世界史,歴史,大学入試,認知心理学
『世界史読本』
◇フランス革命
■アンシャン=レジームという時代
ルイ14世の大御代が終わったとき、すでに時代は18世紀になっていた。彼が親政を開始した頃にあった莫大な王
室の蓄えは、自身が起こした3度の戦争と彼の不用意な発言がまきおこしたスペイン継承戦争によってすっかり消耗しており、それどころか物
価の値上がりと王室費の増大(当時はバロック時代で豪勢なものが良いとされた)、そしてその年の年貢を担保にした借金頼みの風潮が広
まっ
たことから、王室も貴族もすっかり借金漬けになっていたのである。当時のイギリス王ジョージ3世も、同じく膨らんだ借金のために増税に
走ってアメリカ独立戦争を招いたことで非難されているが、王自身は懸命に王室費の出費を削ろうと努力しており、気心が知れた客と会う
時に は普段着とスリッパで出迎えることもあったというほど質素倹約に努めていたのとは大違いであった。
15世の時代は祖父14世が起こした一連の戦争の決着がつけられる時代だった。彼は愛人であるポンパドゥール夫人の助言を受け入れて
外交
を行っていった。すでにヨーロッパ情勢はイギリスとフランス、そしてオーストリアだけが軸ではなく、プロイセン、ロシアという新しい軸が
できていた。こうして巻き起こった一連の戦争は、七年戦争で決着を迎える。そしてこの頃フランスの財政難はもはや何ともしがたいもの
に
なっていた。ただしこれはフランスだけの話ではなく、多少の差はあるがイギリスもオーストリアも、そしてプロイセンとロシアも同様であっ
た。どの国もしばらくは戦争は自重しなければならなかった。
話をフランスに戻すと、経済はそれなりに発展してきていた。イギリスで機械の発明と改良ラッシュが起こって産業革命がおこり始めてい
たの
に対し、フランスはまだそこまでは行ってはいないが、すでにマニュファクチュアが全国的に展開されており、特に北部の工業は先進のイギリ
スやオランダと比べてもそう引けを取らないところにまで発展を遂げていた。できた商品を全国に販売するために必要な交通網(インフ
ラ)も
そう大きな違いはなかった。当時のヨーロッパの一般的な道路は、舗装されておらず雨が降れば泥で足が埋まるほどだったし、橋は丸太をつな
いだようなものばかりだった。それがフランスでは歴代ブルボン王朝の努力で、道路には小石をまいて固める簡易の舗装がなされ、そうし
た整
備が進んだ道路の長さ・率はイギリスよりも良好だったのである。つまり人の周りに関するモノにはそう差がなかったのである。では何が違っ
ていたのか。
それは両国の国民の国に対する意識の差、もしくは将来に対する希望の度合とでも表現するものだろうか。ルイ14世期に顕著なのだが、
フラ
ンスでは長期の戦争や宮廷費の増大に対処するため、特権のばらまきが行われた。それは売位売官とも表現されるが、すでに名前のみになって
いるが歴史的には名誉ある官職や、名前の価値は低いが官職にともなう実収入の多い徴税官まで、売れる物は何でも売られたのである。そ
して
いったんこうした官職とそれに伴う特権を手に入れた人々は、その権限を最大限に使って自らの懐に入れようとした。そしてこうした人々が政
府によって保護される一方、国王に近づけなかった人々に待ち受けたものは容赦のない誅求だった。徴税官は決められた額を国庫に納めさ
えす
れば、実際どれくらいまで徴収できるかは不問にされていた。当然この差が大きければ大きいほど懐に入る額は大きくなるため、税は高率にな
りがちである。また、社会を大きく変えるような発明は、旧来の特権を侵しかねないために組織的に妨害されることとなり、非効率な制度
や組
織が温存されることになる。国王と側近がこうした弊害を除去するには、状況を理解している高官による上からの強力な締めつけが必要であ
る。コルベールが存命中はそれが行われており、表面的には国政をめぐる状況は悪くなかったのだが、彼が亡くなるととたんに何もかもが
悪化 してしまった。
このようにさまざな官吏が自らの特権を活かして蓄財に励んだ結果、官職に就けない国民は高い税、非効率な社会に苦しまねばならなかっ
た。
誰もが安定した収入と国の保護が期待できる官職に就くことを望み、リスクを承知で新しいことに取り組むことをしたがらない社会ができあ
がっていた。世界の最先端に位置する産業とインフラを持ちながら、中世とは違う形ではあるが国家がバラバラにされた社会、そして国民
の間
に漂う閉塞感。こうしたアンバランスと行き場のない鬱屈した雰囲気がフランスを覆っていた。狭い意味でのアンシャン=レジームはこうした
社会なのである。
このような閉塞感に包まれていたフランス社会に、久しぶりにスカッとするニュースが飛び込んできた。フランス同様に財政難に苦しんで
いた
イギリスの植民地いじめが原因で、北米植民地が反乱を起こしたのである。反乱軍はしばらくすると、不遜にも「独立宣言」を出した。イギリ
スの不幸はフランス人にとっては小気味よいものだった。おまけに独立宣言は、北米大陸に住む田舎ものが作ったとはとうてい思えないほ
ど見
事な代物だった。かの地からやってきた著名人ベンジャミン=フランクリンも、魅力的な人柄でパリの宮廷人を魅了した。宮廷の外交部や同じ
一族のスペイン王家は、イギリスに奪われていた領土の奪還や、新興国アメリカとの貿易拡大への期待から、早くから支援を主張した。
あっと
いう間に宮廷に独立側へのシンパ(同調者)が大きな勢力を持つようになり、参戦を求める声が高まった。自由主義貴族として知られていた、
若きラファイエット家の当主(ラファイエット侯として有名)などは、国が態度を決めかねてぐずぐずしている中、いち早く私兵を率いて
独立 軍に参加してしまった。しかし国の財政を預かる者の立場からすれば、国家財政が火の車な中、余計な支出は避けねばならない。
親アメリカ派は、次第に緊縮財政派を圧倒していったが、当時即位したばかりのルイ16世はその性格もあって最後の決断をずるずると引
き延
ばしていた。そんな中、ラファイエット侯も加わったアメリカ軍が独力でイギリス軍を打ち破ったというニュースがヨーロッパ中を駆けめぐっ
た。1777年のサラトガの戦いである。宮廷ではたちまちこの話題一色になり、ルイ16世も雰囲気に乗って独立戦争への支援を決定す
る。
フランスの軍事支援は主に海上で行われ、イギリス海軍の自由な行動を妨害した。弱体化していたフランス海軍はとてもイギリス海軍を打
倒す
るなどできなかったが、それでもそれなりの支援はできたのである。実際、イギリス軍のとどめを刺したヨークタウンの戦いの勝利はフランス
海軍の支援が背景にあった。パリ条約で合衆国は独立を認められ、フランスはイギリスへの復讐を果たすことができた。しかし、独立後の
合衆
国はフランスの思うようにはならなかった。パリ条約ではイギリスから多少の領土を取り返すのには成功したものの、期待していた合衆国との
貿易関係はほぼイギリスに独占されてしまった。完全に外交の失敗であった。
フランスが独立戦争で支援した総額が10億リーブル、これを今の日本に当てはめると(物価や時代が違うため正確ではないが)約35兆
円と
なる。当時フランスは3兆3千億リーブルの負債(約11兆5千億円)を抱えていたが、さらにそれだけが上乗せされたのである。独立戦争の
支援でイギリスにしっぺ返しを食らわすつもりが、結果としては自分の首を絞める結果になってしまったのだった。フランスの財政危機は
こう して一層深まってしまったのである。そして危機は別の面からもやってきた。
パリ条約が結ばれたこの年は、天候が不順な年だった。4月には例年とは違って曇りの日が多く、気温がやけに寒い日が多かった。当時の
フラ
ンス人には理由が分からなかったが、実はアイスランドでラキ山(Lakagigar)が半年以上の間続く大噴火を起こしたのである。この
時の噴火は一回の火山灰やガスの噴出量が他の火山噴火と比べて、けた違いに大きかったらしく、人類史上最大の噴火と考えられている。
噴火がラキ山だけならまだましも、この年は他に、ラキ山よりは規模は小さいながらも日本で3月に青森の岩木山、そして5月には群馬・
長野 県境の浅間山も大噴火を起こした。浅間山の噴火などは3ヶ月に及び、特に7月から8月にかけての大噴火は規模が大きかった。
こうした一連の火山噴火の結果、大気中に噴き上がった噴煙や火山ガスは長期間滞留し、日光を遮って気温の低下を招いたようだ。北半球
全体
に影響は及び、各地で飢饉が発生した。アイスランドでは火口から出た火山灰とガスで牧草や農作物が致命的な被害を受け、人口の五分の一が
餓死したらしい。浅間山でも噴火だけで死者1400人を記録している。
一連の噴火の結果、日本では前年から起こっていた天明の大飢饉が日本史上最大の飢饉に発展し、同時発生した疫病の死者も合わせると死
者
30万人に達する大災害となった。特に東北地方は餓死者が多く、人が人を食うという記録があちこちに残されている。この時米沢藩の藩主上
杉鷹山の措置は見事であった。米沢藩も飢饉の被害は大きかったのだが餓死者が一人も出なかったのである。彼は江戸時代の名君の一人と
して
明治初期に内村鑑三によって著書『代表的日本人』の中で欧米に紹介された。その結果、日本人以上に海外では有名である。アメリカ大統領の
J・F・ケネディやビル=クリントンなどが鷹山を尊敬する人物の一人としている。また、讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったア
ン ケートでも理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。
フランスでもこうした異常気象が頻発したらしく、日本と同じ頃から飢饉が発生していた。しかし財政難に苦しむフランス王家にはこれに
対処
する力はなく、王妃マリー=アントワネットなどは、貴族仲間から寄付金を集めるなどして少しでも国民を救おうとした。ただしオーストリア
から嫁いできた彼女は、気ままに育ったことから当初は宮廷での窮屈な生活を嫌って奔放な振る舞いが目立ち、オーストリア嫌いが多い国
民に
はあまり人気が無かった。このころ王家の倉庫からのパンの放出を請う国民の声に対して「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と
冷たく言い放ったという伝説が生まれたくらいだった(全くの伝説にすぎない)。
国王ルイ16世は、個人的には良き国王でありたいといつも願うような、まじめで優しい人物だった。14世のように意志は強くはなかっ
た
が、それでも政治に無関心でいっさいの実権を愛妾ポンパドゥール夫人やとりまきに任せていた15世よりはよほどましな人物だった。
■王権と貴族の対立
ルイ16世はまじめに15世が放置していた財政問題に取り組んだ。まず彼は財務大臣にテュルゴーを起用する。テュルゴーは王の期待に
応
え、フランス経済を活性化するための最大の問題に取り組んだ。すなわち貴族の特権を縮小して、商工業者の自由を認める自由主義的改革を行
おうとしたのである。このためまず、封建時代からの遺物であるギルドの廃止および穀物取引の自由が宣言される。そして次には最大の難
題で
あった貴族の免税特権の廃止に取りかかった。当時は絶対王政が幅をきかせていた時代。王権神授説は王権が神から授かったものであり、たと
え常識であっても、王が国民のために必要と考えれば改廃できると考えられていた。現代人は神授説を王が私利私欲のために行使しようと
した
と考えがちだが、当時はそれは恥ずべき事と考えられていて、むしろ時代を変える革命思想というべきものと捉えられていたのだった。
これに対して貴族側の反撃が始まった。貴族たちも16世紀以来の物価上昇や貨幣経済の普及による支出増、そしてここ数年の飢饉による
収入
減に苦しんでいた。たとえ善意から来るものであってもルイ16世の特権剥奪政策には我慢ならなかった。さっそく貴族の組織的反抗が始ま
る。しかし貴族も一枚岩ではない。当時流行の啓蒙思想に触発されていて、自由主義と理性に基づく世界の発展を信じる「自由主義」貴族
たち
はルイ16世の政策を支持し、保守的貴族らとは反対の行動に出た。この一派の代表がアメリカで勇名をはせたあのラファイエット侯である。
ヴェルサイユ宮殿を舞台にした二派の対立が続き、数において優勢だった保守貴族は、王権に対する最後の砦であった高等法院の権力を駆
使し
て抵抗した。パリの市民もこの情勢には深い関心を持っており、国王を支持していた。当時都市市民や、地方に住んでいた農民たちは、法制度
上第三身分(平民階級)と呼ばれていた。彼らは人口においては最大であったが、制度上は無権利状態であり、生殺与奪の権利はすべて第
一身 分(僧侶階級)、そして第二身分(貴族階級)に握られていたのである。
ただし堅固に見えた身分制も、よく見れば内部では崩れかけており、僧侶階級と言っても出身が平民であるものは多く、貴族階級と言って
も先 述した売官制で売られた官職を購入してその権限や地位を手に入れた平民出身の貴族(法服貴族という)もかなりいたのである。
実は守旧派貴族の多くはこの法服貴族(つまり平民出身)であり、逆に自由主義貴族は多くが伝統的貴族であった。平民に冷たい態度を
取った のが平民出身だったのである。
法服貴族たちはその団結力と法知識の豊富さからルイ16世側に徹底的に対抗した。テュルゴーらも反撃を行い、事態を収拾できるのは国
王の
大権だけだった。もし14世ならば問答無用で貴族側の抵抗を排除しただろうが、16世は穏和で対立を好まない人物である。彼は迷った挙げ
句、テュルゴーを罷免してしまう。意志薄弱な国王を持ったのがフランス王国の悲劇の始まりだった。
■三部会開催
法服貴族らが勝っても事態は解決しない。16世も後悔の念からか、まだ改革の意志が残っていたためか、新たに財務大臣にネッケル、カ
ロン
ヌ、ブリエンヌと次々と任命するが、いずれも貴族側の抵抗の前に屈服せざるを得なかった。アイスランドで大噴火が起こったのはこの頃であ
り、飢饉がフランスの危機を一層深めていった。
再度国王がネッケルを起用したことで、法服貴族らの怒りが爆発した。彼らはこれ以上国王が抵抗することができないように、最後の手段
を取
ろうとした。1614年以来開催されていなかった三部会の開催である。三部会はフィリップ4世が教皇ボニファティウス8世との抗争の時に
設けられて以来、国王が臣民と話し合う唯一の場であり、最終決定権を持つと考えられていたが、その存在は絶対王政時代には無用の物と
して
忘れ去られていた。それを発掘してきたのが法務に詳しい彼ら法服貴族たちだったのである。これもしばしば起こる歴史の皮肉なのだが、その
まま放置しておけば歴史は変わっただろうに、わざわざ掘り出してきたこの過去の遺物によって彼らは破滅に追いやられてしまうのであ
る。
三部会の開催が公示された。全国各地で三つの身分からそれぞれ代表が選ばれて、パリの郊外のヴェルサイユ宮殿に続々と集結してきた。
全国
どこでも、もちろんパリの市民もこの話題で持ちきりだった。三部会の成り行き次第では、すでに負担の限界に達している税がさらに上げられ
ることになる。となれば、これはさらなる生活必需品の値上がりにつながり、ますます飢え死にする危険度が増すことになってしまう。
三部会は1789年5月5日に開催された。集まった議員は第一身分が291人(定足数300人)、第二身分が285人(同じく300
人)、そして第三身分が578人(同じく600人)。第三身分ではとくにブルジョワ層出身者が多かった。ブルジョワは「有産市民」と
訳さ
れるが、もともと中小商人から出発して、外国貿易や商工業に投資して財をなしていた人々である。彼らの多くは国内や外国の事情に明るく、
その子弟には弁護士や宮廷の官吏になる者も多かった。つまりフランスの産業界をリードしていた人々なのである。三部会の定足数が第三
身分
のみ多いが、実は本来三身分の定員は同数であったのだが、事前に第三身分から激しい抗議があり、国王側が譲歩して第三身分のみ倍の数で招
集したのである。
こうして開催にはこぎつけたものの、会議は議案の審議どころか、まず議員資格の確認作業からして難航した。というのも、第一・第二身
分の
代表たちは、できる限り早く審議を終わらせて採決に持ち込みたいのが本音で、第三身分はそれを分かっていて苦々しく思っていたのである。
三部会では通常、まず議員資格の確認を身分ごとに別々の部屋で行っていた。第三身分は、これを特権身分が利用してなし崩し的に強行採
決に
まで持って行かれることを恐れたのである。彼らは全議員が同じ部屋で資格確認を行い、単純多数決で議決することを要求した。そうすれば数
的に特権身分とは対等になれる。そして当然これは第一身分・第二身分によって拒否される。
三部会はこうして審議に入る前からストップしてしまった。国王側が仲裁に立って何とか取りなそうとしたが、意見の違いはあまりに大き
かっ
た。業を煮やした第三身分は、本来の議場とは別の、全員が集まれるほどの広間を探して別の議会を立ち上げようとした。そうして探し当てた
のが、当時貴族たちの遊戯であったjeu de
paume(テニスや卓球の起源とされる遊戯)のコートであった。新議会は理論家として有名だったシェイエスの提案で国民議会(正式には憲法制定国民議
会)と名付けられた。そして最大の目的であった憲法制定がなされるまでは決してこの議会は解散しないと誓い合ったのである。そこでこ
の誓 約は球戯場(テニスコート)の誓いと呼ばれた。
この行動に対して、特権身分側は怒った。しかしルイ16世のとりなしで残った議員も国民議会に合流することになった。ただし国王のこ
の行 動は、第三身分たちの主張を認めるつもりなのではなく、時間稼ぎをするためだった。
ともかく新しい国民議会で憲法制定および財政問題が議論されることになった。憲法の制定は、国王や貴族らによる恣意的な政治を排除す
るた
めであり、いったん国民議会で決定されたことが後でひっくり返されないようにするためだった。そして国民議会では国王や守旧派貴族の心配
をよそに、憲法制定の準備が始まった。
しかし憲法を制定しても、実際に施行されなければ絵に描いた餅である。そして何よりも国王が承認して初めてこれらは有効になるのだ
が、ル
イ16世は承認するつもりなど全くなかったのである。彼は良き国王ではあろうと常に努力はしていたが、国王の絶対権を制限するような動き
を見過ごすつもりはなかった。国民議会が憲法制定を誓い合ったあの日、ルイ16世は密かに国境近くの軍隊2万人の動員を命じていた。
ただ
しその性格上、本気で血を流す覚悟があったのかどうかは微妙であるが。わざわざ国境近くの軍隊を呼び寄せたのは、パリ近郊の部隊は市民に
似て特権身分に反抗的という評判だったからである。
7月になると相次いで部隊がシャン・ド・マルスの練兵場に終結し始め、展開した部隊が議会を包囲し始めた。しかし平民に人気のあった
ネッ
ケルは楽観的で、第三身分とルイ16世の支持を確信していた。彼は議会においてさらに改革を進めようとしていたが、そんな中の1789年
7月14日、政府は突然彼を解任してしまう。
■大革命始まる
同じ頃、パリでは不安が渦を巻いていた。多くの市民が飢餓線上にいる中、ヴェルサイユの動向は大きな関心を持たれていた。国民議会の
発
足、そして球戯場の誓いと、郊外の王宮での出来事はかなりの早さで市内に伝わっていた。軍の動きも大きな関心を持たれており、市の中心部
で毎日のように行われていた演説会では多くの弁士が危機を訴えていた。
7月14日、ネッケル解任の報せはあっという間にパリ中に伝わり、ある弁士の訴えがきっかけでたちまちデモ隊が組織された。市内では
夜に
なると部隊とデモ隊が衝突する事件が起こりはじめた。死者は1名だけだったが、市内一帯には虐殺事件として伝わった。餓死を目の前にして
いた市民の心に怒りが燃え上がった。誰が言い始めたのかわからないが、あっという間にデモ隊が、武器が貯蔵されているとされていた廃
兵院
(アンヴァリッド)に押し寄せ、多数の武器が市民の手に渡った。しかし弾薬が足りない。弾薬があるのはどこだ、という声が高まる中、どこ
からか「バスティーユだ」という声が上がった。こうして起こったのが有名なバスティーユ牢獄襲撃事件である。後になってみれば、これ
がフ
ランス革命が始まった瞬間だった。7月14日は現在革命記念日と呼ばれてフランスでは国民の祝日となっている(日本ではなぜか「パリ
祭」)。
バスティーユは、古くはパリを外敵から守る要塞だったが、当時はすっかり市街に取り囲まれており、当時は政治犯を収容する監獄として
使わ
れていた。どす黒く、市内を見下ろす陰気なその要塞は、国王政府による圧政の象徴となっていた。牢獄に押し寄せた民衆に対して司令官は弾
薬や武器の引き渡しを拒否し、その結果として八つ裂きにされてしまう。抵抗した兵士たちも同様であった。暴徒と化した市民たちに対し
て、
パリ市長が飛んできたが、彼も市民に嫌われていたため、やはり最後には八つ裂きにされてしまった。こうした犠牲者たちの首を槍の先に刺し
た者たちを先頭に、数万の群衆が国民議会の支持を訴え、ネッケルの復職を要求した。市民たちは勝手に新しい市長を選び、市の紋章(三
色 旗。今のフランス国旗)まで勝手に作ってしまった。
バスティーユ襲撃はすぐにヴェルサイユに報告され、おどろいたルイ16世はただちに軍の市内からの撤退とネッケルの復職を決定する。
そし
てすぐにパリに赴くと、新しい市政委員会の設置と治安維持のための市民軍の設置を行った。しかしこれらはすでに事実上できあがっており、
国王はそれを承認しただけであった。つまりパリの実権は完全に市民たちに握られていたのである。
パリでの出来事はすぐに全国に広まった。しかし情報の流れがうまくいっていないこの時代、情報は途中でさまざまなノイズを拾うことに
な
る。多くの地方ではパリの暴動と共に、貴族の軍隊が攻め寄せてくるかもしれないという話になっていた。そんなことになれば、もうお終い
だ。殺される前に、敵をやっつけろ。ということで、多くの地方で貴族の館が農民に襲撃される事件が相次いだ。当時フランスはあちこち
で集
団ヒステリーが起こっていたのである。錯綜した情報、長年の対立による不信感がその源だった。こうした混乱と恐怖が国土を覆っていたこの
状態を「大恐怖」と呼ぶ。恐怖こそがフランス革命の原動力だった。しかしパリの市民はまだその真の姿を知らない。パリで恐怖が主とな
るの はまだ5年先である。
国王の譲歩は、市民をひとまず落ち着かせることには成功したが、市内や地方の動きは守旧派貴族たちを不安に走らせた。彼らは最後の頼
みの
綱であるルイ16世の周囲に集まった。特に王妃と王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)はルイ16世に厳しい姿勢を取らせようとし、国王
は彼らと市民の圧力の間で正常な判断力を失っていく。一部には、先行きへの不安から外国に脱出する者も出てきていた。
議論が開始されて約2ヶ月後、国民議会では雄弁な市民代表(もと貴族)であったミラボーやラファイエットらの平民と自由主義貴族たち
が
リードして、議論に終止符を打った。自らの収入源である封建的特権を差し出すことにもためらわずに哀れな国民を救おうとする封建的特権の
廃止宣言および人権宣言が、8月に相次いで決議されたのである。
議員たちの多くはこの時、自らの資産の一部を失うことをものともしない高潔な自己犠牲的精神の発露の成果に、感動して涙を流すものが
多数
いたという。こうして封建的特権(特に領主への貢納)は、農民などが買い上げることができるようになった。もし買うことが出来たならば、
農民はもやは貢納に苦しめられることはないのである。ただし買い上げるためには多額の補償金を払う必要があった。現実にこれを払える
者は
ごく一部の資産家だけであり、実際にはほとんど変化はないのである。そしてこれ以後は、補償金を払えない領民からは、伝統ではなく合法的
に堂々と貢納を取り立てられた。買い取られてもそうならなくても、どっちにとっても領主貴族たちに損はなかった。
人権宣言はラファイエット侯が起草した。彼の頭には初めからアメリカ独立戦争時のイメージがあった。これは彼にとって、フランス人に
とっ
てのワシントン、ジェファソンになりたいという望みがかなう長年の夢がかなう絶好の機会だったのである。こうして人権宣言は、アメリカ独
立宣言や合衆国憲法を念頭に作られたのである。身分制もこれと同時に廃止された。
しかし今度もルイ16世はこれらを拒否し、再び軍を呼び寄せる動きを見せた。こうした態度は市民を怒らせた。ただし怒りの対象は、マ
リー=アントワネットや王の側近たちに向けられていた。この段階でも王自身は善良だと思われていて、王はだまされているのだと考えら
れて いたのである。
そんなある日、国民が飢えで苦しむ中、王宮では晩餐会が開かれ、その際に衛兵が三色旗を王の前で踏みにじるという事件が起こった。ほ
んの
一瞬の出来事なのだが、これがすぐにパリ市内に伝わり、怒りに満ちた女性を中心とした市民の大群が再びベルサイユに押し寄せた(ヴェルサ
イユ行進)。
王は市民の要求の前に屈服し、パリの王宮に移ることを承諾した。議員の多くもこれ以後パリで活動することとなり、こうした民衆の動き
を嫌 う貴族らは移動の混乱を利用して外国に逃げていった。国王も議員たちも以後は市民の監視の中で活動をすることになるのである。
議会では憲法制定の作業が始まり、同時に諸法令の策定作業も始まった。そしてフランスは封建制度の名残を払拭し、唯一の中央政府が決
めた
法令が全国で行われる中央集権国家に変貌し始めたのである。このまま行けばフランスはイギリスと同様、いやそれ以上に効率的な近代国家と
なっていくだろう。すべては当時の革命の主体であったブルジョワたちの望み通りだった。このまま騒ぎが収まれば万々歳であっただろ
う。し かしそうはならなかったのである。
革命勃発以来、国王には気が休まるときは少なかった。それに、少しずつ王の周辺から仲間の貴族がいなくなっていき、王宮は寂しくなる
一方
だった。もちろん以前よりは王妃や子供たちと過ごす時間も増え、家族としてはまとまりのあるようになったのは良かったのだが、政務に就い
たときは悩みばかり抱えていた。特に、民衆派を気どりながら密かに国王派にすり寄ってきていたミラボー(借金で首が回らなくなってい
た) が病死してその正体が暴露されてしまい、国王と民衆を取り持つ者がいなくなってからは毎日が針のむしろだった。
そんな中、王妃の愛人であったスウェーデン貴族フェルセン伯爵が一つの打開策を持ってきた。彼をフランス王宮に送り込んできていたス
ウェーデン王のはからいで、一家を国外の、王妃の実家であるオーストリアに脱出させる計画であった。話を聞いて国王一家は大いに乗り
気に なり、計画が実行されることになった。
1791年の6月20日、この頃は憲法制定の作業が佳境に入っていた。フェルセン伯の手引きで夜の闇にまぎれてテュイルリー宮を出発
した
一家は、順調に王妃の兄、神聖ローマ皇帝レオポルド2世の待つドイツ国境に向けて馬車を走らせた。ただし出発時に王妃があまりにも身の回
りの品々を持ち込んだために、重くなりすぎた馬車は予定から大幅に遅れてしまった。ようやく国境付近にたどり着いたものの、あまりの
遅れ
から、待ち合わせをしていた護衛部隊は予定が変わったのかと思って立ち去った後だった。国境の向こうではオーストリア軍と支援のプロイセ
ン軍が待ちかまえていたが、予定では国境を越えるまでは動けなかった。
さすがに様子がおかしいので、情報をつかもうとして国王自ら変装をしてあたりを歩き回ったときに正体がバレてしまった。正体発覚の決
め手
になったのは、つい最近財政赤字を補うために発行したばかりの新札だった。そこには大きくルイ16世の肖像画が描かれていた。フランス人
のほとんどはそれまで国王の顔など見たこともなかったのだが、わざわざ紙幣に肖像を載せたばかりにこの時正体がバレてしまったのであ
る。 おまけに、でき過ぎた話なのだがこの町はヴァレンヌという名だったのである(ヴァレンヌ事件)。
ついでにもう一つでき過ぎた話をしよう。国王一家を救おうとしたフェルセン伯は、その後も救出のために奔走するが全て徒労に終わり、
やが
て王妃も処刑されてしまう。彼は国王一家と別行動をとったことを生涯後悔し、何度も日記にそのことを書いている。「なぜ私はあのとき彼女
のために死ななかったのだろうか。あの6月20日に」と。その後の彼は、民衆を憎むようになり、陰気な性格で貴族仲間からも嫌われる
よう
になった。もともと有能な軍人であったから、スウェーデンに戻ってからは国軍の元帥にまで昇進するが、民衆からはひどく嫌われた。55才
の時にスウェーデン皇太子が事故死した事件の際に、彼が王位を狙って暗殺したという噂が立ち、葬儀の最中に怒った民衆のために撲殺さ
れ、 遺体は全裸で側溝に投げ捨てられたという。それは6月20日だった。
■革命戦争の開始
ヴァレンヌ事件で国王に対する国民の信頼は失墜した。ルイ16世も所詮オーストリア女とおなじ穴のムジナだとわかったのである。事件
後国
王一家はテュイルリー宮に戻ったが、それを見つめる市民の目は冷たかった。ラファイエット侯も、その後の市民との対立から失脚し、翌年に
はオーストリアに亡命してしまう。
国王一家を救おうとして失敗したオーストリアも焦った。兄のレオポルド2世は亡命してきた国王の弟(のちのルイ18世)の熱心な勧め
も
あって、プロイセン王と計って、国境近くのピルニッツ城で、革命政府に対し、事態の推移によってはフランスに対する武力干渉もあり得ると
いう宣言を発した(ピルニッツ宣言)。「国王夫妻に危害を加えれば、パリを全滅させる」という脅しまでつけて。
これは完全に逆効果だった。信じていた国王が実は裏切り者であり、毛嫌いしていた王妃の兄が革命を潰そうとしている。これはかすかに
残っ
ていた王政の継続を望む一派に大きな一撃を与えたのである。市民は怒りにわきかえり、もはや王政の復活は望むべくもなくなった。
事件後まもなくして、ようやく憲法が完成した。フランスはブルジョワの望む通りの立憲君主制国家へと変貌したのだった。しかしもう遅
かっ
た。すでに君主に対する支持は完全に失われていた。またオーストリアの脅しが、革命の成果に対する大きな脅威となって立ちはだかろうとし
ていた。地方から伝わってくる混乱の度合いも激しさを増す一方だった。
憲法が成立したことで、国民議会は役目を終えたと言うことで解散し、新しい議会が新しい議員を選挙で選んで出発することになった。立
法議 会である。
この議会はその名の通り、憲法を元にしてさまざまな法を制定する作業をするための議会であった。選挙法では議員の再選は禁止されてい
たの で、議員は全て新人だった。国民議会の議員は次の議会が開かれるまでは、議会の外で活動をせざるを得なかった。
革命の勃発以来、パリに集まってきていた議員の多くは、似通った意見を持つ者同士が市内のいくつかの場所に集まって活動していた。
ジャコ
バン・クラブはその中でもっとも有名で、ジャコバン修道院を拠点にしていたのでこの名がついていた。高額の会費制のクラブで、会員のほと
んどはブルジョワ層出身の議員たちだった。
このクラブで革命初期にもっとも有力だったのがフィヤン派と呼ばれる党派だった。彼らは自由主義貴族や富裕市民出身者が多く、立憲君
主制
を理想としていた。だが、ヴァレンヌ事件以後は、他の党派、特に共和制を主張するジロンド派(ジロンド県出身者が多かったので付いた名)
との対立が激しくなり拠点をフィヤン修道院に移していたのでこの名がついた。しかしフィヤン派もオーストリアの脅威に対してはジロン
ド派
と同調したので、立法議会では対オーストリア戦争を主張する者が多くなっていった。国王や王党派も開戦には乗り気だった。他の党派がオー
ストリアに勝つことを目的としているのに対して、ルイ16世は初めから勝つ気はなかった。わざと敗戦して、オーストリア軍がパリを占
領し
てくれれば、自分たちが救われる。それこそが国王と貴族たちの開戦目的だった。こうしてさまざまな利害が渦巻く中、対オーストリア宣戦が
圧倒的多数で決議され、ジロンド派の政府によって宣言された。1792年のことである。
開戦後は王党派の思惑通りに推移した。フランス軍はヨーロッパ最大の兵力を持つにもかかわらず、各地で敗れた。司令官層の貴族は全員
がや
る気がなかったわけではなかったが、革命の影響で士官以下の軍人(ほとんど平民出身)が貴族に反感を持っており、素直に命令を聞かなかっ
たのである。もちろんこれも王党派にとっては望ましい状況であった。
オーストリア軍と同盟を組んでいたプロイセン軍がパリに迫っているという情報が伝わると、革命政府は「祖国の危機」を訴えた。議員の
ほと
んどが将来に対して悲観的になる中、驚いたことにこの訴えに応えて多くの義勇兵がフランス中から集まってきたのである。農村でも都市で
も、91年憲法が成立しても自分たちの生活が何も変わらなかったことから、行動なしでは現実を変えることが不可能なことを民衆たちが
悟っ
たからであった。この時マルセイユ出身者の部隊で歌われたのが有名なラ・マルセイエーズである(現在のフランス国歌。ビートルズの名曲
All you need is loveの出だしに使われて有名)。
続々と義勇兵がパリに集結する中、敗戦の報が次々と伝わってきた。プロイセン軍が明日にもパリ近郊に現れるのではないかという噂が流
れる
中の8月10日、国王が外国と通謀して軍事情報を流しているという情報が市内を駆けめぐった。怒りに満ちた群衆が王宮に押し寄せ、再び凄
惨な光景がくり返された(8月10日事件)。王妃の友人などはたまたまその場に居合わせたために群衆に八つ裂きにされ、マリー=アン
トワ ネットは槍先に串刺しになった友人の首を見て卒倒してしまったという。
立法議会ではルイ16世の王権停止が宣言され、91年憲法はたちまち基盤を揺すぶられた。議会では共和政への移行を求める声が高ま
り、早
くも次の憲法を作る準備も始まった。この事件以後、国王一家は薄暗い政治犯用のタンプル塔に幽閉され、完全に犯罪者扱いの身となった。そ
してその後も敗戦の知らせが続いたことから、真犯人を求める群集心理はエスカレートし、9月前半には市内の各所で虐殺がくり返された
(9 月虐殺事件)。
■ヴァルミの勝利
しかし、9月20日になると驚くべき知らせがやって来た。フランス軍が勝利したというのだ。悪天候の中、国境に近いヴァルミの戦いで
初め
てプロイセン軍を撃退したのだった。しかもその中核となったのは貴族が率いたものではなく、ほとんどが下層市民からなる義勇兵中心の革命
軍(または国民軍)と呼ばれるものだった。この知らせにパリ中が沸き立ち、たちまち虐殺騒ぎは収まった。勝利の知らせに意気上がる革
命軍 は、たちまちのうちにオーストリア・プロイセン両軍を国境近くまで押し返していった。
ヴァルミの戦いが終わった直後、この戦いの意味、すなわち下層民中心の軍が貴族の指揮する軍を破ったということを的確に理解していた
もの
がプロイセン軍の中にいた。かの有名な詩人ゲーテである。彼は『対仏陣中記』の中で「この地から、しかも今日から、世界歴史を画する一つ
の新しい時期が開けるのだ。そして諸君は、そこに居合わせたと言うことができるのだ」と書き記している。
おりしもパリでは立法議会の任期が終了し、世界初の男子普通選挙(男性のみであるが、21歳以上なら誰でも財産や身分によらず選挙権
が与 えられる)を経て次の議会、国民公会が開会されたばかりだった。議会は喜びの知らせの中で始まった。
国民公会には、国民議会時代の大物議員が次々と復職を果した。その代表は何と言っても雄弁で注目を浴びていたマクシミリアン=ロベス
ピ
エールである。彼が属していた山岳派(議席が議会の高い所にあった議員が多かったことから付いた名)は議会の有力党派となり、立法議会か
らの有力党派であるジロンド派とは勢力を伯仲させていた。ロベスピエール以外に、マラー、ダントンが山岳派の有力な指導者で、彼らに
はサ ンキュロットと呼ばれる下層市民階級が支持をしていた。
サンキュロットという名は、彼ら下層市民は貴族ら上流階級のファッションであるキュロットを持っていないことからsans(フランス
語で withoutの意味)
-culottoと名付けられていた。サンキュロットたちの動きは、これまでの暴動でも分かるように制御しがたいものとして恐れられ、ロベスピエールら
は、一方では彼らの力を利用しながら、その一方では何とか彼らを政府のコントロールの下に置いてその力を削ごうとしていた。一方で彼
らは 革命軍の主体であり、勝利が続く中で政治的発言力が増していた。
議会にはこれ以外に平原派(または沼沢派)と呼ばれる党派がいた。これは数的には最大で、思想的には両者の中間派であったが、伯仲す
る両
派の間にあって、革命の推移に決定的な役割を果たした。後に革命の過激化を止めたテルミドール事件や、その後の総裁政府の中核に座ったの
がこの派である。
国民公会ではヴァルミーの勝利の熱狂の中で、王政の廃止と共和政(第一共和政)への移行が宣言され、同時にルイ16世の処刑が決定さ
れ
た。当然立憲王政の91年憲法も廃止され、新憲法の作成が始まった。1793年1月、2万人の市民が見守る中、元国王は、市民ルイ=カ
ペーとしてギロチン台の露となった。10月には後を追ってマリー=アントワネットも処刑される。
ルイ16世の処刑はスペインなど絶対王政の国々には大きな衝撃を与えることとなった。また、フランス軍は占領地では率先して社会改革
を実
行し、地主制やギルドが廃止され貴族の土地が没収されるなど、まるで革命が輸出されているかのようだった。イギリスは市民革命自体には好
感を持っていたが、この頃、革命軍が破竹の勢いでベルギーを制圧下に置き、オランダを目指していたことから、ここに多くの資産を持つ
人々
が危機感を覚えるようになった。産業界の激しい抗議と圧力もあって、小ピット率いるトーリー党政府がヨーロッパ各国を説き、反革命軍事同
盟である(第一回)対仏大同盟の結成に成功した。
同盟軍は各地で革命軍をうち破り、再び外国軍がフランス国内に侵入した。革命は再び危機に瀕した。政府は急いで軍の増強を計り、各地
で徴
兵を行った。徴兵隊が若者や成人男性を半ば誘拐するかのように連れ去ろうとした。これに対して、教会の影響力が強く革命に反感をもってい
た西部や南部で反乱が発生した。特に西部のヴァンデ地方の反乱は激しく、一時この一帯は反乱軍の支配下に置かれてしまう。国内の経済
活動
もマヒし、パリでは食糧不足が発生する。こうしてジロンド派政府は内憂外患で苦境に立たされることになった。ついに政府はヴァンデの破壊
を命令し、女性や子どもまでを含む、一帯の住民に対する無差別虐殺を開始する。反乱軍と難民を含む10数万人が殺戮され、大河ロワー
ル川 は真っ赤に血で染まり、河岸や河口付近は死体が満ち溢れたという。
一連の危機に対し、議会では自然発生的に各種委員会が作られる。後世に悪名高い公安委員会もこの時に作られる。これは内閣に代わって
行政
執行権を持つ、革命の絶頂期を支えた組織である。また有名な革命裁判所も作られるが、これは上訴を認めない簡潔にして非常に強力な、しか
し恐るべき凶器ともなる裁判所だった。
革命の危機に対して、国民公会では革命に対する裏切り者「反革命分子」を捜す動きが活発化していた。そしてこれはすぐに公会の主導権
を争 うジロンド派と山岳派の党争に結び付いた。
■ジャコバン独裁と恐怖政治
食料品の値上がりに苦しむ下層市民らは食料の価格統制を要求していたが、ジロンド派はそのような市民の自由を制限する政策要求には一
貫し
て反対し、革命のこれ以上の進行を食い止めようとしていた。こうしたジロンド派の態度に対してサンキュロットたちが怒る。物価高騰がます
ます激しくなり、市内のあちこちで、あちらの商人が便乗値上げをしているとかこちらでは食料を隠しているとかの噂が流れ、店や倉庫が
襲わ れる事件が相次いだ。
1793年6月にはとうとう怒れる多数の民衆によって国民公会が包囲される事態となり、その要求でジロンド派が議会から追放され、
ジャコ
バンクラブからも追い出された。山岳派はこうした民衆の動きに同調し、平原派もこれを黙認する。しかし逃亡したジロンド派議員の巻き返し
で、あちこちでジロンド派による蜂起が起こり、内戦に発展していった。7月には山岳派のリーダーの一人マラーが王党派によって暗殺さ
れる
という事件も起き、いっそう危機感が増す結果となった。国民公会では、ロベスピエールやダントンらが中心となって事態の打開を計るため、
新憲法の成立が急がれた。こうして1793年8月に制定されたのがいわゆるジャコバン憲法である。しかしこの憲法は革命が危機の中に
ある という理由ですぐに停止されてしまう。
山岳派は革命を守るためのさまざまな対策が打ち出していった。食料価格の統制(最高価格令)が打ち出され、農民に対しては領主権の無
償廃
止つまり土地の無償配分が決定される。しかしこうした措置はパリ以外ではほとんど無視された。そこで、こうした措置に対する抵抗を排除す
るために、さらに外国軍をうち破るため徴兵制が実施される。この結果新たに40万人の新兵が供給されるようになり、革命軍は一挙に増
強さ
れた。12月には一連の改革を実現するために公安委員会が強化され、治安維持を担当する保安委員会と共に絶大な権限が与えられた。もはや
独裁体制と言っても間違いはない。いわゆるジャコバン独裁体制が成立したのである。
ただしロベスピエールはこの体制の頂点に立ってはいたが、その地位はまだまだ不安定だった。山岳派内部からも平原派からも独裁体制は
批判
されていた。また、地方のジロンド派の勢力にも侮りがたいものがあった。しかし何よりお膝元のパリのサンキュロットこそが、もっとも御し
がたく、警戒すべき勢力だった。
ロベスピエールは「革命における政府の基礎は徳と恐怖である。
徳なくしては恐怖は忌まわしく、恐怖なくしては徳は無力である」と宣言して、恐怖政治と呼ばれる危機管理体制を打ち出した。まずサンキュロットの望む政策
のうち受け入れやすいものを取り上げ、民衆がその勝利の余韻に浸るうちに、彼らと通じていた山岳派内の過激派を逮捕・処刑していっ
た。続
いて市内に残っていたジロンド派も一掃した。すべてが即決裁判でギロチン処刑であった。さらには9月虐殺を陰で演出していたとされるオル
レアン公や、ジロンド派の黒幕的存在だったロラン夫人もこの時期に処刑される。彼女の最後の言葉「自由よ、汝の名の下でいかに多くの
罪が 犯されたことか」は有名である。
恐怖政治の時期にもさまざまな改革が行われたが、中には歴史に残っているものもある。たとえばこの時期キリスト教否定運動というもの
が起 こっていた結果、グレゴリウス暦が廃止され、新たに革命暦が制定された。これは暦から神話的要素を全て排除するもので、
Janvier,Février(英語のJanuary,
February)といった伝統的な暦名に代わって雪月、雨月(ブリュメール)……熱月(テルミドール)、実月などの自然現象の名が付いた暦名が使われ
た。わずか12年間しか使われなかったが、革命の諸段階を彩る事件はすべてこの暦名で表されることになるのである。
1794年になると山岳派内で、サンキュロットと結びついて革命の一層の進行を望む急進派と、これ以上の進行を望まない穏健派の対立
が表
面化する。信仰の自由を守ろうとするロベスピエールら主流派はまず急進派を排除しようとし、ダントンら穏健派と手を結んで攻撃する。攻撃
された急進派も、ロベスピエール派の独裁体制を穏健派と共に批判した。ロベスピエール派は反革命派の土地を没収し、貧民に無償で配布
する
法律を提出して急進派が反対すると、待ってましたとばかりにこれを理由に急進派を弾圧した。急進派の支持母体であるパリ民衆は法案への期
待からこれに反対しなかった。
次は穏健派の番だった。ダントンが逮捕され、ギロチン台に消えていった。「ロベスピエール、次はお前の番だ」の言葉を残して。こうし
て主
流派に反抗する勢力は山岳派内から粛正された。当時、革命戦争も状況は好転していたので、この粛正措置で政府は安定するはずだった。
もともとフランス陸軍は、ヨーロッパ最大の人口を背景にしていた上、徴兵制で兵力が大幅に膨らんでいた。革命によって生まれた年功に
関ら
ない実力本位の昇進システムは、この頃には有能な士官を多数輩出するようになってきていた。特に注目された士官が、イギリス軍に支援され
た南部の港町トゥーロン港の包囲戦で大活躍したナポレオン=ボナパルトという、変わった姓を持つ大尉だった。彼はこの作戦の勝利で一
躍注 目され、ロベスピエールの弟の推薦もあって翌年にはイタリア方面軍の司令官の一人に任命された。
戦局は時間がたつにつれてフランス軍に有利になっていき、それに伴って危機感は薄れていった。万事がうまく行っているように見えた
が、実 はそうではなかった。
ロベスピエールらの恐怖政治は、革命が挫折するかもしれない恐怖から支持されていたのであり、挫折の可能性が薄れることは恐怖政治へ
の支
持が弱まることだったのである。また、土地の無償分配でほとんどの農民が財産を得ており、多くのパリ市民もすでに選挙権は獲得し、ギルド
解体などで利益を得ていた。彼らにとって、財産の平等を叫ぶサンキュロットや、公安委員会によって「反革命」の烙印を押されて財産を
没収
されることは悪夢だった。そして逮捕、処刑の恐れのあった主流派以外の議員らにとっては、公安委員会の存在そのものが恐怖だった。
■テルミドールの反動--革命の揺り戻し
反ロベスピエール派はここにいたって団結し、クーデター計画がひそかに練られ、準備された。実行に至るまでに計画を察知して阻止しよ
うと
する動きは、一年前なら立派に機能し事前に阻止されていただろうが、この頃にはサンキュロットも指導者のあらかたが処刑されていたり、ロ
ベスピエール派に恨みを持っていたりしていた。山岳派は最近の内部抗争で四分五裂状態になっており、ロベスピエールを守る盾にはなら
な
かった。まして王党派やジロンド派は恨みを持っている。ロベスピエールは94年初頭の政争に勝利した瞬間に、いざという時に彼を守ってく
れる人々を失っていたのだった。
1794年7月24日(革命暦テルミドール(熱月)9日)にロベスピエールらは逮捕され、即座に処刑された(テルミドール事件または
テル ミドールの反動と呼ばれる)。革命の揺り戻しの瞬間だった。
テルミドール事件以後は、反ロベスピエールという一点だけで団結しただけの「テルミドール派」が議会を支配した。中でも中心となった
の
は、旧平原派の流れを汲む右派である。ただし彼らは反ロベスピエールとはいっても革命を取り消すつもりなどはなく、これ以上の進行を望ま
ないだけであった。大きな変化は最高価格統制令が廃止され、公安委員会の権限が縮小されたくらいだった。一連の決定をした後、国民公
会も
解散され、ジャコバン・クラブも閉鎖された。そしてロベスピエールらにつながると見なされた者たちが次々と逮捕され、あの有能な軍人ナポ
レオンも解任され、しばらくの間、牢に入れられた。
議会には他にも、革命の一層の進行を望む左派から、革命そのものを否定しようとする王党派までさまざまな党派があった。当然議会内の
対立
は激しい。また王党派は革命そのものを否定したいがために、国外にいる亡命貴族や外国の援助も受けて各地で反乱を起こした。1795年8
月にようやく新憲法が成立し、選挙権はふたたび91年憲法当時に戻され、議会制度も二院制になった。二度と独裁体制ができないように
する
ためである。そして新政府が発足しようとした矢先にパリ市内で王党派の反乱が起こった。この時鎮圧の任務にあたったテルミドール派のバラ
スは、秘密兵器を持ち出した。ナポレオンだった。彼は1年前のトゥーロンの戦い同様、画期的な作戦で反乱を瞬く間に鎮圧し、その功績
から
司令官に復帰した。この後もバラスは、この有能で寡黙な男を自らの切り札として、重要な場面で使っていったのである。彼がその心の底に何
を持っているか知らないままに。
■総裁政府
ようやく新政府が成立したのが95年の10月。今度の政府は5人の総裁の合意によって進められることになった(総裁政府)。この5人
は、
バラスを含め保守派から穏健派までバラバラの寄り合い所帯で、その方針は初めから一致しないのが明らかだった。さらに議員も毎年三分の一
が改選されるしくみで、より一層不安定さを増すことになった。
総裁政府が何としても取り組まねばならなかったのは財政問題であった。革命が始まって間もない1789年の12月の国民議会時代に政
府
は、修道院や反革命派から没収した土地を担保としてアッシニア紙幣が発行されたが、経済政策を理解していない革命期の歴代政府によって無
秩序に発行され続けたために結果価値が下落し続け、1796年には額面の0.1%にまで落ちていた。第一次大戦後の1923年のドイ
ツに
も匹敵する紙幣の信用失墜、そして猛烈な物価の高騰であった。これほど物価が上がり続ければ、もはやだれもこんな紙幣など持ちたがらない
だろう。実際1998年の通貨危機の時、ロシアではルーブル紙幣の信用がなくなり、人々はその代わりにアメリカ製タバコを使ってい
た。し
かし18世紀末のフランスではアッシニア紙幣以外に通貨代わりになるものは無かった。物価上昇は革命の間、市民を苦しめ続けたのである。
のちにナポレオンがこのインフレ退治に成功したとき、どれほど多くの市民が喜んだことか。この点だけでもナポレオン政権の成功は約束
され たのであった。そしてその解決に失敗していた総裁政府は、この点だけでも信頼と存在意義を失なっていたのである。
こうした失政で不満が高まる中、政府にとって衝撃的な事件が起こった。左派の有力な指導者であったバブーフによる政府転覆計画(バ
ブーフ
の陰謀)が発覚したのである。バブーフは当時だれも思いつかなかった所有権の否定(共産主義)そしてそれを実現するためには民衆の蜂起が
必要と主張していた。ブルジョワによる共和政を維持しようとする総裁政府からすれば、所有権の否定などとても許しがたい。そして恐怖
政治
を連想するような、民衆の蜂起や独裁政を肯定する彼の思想は、政府にとって非常に危険なものと映り、ただちに彼は処刑された。しかし彼の
思想は生き残り、やがて19世紀にレーニンを通じてロシア革命につながっていく。
こうして左派の行動を未然に阻止したと安心したのも束の間、今度は選挙で王党派が圧勝してしまう。その背後には政府内の権力争いがあ
り、
軍に影響力のある総裁の一人が裏で動いていた。王党派が政権を握れば、革命の成果が否定されてしまう。バラスは三人の総裁と示し合わせ、
ナポレオンの助力で議会から王党派を問答無用で議会から排除した。当時ナポレオンはイタリア戦線で勝利を重ねていたが、貴重な軍勢を
削っ
てまでパリに支援を送りこんできたのである。ところが次の選挙ではまた左派が圧勝し、政府はまたしてもナポレオンに頼ってこれを排除し
た。選挙のたびに軍がかり出されて選挙結果が否定される。いくら党利党略があるからとはいえ、何のために選挙をするのか分からないの
が総
裁政府の時代だった。もはや軍部無しでは政府がもたないようになっていたのである。そしてこの点にこそ、ナポレオン=ボナポルトが歴史の
前面に躍り出る素地があったのである。
■フランス革命が残したもの
ここで話を一休みして、フランス革命が後の時代、特に現代に与えた影響をおさらいしてみよう。
・人権の保障
何と言っても人権宣言が与えた影響は大きかった。もちろんこれにはアメリカ独立宣言という先駆者があるのだが、それでもこの宣言が与
えた 影響は決して小さくはならない。先頭の5条項を取り上げてみよう。
第1条(自由・権利の平等)
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられな
い。
第2条(政治的結合の目的と権利の種類)
すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、
安全 および圧制への抵抗である。
第3条(国民主権)
すべての主権の淵源(えんげん)は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使する
こと はできない。
第4条(自由の定義・権利行使の限界)
自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと
同一 の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。
第5条(法律による禁止)
法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、また、何人も、法律
が命 じていないことを行なうように強制されない。
どうだろうか、非常にわかりやすいのではないだろうか。5条など、法律の本来の意味がこれほどわかりやすく書かれたものはあまりない
ので はないだろうか。
・メートル法とグラム法
革命以後この単位系が世界に広まったことは大きい。これができるまでは、ヨーロッパ各地ではさまざまな単位系が使われており、その換
算の
ために大変な不便が生じていた。ちなみにフランスでもこれ以前は長さではフィート・ヤード系の単位が使われていた。もっとも当時の人々は
それを当たり前と感じていたので、これができて初めて不便だったのだと分かったのだが。そのフィートも、地方によって微妙に長さが違
うこ
とは当たり前だった。これは、こうした長さや重さの基準を決めるのが各地の商工業界を支配していたギルドの管轄だったためである。
また、フランスでは1フィート(正確には 1
foot)という単位はシャルルマーニュ(カール大帝)の足の大きさから決められたという伝説があった。だがもしそうだとするとカール大帝の足は30セン
チ以上(1フィート=30.48センチ)もあるということになり、150センチ程度の身長が普通だった当時としてはあまりに大きすぎ
る。 大帝は長身(巨人)であったという伝説は案外こうしたところから生まれたのかもしれない。
一方イギリスではフィートがヘンリー1世(プランタジネット朝)の足の長さからフィートの長さが定められたという伝説がある。やはり
これ もカール大帝の話と同様に、自らの国の王朝の始祖を偉大に見せたいという心理からきているのかもしれない。
ちなみにメートルという単位は、革命中の1791年にタレーランが不合理の象徴の一つである単位の統一を提唱し、地球の北極から赤道
まで
の子午線(経線)の長さの一千分の一の長さとして制定された。実際に測定された(現実に経線を測定するのは不可能だったので国内の北端に
近いダンケルクからスペイン南岸のバルセロナまでを測定して換算した)のが1792年から1798年の間で、測定者たちは革命戦争を
もの
ともせず、時には敵国のスパイと間違われながら苦労してこの偉業を成し遂げた。重さの単位であるグラムも、このメートルを基準にして1立
方メートルの水の重さを1キログラムとして制定された。
・結婚と離婚
国民公会は1792年に離婚を合法化した。カトリック教会は(ヘンリ8世の例で有名なように)従来から原則的に離婚を認めていなかっ
た
が、革命の合理精神はこれを肯定したのである。このため離婚裁判が相次ぐようになるが、それは主に女性の側からなされた。プロテスタント
の国でも離婚が難しい状況のこの時代、フランスの施策はかなり先進的だった。さらにこの時期、避妊や産児制限の方法が広まった可能性
があ る。
ちなみにフランスの人口は、飢饉や革命戦争があったにもかかわらず、ヨーロッパで最大であった(約3000万人。ロシア以外ではヨー
ロッ
パで最大)。さすがに革命期には人口は減少したが、徴兵制の施行は、徴兵逃れのための結婚(独身者のみが徴兵されたため)という現象を生
み出し、人口減少に歯止めとなっていた。
■革命が変えたものと変えられなかったもの
フランス革命の原点は人権宣言であるが、これは前述したようにどこからみても当時の主流の思想であった啓蒙主義の産物だった。その根
本は
合理主義であり、人間の理性に対する絶対の信頼からくるものであった。革命以前から、啓蒙主義に基づいてさまざまな国で小さな変化が起
こっていたが、フランス革命はただ単に社会が変わっただけではなく、人々のものの考え方や行動様式、服装まで変えていった。先述した
革命
暦のように、人々をキリスト教や古い神話と結びつけていた時間の縛りを取り払った例もあった。同様にメートル法やグラム法と言った新単位
体系は、ただ単に計測を便利にすると言うだけではなく、革命暦と同様に、人々を旧習から解放するという意味があったのである。人は法
の前 には平等である。これを具体的に示すものとして、メートルやグラムが神や伝統に依らないで自然物を使って表現されたのである。
しかし、地方によって異なるものは他にも言葉や習慣がある。これらも旧体制の一種であるから、打破すべきものとされた。そして革命の
成果
を上げるためにはこれらも統一されなければならないとされた。そのために必要なのは旧習の調査とそれへの理論的徹底的な反論、そして革命
的理念の流布であるとされた。要するに人々に必要なのは革命についての教育とされたのである。
このような理屈の元に、公教育が行われることになった(実施はナポレオンの時代)。そして生まれ変わった新しい人間像を広めるため
に、さ
まざまなイメージ戦略が練られ、服装や習慣が意図的に旧体制時代とは変えられた。方言も意図的におとしめられ、南部で広く使われていた
オック語などは、ヴァンデの反乱と同時期に反乱がおこったのを機会に弾圧された。全国共通語(つまり国語である「フランス語」)につ
いて
は、幸いなことにリシュリュー時代に設立されたアカデミーフランセーズがすでにモデルを作ってくれていたのでこれが広められた。そしてテ
ルミドール事件の後になると、暗い恐怖政治から解放されて人々の服装も自然に変わっていった。
ただしこれらはほとんど男性中心だった。女性たちは革命中にヴェルサイユ行進などで主体的に行動することはあったが、その権利が認められることはついになかった。いくら革命精神を謳っていても、しょせんそれは男性中心主義、すなわち時代の制約からはずれることはできなかっ
たのである。
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