にアメリカ、つづい てドイツに工業生産額を追い抜かれてしまう)と、輸送コストの下落(スエズ運河の開通や冷凍船の発明)による穀物価格の下落という世 界的 な産業構造の変化がその原因であった。この結果、ヨーロッパ経済をデフレーションが襲い、企業や銀行の倒産が相次ぐ。各国ともこの史上初 の事態を乗り切るために様々な政治経済上の試行錯誤を行うようになる。

大英帝国ではこの危機を、内政の安定と軍事行動で乗り切っていこうとした。この時期、より一層の自由主義改革を目指す勢力が自由党 で、彼 らは財政を切り詰めてイギリス本国の植民地への関与を可能な限り減らそうとした。彼らは当時重要な政治問題であったアイルランド自治に賛 成し、植民地に対しても自治権を拡大する方針をとった。特にグラッドストン党首の時代が有名である。これに対して、積極的に財政を拡 大し 植民地への関与や植民地を増やすことで増収をはかろうとしたのが保守党である。彼らはアイルランド自治には反対で、主な支持者である大地 主(貴族)の利害を守るため、保護関税の維持に熱心だった。党首ディズレーリの時代にこうした政策が顕著である。この二大政党は19 世紀 後半の危機を、互いに節度を保って交代しながら難局を乗り切り、大英帝国の繁栄を守った。この時代はイギリスの政党政治の黄金期と呼ばれ る。

文化の面でもヴィクトリア時代は黄金期で、特に絵画や文学はイギリス文化の歴史における最盛期の一つと言われている。絵画ではター ナーな どの風景画、ロセッティらのラファエル前派、モダンデザインの父と言われる天才ウィリアム=モリスなどを輩出し、ディケンズの小説やエリ オットの詩は今でも愛されている。またこの時期には地下鉄がロンドンに開設され、白熱電球がロンドンの夜を照らすようになった。

しかしヴィクトリア時代は一方で矛盾に満ちた時代でもあった。大英帝国の最盛期という時代を背景に、イギリス人は自信を持ち、威儀や 節度 の洗練が声高に叫ばれる一方では売春や児童虐待、堕胎や捨て子が横行し、ロンドンの街には夜ともなると多数の娼婦が街中に立ち、昼間は紳 士の見本、家庭の良き父であったジェントルマンたちが彼女らの良い客となった。有名な切り裂きジャック連続殺人事件はそうした状況を 背景 にしている。

■フランス第二帝政

フランスでは1848年の二月革命後は混乱が続いた。七月王政はブルジョワと社会主義者が手を組んで倒したが、その後の第二共和政の 初の 選挙で社会主義者が思わぬ敗北を喫すると、焦った彼らは六月暴動を起こした。これはブルジョワ側の軍によって鎮圧されたが、そのしこりは 残り、国民、特にパリの下層階級に大きな政府不信を生んだ。以後、労働者がブルジョワと手を結ぶことは二度となくなり、階級の分裂が 広 がっていく。

そんな中、選挙で勝利したブルジョワ派と地方代表のカトリック派は手を組み、国民生活の安定よりも体制維持を優先し、多数の国民から 不満 をもたれていた。

そんな中、選ばれた大統領ルイ=ナポレオンは、当初こそ政治経験の無さから政界で孤立した。しかしそのため、かえって誰にも警戒され ず、 各地で精力的に巧みな演説を行い、次第に国民の不満を自分の支持につなげることに成功した。

1851年にはボナパルト家に対する伝統的な支持者の多い軍隊を動かして国会を解散し、国民投票でその支持を確認した。そして翌年に は叔 父同様に、もう一度国民投票を行って皇帝ナポレオン三世として即位する。第二帝政の始まりである。

ナポレオン三世は、こうした力の政治を行う一方で、国民の支持を取り付けることを忘れなかった。その手法は、まず産業界に対しては 個々に 巧みにすり寄って保護政策を実行する。農民に対しては大ナポレオンのイメージを保つパフォーマンスを示し、労働者/社会主義者に対しては (自分がその集団の出身であったから)理解があることを示し続ければ良かった。このように彼は、本来利害が対立する集団のいずれにも 良い 顔をし続けたのである。しかしこのバランスは、いったん何かのきっかけで利害の対立が表面化し、どこかの勢力の肩を持たねばならなくなっ たとたんに崩れてしまう。第二帝政はそんな不安定な面を持っていた。

そのためナポレオン三世は、その地位を守るため、独裁者がしばしば行う解決策を採ったのである。すなわち対外戦争である。戦争は国民 の目 を外にそらし、勝利は支持率を上げて地位を確かなものにしてくれる。おまけに対外戦争で植民地を増やすことは、フランス製品の市場を広げ ることにも繋がり、景気を良くして失業者を減らしてくれる。この時期行われた対外戦争は、フランスだけでなくどの国にとっても政治の 安定 策であり、経済政策の一貫であった。三世にとっては特に、必ず勝利する必要があったから、慎重に相手を選ぶ必要があった。彼が行う戦争 は、必ず勝てる見込みのある戦争だった。そしてその際、叔父の失敗の轍を踏まないためにも、イギリスとの協調関係を保つことを忘れな かっ た。

1853年のクリミア戦争に1856年のアロー号戦争(両方ともイギリスと共同)、1858年インドシナ出兵、1859年はイタリア 統一 戦争への援軍を行う。こうした出兵では常にナポレオン三世の側の勝利に終わり、そのたびにフランスに栄光が輝き、帝国領と産業市場は広 がった。

彼が初めてつまずいたのがメキシコ出兵(1861~67年)だった。メキシコは当時アメリカとの領土紛争(1836年テキサス独立、 1848年米墨戦争)に苦しんでおり、財政破綻寸前だったことから、借金をしていたイギリス・フランス・スペインに借金返済の一旦停 止を 持ちかけた。イギリスとスペインとは話合いで問題を解決したが、ナポレオン3世はフランス産業界にせっつかれて軍事力で解決しようとし た。メキシコを植民地体制に組み入れようとしたのである。彼は当初、3万の兵を送って首都を制圧するなどメキシコ側を圧倒すると、メ キシ コ国内の親フランス派の協力もあって新国家を建国しようとし、知り合いのオーストリア皇太子マクシミリアンを担ぎだして皇帝とし、メキシ コ帝国を建国したのである。こんな時、モンロー主義を盾に真っ先に文句を言ってきそうな隣のアメリカは、当時は南北戦争の最中 (1861 年~65年)だったので、何か言われても手出しをされる危険はなかった。ここまでは順風満帆、失敗することなど考えられなかったのであ る。

ところがゲリラ戦で対抗するメキシコ人の抵抗は思いのほか激しく、結局フランス軍の駐留はズルズルと長引いてしまう。その間に南北戦 争が 終了すると、案の定アメリカが口を挟んで来て、メキシコに軍事援助をし始めた。さらに足下のヨーロッパの方でも火が付きだして、プロイセ ンが1866年にマクシミリアンの母国オーストリアとの普墺戦争で勝ってしまい、メキシコどころではなくなった。三世はあせったが、 何と か外交工作によってドイツ統一だけは遅らせた。しかしもはや一刻も早くメキシコから手を引く必要があった。

そこで三世はマクシミリアンに対して、もう潮時だから帰ろうと誘ったのだが、帝位に固執したマクシミリアンは断固として断ってしま う。や むなくフランス軍は彼を見捨てるが、その後事態は最悪の結果となり、メキシコ側はマクシミリアンも捕え、銃殺してしまう。

こうしてメキシコ出兵は、莫大な戦費を使いながら無駄におわり、不敗伝説にも傷が付いてしまった。また、ナポレオン三世のせいで皇太 弟が 殺されたと言うことでオーストリアを敵に回してしまう。彼は、偉大なる叔父がかつて言った「生まれつきの君主は20度敗れてもまだ国に帰 ることができる。だが戦いを通して権力の座に登った私には一度とて破れればそれがかなわないのだ」という言葉を噛みしめなくてはなら な かったのである。

■イタリアの統一

イタリアも1848年の革命時には、北部で自由主義的なサルデーニャ王国軍がイタリア統一戦争を宣言し、中部ローマ市でもマッツィー ニが 革命組織青年イタリアを使ってローマ共和国を建国するなど、一時は自由主義側が勝利を収めるかに見えた。しかし結局は軍事力によって、 オーストリアが鎮圧してしまう。マッツィーニは海外に亡命し、それが彼の政治生命の終わりとなった。その後のイタリアでは、48年革 命へ の失望感からサルデーニャの新王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を中心とする立憲王政派が勢力を増していった。

サルデーニャではそのヴィットーリオ王が首相にカヴールを起用する。彼は現実主義者で、国王の期待に応えて次々と適切な手を打って いっ た。彼が進めた政策は産業の近代化、そして軍の強化であり、そのためにイギリスやフランスと自由貿易協定を結び、鉄道網を引いた。こうし た政策は国内の資本家の支持を得、議会工作も成功して、サルデーニャは彼を中心に動くようになっていった。

それでも統一のためには力が足りないと判断した彼は、イギリス・フランスの支持を得ようとする。1853年から始まるクリミア戦争は 絶好 のチャンスとなり、サルデーニャは戦争が長引き、両軍が膠着状態に陥っていたまさに絶妙な瞬間に、絶好のタイミングで参戦し、英仏側に勝 利をもたらした。両国からは感謝の印として統一の支持を得、サルデーニャは統一戦争(イタリア語でリソルジメントという)を準備す る。

慎重な彼はさらに念押しをするため、直前に極秘にナポレオン三世とプロンビエールの密約を結んでいた。これは援助の証として事後にサ ヴォ イヤ・ニースの2県をフランスに譲るというものである。サヴォイヤはヴィットーリオ王の生家サヴォイヤ王家の発祥の地であり、ニースから は多くの革命家が統一戦争に参加していた。相談を受けたヴィットーリオ王もこれには悩んだが、代案はなかったため、結局は承認するし かな かった。

こうした下ごしらえを経て、イタリア統一戦争は1859年に始まり、サルデーニャ・フランス連合軍は破竹の勢いでオーストリアを追い 払 い、北イタリアを征服する。ところがその後フランス軍は戦線から離脱し、単独で和解してしまった。皆がいぶかしがる中、サルデーニャ軍は 単独で中部イタリアまで領土を広げたが、直後にナポレオン三世は約束の履行を要求してきた。よりによってこんな時に、と思いながら、 カ ヴールは密約に従って2県のフランスへの割譲を公表する。しかしこの事で、統一軍に加わっていた多くの義勇兵が裏取引の事を知ったため、 怒って脱退してしまった。

この時離脱した軍人の一人にニース出身のガリバルディが居た。彼はイタリア統一戦争に参加するまでに、すでに南米で多くの革命戦争に 参加 して軍人として名声を得ていた人物だったが、カヴールの「裏切り」は、彼を独自の行動に走らせる。彼は、自分なりのやり方で統一戦争を進 めようとし、南イタリアでサルデーニャ軍に呼応して反乱が起きると、すぐさま千人の同志を集めた義勇兵(千人隊または赤シャツ隊と呼 ばれ た)を率いてシチリア島を解放した。赤シャツ隊は、勢いを駆って両シチリア王国の首都ナポリを占領した頃には、2万5千人もの大軍になっ ていた。彼らはその後サルデーニャ軍と共同で南イタリア全土を解放した。イタリア統一はもう目の前に迫っていた。

しかしこの時問題になったのが英雄ガリバルディの地位だった。出身地を売られたことで、彼はカヴールに強い不信感を持っていたし、配 下は もちろんイタリア中に熱烈な支持者がいたから、この時もし彼が征服地南イタリアに新政府を作るつもりならそれも可能だっただろう。しかし それではイタリアは分裂したままとなる。一方で彼は王個人には好意を持っていたし、イタリアを愛する心は誰にも負けないつもりだっ た。ま た彼の支配下の南イタリアで起こっていた農民反乱の対処には手を焼いていた。実はガリバルディは行き詰まっていたのだが、それを知ってい る者はそう多くはなかった。

1860年10月ナポリ近郊でガリバルディと王の会談が行われた。多くの人がその行動をハラハラしながら見守る中、ガリバルディは 黙って 下馬し、王に握手すると全軍に向かって「諸君!ここにイタリア王がおられる!」と叫んだ。それが答えだった。そして翌日には「陛下、あな たに従います」とだけ言って、征服した土地を全て王に献上し、司令官の地位も辞任してその代償をいっさい求めなかった(こうした無私 無欲 の態度から、イタリアでも明治の日本でも非常に人気が高かった)。こうして1861年イタリア王国は成立する。イタリア統一がなった瞬間 だった。しかしそうした栄光の中にカヴールはいなかった。彼は首相としての激務で憔悴した中、マラリアにかかってしまい、統一の喜び に湧 く中、一人病の床に伏していたのである。そしてイタリア統一宣言のわずか3ヶ月後、統一の最大の立役者は亡くなった。

ただ、この時も完全な統一は出来てはいなかった。現在の首都ローマは当時ローマ教皇が頑固に統一に反対しており、ヨーロッパ中のカト リッ ク信徒も教皇が一王国の支配下に置かれることを良いと思っていなかった。カトリックの信徒が多いフランスでもイタリアによるローマ占拠は 反対が多く、世論に敏感なナポレオン三世は教皇の求めで軍を送ってローマを警護し、イタリア軍を寄せ付けなかった。また、北イタリア でも ヴェネツィアや南ティロル地方以東はまだオーストリアが支配していた。

ヴェネツィアが「回収」されるのは5年後の普墺戦争の時で、ローマが回収されるのは普仏戦争の時で,いずれもイタリアはプロイセンと 同盟 している。それでもイタリアはまだ南ティロルとイストリア半島などが回収されずに残ってしまった。こうした「未回収のイタリア」はこの後 もオーストリアとの領土紛争として20世紀まで残っていく。

なお、ガリバルディはその後アメリカ南北戦争の時に、リンカーン大統領から北軍の司令官として招かれたが、奴隷解放と陸軍の全権委任 を要 求したため断られたようだ。幸い北軍にはその後グラントという有能な人物が現れたのだが、そうでなければ彼に出番があったかも知れない。

■ドイツの統一

ドイツの統一も、1848年の革命では夢に終わった。フランクフルト国民議会はドイツ統一を民主的な手続きでなしとげようとしたが、 それ を実現する実行力に欠けていた。ドイツ周辺の情勢が変わると、とたんに空中分解するようなもろさを持っていたのである。しかし時代は待っ てはくれない。関税同盟の効果もあって、1830年代半ばには産業革命は始まっていた。育ち始めた産業界は、自分たちを守ってくれる 強い 国家を望んでいた。そして国の側も近代産業を求めていた。近代産業こそが国家の豊かさの源であり、ナポレオンのような巨大な存在が再び現 われたときに、国を守ってくれる存在なのである。ドイツ特にプロイセンは、彼らを屈服させたナポレオン、そしてそのナポレオンと互角 に渡 り合ったイギリスから深く学習していたのである。

ドイツ近代化の引き金を直接引いたのはプロイセン国王ヴィルヘルム1世だった。彼はプロイセン王国の近代化、そしてドイツ統一を必要 なこ とと考えており、その実施には何のためらいもなかったが、当時国内では急進改革派が多数を占めていた議会と、事あるごとに対立していた。 そこで王が探し出した切り札がビスマルクだった。

ビスマルクは首相に任命されるとすぐに鉄血政策を実行する。これは彼が就任演説で

「現在の(われわれが抱えている)大問題(=ドイツ統一)は、演説や多数決ではなく、鉄(=大砲)と血(=兵隊)によってこそ解決さ れる のであります」

と言い放ったことから付いたもので、そこから付いたあだ名も「鉄血宰相」であった。その名の通り、彼は軍拡こそがドイツ統一のカギと 考 え、軍事費の大幅増を実現する。そうして軍事力を強化する一方では、それで周囲の国々に警戒されないよう、慎重にロシアとイタリア、そし て肝心のオーストリアとの友好関係を維持した。こうした鉄血政策は、当時プロイセンが抱えていた領土問題の解決のためとされた。

当時ドイツ北部にある、デンマーク人とドイツ人が混在するシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの2州では、デンマーク領のままでいる か、プ ロイセン領となるかを巡って対立が起こり、両国の間で一度戦争になっていた。結局プロイセンはデンマークとの二度目の戦争(デンマーク戦 争)で、オーストリアの援軍を得て勝利した。

ところが戦後まもなくこの2州の帰属を巡ってオーストリア・プロイセンの間で対立が生じた。実はこの対立、そしてデンマークとの二度 目の 戦争自体が彼の壮大な策略の一部であり、いずれ戦うオーストリア軍の状況を把握するためだったのである。つまりオーストリアとの戦争準備 は、直接戦争をするはるか前、デンマーク戦争が始まった時点で完成していたのだった。ビスマルクは戦争が始まるかなり前に、その本当 の目 的を伏せたままオーストリア国境まで何本もの鉄道を敷き終えていた。

1866年何も知らないオーストリアとの普墺戦争が始まった。周囲の予想では、装備や兵力では五分五分だった。しかしプロイセン側に は天 才と呼び名の高い参謀総長モルトケがいた。そしてプロイセン軍は誰もが予想もしていなかった方法で緒戦を制したのである。最新技術である 鉄道と電信を利用し、あっという間にプロイセンの大軍が最前線に現れた。オーストリア軍はすっかり動揺し、そこにビスマルクが心血を 注い で大量に配備していた最新兵器が火を噴いた。戦闘はプロイセン軍の圧倒的優勢のまま進められ、わずか7週間でオーストリアは降伏に追い込 まれてしまう。なお、この時イタリア王国もオーストリアとの国境紛争(「未回収のイタリア」)を理由に参戦し、ヴェネツィアが回収さ れて いる。

ここで、あまりの一方的な結果に驚いたナポレオン3世が戦争に干渉してきた。ビスマルクもこれ以上オーストリアを追いつめるつもりが 無 かったため休戦が成立する。プロイセンは領土をさらに広げ、オーストリアがドイツ統一から排除されることが事実上決まった。プロイセンは ドイツ諸国をまとめ上げてメッテルニヒ以来のドイツ連邦を解体し、新たに北ドイツ連邦を結成してその盟主の座におさまった。

この時やっかいだったのが南ドイツ諸国で、彼らは関税同盟以来の付き合いで、すでに経済的には切っても切れないほど一体化していた が、政 治・文化的に宗教面で共通点があるローマ教皇そしてフランスの影響力が強かった。ナポレオン三世は何としても統一を妨害しようとし、これ に対処するには時間が必要だった。

一方のオーストリアは、ドイツ統一からは閉め出されたものの、もともと関税同盟にも加わっていなかったために、名誉が傷ついた事と戦 争被 害以外ほとんど実損は無かったし、後で触れるフランスの場合のようにプロイセンのやりすぎもなかったため、恨みを抱くこともなかった。む しろオーストリアは、これを機会に国家体制の再編に乗り出していく。オーストリアは独立を強く望んでいたハンガリー人と手を組み、彼 らの 地位を引き上げてドイツ人と同等とし、共同で帝国を運営するように体制を変えたのである。以後のオーストリアはオーストリア=ハンガリー (二重)帝国と呼ばれるようになる。その進路はドナウ川流域を東進し、そしてバルカン半島を南下することである。それはこの地域に深 い関 心を持っていたロシアの進路と重なるが、ウィーン体制期に強い友好関係で結ばれていた経験があったため、これについては楽観的だった。

必然的にオーストリアは今まで以上に多くの民族を抱えるようになるが、すでに多民族国家であったため、少しくらい多めに民族を抱えた とし てもそう大して影響が出ることはないと思っていた。この点、同じく多民族国家の道を歩みながら、出自を問わずに国家を運営しようとした (もちろん実社会での差別はあったが)アメリカ合衆国とは似て非なる体制だった。

■普仏戦争

プロイセンにとってドイツ統一の最後の障害はナポレオン3世だった。フランスは、内紛を抱えていた復古王政や七月王政の頃と違って、 第二 帝政期になってからの強大化は目覚ましく、脅威だった。近代化はドイツの先を行っていたし、アジアでは1857年アロー号戦争で莫大な賠 償と権益を獲得しインドシナ出兵で植民地を獲得し、アフリカにも広大な植民地を築いていたからである。

しかしナポレオン3世にとって、隣国プロイセンがこれ以上強大になることは不安だったから、何かあれば噛みついてくるのは明らかだっ た。 しかし、ドイツ関税同盟の一員の南ドイツ諸国を統一ドイツに組み入れるためには、何としてもナポレオン3世の介入を排除しなければならな かった。それには今しばらく機会を待つ必要があった。

その機会が早くも5年後にやってきた。1870年にスペイン王家が断絶し、で王位継承問題がこじれ、次の国王がなかなか決まらなかっ た。 そんな中、プロイセン王家のある人物が候補に挙がった。しかし、もしこの人物が即位しようものなら、プロイセン王家の国に東西から挟まれ るという、かつてのカール5世のハプスブルク帝国時代の再現となってしまうため、フランスが強く反対し、結局この話は立ち消えになっ た。

ところが、それでも安心できなかったフランス側がヴィルヘルム1世に対して執拗に、永久にスペイン王位に就くことを辞退させようと詰 め 寄ったのである。王はこの失礼な要求に怒ったが、何とかやんわり受け流した。こうした経緯を直後に電報で受けとったビスマルクは、すぐに これを利用することを思いついた。彼はその内容を改ざんしてマスコミに発表し、いかにフランス側が無礼な国かということを強調したの であ る(エムス電報事件)。

マスコミは喜んでこれに飛びついてヒステリックに報道した。互いに不安感を抱えていた両国国民は激しく反発し、即戦争という雰囲気に なっ た。しかしこの時点でプロイセンがすでに戦争準備を終えていたのに対し、フランスは、前年まで行っていた泥沼のようなメキシコ出兵からよ うやく抜け出してきたばかりであり、戦争準備など全く整ってはいなかった。

1870年に始まったこの普仏戦争で、フランス軍はまたたく間に各所で敗れ、ナポレオン三世自身が率いた軍もセダンの戦いで敗れ、や むを えず10万の兵と共に降伏せざるを得なかった。

この結果にフランス人は憤慨し、議会では第二帝政の廃止と共和制(第三共和政)が決議される。パリではプロイセンとの和平を主張する ブル ジョワ中心の臨時政府と、あくまでも戦争継続を主張する労働者/社会主義者中心のパリ=コミューン政府(世界初の社会主義政権)が成立し て、対立するようになる。

一方ビスマルクはいつもの慎重さで、ここらで軍を引き上げようとしたが、モルトケや多くの兵の反対に遭ってしまった。彼らは愛国心か らフ ランスへの復讐を願っていた。ビスマルクはいやな気はしたが、結局彼らの要求を聞き入れて、パリまで軍を進めることになった。

パリではプロイセン軍の支援を得て臨時政府がパリ=コミューンを武力で鎮圧し、多くの労働者が殺害された。プロイセン軍は1871年 の1 月パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の鏡の間、あの太陽王ルイ14世ゆかりの場所で、ヴィルヘルム1世の皇帝即位式を執り行った。ドイツ帝国が 成立し、ドイツ統一がなった瞬間だった。プロイセンの側にとっては最高の時であり、感涙にむせぶ者もいたが、フランス人にとっては屈 辱以 外の何者でもなかった。

翌2月には講和条約が結ばれ、フランスは国境のアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲し、50億フランという巨額の賠償金を支払うこ とに なった。ドイツはこれを資金にして設立間もないドイツ銀行を中心に民間企業を大々的に支援し、重化学工業が発展していく。

しかしフランス人はこの間の屈辱、恨みを忘れはしなかったのである。ドイツは明らかにやりすぎだった。そしてそのしっぺ返しを半世紀 後に くらうのである。

■ドイツ帝国の挑戦 ーー ビスマルク外交の時代

ドイツ統一を果たしたビスマルクはこの年、1871年にドイツ帝国の首相に就任する。ただし統一は成ったが、それはあくまでも政治的 な統 一であり、国としての一体感などはこの時期まだまだ望めるものではなかった。そこで彼は、そのための柱として、ドイツの民族的一体感を強 調することにした(民族主義、愛国心教育)。具体的にはプロイセン流の社会をドイツ中に広めようとすることだった。

その最大の障害となったのがカトリック教会だった。プロテスタントが多数派を占めるドイツでも、ローマ教皇やカトリック教会は、教育 や日 常生活においてまだまだ大きな影響力を持っていた。しかしカトリックの教えには、非民族主義的な要素が濃い。これがドイツのプロイセン 化、すなわち政教分離や国家の権威を高める上での障害となっていたのである。

そこでビスマルクは、教会から教育権を取り上げたり、聖職者の政治批判を禁止するなどの措置を執ってカトリック勢力と対立する路線を 取っ た(これを文化闘争と呼ぶ)。しかし一方でカトリック勢力は、ビスマルクにとってのもう一つの敵である社会主義勢力とは、マルクスが「宗 教はアヘンである」と言った頃から敵対していた。このためドイツ経済が発展して社会主義勢力が強くなるにつれて、ビスマルクはカト リック 勢力の協力が不可欠だった。両者は次第に妥協的になり、対立は下火となっていった。つまり文化闘争は失敗に終わったのである。

ビスマルクのもう一つの内政の柱が、ドイツ経済であった。ドイツの産業革命は1830年代から始まっていた。ドイツの発展がイギリス と異 なっている点が何点かある。まず、工業化の過程において先発のイギリスの経験やその成果を十分に利用できたことにより、非常に早く高いレ ベルに達成できたこと。次に産業革命の主体が、民間資本家より銀行家などの比率が高く、より大規模な投資が可能であったこと。そし て、ベ ルリン大学などを中心に、研究者と産業界が協力して新しい技術を生み出していったことなどである。そして最後に、普仏戦争でフランスから 得た50億フランという巨額の賠償金は、ドイツを一流工業国に押し上げる最後の一押しがとなった。ドイツが導いた工業技術について は、ま た後で述べよう。

こうした要因が重なった結果、1870年頃には新産業が次々に育ち、1880年頃にはついにドイツの工業生産額はイギリスを抜き去っ た。 ビスマルクにとってドイツの産業の育成はほぼ満足のいくものだっただろう。もっともすでに世界一の工業生産国はその少し前にアメリカ合衆 国がその座を奪っていたから喜びも半分ではあったが。

しかし一方で、産業の発展と大不況時代の到来に伴って、労働運動と社会主義が活発化した。社会主義側はこの頃には急進的な革命路線を 信奉 する一派と、それを捨てて穏健で合法的な政権奪取をめざす社会民主主義路線(修正主義)に分裂し、後者が主流となっていた。穏健派の社会 主義政党が大同団結し、ドイツ社会民主党が成立する。ドイツ政府にとってはやっかいな事態であった。

こうした事態に対するためにビスマルクが行った政策が「飴と鞭」とよばれるもので、労働者の懐柔を図るため貧困問題を解決するためと して 社会保険制度を導入しながら、一方で反抗的な社会主義者に対しては社会主義者鎮圧法の制定で弾圧を図る制度をセットで導入したのである。

これによって、ドイツの社会主義運動は政府からは活動を禁止されたが、選挙では得票を増やし続け、1890年にドイツ社会民主党は第 一党 になった。つまり社会主義者鎮圧法は完全に失敗だったが、メンツを守るためだけに維持された。このため、1890年ビスマルクが引退する と同時に廃止される。このように帝国首相としてのビスマルクの内政は失敗も多かったのである。

ビスマルクが大きな功績を残したのは外交面だった。当時最強国家イギリスの関心はアジアに向いており、ヨーロッパで紛争が起きてそれ に巻 き込まれることを恐れていた。そこでイギリスは、ヨーロッパ各国間で突出した国が出てこないように、勢力の均衡が保たれた状態を望ましく 思っていた。このためビスマルクのドイツが統一後どう動くかはイギリス外交部の非常に大きな関心事となっていた。

そのビスマルクは、ドイツの統一を真に実現するため、そしてドイツをさらに強大にするためには、これまでのような鉄血政策、すなわち 軍拡 による戦争は有害と考えて封印し、このイギリスの勢力均衡策に乗っかることにしたのである。ビスマルクとイギリスの関係は、彼が引退する まで、同盟こそ結ばないものの、友好的なものだった。ただし、その皮を一歩めくれば、いずれイギリスを乗り越えようとする野心に満ち あふ れたものであった。

一方で、最大の脅威であるフランスとの関係は冷え切っていた。ビスマルクはフランスを孤立させるため、ヨーロッパの他の強国と強い同 盟関 係を築いた。オーストリアとイタリアとは三国同盟、さらにオーストリアとロシアとは三帝同盟を結んだ。これらはこの時代には珍しく長続き したから、結果としてビスマルクが首相であった1871年から引退する1890年まで、ヨーロッパでは戦争が全く無かった。これは、 1848年の二月革命から1871年の普仏戦争まで、ほぼ5年ごとに戦争が起こっていたのとは大きな違いであった。こうして続いた平 和な 時代はビスマルク外交の賜物であり、この体制をビスマルク体制と呼ぶ。

しかしこの間も、何も紛争がなかったわけではない。オーストリアとイタリアには「未回収のイタリア」という領土問題がくすぶってい た。し かし紛争が起こっても大きくならないうちにビスマルクが動いたため事態はひどくはならなかっただけだった。もっともこうした問題の先送り が、第一次世界大戦でイタリアを敵に回す原因となったのであるが。

1878年にビスマルク体制最大の危機があった。この年、露土戦争が行われ、その結果ロシアがトルコからボスフォラス・ダーダネルス 両海 峡の自由通行権を得た(サン=ステファノ条約)。このことは当時オーストリアとロシアの間で表面化しつつあった対立点バルカン問題を引き 起こすことになった。さらにこれでロシア海軍が地中海に出てくることで、そこにあるイギリスとフランスの基地、および中東権益が危険 にな ることから、良好であったイギリス・ロシア関係が悪化し、イギリスにフランスが接近するという、ビスマルク体制が破綻する様相を示すよう になってきたのである。

このためビスマルクは諸国をドイツに呼んで関係改善の仲介役をつとめる。彼は「公正な仲買人」と称したが、実際の態度はイギリス寄り のも のであり、結局追い詰められたロシアは通行権を放棄せざるを得なかった(ベルリン条約)。このことでロシアにビスマルクへの不信感が生ま れ、関係も冷却して三帝同盟が一旦は崩壊する。

しかしビスマルク体制に代わるものは無かったため、しばらくの冷却期間を経た後、ビスマルクは改めてロシア・オーストリアとの関係を 復活 させる。しかしその関係はぎくしゃくしたものであり、かつてのようには戻ることはなかった。結局、自然解消のような形で三帝同盟は解体 し、改めてドイツはロシアと再保障条約を結ぶことに成功するが、それもまた消極的な友好関係でしかなかった。もうその頃にはビスマル クの 力をもってしても各国の冷めた関係をどうすることもできなかったのである。

■ドイツ皇帝親政を行う……ヴィルヘルム2世の時代

ビスマルクは1890年に引退する。ドイツの内政・外交を引き継いだのは、親政を行った皇帝ヴィルヘルム2世だった。

その頃ドイツの内外情勢には大きな変化が起こっていた。ドイツはすでにビスマルク時代初期のひ弱な資本主義国ではなく、すっかり大き な存 在になっていた。アメリカ合衆国にこそ見劣りするものの、イギリスやフランスを抜いてヨーロッパ最大の工業国家になっていたのである。し かしさらなる発展を考えたとき、1つの問題が前に横たわっていた。

当時は社会主義はもちろん、労働運動も抑圧すべきものと考えられていた。このことが原因で労働者の賃金や待遇(労働時間など)は向上 せ ず、なかなか物が売れにくかった(経済学で「市場が狭い」と表現する)。ビスマルクの「飴と鞭」の飴にはこれを改善する要素もあったがそ れでも限界はあった。他の国でもこれは同様で、イギリスの選挙法改正の効果も、ドイツよりはマシと言うレベルだった。

こうした国内市場の狭さが原因で、どの国も自国の工業の発展のためには商品を買ってくれる(経済学で「購買力がある」と表現する)国 が必 要だった。当時それが可能なのは、ヨーロッパと比較すれば豊かで、購買力のあるアジアやアフリカの植民地しかなかった。もともと植民地と いうものは、ヨーロッパの国にとっては工業原料を供給する場所という位置づけだったのだが、ヨーロッパと比較して豊かな地域が多かっ たこ とから、この時代には市場として期待され始めたのである。

しかしながら、すでに19世紀なかば過ぎまでにアジア・アフリカ地域の主だった地域はほとんどがイギリスとフランスの植民地になって い た。遅れて争いに参加したドイツが領有していた植民地は少なく、その購買力も決して満足できるものではなかった。従って、工業の発展のた めには、場合によっては英仏の植民地を奪うことも考えねばならなかった。これが植民地抗争であり、「世界分割」競争となっていく。

ビスマルクもこうした事態は理解していたが、そこに彼のジレンマがあった。というのも、確かにドイツの発展のためには植民地が必要だ が、 世界分割競争は露土戦争の時のようにビスマルク体制を破綻に導くものだったからである。体制を維持する側のドイツがこうした競争に加わる 事は立場上どうしてもできなかったのである。それにドイツの国力を知り尽くしていた彼からすれば、他国とくにイギリスと対立する事な ど到 底できない事と思われた。従ってイギリスとは宥和的な態度に出ざるを得なくなり、それが若い世代との対立につながっていた。

ドイツの工業は発展し、新世代の資本家たちが育ってきていた。彼らは伸び盛りで自信にあふれ、将来に対して明るいものを持っていた。 そん な彼らからすればビスマルク体制は将来を閉ざすものであり、心配性な老人の臆病風であり、一刻も打破すべき旧体制であった。彼らはビスマ ルク体制のためにドイツだけが不利な立場に置かれていると考えていたのである。

そんな彼らの希望の星は新皇帝ヴィルヘルム2世であり、皇帝も新世代のリーダーとしてこうした新興勢力と協力していく。ビスマルクは それ に反発しつつも、その根本にあるジレンマが理解できるだけに切って捨てられないでいた。

1888年に長年仕えたヴィルヘルム1世が死去したことは、彼の時代が終わったと思えたのかも知れない。2年後の1890年にビスマ ルク は引退する。それは高齢という理由もあったが、こうした路線対立が影を落としていたのである。それは一つの時代の終わりであり、事実上の 失脚であった。

■19世紀 ーー  科学の時代

ここでは先述した科学技術の話をしよう。この時代の科学技術の発展はめざましいものがあった。たとえば、19世紀半ばにはドイツ人の マイ ヤーやヘルムホルツらの研究でエネルギー保存法則が発見され、自然現象の裏にあるエネルギーの概念が確立し、それを利用するエンジンや燃 料の改良につながっていった。

次に、すでに19世紀初期に理論的に成功していた内燃機関(特にガソリンエンジン)を実用化し、自動車を商業ベースに乗せるのに成功 した のがドイツ人のベンツやダイムラーであり、彼らの会社が合併して今の高級車メルセデス・ベンツで有名なダイムラー社となる。

また、1870年代には製鉄法の大きな技術革新(イギリスのベッセマー法やドイツのシーメンス法)があり、鉄鋼生産量が飛躍的に増大 した ことも時代に大きな影響を与えた。鉄骨を使った建築が始まり、セメントの大量生産開始とも相まって鉄筋コンクリートを使った建築が始まる ようになる。先述した第1回万国博覧会の会場となったクリスタルパレス(水晶宮)や、1889年第4回万国博覧会時にフランス革命 100 年を記念して建てられたエッフェル塔も時代を代表する鉄骨建築である。

鉄の生産は軍事部門にも大きな影響を与え、膨大な量の鉄鋼生産能力を得ることが、19世紀末以後の各国の軍拡競争(建艦競争と呼ばれ た) につながってゆく。この時期まで各国海軍の主力艦は、排水量(=船の重さ)1万トンあまりの戦艦だったのが、日露戦争をきっかけに2万ト ンを超える巨大戦艦を競って建造するようになる。

電磁気学もイギリス人ファラデーの電磁場理論を元にさまざまな分野に応用がなされ、モールスの電信、ベルの電話、エジソンの電灯や映 画、 蓄音機の発明につながっていった。特に電信技術は、電話の普及以前には、その技術が比較的簡単であることから、20世紀半ばまでは長距離 の情報伝達手段として最も普及した。

化学工業ではリービッヒがさまざまな化学合成法、特に有機化学の基礎に多大な業績を残し、おかげで化学肥料が発明され、20世紀には 農薬 が生まれることになる。このため現在では人類の宿敵、飢餓を世界から無くすという人類発祥以来の夢が実現に向かっており、数値上はすでに 成功している。

19世紀末に急速に発展したのが原子物理学である。ドイツ人のレントゲンはエックス線を発見し、ポーランド人のキュリー夫妻はラジウ ムな どの放射性物質の研究を行った。彼らの研究からは医療用放射線治療が生まれたりしたが、一方では20世紀に原子爆弾が生まれる元にもなっ た。

医療技術では、フランス人パストゥールやドイツ人のコッホの研究によって細菌学が生まれ、多くの病原菌が発見され、予防接種が普及す るよ うになり、都市の衛生が向上して死亡率が低下する元になった。

他にも、19世紀末には飛行機の基本原理がほぼ完成しており、実際に空を飛ぶことは20世紀に持ち越される(1903年ライト兄弟) が、 これも19世紀の発明と見なして良いだろう。なお、飛行機械という点では飛行船が飛行機に先駆けて19世紀末に実用化されたが、後の 1937年のヒンデンブルグ号の爆発事故以来、危険性が指摘されて利用が下火になった。また、19世紀末にはダイナマイトの発明で莫 大な 財を築いたスウェーデン人ノーベルの遺産を元にしてノーベル賞が設けられている(賞の授与は20世紀に入ってから)。他にも、地味ではあ るが回転式印刷機による大量出版が可能になったことは、新聞や出版物の高速・大量生産を可能にし、人類の知的レベルの向上に大いに貢 献 し、20世紀後半の情報化社会を生み出す元になった。

こうした発明や発見は人類の生活を大きく変えたが、この時代、最も大きな議論を巻き起こしたのは進化論だろう。生物学界ではすでに 18世 紀末頃から、生物は不変の存在ではなく長い時間をかけて少しずつ変化してきているのではないかという説が広まっていた。しかし科学的分析 法など無かったこの時代、化石などの観察から得られた経験的なものであり、理論的に証明するものではなかった。それが19世紀初頭に フラ ンス人ラマルクが初期の進化論を発表し、そしてイギリス人ウォレスとダーウィンが別々に進化論を発見したが、1858年二人は共同で初の 本格的な進化論を発表する。翌年ダーウィンはこの成果を『種の起源』として出版した。

進化論は発表されたとたんに猛烈な批判と反論を浴びることになった。生物学界からは根拠があいまいとして非難され、メンデルの遺伝の 原理 が持ち出されて否定の最大の根拠とされた。皮肉なことに、遺伝の原理は20世紀初頭になって突然変異の原理が発見されると、一転して進化 論を支持する最大の根拠の一つとなり、生物学界は次第にこれを受け入れていった。

これに対し、何と言っても批判が激しかったのは宗教界からであった。地動説に対する科学界からの批判を何とかやり過ごしてきた宗教界 に とって、「神が6日間で天地と生き物全てを創造した」とする聖書の記述を真っ向から否定するこの理論を見過ごすことはできなかった。宗教 界では現在に至るまでこの進化論と聖書の記述をどう位置づけるかについては議論が続いている。

カトリック教会は、1996年にヨハネパウロ2世が生物学的な進化の結果としての人類の出現は認めるが、魂の出現は神の産物とする見 解を 出している。イスラーム教でも大半は認めている。しかしどちらの宗教でも原理主義的な宗派は進化論を否定している。

政教分離が進んでいた当時のヨーロッパでは、おおむね進化論は受け入れられた。しかしこの「進化」という言葉が原因となってさまざま な誤 解が生まれた。当時は進化イコール進歩であり、生物が進化した最終形態としての人間は最高に進歩した存在と社会に受けとめられた。このた め、ハーバート=スペンサーなどが唱えた社会進化論は、ダーウィン進化論の「適者生存」という考えがより肥大し、列強による帝国主義 や植 民地化を正当化する理論になっていった。つまり最も強力なヨーロッパ勢力(=白人)は世界に最も適合した最も優れた人種であり、弱体なア ジア・アフリカ勢力(=有色人種)は劣った民族である。あわれな劣等民族は滅びても仕方ないものであり、彼らを優れた民族が管理する こと は慈悲深い行為である、と。

また、ダーウィンのいとこのゴルトンなどは、民族の衰退を防ぐためには人為的に劣った要素(=障害や少数民族)を取り除くべきだとい う優 生学を主張した。これらはいずれも20世紀にナチズムやファシズム、そして人種差別思想が世界を席巻する素地を作り出した。

こうした負の面を含めて、19世紀の工業技術の進展にはめざましいものがあった。このため19世紀は「科学の世紀」と呼ばれることが あ る。そして19世紀は、科学研究の中心が、イギリス・フランスからドイツ・アメリカに移った時代でもあった。

■ロシア帝国の膨張

ロシアは1848年のヨーロッパ全土を覆った革命にも、本国はほとんど影響を受けずにいたが、属国ポーランドでは自治権拡大運動が起 こっ た。皇帝ニコライ1世はこれを容赦なく弾圧した。メッテルニヒ時代からの友好国オーストリアで起こったハンガリー人の自治権回復運動で も、ニコライ1世はオーストリア政府の要請で大軍を送って鎮圧に協力している。この時期ロシアは「ヨーロッパの憲兵」と自称し、自由 主義 を抑圧して回ったのである。このため一旦は盛り上がった「諸国民の春」もすっかり沈静化してしまう。

ウィーン体制の立役者メッテルニヒこそ失脚してしまったが、その後もオーストリアとロシアは共同で自由主義や近代化に対する盾となろ うと した。しかし各国が次々と近代化を進めていったため、両国の近代化の遅れは国際的な地位の低下をもたらしてしまうのであるが、ロシアも オーストリアも気づくのは遅れた。

こうした一方で、ロシアはエカチェリーナ2世時代以来の南下政策をひたすら推し進めた。それはロシアの領土を南方へ、そして東方へと 広げ ることになり、広がるたびにロシアは豊かになり、強力になるように思われたのである。

ところが、1853年にオスマン帝国とのクリミア戦争が起こると、以前からオーストリアとの間でくすぶっていたバルカン半島の覇権争 いが 蒸しかえされることになった。これはオーストリアにとってはロシアの後ろ盾を失うことになり、ドイツ統一問題でプロイセンに主導権を奪わ れることにつながっていく。

クリミア戦争の発端はオスマン帝国の弱体化をめぐる混乱であった。オスマン帝国では、19世紀初めにはその力の衰えを自覚して改革が 始 まっていた。しかしそんな中、エジプトの太守ムハンマド=アリーがエジプト独立戦争をおこし、10年余りの戦争の結果、実質的な独立を許 してしまったのである。

この様子を見たバルカン半島では、スラブ人の独立運動が活発化していった。そしてこの独立運動と、国力回復を狙うオスマン帝国の近代 化策 を巡って、スラブ系住民に大きな影響力を持っていた同じスラブ系のロシア帝国と、オスマン朝に友好的で多額の資金を提供していたナポレオ ン三世のフランスとの間で、バルカン半島での利権を巡って激しい対立が起こったのである。

対立は直接的には聖地管理権問題という形で表出したが、それは単なるきっかけだった。

ロシア皇帝ニコライ1世は自信満々で開戦したが、フランスがイギリスと共同でオスマン帝国側に立って参戦してきた。実際に開戦してみ る と、やはりロシア軍は強かった。イギリスやフランスは現地の地勢や気候に対する無知もあって散々な失敗をくり返した。それでも最終的に は、サルデーニャ王国が加勢したこともあってイギリス・フランス・オスマン帝国側が勝ってしまった。

中でも最激戦地となったセヴァストーポリ要塞攻防戦は、ロシア軍が絶大な自信を持っていた地点だけに敗北のショックは大きかった。こ の攻 防戦で目立ったのが、近代化されたイギリス・フランス・サルデーニャ軍の威力であり、ロシア軍の旧態依然たる装備のお粗末さだった。結果 として、220万のロシア軍が、わずか三分の一の四国連合軍に勝てなかったのである。戦後のパリ条約で、ロシアはセヴァストーポリ要 塞を 返還される代わりに黒海に置いていた艦隊を放棄させられ、事実上黒海を手放すことを余儀なくされた。

なお、この戦争を遂行するのに際して、ロシアは多くの外国人に補佐を依頼している。黒海での海戦時の機雷設置を依頼したのがノーベル 家 で、ノーベル賞で有名なアルフレッド=ノーベルは当時の当主の息子である。また、シュリーマンは、戦前からロシア政府と懇意になっていた ことから、軍の武器の購入を斡旋して巨富を得、これを資金にしてトロヤ発掘を行っている。看護婦の鑑として崇められているナイチン ゲール が戦争中敵味方区別無く看病したのも有名。19世紀を代表する文学者トルストイもロシア軍将校として参戦している。

クリミア戦争の敗戦はロシアに改革の機運をもたらした。ちょうど保守派のニコライ1世が戦争中に亡くなり、新たに即位したのが改革派 のア レクサンドル2世だった。彼は保守派の抵抗を排してロシアを改革しようとする。戦争中に表面化した軍備の遅れに対する軍隊内の不満もこれ を後押しした。こうして始まる大改革は、1861年の農奴解放令を初めとして、司法権と行政権の分離、税制改革、初等教育の無償化な どの 教育改革、徴兵制の実施などの軍政改革、そして検閲の緩和等さまざまな分野にわたっている。ただしこれは自由化ではなくあくまでも近代化 にすぎなかった。皇帝自身が「下から起こるよりは上からのほうがよい」という考えだったのである。こうした改革の効果が現われるのは 10 年ほどかかったため、当初はどの階層にも不満が募り、ポーランドで大反乱が起こったときも改革のせいにされた。このため改革は徐々に停止 され、再び統制が強化されていった。

この大改革と時を同じくして知識人(インテリゲンツィア)と呼ばれる貴族や上層階級の子弟らの間で起こったのがナロードニキ運動であ る。 これは当時ロシア文芸界の中心人物ゲルツェンが始めた運動だった。彼は二月革命後のパリの社会主義の敗北を見て西欧流社会主義の将来に幻 滅し、ロシアの農民共同体(ミール)の中に希望を見出した。彼はロシアの若者たちに農民が目覚める行動を起こすよう呼びかけた。彼の 影響 を受けていた多くの上層階級の若者が農民共同体の中にとけ込もうとし、彼らを啓蒙することによって社会主義の理想郷を実現しようとしたの である。彼らはゲルツェンの呼びかけ文の文句「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合言葉としたことからナロードニキと呼ばれた。

しかし中世以来変わらない社会の中にいた農民とナロードニキの間には、越え難い溝があった。ナロードニキの理想を理解できない農民た ちは 彼らを敬遠し、政府からも危険視されて、多くの運動家が逮捕され、運動は分裂し、窒息させられてしまう。追いつめられた活動家の中には、 当時広まっていたニヒリズム(虚無主義)の影響を受けて社会から逃避したり、アナーキズム(無政府主義)の影響を受けて力に訴えてで も社 会を変革しようとするテロリズムに走る者も現わた。

テロリストによって1881年アレクサンドル2世は爆弾を投げつけられて殺されてしまうと、それがきっかけでナロードニキへの大弾圧 が行 われ、残党はほとんどが逮捕されてしまった。しかし、ナロードニキは上層階級の子弟が中心であったから、政府は犯人たちの処置には困っ た。何せ、身内の子弟の犯行だったのである。そこで、真犯人の処刑こそ行われたが、それ以上に大々的に進められたのがユダヤ人への大 弾圧 だった。犯人の中にユダヤ人がたまたま1人だけいたのを誇大に宣伝した結果、民衆の間に「われらの皇帝を殺したユダヤ人に制裁を!」とい う声が上がった。ロシアも含めたヨーロッパ各地に伝わる反ユダヤ主義に火が付いたのである。

ロシア南部のウクライナ地方を中心に、ポグロムと呼ばれる大虐殺がくり広げられた。加えて政府は、ユダヤ人の経済活動を封じ込め、ロ シア 社会に同化(さもなくば根絶)させようとする反ユダヤ法を成立される。当時ロシアにいた500万人ほどのユダヤ人のうち300万人が難を 逃れてアメリカなど海外に移住し、残ったユダヤ人のの多くが虐殺されたという。

この時何とか巧妙に身を隠したユダヤ人は、その後社会主義者としてロシア帝国の打倒に全力を尽くすようになる。このため、後にロシア 革命 を起こしたロシア共産党のメンバーには、驚くほど多くのユダヤ人が参加している。また、ロシア帝国がクリミア戦争後、初めて大きな軍事的 挫折を経験する日露戦争でも、敵となる日本の財政支援に多くのユダヤ人が尽力している。身内の不始末をユダヤ人のせいにしようとした ロシ アは、結局大きなしっぺ返しをうけたのである。

■イギリスとロシアの世界戦争 ーー グレートゲーム

ここで舞台をユーラシア大陸全体に移そう。そこで見えてくるのは、この地球最大の大陸の支配権をめぐる大英帝国とロシア帝国の、一進 一退 を繰り広げる植民地争奪戦であった。これをチェスの試合になぞらえて表現したの「グレートゲーム」という言葉の由来である。

話は1830年代のイギリスに戻る。第1回選挙法改正で議席を得た、そしてアダム=スミスの自由万能主義を信奉するどう猛な議員たち は、 海外の大国にも容赦なくかみついていった。

まずは中華帝国にかみついた。中国とイギリスとの貿易では、東インド会社が議会からの解散圧力によって、インド産のアヘンを密輸出す ると いう禁断の方法で貿易収支を改善していたが、それが清朝によって禁止されると、貿易赤字の元凶が中国側の不公正な貿易態度であり、それを 止めさせることが両国国民の利益になると言う理屈で1840年アヘン戦争が仕掛けられた。この開戦の理屈は、後の首相となるグラッド スト ンも『こんな恥さらしの戦争はない』と政府を非難したくらいひどいものだった。戦争は、イギリス側が突如軍艦を首都北京の外港の天津に派 遣して攻撃すると、清朝はあっさりと屈服して不平等条約である南京条約を結んでしまう。

以後の清朝は、この時の賠償金が原因となって大規模な反乱である太平天国の乱が起き、苦しんでいくことになる。しかし英中貿易はそれ でも 収支が改善しなかったことから、第2次アヘン戦争とも呼ばれるアロー号戦争がイギリスとフランスによって仕掛けられた。しかし戦争の最中 の1857年の5月に突如インド大反乱が起き、影響が心配されたが、清朝の抵抗は弱かったため6月にイギリス・フランス・アメリカ・ ロシ ア四国が参加して天津条約が結ばれた。しかしこの条約が清朝宮廷で批准を拒否されたことから戦争は再び再開され、結局清朝は再び屈服し、 あらためて1860年に北京条約が結ばれた。こうして中華帝国は植民地の道をたどることになってしまったのである。

次は西アジアである。当時、近代国家の樹立を目指すエジプトの支配者ムハンマド=アリーがオスマン帝国に対して独立戦争を仕掛けてい た。 オスマン帝国はこの頃、誰の目にも弱体化しており、かつて中世には敬意と恐れの入り交じった名称であったトルコ帝国が「瀕死の病人」と呼 ばれていた。イギリスは利害が共通するフランスと共にオスマン帝国の支持に回り、第一次エジプト-トルコ戦争ではイギリスはフランス と共 にエジプトの側に付き、オスマン帝国と共闘するロシアの南下政策の阻止に回った。ムハンマド=アリーは勝利し、事実上の3聖地の保護者 (イスラム君主にとって最高の地位)となった。

これにオスマン帝国が反発し、エジプトがフランスを味方に付けて完全独立の動きを強めて第二次エジプト-トルコ戦争を起こすと、イギ リス は今度はオスマン帝国の側に付いてエジプトが突出するのを阻止した。こうした勢力均衡政策によってイギリスは、西アジアにおける不安定状 況を作り出し、この地域で大きな影響力をふるい続ける。

次に南下政策にこだわるロシアが聖地管理権問題を持ち出して1853年にオスマン朝とクリミア戦争を始めると、イギリスは今度はフラ ンス と協同で弱体なオスマン帝国の側に立って参戦し、パリ条約ではロシアの野望であるボスフォラス・ダーダネルス海峡の自由通行を否定した。

その後1861年にアメリカ南北戦争が始まり、南部の綿の輸出が止まると世界的な綿花の高騰が起こり、各国は綿花不足に悩むように なっ た。そこでロシアは綿花の大産地であった中央アジアに進出し、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、そして後にコーカンド=ハン国を次々と制 圧し、防衛権や外交権を奪って保護国にしていった。

こうした動きは、インドを支配しているイギリスにとって、ロシアが中央アジアからインド方面に南下する動きとも思われたため、イギリ スは 焦った。すでにロシアは19世紀初めからイランのカージャール朝の弱体化につけ込み、1828年に不平等条約であるトルコマンチャーイ条 約を結ばせており、着々とイランの植民地化を進めていたからである。これに対してイギリスも、カージャール朝がアフガニスタンを攻撃 した のを契機に逆にカージャール朝を攻撃して同様な不平等条約を結ばせていた。

イギリスはインド大反乱を何とか鎮圧すると、これを幸いと反乱の全責任を負わせて東インド会社を解散に追い込み、ムガル帝国も滅ぼし てイ ンドを直接支配するようになり、1877年にはイギリス領インド帝国を建国した。さらにロシアの南下に対抗するため、先手を打ってアフガ ニスタンに侵攻する。これが1878年から行われた第二次アフガン戦争である。こうしてアフガニスタンはイギリスの保護国となり、ロ シア はこの方面からは南下策がとれなくなった。

しかしこの頃ロシアは別方面で打開策を打っていた。イギリスが大反乱でインドにかかりきりになっているを良い機会として、オスマン帝 国に 戦争を仕掛けていたのである。1878年の(第五次)露土戦争であった。

当時のオスマン朝は、西欧諸国が大不況で混乱しており、オスマン帝国自身も3年前に財政破綻していたため弱かった。敗戦後のサン=ス テ ファノ条約では、これまで何度もイギリスやフランスの後押しで拒否し続けてきた、両海峡の自由通行権がついに認められることになったので ある。ロシア帝国からすれば、ピョートル大帝以来の悲願がかなった瞬間だった。

しかし当然ながら、こうしたロシアの一方的な勝利は、勢力の均衡を破ることになり、手を出せなかった焦りとも相まってイギリスの反発 を買 うことになった。当時バルカン半島への軍事進出をもくろんでいたオーストリア、そしてオスマン帝国やエジプトに多額の債権を持ち利害に敏 感になっていたフランスもイギリスに同調する。こうして、この問題を巡ってヨーロッパが二分される様相を示してきた。

こうした状況は、列強間の勢力均衡を保つことでドイツの発展を図っていた、ドイツ首相ビスマルクが作り上げていたビスマルク体制の破 綻に つながってしまう。急いで彼は諸国をドイツに呼び1848年ベルリン会議を持った。ビスマルクは「誠実な仲買人」と称し、中立の立場から 諸国の利害を調整しようとした。これは実際にはイギリスに近い立場だったため、成立したベルリン条約ではロシアの悲願は否定されてし まっ た。ロシアは涙をのんでバルカン方面での南下をあきらめざるを得なかった。当面は。

以後のロシアは中国方面での南下を狙うことになる。というのも当時それは着々と成功しつつあったのである。すでに1858年アロー戦 争時 の天津条約とは別に国境をめぐってアイグン条約が結ばれ、1860年の北京条約でロシアは、ウスリー江以東の沿海州がロシア領となった。 ここに建設されたの港町がウラジオストク(東方の領地の意味)である。ここは年中氷結することのない、ロシアが獲得した、初めての 「使え る」不凍港であった。ただ、そこはあまりにも首都からは遠すぎた。地球を1/3周(約10000キロ)する必要があったのである。この町 の本格的な利用は見送らざるを得なかった。当面は。

その後ロシアは1878年のベルリン条約によって、当面バルカン方面の南下をあきらめざるを得なくなったため、急遽ウラジオストクの 活用 というアイデアを実用化する必要が出てきたのである。距離が遠すぎるのは、鉄道を引けば何とかなる。すでに1869年にアメリカ合衆国で は3000キロの大陸横断鉄道が完成していた。当時の技術でも不可能ではないと思われた。そしてもし完成すれば、主要交通手段である 海路 でも最低40日(スエズ運河経由だと60日)ほどかかるヨーロッパ~中国間が、わずか2週間ほどで行けるのである。ロシアの東方進出に とってこれほど強い味方はないように思えた。しかし、残念ながらロシアはアメリカ合衆国ではない。建設資金はどう逆立ちしても出てこ な かった。資金を提供してくれそうなのはフランスぐらいだったが、ビスマルクににらまれているうちはフランスと仲良くすることなどできそう もなかった。そう、ビスマルクがいるうちは。ロシアは慎重に待つことにしたのである。高齢のビスマルクが引退する日を。それは 1890年 だった。その日を境に再びグレートゲームが動き出すのである。そしてそれは新たなるプレーヤー日本が注目されるゲームとなったのである。

■アメリカ合衆国の膨脹

アメリカ合衆国の歴史では、独立戦争の時代から南北戦争の時代までを「ジャクソンの時代」と呼ぶ。これは第7代大統領となったアンド リュー=ジャクソンの時代という意味である。ジャクソンは建国13州に属さない辺境の生まれで、両親は幼いときになくなった。当時、 天涯 孤独な者が社会で成功する常道として彼は軍に入り、1812年に起こった米英戦争では英雄となった。そしてその名声でもって政界に入った 彼は、ついに大統領にまで登りつめたのだった。1830年代がジャクソン大統領の時代で、この時代に行われた一連の民主主義拡大の動 きを ジャクソニアンデモクラシーと呼ぶ。

建国以来のアメリカの民主主義は、大土地所有者すなわちまとまった不動産を持っている者だけが参加できる限定的な民主主義だった。 ジャク ソンは、生い立ちもあってそれを変えようとし、一般民衆の大統領というイメージを前面に押し出して、その定着に成功した。そして白人男性 なら誰もが政治に参加できるように政治制度を、時には議会と激しい対立をしながら変えていったのである。また彼はそれを実現する支持 母体 として民主党を結成した。

ジャクソンの支持者は北部の移民や西部の開拓農民といった底辺の人々で、選挙権が広げられたのは彼らの票を獲得するためだった。彼は 支持 者に報いるために、積極的に政府の官僚を支持者に入れ替えていった(猟官制)。何やら情実がらみの行為に思えるが、当時この制度は、官吏 が長い間地位に居座ることによって起こる不正や腐敗を防ぐ方法として歓迎された。民主党は彼の時代に一大勢力になり、現在に至ってい る。

この時期にアメリカ合衆国の歴史にとって重要なことはフロンティアの拡大が始まったことである。すでに1803年に合衆国はナポレオ ン時 代のフランスから広大なミシシッピ川右岸(地図では左/西)のルイジアナを買収し、1840年代にはメキシコとの紛争が頻発する中でアメ リカ・メキシコ(米墨)戦争を起こし、1848年にカリフォルニアなどの広大な太平洋沿岸領土が合衆国に加えた。

ところが戦争終結の1ヶ月前にカリフォルニアで金鉱が発見された。このニュースはあっという間に世界中に広まり、アメリカ中はもちろ ん、 ヨーロッパやアジアからも一山あてようとして多くの人々が集まってきた。ゴールド=ラッシュの発生である。カリフォルニアは急激に人口が 増大し、2年後には州への昇格が連邦議会で認められた。しかしこのことが新たな問題を合衆国に引き起こしたのである。黒人奴隷の問題 で あった。

奴隷という存在は、ギリシアローマの昔からいたが、17世紀に黒人奴隷がラテン=アメリカ地域で導入され始めると、北米植民地でも綿 のプ ランテーションの労働者として大量に導入された。ところが18世紀末に人道主義の立場から奴隷廃止運動がヨーロッパで起こり、アメリカで も1808年に奴隷貿易が禁止された(イギリスの翌年)。

しかし奴隷による生産が主であるヴァージニアなどの南部では奴隷の廃止などは非現実的な話だった。しかもこの時期はイギリスの綿工業 の最 盛期であり、良質の綿を生産する南部のプランテーションはイギリス工業界にとっても重要な産地だったのである。結局イギリスでは奴隷制の 完全廃止となったが、アメリカではそうはならなかった。

それでも北部ニューイングランド地方では、奴隷制を廃止しようとする意見が強かった。そこで合衆国では両派の対立を避けるために、妥 協が 成立する。両派の中間点にあるミズーリ州の北限、北緯36度30分を境に、それより北を奴隷制を認めない自由州、それより南を奴隷制を認 める奴隷州としたのである(1820年ミズーリ協定)。これが維持される限り、この問題はアメリカ合衆国にとって政治問題にならない はず だった。

ところが前述した米墨戦争とゴールド=ラッシュがこの問題を表面化してしまった。人口が急増したカリフォルニアは、すぐに辺境地域 (フロ ンティア)から州への昇格条件を満たしてしまった。そしてカリフォルニア州は奴隷制を認めない自由州としたのである。実際奴隷はもともと いなかったし、この時の移住者はほとんど奴隷州以外から来た人たちだったから、当然の話である。しかしカリフォルニアは北緯36度 30分 より南部にあったためミズーリ協定には反する。そしてこれを機会に、奴隷制反対論者がまた活動し始めたのである。両派の対立の中、奴隷 州・自由州の線の引き直しが論議を巻き起こすようになった。

これは単に奴隷問題だけでなく、合衆国に深刻な分裂をもたらす可能性があった。奴隷制維持論者は南部に多かったが、それはほとんど上 層階 級であり、人数としては少数だった。北部は奴隷正反対論者が圧倒的に多数だった。しかし州の代表の数ではほぼ五分五分である。そして当時 のアメリカ合衆国の貿易収支の上では綿花の輸出額は非常に大きかった。一方で北部の工業は、急速に伸びてきてはいるが、アメリカ合衆 国の 屋台骨になりきれてはいなかった。つまり、少数派が全体を支え、多数派は将来有望だがまだ弱いと言うことになる。

北部工業地域と南部プランテーション地域では貿易政策も意見を異にしていた。北部はまだ競争力が弱かったから、政府による保護つまり 関税 を高くする保護貿易主義を主張していた。政党では当時生まれたばかりの共和党の支持基盤だった。一方で南部は綿という世界的な競争力があ る輸出商品を持っていたから、自由貿易を主張していた。政党では民主党の支持基盤だった。

当時は保護貿易主義を採れば、報復措置として関税を高くされてしまう時代だったから、南部にとってはできる限り敵は作らない方が輸出 に有 利だった。そこで合衆国の貿易政策は、建国以来両派の中間点を行ったり来たりしていた。この問題に関しては、はっきりどちらかにすべき、 つまり合衆国を二つに分けてやり直した方がいいという意見が、長年くすぶっていた。建国時の経緯があるため、南北どちらもそうした意 見は 極端だとしていたが、無くすことはできなかったのである。

こうして問題が蒸し返される中、ある小説がこの問題をさらに大きくしてしまった。ストウ夫人が著した『アンクル=トムの小屋』が 1852 年に出版され、悲惨な黒人奴隷の境遇を訴えてベストセラーになり、それまで関心があまりなかった人々にまでこの問題への関心を植え付けた のである。もうこうなれば政治家たちは逃げるわけにはいかなくなった。とりあえず1854年にミズーリ協定は破棄され、カンザス・ネ ブラ スカ法が制定されて奴隷州・自由州の選択は州の住人の意志で決められるようになる。そこで起こるのは、両派の多数派工作である。

おりしも西部では、米墨戦争後の新しい州の設立ラッシュを迎えようとしていた。各地で新州独立準備がなされ、それに伴う政治的な動き が始 まり、各州ではこの問題がどう決着するのか注目されていた。また、大陸横断鉄道の建設も計画されていた。合衆国の西部への大発展が始まろ うとするこの時期、奴隷問題はこの国に複雑な動き、深刻な分裂を生み出す可能性をはらんでいたのである。

分裂が表面化したのが1860年の大統領選挙だった。当時議会ではジャクソン以来の民主党が優勢であったが、南北対立の中、北部支持 派と 南部支持派に分裂し激しい内部対立が続いていた。そんな中、反民主党というだけのホイッグ党は衰退し、反奴隷制の共和党が急速に勢力を伸 ばしていた。大統領選は共和党候補のリンカンと民主党候補の争いになったが、民主党は分裂したまま選挙に突入せざるを得なかった。リ ンカ ンは奴隷制廃止論者として北部では圧勝したが、南部では惨敗だった。しかし民主党の分裂のおかげと、大統領選挙が人口に基づく得票数で決 まるため、北部で勝ったリンカンが当選した。こうして南部奴隷制は廃止されることが明確になり、追いつめられた南部はついに最後の手 に 打って出た。合衆国からの離脱である。

大統領選の翌月から次々と南部の州の離脱が宣言され、翌年1861年にはアメリカ連合国の成立が宣言される。米墨戦争の英雄ジェファ ソ ン=デイビスが大統領となり、南北戦争が始まった。

戦争は当初、北部の方が人口・政府組織そして資源の面で有利なはずで、リンカンも短期で決まると思っていた。しかし、リー将軍など連 邦軍 の主だった有能な司令官の多くが南部軍に加わったことや、奴隷制を守る(=南部の伝統を守る)という明確な理念を共有していたため南軍の 士気は高く、優勢に戦いを進めたために戦争は長期化した。

その後、北部はリンカンが1863年奴隷解放宣言を出し、イギリスやフランスの支持を得て、南部が外国から援助を獲得する道を閉ざす こと に成功する。また、南部を経済的に締め付けるために大陸東岸を海軍によって封鎖し、綿花の輸出をストップさせた。中立を決めていた西部フ ロンティア地域に対しても、1862年にホームステッド法を制定し、開拓農民が土地を取得しやすくしたため、農民の支持ひいては西部 の支 持を得ることになった。この法律によってミシシッピ川以西で5年間公有地を開拓すれば、約25メートル四方が無償でもらえた。それまでは 同じ面積が1坪1ドルで売られていた。

戦争は、次第に工業力に秀でた北部が優勢となり、軍司令官もグラントやシャーマンが起用されてからは勢いが完全に逆転した。そして 1863年のゲティスバーグの戦いで南軍が敗北すると一気に大勢が定まり、1865年4月南部の首都リッチモンドが占領され、リー将 軍も 降伏。事実上南北戦争は終結する。以後北軍は1877年まで南部を軍事占領し、南部「再建(=北部化)」が行われる。そしてアメリカ合衆 国の国策は、工業化優先となることが決まった。

しかし南北戦争は、南部社会に大きなしこりを残した。それはこの終戦の年にリンカン大統領が暗殺されたことでもわかる。次の大統領が 人種 差別主義者であり、政府全体でもこれ以上社会に混乱が起こるのを恐れたこともあって、奴隷制度は廃止されたが、黒人が市民生活を送るため の施策はほとんど何も行われなかった。仕方なく黒人たちは、解放後も元の農園のシェアクロッパー(小作人)として、奴隷時代と大差な い生 活を送ることを余儀なくされた。彼らが真の意味で解放されるのは、100年後の1964年の公民権法成立まで待たねばならない。

リンカン以後の政権は、国民の目を外に向けようとした。おりしも隣国メキシコには南北戦争と同時にフランスがメキシコ出兵を開始して お り、アメリカは反発していた。南北戦争終結によってアメリカはメキシコへの支援を開始し、フランスを撤退に追い込んだ。これは米墨戦争以 来のメキシコとの対立関係を改善する効果ももたらした。

また1867年には、ロシアがクリミア戦争後の近代化改革の財源を確保するため、アラスカの売却を持ちかけてきたので買収している。 そし て南北戦争前から始まっていた大陸横断鉄道は、1869年以後つぎつぎに開通(この年セントラルパシフィック鉄道、80年代に3本完成) し、西部開拓を加速した。多くの移民が開拓者として押し寄せるようになり、次々に未開地フロンティアが占有されていった。こうした農 民 は、開拓に際して生活のために多くの日用品を購入していった。

こうした生活品の購入が18世紀から19世紀にかけて初期の北部の工業界を支えてきたのだが、50年代に始まる大陸横断鉄道の敷設 は、膨 大な鉄資源を必要とし、駅やその周辺の開発による副次的な開発と相まって、アメリカの工業界を大いに刺激した。アメリカの発展は、こうし た移民と開拓者によって支えられていたのである。

こうした結果、1870年代にはアメリカ合衆国の工業生産はついにイギリスを抜き、世界一となった。1877年には南部の再建も終わ り、 南部社会の北部化が完了した。そしてこの事は、ただ単に国が一つにまとまっただけではない結果をもたらした。合衆国は建国以来、州の自治 を可能な限り尊重する方針をとってきたが、南北戦争によって強力な中央政府を持つことができるようになったのである。こうしてアメリ カ合 衆国もヨーロッパのような国民国家的な性格を持つことができたのである。

しかし開拓の加速は、生存可能な土地に住んでいる先住民を追い出すことに繋がっていき、フロンティアの急速な消失をもたらした。80 年代 には開拓の最前線がほぼ可住地に行き渡り、1890年には政府が正式にフロンティアの消滅を宣言する。これはもはや国家が開拓者に与えら れる可住地は存在しないと言うことを意味し、同時に可住地に住んでいた先住民が生存困難な場所(居留地と呼ばれた)に追い込まれたと 言う ことをも意味していた。こうして開拓者を引き付けるものが無くなったこの先、アメリカ合衆国は、どのような方法で国家の発展を図るのか、 政府の手腕が試される時代が来たのである。

■大不況時代

1873年から世界は、一気に不況の時代に突入した。この年は普仏戦争が終わった2年後であり、ドイツ帝国はフランスから莫大な賠償 金を 獲得していた。ドイツはこれを元手に、国の近代化をいっそう推し進め、やがてこれがドイツで第二次産業革命が起こる原因となっていく。

しかしこうしたドイツでの莫大な消費が一段落した73年に、不況が到来した。多くの会社がつぶれたが、それでも当時の人々は、これま でも よく起こった不況の一つだろう、またすぐに回復が始まるだろうと、そう深くは心配はしていなかったのである。

ところがこの見通しは外れた。この不況は73年から5年経っても10年経っても終わらなかったのである。結局終わったと言えるのは 1896年。もう20世紀を目の前にした年であり、何と23年間も続いたのだった。この間、企業の倒産は続き、失業者が町にあふれ、 飢え た人びとが教会の無料食料配布の列に長々と並び、労働組合の怒りの声とそれを取り締まる警官隊や軍隊の怒号が町にあふれた。各国政府は原 因の解明に取り組み、解決策と思われるものを次々と打っていった。

ドイツでの社会主義の広まりや、ビスマルクの飴と鞭の政策、すなわち社会保険の導入と社会主義者鎮圧法もその一環であった。フランス が第 三共和政のもとで左派と右派の激しい対立に苦しんでいたのもこの大不況が背景であり、ヨーロッパ全土で労働運動が最盛期を迎えて第二イン ターナショナルが結成されるのも同じ理由だった。

ビスマルク外交が成功したのも、各国によほど勝ち目がない限り戦争をする余裕がなかった事が背景にあった。また、ドイツやアメリカ合 衆国 が科学技術、特に重化学工業に力を入れ、新産業を起こそうとした理由も同じ背景があった。アメリカ合衆国が、国内のフロンティアが消滅し たとたん、新しいフロンティアを求めねばならなかった理由もそこにあった。そして何より、ヨーロッパ各国がこぞってアジアに進出した 理由 がこれだった。

次章で詳しく述べるが、大不況は近代化の渦中にあったオスマン帝国とエジプトを国家破産に追いやった。インドではムガル帝国がインド 大反 乱の余波で完全に滅んだ。清朝もアヘン戦争と大平天国の乱でその弱体さを露呈していた。アジアの諸帝国は、実力でヨーロッパ諸国に対抗す る力はなく、むしろ新しい時代に対応するために彼らの助けが必要であった。それは日本も同じで、この大不況期に近代化改革をなし遂げ て、 清朝との戦争に勝利していた。

こうした中、破産したエジプトを事実上植民地化し、オスマン帝国やその東隣のイランに多大な利権を獲得し、さらにはインドの諸侯国の 支配 層を味方につけた大英帝国の力はずば抜けていた。彼らの財政・金融上の力は他の諸国を圧倒し、彼らが作り上げたシステムは世界の標準と なった。つまり、イギリスの通貨ポンド、イギリス船を使用した運輸、イギリスの通信網、イングランド銀行を核とした商取引の決済シス テム が世界の標準となり、ドイツやアメリカ、フランスといった強国の政府や企業といえど、そのシステムの上を利用した方が自国のシステムより 安全で確実、安心だった。こうしたシステムの利用料だけでも、イギリスは多大な利益を上げることができ、当然その利用がやり易いのは イギ リス人やイギリスの会社だった。もっともイギリスはイギリス人だけを優遇することはなかったが、その安心感がイギリスのシステムを有利に し、イギリスの利益になっていた。そこには偏狭な愛国心はかけらもなかったのである。

大不況の原因については、ヴィクトリア時代の所で述べたとおり、輸送コストが1870年代から徐々に下がったことがまず挙げられる。 つま り、1869年に大西洋を挟んで西ではアメリカ合衆国で大陸横断鉄道の開通ラッシュが始まり、東のエジプトではスエズ運河が開通した。ま た1870年代半ばに冷凍船の発明と導入が始まり、アルゼンチンやブラジルの安価な食肉が大量に輸出されるようになった。インド洋で もス エズ運河開通をきっかけに、蒸気船による大量輸送時代が始まり、オーストラリアでも1851年の金鉱発見をきっかけに、流刑植民地だった のが現在の資源大国への第一歩となる移民の流入が始まっていた。

こうして経済が急拡大する一方、大土木事業、艦船や列車網の整備、工場の建設等々、資本家たちにはいくらでも資本(資金)は欲しかっ たの だが、必要な資金はなかなか増えなかった。なぜかというと、当時の通貨制度の基本システム「金本位制」に限界があったためである。

金本位制については、次の章「11.第二次世界大戦」の中で触れるのでここでは簡単に、「国が保有する金の数量で貨幣の発行量が決ま る制 度」としておこう。つまり国に金があれば、貨幣がその分発行され、少なくなると発行量が減るのである。19世紀後半はヨーロッパの発展期 であり、各地で工場、運河、鉄道網の整備が進んだ。資本はいくらあっても足りない状態だったのである。ところが金の総量はそうは増え な い。マルサスの『人口論』風に言えば「資本は(需要があれば)幾何級数的に増加するが金は(鉱物資源であるため)算術級数的にしか増加し ない」のである。

どの国でも金の保有総量が相対的に不足していたため、資本(貨幣)は仕事に比べて足りず、やむなく企業は手に入るだけの仕事しかでき ず、 工場の新設も運河も鉄道も計画が遅れ、仕事は不足し、給料は少なめになり、給料を増やそうと思えば労働時間は過密になり、結果として時間 あたりの給料は少なくなる。つまり不況と賃下げ、失業増となっていたのである。これを経済学ではデフレーションという。

大不況が終わるのは1896年である。終わった要因は、まず1886年に南アフリカで金鉱山が発見され(南ア戦争の原因。次章で述べ る)、次に1890年には金を鉱石から大量に抽出する方法が発見され、そして1896年にイギリス連邦カナダで金鉱が発見されてゴー ルド ラッシュが起こった。こうして金が大量に出回り、貨幣の不足が解消されたことがデフレの解決になったのである。
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