世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇ルネサンス

■イタリアのルネサンス

何かを始める人というのは、どんな分野でも非常に勇気がいるものである。ダンテ=アリギエリ(一般的にダンテと よばれる)が14世紀始めに世に表わした一冊の本がヨーロッパ中世社会を揺るがした。本の名は『神曲』である。14世紀という時代は、現 代人なら中世ももうすぐ終わりだなと分かるが、当時はまだまだ中世人の常識が幅をきかせていた時代だった。

世界史では、この作品の登場がヨーロッパの中世の終わり、そして近代の始まりと言われている。それはなぜか。教科書には、この作品は 「ト スカーナ方言」で書かれているから、と書かれている。このトスカーナ方言とは、現代イタリア語の原型となった言葉である。だから、イタリ ア語で書かれたと言っても間違いではない。どちらも源流はラテン語にある。では、このトスカーナ方言で作品を著すことがなぜ革新的 だった のだろうか。

当時は教会の力がひじょうに強かった。教皇は「神の代理人」であり、教会は神の言葉を人々に伝えるところと考えられていた。そして神 父の 示す判断は領主と並んで非常に重いものがあった。神父はその地域の数少ない知識人だったから、領主さえも、軍事以外の分野ではしばしば神 父に判断を仰いだのであった。

教会は、事実上知識を独占しており、その地位を揺るがすものはいなかった。封建領主たちは軍事と栄誉、財産=権力の維持とローカルな 政治 と外交以外に関心を持つ者は少なかった。ほとんどの者は自分の住んでいる地域を離れることは少なく、外の世界への関心は持つ必要もなく、 その世界に関する知識も、すべてキリスト教との関係で理解され、キリスト教と矛盾する知識は教会によって意図的に隠されたり排除され たり していた。

教会は、知識の源泉としては聖書や聖人伝以外のものは歓迎しておらず、聖書の言葉=ラテン語を読み書きできることが、知識に唯一アク セス する手段だった。とはいっても、庶民のほとんどはラテン語どころか、文字の読み書きさえできるものさえほとんどいなかったのである。庶民 にとって文字や本は縁のないものであり、口伝えで聞いたものだけが知識だった。娯楽としての読書など、存在もしなかった。そんな時代 にダ ンテは、トスカーナ方言で、つまり本に書き表わすのにふさわしくない庶民の話し言葉で物語を書いたのである。

庶民にとっては、神父がミサの日に話してくれる聖書の中の物語も面白かっただろう。父や母、祖父や祖母が炉端で語ってくれる昔話も楽 し かっただろう。しかしダンテの作った話はそのどちらでもない。誰も聞いたことのない新作の物語であった。『神曲』は、あらすじも面白かっ たが、主人公の、生身の人間としてのあり方や苦悩がよく描かれていた。それに、キリスト教的な救済の要素があることが教会にとっても 庶民 にとっても理解しやすかった。とにかく『神曲』は新鮮だった。

なぜ人を描くのが新鮮だったのか。当時のキリスト教の教えでは、人間は原罪を持つ存在である。原罪とはすべての人の祖先であるアダム とイ ヴがエデンの園を追放されるきっかけとなった罪で、神の助け、教会の助け無しには克服できないものとされた。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強 欲、暴食、色欲の七つの大罪は絶対に避けなくてはならないとされた。そしてそれらが公衆の面前で語られたり、露わになることは、絶対 に避 けなくてはならなかった。ギリシア・ローマ時代のように、裸体の彫像を広場に置くなどとてつもない大罪であった。

絵画や文学に人間をありのままに描くことはタブーとされ、芸術家と共に社会から消えていった。ヨーロッパ中世の絵画が全く写実的でな く、 女性人物像などが美しくない理由がここにある。美は欲望を喚起するからである。中世までは、美は悪徳であった。

ルネサンスのおこった十三~十四世紀と言えば、ヨーロッパ社会が長い停滞期を抜けて、ようやく経済的にも豊かになりつつあった時代で あ る。富裕な一般庶民が多く現れ始めていたが、教会は彼らにさかんに喜捨(=寄付)を薦めていた。「富を持つものが天国に行くことは、ラク ダが針の穴を通るのに等しい」教会ではこうした聖書の言葉がさかんに引用され、老年に入った商人などの喜捨のおかげで、教会は多くの 富を 蓄え、ゴシック様式の高層建築の教会が各地に築かれていた。この時期、教会はその富と権力の絶頂期を迎えていた。歴史の一般原則では、権 威のあるところに富は集まる。教会を美しく飾ることが神を称えることとされ、教会を美で飾ることが良きこととされた。こうしてルネサ ンス 期に、美は悪から善に変わったのである。これは価値観の革命だった。そして「人間らしい」ことはタブーではなくなった。ダンテはその先駆 けだった。

『神曲』は各地で高い評価を得た。一部の神学者は怒ったが、教皇庁の首脳部はこれを容認した。なぜなら、教皇庁の上位層は「人間らし い」 人物が多かったからである。当時の教皇庁では、金銭で高位聖職者の地位を得ることが金銭の喜捨=神を称える行為の一種とされ、珍しくなく なっていた。従って、ルネサンス期の教皇には大商人出身者が非常に多い。それ故、庶民感覚が教会の判断・政策に反映することが多かっ た。 高位聖職者になることは、世俗の世界から離れて神に仕えることだが、こうした買官聖職者はしばしば世俗の習慣・価値観をそのまま聖職者の 世界に持ち込んだ。聖職者(独身が義務であった)でありながら、事実上の妻帯者であったり、飲酒や贅沢に耽るものもけっこういたよう だっ た。こうした聖職者は神学者からすれば堕落した破戒僧ではあったが、庶民からすれば「話の分かる」聖職者なのである。

ともかく、ルネサンス=文芸復興という社会現象、価値観の革命はこうしてダンテに始まった。彼は新しい時代の扉を開けたのである。そ の中 から現われたのは、古典古代の教養を持ち、人間の生き方・考え方を思索・提案した人々であった。彼らは人文主義者(英語ではヒューマニス ト)と呼ばれる。

十四世紀になると、古代文化の生き字引ペトラルカが『叙情詩集』を著わし、ギリシア・ローマ文化ブームに火がつく。続いてボッカチオ の 『デカメロン』、絵画では、ボッティチェルリの『春』や『ヴィーナスの誕生』が現われる。そして十五世紀のルネサンス最盛期になると、ル ネサンスの三大巨人、ダ=ヴィンチの『モナ・リザ』、ラファエロの聖母子像、そしてミケランジェロの『ダヴィデ』像、さらには十六世 紀に はいると、建物全てが芸術品である聖ピエトロ大聖堂も建てられた。

聖ピエトロ大聖堂がすごいのは、関係者の顔ぶれである。初代の建築責任者にして基本設計の担当者であったのが、この時代最高の建築家 で芸 術家でもあったブラマンテだった。それが設計面と資金面の問題で一時中断したのを再開したのが教皇レオ十世であった。

レオ十世の祖父はヨーロッパ最大の富豪メディチ家の最盛期の当主コジモ、父は大政治家にして大富豪であり、ルネサンス芸術の最大の理 解者 だったロレンツォであった。ロレンツォは、名著『君主論』の著者マキアヴェリが生涯崇拝して止まなかった人物である。レオ十世が依頼した 二代目の責任者が、かの有名なミケランジェロである。その後も完成までにいくどか設計は小変更がなされ、その時代最高の芸術家が何ら かの 形で関与している。ちなみにルネサンスの三大巨人の一人ラファエロも設計に関与している。

大聖堂はルネサンス時代だけでは完成せず、ローマ教会の権威が衰えた十七世紀中頃にようやく完成し、今の姿になった。現在の大聖堂 は、世 界最小の国家ヴァチカン市国の中央政庁となっている。

ルネサンス期は、ローマ教会のさまざまな縛りが解けた時期でもあった。それまで教会が課していた、さまざまな制限が取り払われた。十 五世 紀半ばには、ドイツでグーテンベルクが活版印刷術を完成させると、それまで手書き写本(希少で高価)しか方法がなかった知識の獲得と伝播 の手段が、大量かつ安価に手に入るようになった。これによって、多くの人々が他の人々の考えや他の地域の動向を知ることができるよう に なった。ポーランドのコペルニクスが1543年に出版した『天球の回転について』で述べられた「地動説」は、科学と神学の世界に一大論争 を巻き起こし、イタリアのガリレオ=ガリレイやブルーノが賛同の見解を述べ、弾圧された。ドイツのケプラーは教会の見解に逆らいなが らも 観測を続け、従来の30倍の精度の暦を作り上げた。これが次の世紀にイギリスのニュートンが近代物理学の基本法則や、重力の発見をする きっかけとなった。

一方で当時のローマ教会は、何かと批判の大きかったユリウス暦を改定する必要に迫られていた。この暦は作成されて以来1000年の間 に暦 と実際の季節がずれてしまっていたからである。しかしこれは、非常に困難な作業であった。ローマ時代には最先端の知識であったエジプト由 来の天文データも、もはや限界に達していたことは誰の目にも明らかだった。ところが、よりによってこれに代わる基礎データが、結局コ ペル ニクスの著書の中にしか見つからなかったのである。こうして、コペルニクスのデータに基づく一年を表わす数値365.2425日がグレゴ リオ暦で採用され1582年から実施された。そして『天球の回転について』は発禁処分を免れたのである。

こうして次々とタブーが破られていった。タブーを打ち破るものは外からもやってきた。イタリアやスペインでは、従来からギリシア哲学 を非 常に重視するイスラーム教国の文化的な影響を強く受けていた。1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、多くの学者が宗教的な偏見から、実 際には行われることのない迫害を怖れ、イタリアに亡命してきたのである。彼らは古代ギリシアやローマの文芸に詳しく、ルネサンス期の ギリ シア・ローマブームに火を付ける結果となった。そして古代ギリシア・ローマ時代の文物が非常に珍重されることとなった。

こうしてルネサンス時代は、中世のキリスト教を中心に考えていた時代からの決別となった。こうした動きはすでに十二世紀頃から始まっ てお り、十三世紀にダンテによって大きく扉が開けられ、十五~十六世紀に最盛期に達する。やがてルネサンスの人間性重視や古典復興の傾向は飛 び火のようにヨーロッパ各地に広がっていくのである。

■ルネサンスの広がり

中部ヨーロッパではネーデルラント(現在のオランダとベルギーを含む地域)で活躍したエラスムスの活動で、東はドイツ、西はイギリス まで がその影響を受けるようになる。宗教改革を引き起こしたルターも、イギリス国王ヘンリー8世も彼の崇拝者だった。

フランスでも国王フランソワ1世がダヴィンチを宮廷に招いて以来、ルネサンスの影響を受けるようになった。フランソワ1世のイタリア 趣味 は、息子をメディチ家の姫君のカテリーナ(結婚後はカトリーヌ=ド=メディシスと呼ばれる)と結婚させたところにも現われている。カト リーヌは、当時野蛮な食事風習(ほとんどの食事が手づかみで食べられていた)のフランス宮廷に、食事のマナーから始まり、上品さ、洗 練さ れた立ち居振る舞いというものを持ち込んだことで有名である。さらに彼女はもう一つフランスにとんでもない事態をもたらすのだが、それは また後ほど述べることにする。

スペインでも、イタリア滞在中にルネサンスの影響を受けたセルバンテスが、近代小説の始まりとされる『ドン=キホーテ』を著わし、ベ スト セラーとなった。

さらにダンテが『神曲』で試みたのと同様なことは、イタリア以外でも試みられ始める。すなわち、自分の住んでいる地域の言葉で著作を しよ うとする企てである。こうした試みは、やがて各地で「国語」の発明になっていく。たとえば英語は、話し言葉としては14世紀にはできあが りかけていたが、それがチョーサー作『カンタベリー物語』などで書き言葉としても使われるようになる。現在使われている英語の原型が 確立 したのは、シェークスピアの小説『ベニスの商人』や『オセロ』が一般に広まった産業革命の頃である。


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