世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇イスラーム世界


■七世紀の西アジア

1948年5月14日、イスラエル国が建国された。そしてこれに反発したアラブ諸国との間で戦争が勃発した。第 一次中東戦争の開始である。それ以来大きなもので4回、小規模なものになると数え切れないくらい、中東地域では戦争が続いている。この地 域の二十世紀は、まさしく戦争の連続だった。

実は、今から1400~1500年前にも似たような状況があった。527年、東ローマ帝国にユスティニアヌス帝が即位する。彼は後に 大皇 帝と呼ばれるが、即位当初の権力は弱かった。彼は即位後まず、7年かけて有名な『ローマ法大全』を完成させた。これは法学者トリボニアヌ スの貢献が大きかった。ところがこの間、ローマ帝国伝統の娯楽、円形競技場でのトラブルに端を発した暴動が起こった時には、恐れをな して さっさと外国に逃亡しようとし、皇后や家臣たちに引き留められて、やっと気を取り直したという話が残っているような人物だった。この暴動 で焼け落ちた聖ソフィア大聖堂はその後スケールを増して再建される。現在残るものはこの再建時のものに、オスマン帝国によって四方隅 に尖 塔が付け加えられたものである。

その後ユスティニアヌスはササン朝との平和条約を締結すると、有能な武将を起用し、北アフリカのゲルマン系ヴァンダル王国を滅ぼし た。次 にはイタリアを支配していた、これもゲルマン系の東ゴート王国を征服しようとしたがこれには20年もかかってしまい、征服はしたものの、 戦場となったイタリアは戦後の厳しい徴税もあって荒廃してしまう。次いでイベリア半島のゲルマン系西ゴート王国の征服にも乗り出した が、 これは南部を得たのみであった。それというのも、ササン朝との戦争が再開されたからであった。

ササン朝の大王と言われるホスロー1世はユスティニアヌスとほぼ同年齢と考えられており、即位も同時期であった。その即位後すぐに結 ばれ たのが前述の平和条約。ササン朝にとって当時東ローマとの平和は必要だった。というのも、当時のササン朝にとって最大の問題は、東方の大 勢力、遊牧民の帝国エフタルの存在があったからである。ササン朝はこのころエフタルの属国となっており、アケメネス朝以来の伝統を持 つペ ルシア帝国が、新興国に臣下の礼を取らねばならないというのは屈辱的であった。

6世紀初め、こうした状況を変えられる可能性が出てきた。ホスロー1世の即位の頃、エフタルのさらに東方で一大勢力が生まれていた。 モン ゴル高原を制覇した突厥帝国である。その存在を知ると、ペルシア帝国はすぐに連絡をとり、ホスロー1世のもとで対エフタル同盟が結ばれ た。567年にはついに両国の挟撃でエフタルが滅亡する。こうして長年ペルシアにとっての脅威であった勢力が消滅した。さらに、新た な敵 になるかも知れない突厥も、中国隋王朝(589年中国統一)さらに唐王朝(618年建国)によって勢力が削がれていった。これで東方の安 全はほぼ保証されたことになる。

すでに東ローマ帝国との和平は540年頃には崩れ始めていたが、それでも両国にとって本格的な戦闘の再開は何の利益にもならなかった の で、この間は抑えられていた。しかし対エフタル戦争がほぼ終盤にさしかかると、ホスローの胸に大ペルシア帝国復興の夢がもたげてきた。対 するユスティニアヌスはすでにイタリア征服を完了しており、ローマ帝国の再興を宣言し始めていた。その彼をうち破れば、ササン朝初期 の大 王シャープール1世以上の栄誉を手に入れる事も出来るであろう。

こうして30年ぶりに地中海東岸で大戦争が再開される。先手を取ったのはもちろんホスローの方である。イベリア半島征服に未練のある 東 ローマ側を尻目に、地中海沿岸の大都市アンティオキアを征服し、遠征の連続で財政が破綻していた東ローマ帝国の消極性もあって、有利な形 で和平条約を締結した。ホスロー1世が最も輝いた瞬間だった。

東ローマ帝国には都合の悪い状況が続いていた。荒廃したイタリアに、別のゲルマン系のランゴバルト族が侵入していた。さらに東ローマ 帝国 の北方からは、スラブ人が帝国領に侵入していたが、東ローマはすでにこうした方面への興味を失っていたので結局放置され、これら民族の侵 入はたいした戦闘も無しに行われた。

こうした財政難から来る無策とそれに対する内外の人々の不満から、東ローマ帝国の内政は不安定になり、ササン朝の攻勢に対しても防戦 一方 だった。ホスローの死後にもペルシアはエジプトまで勢力を拡大する事に成功し、イェルサレムにあった「真の十字架(キリストが処刑された ときの十字架)」が奪われるという、キリスト教徒にとっては屈辱的な事態まで起こった。

これに立ち上がったのがヘラクレイオス帝だった。かれは首都の混乱を鎮めると、ペルシアにたいして反攻に出た。そして真の十字架を取 り返 し、奪われていたシリア・エジプトも奪回する。こうして今度は東ローマ帝国の側に栄光が輝いた。

しかし当時は常識の、戦費を現地で回収する施策がシリアやエジプトの人々を怒らせた。すでにユスティニアヌス帝時代から両地方は帝国 の過 酷な徴税で痛めつけられていた。これに東ローマ・ペルシア両帝国間の長期戦が都市を荒廃させる。商人たちは危険なこの地域から去り、わざ わざアラビア半島を迂回する通商ルートをすでに確立していた。当時の東地中海の人々は、両帝国の栄誉を賭けただけの戦争の犠牲者と なって いた。ペルシアも東ローマもこの地域の人々にとっては好ましからざる支配者だったのである。

■イスラーム教の成立

さてそのアラビア半島は、特産品の乳香や没薬といった香料が古代エジプトの時代から有名で、古くから東西交易で栄えていたとはいうもの の、それは支流程度であり、本流のシルクロードとは比べものになるほどではなかった。

ホスロー1世の治世の末期、そのアラビア半島の西岸メッカの町にムハンマドという商人がいた。本名ムハンマド=イブン=アブドゥッ ラー フ=イブン=アブドゥルムッタリブ。かれはこの町では有名なクライシュ一族の一員だったが、父も母も幼い頃になくなったため、祖父と叔父 の援助で暮らしていた。そして一族の誰もがそうするように、成人すると隊商交易に加わった。人柄も育ちの割には実直であり、仕事も確 実に こなす事から信用が厚く、彼を慕う人は多かった。その人柄を見込んで、プロポーズした女性がいた。彼が雇われていた隊商組織の女主人ハ ディージャであった。年齢は当時25才であった彼よりは15才年上だった。彼女はムハンマドと同じクライシュ一族の出身であったが、 少し 前に夫に先立たれて以来、何かと困っていたのである。今で言うと社長を失って社長夫人が突然経営者となった状態ということだろう。もっと も彼女はなかなかのやり手だったようだが。

これで彼の運命が好転する。誰もがそう思った。彼女はムハンマドとの間に男二人女四人計六人のの子を生む。しかし現代でも高齢出産は 難し い。男子二人は幼くして死んでしまった。こうした事も影響したのか、彼は40才頃にはさまざまな人生の悩みを抱える事になった。そこで彼 は、当時は珍しい事ではなかった、砂漠での修業を始めていた。

メッカ郊外にヒラー山という山がある。その麓に手頃な洞窟があり、その中で断食と瞑想に耽るのが彼の慰みとなっていた。9月(アラビ ア語 でラマダーンという。現代まで続くイスラーム教の断食月ラマダーンの由来)の末頃、その彼のもとに訪問者があった。声はするが姿の見えな いその人は、自分をジブリール(キリスト教では大天使ガブリエル)と名乗り、神の言葉を伝えに来たと言った。神の啓示が下ったのであ る。 彼は急いで帰ると、妻ハディージャに一部始終を語った。これが現代人なら、あんた何を馬鹿な事言ってるの。寝ぼけてたんじゃない?とでも 言ったところだろうが、ハディージャは非常によろこんで彼の言う事をそのまま受け入れたという。

ムハンマドは次に友人のアブー=バクルー、そして年下のいとこのアリーにも一部始終を語ったが、みな彼の言葉を信じて喜んでくれた。 それ だけムハンマドは信用があったと言う事なのだろう。しかし見ず知らずの人にまで神の言葉を語るのは、まだ勇気がいったようだ。そのことが あって少し後のある夜に、彼は一瞬のうちにイェルサレムに移動し、天国へ旅行するという経験をする。神は彼にさらなる啓示を示したの であ る。のちにダンテが『神曲』の構想を得たのではないかという逸話であり、イェルサレムが第三の聖地となった理由である。

3年もすると、彼は街頭で神の言葉を語るようになる。信じる人もいたようだが、街の有力者たちには彼の語る内容が気にくわなかった。 ムハ ンマドが語る神の言葉は、明らかに有力者たちを非難していたからだ。

アラビア半島では、ビザンツ・ササン朝の百年戦争で戦場となったシリア近辺を避けてわざわざ半島南部を経由してエジプトに抜けるルー トで 通商を続けていた。その結果、メッカやメディナといった、交易の歴史こそ長いが、これまでこぢんまりとした商売しかなかったところに、今 まで見たことがないほど多くの商人たちが集まる事になったのである。

メッカやメディナは突然の繁栄に湧いた。好景気が続き、これを契機に人々は金儲けに走り、古くからの相互扶助や、勤勉で慎ましやかさ を尊 ぶアラブ人部族社会のルールは守られず、外来のルールが入り込み、金儲けと合理主義が最優先されることになった。アラブの庶民はこうした 変化に戸惑い、反感を抱くものが多かった。しかしメッカの支配層はこうした時代の変化に適応して成功した人々だった。反抗は押さえつ けら れてしまう。そんなところにムハンマドは、伝統的な価値観を「神の言葉」として訴えたのである。彼は支配者層の敵となった。

622年、ついにムハンマドたちはメッカを追放される。のちにイスラーム教徒はこの年を紀元としてイスラーム暦を始める。これが聖な る移 住=聖遷(ヒジュラ)と呼ばれる出来事で、イスラーム暦の紀元とされている。

メッカの冷たい仕打に比べて、移住先のメディナは彼らを温かく迎えてくれた。ムハンマドたちの語る神の言葉にうなずく人も多かった。 この 町では変化を良く思わない人が多数派だったのだ。あっという間にメディナはムハンマドたちの理想にのっとった政治を行う町になり、ウンマ と呼ばれる信仰共同体ができあがった。抵抗はほとんど無かった。そして彼の成功を知ったメッカとの争いが勃発するが、ムハンマドたち はこ れに勝利した。メッカの支配者たちは降服し、ウンマの一員となった。ムハンマドはメッカの最高神殿であったカーバ神殿を神が語ったやり方 で作り替えた。すべての神像を破壊し、黒石そのものを神聖としたのである。

さらに彼は、同様に抵抗していたアラビア半島の町々を次々と征服していき、イスラームの教えやその社会のしくみを受け容れる代わりに 保護 をしてもらう体制ができあがり、イスラーム共同体ウンマはイスラーム国家となった。こうした支配は、非常に合理的で緩やかであったことか ら、聖遷から10年もたたないうちにアラビア半島はムハンマドたちの信仰、すなわち神への絶対的な帰依(イスラーム)の教えを信じる 人々 が中心となる国になっていた。こうした信仰を受入れた人をイスラーム教ではムスリムという。さらにムハンマドは、死ぬまでに自分の教え、 考えを周囲の者に口伝えで残していった。これが後に第3代正統カリフのウスマーンの時に聖典の形になった(クルァーンまたはコーラン とい う)。このように、ムハンマドは教祖であり、征服者であり、信仰の形を自ら定めた、唯一の男となった。

■正統カリフの時代

ムハンマドは間もなく亡くなるが、その教えと新しい社会体制は友人であり最初の信者の1人アブー=バクルに引き継がれた。彼は初代のカリ フ(代理人、後継者という意味。後に正統カリフと呼ばれる)となった。ただしアブー=バクルもすんなりと体制を受け継げたわけではな い。 ムハンマドの死後、彼との盟約は無効になったと考えた人びとが続々と共同体ウンマから離脱していったり、新たな指導者を立てて分裂して いった。アブー=バクルは共同体ウンマを守るために、説得と戦いの両作戦で臨み、内部の不和を解消するために外部との緊張を作りだし た。 すなわち「イスラームの大征服」の始まりである。こうした内紛は形を変えて8世紀半ばまで続いたから、その間、大征服は続いてイスラーム 共同体が拡大していった。

ムハンマドの理想に共感する人々は、アラビア半島以外にもあちこちにいた。信仰以外でイスラーム教国が画期的だったのは、税制の簡素 さ だった。イスラーム教国にはジズヤ(人頭税)とハラージュ(地税)の2種類しかなかった。しかもムスリムは地税ハラージュだけ払えばよ かった。つまりジズヤは異教徒だけが払う税である。さらに、ジズヤを払ったとしても、当時の東ローマ帝国・ペルシア帝国という二大帝 国の 一般的な税よりはるかに安かった。ムハンマドの時代にはイスラーム政府はまだ小さく、たいしてお金がかからなかったからである。

逆にシリアやエジプトといった地域の人々は重税を取り立てる両帝国の政治を嫌っていた。そしてイスラーム教国の理想、そして商人の事 を知 り抜いた施政方針は現実的で合理的な教えであり、ユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」として尊重していたイスラーム教国家では、今ま で信じていた教えを捨て去る必要もなかった。とにかくイスラーム教国家は、居心地が良かったのである。また、イスラーム教国家の方か らし ても、他の宗教の信徒が多い方が税収は多くなって助かる。こうして初期のイスラーム国家では改宗の努力はほとんどされなかった。つまり、 イスラーム教国家が「改宗か剣か」を強要したというのは誤りである。

二大帝国はすぐにこの砂漠から現れた新興勢力の危険性を悟った。まずはササン朝、続いてビザンツ帝国との戦争が始まる。

当時イスラーム教国を率いていたのは、第2代正統カリフのウマル。アラブ側の司令官は彼が最も信頼していた、通称「アラーの剣」ハ リー ド=イブン=ワリード将軍。ビザンツ側で対するは先に述べたヘラクレイオス1世である。

余談であるが、この戦いが行われる直前にワリードを重用していたウマルが死去する。首都メッカでは新カリフにウスマーンが選出された が、 彼はワリードを嫌っていた。このため彼は即時に解任され、その報せを持った者が急きょ最前線に送られた。ワリードが報せを受取ったのは開 戦直前。彼は思わず、「ああ、俺は首だ!」と叫んだ。事情をよく知っていた周囲の司令官たちも動揺した。しかし新しい最高司令官が到 着す るのはいつか分からない。戦闘開始は目前である。この微妙な時、司令官たちはワリードに従った。ワリードも平然と軍を指揮した。そして東 ローマ帝国軍は壊滅したのである。

東ローマは、続いてシリアとエジプトを失う。ササン朝もメソポタミアを奪われた。そしてササン朝が存亡を賭けた戦いがイラン高原のと ある 渓谷で行われた。642年ニハーバンドの戦いである。ペルシア軍は壊滅した。そして皇帝ヤズデギルド3世は逃亡する(9年後に逃亡先で殺 され、その子は唐王朝に亡命する)。ペルシア帝国の滅亡である。

次に危ないのは東ローマ帝国である。ヘラクレイオス1世はすぐに対策を立てねばならなかった。かれはこの危機に、国政改革を断行す る。

すでに彼は自分の位を歴代の東ローマ皇帝のように「インペラトール」と呼ばずに、「バジレイオス」と呼んでいた。「ギリシア人の王」 とい う意味である。そして宮廷で使う言葉も、ローマ伝統のラテン語から、公式の場所以外では一般的だったギリシア語に変えた。命令の効率化の ためである。さらに財政負担を軽減するため、ローマ伝統の福祉政策である、貧民に対する食料支給(パンとサーカスのパン)をも止め た。東 ローマ帝国はローマ帝国である事をやめたのである。以後の東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれる。都コンスタンティノープルの古名ビザン ティウムから来た名前である(ただし公的には、滅亡時までローマ帝国の名を使い続けた)。

さらに彼は弱体化した軍事力を補うためと、地方の治安維持を両立するために、テマ制を開始する。テマ制とは、帝国をいくつかの区域 (=テ マ、軍管区と訳する)に分け、軍を駐屯させる。軍司令官は、徴兵した兵士に農地を割り当て、耕作と軍備充実を軍の自前でやらせる。そして この軍司令官およびテマを管理する権限を皇帝が握る事で全体をコントロールする仕組みである。

ビザンツ帝国に危機が迫った。イスラーム軍はペルシアを滅ぼした後、すぐに北上し、シリアのダマスクス近郊に大軍団を集結させた。新 興の 大帝国と古くからの大帝国の、生死を懸けた長く続く戦いが開始された。しかし10年後、戦いは中断される。戦線からイスラーム軍主力が後 退していったのだ。ビザンツ帝国にはしばらくして真実が伝わった。第四代の正統カリフであったアリーが殺され、イスラーム側に内戦が お こっていたのだ。

実はアリー以前のカリフも、初代アブー=バクル以外は全て暗殺されている。とくに第三代カリフのウスマーンは、自分の身内でありムハ ンマ ド以来の有力一族であるウマイヤ家を重用し、縁故主義の批判を受けていた。彼を暗殺したのは次のカリフとなったムハンマドの従兄弟であり 娘婿のアリーの配下の者だった。この事件はアラブ人世界に微妙な亀裂を生み出した。血塗られた形でのアリーの第四代カリフ即位、そし てウ マイヤ家一族の反感、一族の敵に対しては必ず復讐を果たさねばならないアラブの伝統、こうしたことがウマイヤ家の当主ムアーウィアに敵対 行動を起こさせた。そしてこの両派の対立の中でアリー派の一部は、彼がムアーウィアに対して断固とした態度を取らないのに不満を持っ てい た。やがてこれはアリー派の内紛となり、その中で彼は暗殺されてしまう。この時ムアーウィアも暗殺者に狙われたが何とかやり過ごし、結果 的にムアーウィアが新カリフとなった。

こうした経緯であったから、彼のカリフ位の正統性には疑問を持つ人は多かったが、その政治姿勢は共同体ウンマの多数派の利害を配慮し たも のであったことから、大多数は彼の政権を受け容れた。ムアーウィアは正統カリフ時代以来のカリフ位継承の血塗られた歴史を鑑みて、その位 を選挙とせず息子に譲る。これがカリフの世襲制の始まりとなった。

こうしたムアーウィアの政権を認めた大多数の人びとは、のちにスンナ派またはスンニーと呼ばれた。これに対して、あくまでもアリーの 地位 を正統とし、アリーの血統を受け継ぐ者こそが真の指導者(イマーム)であるとする人びとはシーア派と呼ばれ、これに強く反発した。特に、 アリーの子がウマイヤ朝によって虐殺される(カルバラーの悲劇)と、シーア派との関係は修復不可能なほど悪化し、以後彼らはウマイヤ 朝を 認めずに徹底抗戦するようになる。以後のシーア派は、カリフを指導者と認めず、アリーの血筋の者を指導者イマームとした。しかしアリーの 子孫が増えるにつれて誰を指導者とするかで分派が生まれていくことになっていった。

■ウマイヤ朝の成立

ウマイヤ朝は661年成立した。ムアーウィアはアリーの一派を逮捕、殲滅する一方で、優れた政治力・軍事力で再びアラブ人の征服を推し進 めた。新たな首都としてシリアの中心都市ダマスカスに都を置いたのも、その軍事的・経済的な価値と必要性を認めていたからだ。

ウマイヤ朝のもとで、イスラーム共同体の領域の拡大は続いた。西方では、エジプトを基地としてアフリカ大陸北岸が次々とイスラーム勢 力を 受け入れていった。700年頃にはアフリカ大陸西北端のモロッコにまで勢力が拡大した。そして711年、ついにイスラーム勢力はヨーロッ パに渡った。ギリシア人がヘラクレスの柱と詠んでいた海峡を越えたのである。のちにこの海峡は、この時のウマイヤ朝軍の司令官ターリ クの 名を取って、ジャヴァッル=ターリク、なまってジブラルタル海峡と呼ばれる。海峡の北は、当時東ローマ帝国ユスティニアヌスの遠征から領 土を取り返した西ゴート王国である。戦いはヘレスで行われ、西ゴート軍は破れ、イスラーム軍はそのまま半島を北上した。この年のうち に西 ゴート王国は滅亡し、イベリア半島はほぼ制圧された。軍の一部はピレネー山脈を越えた。そこはイベリア半島と同じく、ローマ帝国の影響の 残る、旧称ガリア、現在のフランスである。あっという間に南フランスが征服された。

フランス側では、ピレネー山脈の南で何が起こっているか、すでにかなり前から情報は伝わっていたが、当時はローマ帝国滅亡後の混乱時 代が まだ続いていた。一時はフランス全域に勢力をふるっていたフランク王国も、メロヴィング朝は内紛で分裂状態に陥っており、組織的な抵抗が できるような状況ではなかった。このままではフランスが征服されるのも時間の問題と思われた。

また同じ頃南イタリアでもウマイヤ朝軍はチュニジアを拠点に、何度かシチリア島や南イタリアに侵入を試みていた。東方でもビザンツ帝 国の 首都コンスタンティノープルにイスラームの大艦隊が何度も押し寄せていた。キリスト教世界は存亡の危機に瀕していたのである。

■ウマイヤ朝とフランク王国

そのキリスト教世界に救世主が現れる。フランク王国の実権を握っていた有力者カロリング家のカール。公式には宮宰(マヨール・ドムス)と いう地位にあったが、これは王国の実権を握っている者という意味で、国王代理が一番意味としてはふさわしいだろう。彼はのちに功績か ら鉄 槌公(マルテル)の名をもらい、カール=マルテルと呼ばれる。

彼はイベリア半島情勢をいち早く理解し、いずれ攻めて来るウマイヤ朝軍に対抗するために、イスラーム側の戦法や戦術を研究していた。 それ がいかんなく発揮されたのが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いであった。ウマイヤ朝軍は思いも寄らない抵抗にあって敗走し、ピレ ネー山脈の南に帰っていった。そして結局二度と山を越えてくる事はなかった。カールは栄光に輝き、これに対して無力であったメロヴィ ング 王家の権威は地に落ちた。この現実と、再びやってくるかも知れないイスラーム勢力への恐れ。これらを考え合わせて、当時のフランク王国の 諸侯たち、そして皇帝亡き後ヨーロッパキリスト教世界全体の責任を一身に担っていたカトリック教会は考えた。王家を替えたほうが良い ので は、と。そしてカロリング家もそれを受け入れる覚悟はあった。

鉄槌公は間もなく死亡したため、その子ピピン(祖父も曾祖父もピピンだったため区別して小ピピンもしくはピピン3世と呼ばれる)がこ の面 倒なことをやることになった。慎重な性格の彼は、後で王位簒奪者という非難を受けないよう、事前にローマ教皇に根回しをすることにした。

ある日、当時の教皇ザカリアスのもとに、名は名乗れないがある重要人物からの使いであると称する男がやって来た。かれは匿名の手紙を 教皇 に渡した。「王の名ありて力なき者と力ありて名なき者と、いずれ真の王たるべきや?」。これを見た教皇はすぐに送り主についてピンと来 た。教皇が与えた返答は「王の実権ある者に王の名を与うべし」。返事を見た小ピピンは大いに満足しただろう。

こうしてメロヴィング王家最後の当主は、だれにも顧みられることなく、出家を強要され、小ピピンの国王即位がフランク王国中の諸侯・ 聖職 者の集まる会議で満場一致で決議され、大司教によって塗油の儀式の後新王となった。カロリング朝の始まりである。

■アッバース朝の成立

ここで目を東方にもどす。ウマイヤ朝の軍が四方八方で大勝利をおさめ、領土が拡大するにつれて、大きな問題が起こってきた。それは国家体 制の問題である。イスラーム国家は正統カリフ時代の頃からしても、あまりに国土が広くなりすぎ、治めるべき立場の人間も多くなりすぎ た。 また、あまりの急な支配領域の拡大に国家組織の整備が追いついていなかった。ウマイヤ朝は領土こそ巨大であるが、そのシステムはつぎはぎ だらけであり、それをアラブ人のみに支配者となる特権を与え、各地に軍事都市(ミスル)を築かせ、不平不満があっても力で押さえ込ん でい る状態だった。もはやムハンマド時代のシンプルな国家体制ではシステムがうまく行かなくなってきていたのだ。

財政も問題を抱えていた。ムハンマド時代には異教徒の農民は人頭税ジズヤと地租ハラージュという2税を両方とも払う必要があったが、 ムス リムの農民はジズヤを払う必要はなかった。商人はジズヤもハラージュも払う必要はなかったが、これとは別の関税の一種を払う必要があっ た。農民でも商人でもない者は非常に軽い税のみで、軍人などは給与が国家から与えられた。何にしても、ムスリムが増えれば増えるほ ど、負 担は増えるのに税収は増えないのである。だからイスラーム国家は正統カリフ時代以降、イスラーム教徒を増やすことには熱心ではなかった。 また、アラブ人以外のイスラーム教徒(マワーリーという)に対してもジズヤの支払いを強制した。

これはコーランの記述には明らかに違反することになるが、税収入を維持するにはやむを得ない。しかし、この民族差別は明らかに説明が つか ない。統治を受け入れた当初こそ、コーランをじっくり読むまではこうした規定を知らなかったマワーリーたちも、やがて事実が分かってくる につれて不満が募っていった。ウマイヤ朝でも一時あるカリフがこれを解決しようとしたのだが、うまくいかないうちに当人が亡くなって うやむや にされてしまった。そうこうするうちに、イスラーム世界にたまった不満は限界を超えようとしていた。

この状況をうまく利用したのが、ウマイヤ家と並んでムハンマド以来のアラブ人の名家の一つアッバース家だった。アッバース家は、ウマ イヤ 家よりはムハンマドの出身ハーシム家に近かった。家長のアブル=アッバース率いる彼らはこの状況を利用し、各地のウマイヤ家支配に反発す る勢力、特にシーア派勢力と連携して反乱を起こし、750年にはウマイヤ朝を倒すことに成功した。

アッバース朝のもとではアラブ人と非アラブ人の差別はなくなり、ジズヤを両方ともに課することで民族を平等に扱ったため、財政・税制 の問 題については解決した。第2代カリフのマンスールの時には、新首都として円形の都市マディーナ=アッサラーム(「平安の都」の意味。つま り平安京)がバグダードの地に建設された。やがて最盛期の第4代カリフのハールーン=アッラシードの時には市の人口が100万人を超 え (規模と人口で他に匹敵する都市は唐の長安、コンスタンティノープルしかない)、東西貿易の中心地として栄えることになる。世界的に有名 な文学作品『千一夜物語』、別名『アラビアン=ナイト』はこの町が舞台であり、主要人物のモデルはハールーンだと言われている。

アッバース朝は領域でもイスラーム国家として最大に達する。王朝交代後すぐ751年に中央アジアのソグド地方をめぐる中国唐王朝との 紛争 であるタラス河畔の戦いが行われ、アッバース朝軍が快勝する。唐はこれでソグド地方の支配をあきらめ、中央アジアから撤退していく事にな る。

一方アッバース朝は、この戦闘で得た捕虜の中に製紙職人がいたらしく、製紙法を獲得する事になり、これがイスラーム世界、はてはヨー ロッ パにまで紙が伝わるきっかけとなった。世界の文化に与えた影響としてはおそらく最大級の事件だろう(製紙法の西伝)。

その上この戦闘をきっかけにアッバース朝はインダス川西岸までを支配する事ようになり、インドの一部がイスラーム勢力の影響下に置か れ た。これがイスラーム世界にインドの文明が伝わるきっかけにもなった。このためインドの数字体系の合理性、さらにゼロの発見がのちにイス ラーム世界に紹介される。アラビア数字が世界に広まるきっかけである。

その一方でアッバース朝時代はイスラーム世界が分裂していく始まりともなった。まずウマイヤ朝の王族の生き残りアブドゥル=ラーマン が、 王朝滅亡後、放浪の末に756年イベリア半島でウマイヤ朝の再興に成功し、各地に潜伏していた多くのウマイヤ家ゆかりのものが西方に結集 した。これが後ウマイヤ朝である。

この王朝の半島制覇はさらに30年余りかかるが、その存在はイスラーム世界がこの後、大きく分裂して行く引き金になったかのようだっ た。

もちろんアッバース朝がこれをただ手をこまねいていたわけではない。ハールーン=アッラシードは、後ウマイヤ朝のあるイベリア半島の 北方 にあるフランク王国と提携する。当時のフランク国王はカール大帝。カロリング=ルネサンスと呼ばれる沈滞していたヨーロッパの文明の復興 期を築いた国王である。文明国であったイスラーム帝国の主として、提携する相手として不足はなかった。

この後カール大帝は何度かこの提携に従って、ピレネー山脈を越えて後ウマイヤ朝に攻め込んでいった。そして半島の東北端にほんのわず かで はあるが重要な拠点を得ることになる。この拠点スペイン辺境伯領がのちに発展し、アラゴン王国となり、イベリア半島をキリスト教徒がイス ラーム教徒から奪回する、レコンキスタ(国土回復運動)の根拠地の一つとなるのである。

ハールーンの時代に最盛期を迎えたイスラーム帝国だったが、その死後、後継者争いが勃発すると途端に弱体化していった。その理由は、 アッ バース朝の支配体制の変化にあった。

■イスラーム世界の分裂

アッバース朝はイスラーム教徒間の平等を実現したが、それと同時に、カリフの位置づけもウマイヤ朝時代とは変えていった。ウマイヤ朝では カリフは軍司令官や政治家という性格が強かったが、アッバース朝のカリフはムスリムの代表であり、神の権威を体現する神聖な存在とい う面 が強調された。結果的にはカリフが実社会に関わる権限つまり、軍司令官および政治家としての権限を弱めていった。ウマイヤ朝同様広すぎる 領域を抱えていることもあり、帝国の実権は各地の軍司令官アミール(行政長官を兼任)に移ってゆく。帝国の一体性をつなぎ止めていた のは 各地の信徒のまとめ役(知識人ウラマー)や、ハールーンのようなカリスマ性のあるカリフだった。だがそれもハールーンの死後、幼少・病弱 なカリフが続くことで帝国の分裂が始まってしまう。ハールーンの死後100年も経つと、アッバース朝は事実上イラクの一地方政権に過 ぎな くなっていた。これではカリフの権威もあったものではない。

さらにカリフの権威の凋落に輪をかける事態がおこる。910年に北アフリカのチュニジアの地方政権だったファーティマ朝が急速に勢力 を拡 大し、建国翌年にはシーア派の長として珍しくカリフを自称した。すると926年には全盛期のイベリア半島の後ウマイヤ朝もスンナ派の長と してカリフを自称して対抗する。そして本家本元のアッバース朝もこれを批判し、あらためてカリフの正当性を主張したのだが、現実は最 も寂 しい状況だった。

その後ファーティマ朝は東方に勢力を拡大し、969年にはエジプトを征服し、西アジア有数の大都市カイロを建設して遷都した。西方で は後 ウマイヤ朝の首都コルドバが10世紀のアブドゥ=アッラフマーン3世の頃にはバグダード、カイロと並ぶ文化・経済の一大中心地となり、繁 栄を謳歌していた。

政治的には分裂していたが、この頃コルドバやバグダードでは、先行したギリシア・ローマ文化の遺産(まだビザンツ帝国は健在である が)で あるギリシア哲学や自然科学、在来のペルシア文化、そして新来のインドの科学や哲学などをアラビア語に翻訳する事業が積極的に行われた。 バグダードに作られた「知恵の館」やカイロの「知恵の家」はこうした学問の中心的な機関として有名である。

しかしそのバグダードのアッバース朝はといえば、イランで建国したシーア派のブワイフ朝によって946年に首都バグダードを攻めら れ、あ えなく降服する。以後のアッバース朝はスンナ派の長でありながらシーア派の王に従わねばならないという情けない状態であった。イスラーム 教徒の多数を占めるスンナ派はこの状態に不満を募らせていた。

■トルコ人の登場

この状況を打破したのは、古くからのイスラーム教徒ではなく、イスラーム世界では新参者のトルコ人であった。トルコ人はササン朝時代にエ フタルの打倒でイラン人と交流があったが、その後中央アジアの支配権をめぐって、西進してきた中国唐王朝との抗争に敗れ、その支配下 に置 かれていた。ところが唐王朝がタラス河畔の戦いに敗れて以後中央アジアから撤退したため、その後進出してきたアラブ人やイラン人に従い、 しだいにイスラーム教を受入れるようになっていた。

アッバース朝の衰退でイラン人が中央アジアにサーマーン朝が建国されると、その下でトルコ人の戦闘性が注目されるようになり、組織的 に戦 闘専門の奴隷=マムルークを育成するシステムが作られた。サーマーン朝はこの奴隷を各地の政権に「輸出」し、マムルークは各地の地方君主 の軍事力の中核となっていった。マムルークの特質である、主君に絶対忠誠を誓う性質から、彼らは君主の親衛隊に多く採用され、しだい に実 権を奪っていくことになった。そしてこのシステムは同時に、従来イスラーム国家の主力であったアラブ人やイラン人を国家の中核から排除す る結果を生んでゆく。

トルコ人の政権で最も早く成功したのが、十一世紀に中央アジアで建国したセルジューク朝である。セルジューク朝は建国者トゥグリル= ベク のもとで急速に拡大し、スンナ派の困惑を知るとブワイフ朝を圧迫し、1055年にはこれを滅ぼしてバグダードを制圧し、アッバース朝のカ リフを解放した。カリフはこれに感謝すると、トゥグリル=ベクに対し従来のアミールの称号に代わって、カリフの保護者としてスルタン の称 号を与えた。この頃にはアッバース朝の対抗王朝である後ウマイヤ朝も滅亡(1031年)しており、スンナ派のカリフは一人になっていて、 相対的にアッバース朝のカリフの地位は高まっていた。スルタンとはそのカリフが与えた新しい世俗の最高権力者の称号である。

この結果、従来あいまいであったカリフに代わる世俗の最高権力者の地位がスルタンということが確立した。これは同時にカリフが政治上 の実 権を完全に失うことを意味した。セルジューク朝はさらに、ブワイフ朝が広めた新支配制度イクター制(西アジア風の封建制)を継承し、西ア ジア全域に広めた。また、トゥグリル=ベクの子の時にはイラン人の宰相ニザーム=アル=ムルクによって国家体制が充実し、ビザンツ帝 国と のマンジケルトの戦いにも勝って、アナトリア半島(小アジア)を獲得することになっていく。これがこの後、小アジアがトルコ化してやがて オスマン帝国が勃興するきっかけとなり、また十字軍が起こるきっかけともなるのである。

セルジューク朝は、その支配が軍事力に大きく依存しており、また軍事力もマムルークに依存したため、権力の分散、王権の分裂という宿 命か ら逃れることはできなかった。イクター制も、スルタンが配下の軍司令官に活動資金としての土地を一時的に与える制度であったが、内政の混 乱と共に土地の世襲化・私有化を招くことになった。こうしてセルジューク朝は建国後100年も経たないうちに分裂していった。アナト リア 半島のルーム=セルジューク朝や、イランのホラズム=シャー朝はそうした分裂国家の一つで、王はいずれもスルタンを称していた。

このようなイスラーム世界が分裂状態に陥った時を、まるで見計らっていたかのように侵入してきた外部勢力がヨーロッパ人、十字軍の侵 略で あった。

■十字軍とイスラーム世界

十字軍については中世ヨーロッパの所で詳しく書いたが、それは「聖地奪還」に名を借りたヨーロッパ人による大規模な略奪戦争であった。領 土や聖遺物を求めて、多くの貧しいヨーロッパ人が豊かな聖地の人々を襲った。地中海東岸地方は彼らの支配下に置かれ、イスラーム教徒 内部 の分裂と、組織的なキリスト教徒の反抗で、第2回以後の十字軍の失態の連続にもかかわらず、なかなか撃退することができなかった。

本格的に十字軍を撃退した初めての人物がサラディンである。本当の名はサラーフッディーン=アイユーブであるが、キリスト教徒側に記 録さ れた名前のほうがあまりに有名なので、本書でもこれで通すことにする。

サラディンはイラクにあったセルジューク朝の分裂国家の一つの軍司令官だったが、キリスト教徒軍を次々と打ち破り、その実績から、弱 体化 していたエジプトのファーティマ朝の宰相にスカウトされた。そして王朝支配層内の信頼を勝ち取って、ついに1169年新王朝アイユーブ朝 を創始する。イスラームでは珍しいクルド人出身の王朝である。サラディンはスンナ派だったため、当然ファーティマ朝のカリフの位は受 け継 がなかった。この結果、カリフは再びただ一人になった。サラディンはその後もキリスト教勢力に攻勢をかけ、1187年にはついにイェルサ レムを奪回することに成功した。

これに危機感をおぼえたキリスト教徒側は、反攻をしかけてくる。第3回十字軍が、神聖ローマ皇帝・フランス国王・イギリス国王がそ ろって 大軍を集結させて聖地に向かった。イスラームの側でもこの情報が伝わると、動揺が走ったが、これはけっきょく杞憂に終わった。皇帝は小ア ジアの小さな川を渡る際に、不注意から落馬し、溺死してしまった。残ったフランス王とイギリス王は聖地に着いたのはいいが、ふとした こと からけんかを始めてしまい、フランス王が帰国してしまう。残るはイギリス王のみとなった。しかしこのイギリス王が大敵であった。イギリス 王リチャード1世は天才的な用兵で、次々とイスラーム側の領土を浸食していった。サラディンとリチャードの戦いがくり返され、結果は ほぼ 互角であった。しかしながら大勢としてのイスラーム側の優勢はくつがえらず、けっきょくリチャードは不本意なまま帰国することになる。そ してサラディンもまもなく亡くなる。

サラディン亡き後、聖地攻防戦の主力となったのはやはりエジプトであった。もっともアイユーブ朝も例にたがわずマムルークの力が強力 とな り、ついに1250年マムルークの一人に滅ぼされ、新王朝が建国される。この王朝は代々マムルークがスルタンとなったことから、マムルー ク朝と呼ばれる。この王朝は、内部ではマムルーク間の抗争が相次ぎ、一時は女性がスルタンになるなど違例ずくめな王朝だったが、支配 機構 は安定しており、王朝が保護するイスラーム商人(カーリミー商人という)がインド洋から東地中海の商業を支配したことで、首都カイロの発 展は最高潮に達することになる。しかしこの王朝が安定期を迎える前には大きな試練が待っていた。

マムルーク朝の建国の少し前、イスラーム世界の東方で大きな事件が起こっていた。セルジューク朝の分裂国家から発展し、イラン高原を 支配 していたホラズム=シャー朝(ホラズム王国)が突然モンゴル族の襲撃で滅亡したのである。モンゴル族が送った使者を虐殺した報復として滅 ぼされたのだ。しかしホラズムは仮にも大国であり、決して弱体な国ではなかった。それがモンゴル軍の一激で滅びたのである。さらに逃 げた 王族を追跡して、バトゥが率いる大軍がロシアから東ヨーロッパにかけて、その前に立ちはだかる勢力を次々と打ち破っていった。1241年 のワールシュタットの戦い(リーグニッツの戦いとも言う)では、満を持して迎え撃ったドイツ・ポーランド騎士連合軍が数時間で壊滅し た。

この新興勢力はいかなる者たちか、どのような考えを持っているのか。敵となるのか味方となるのか。ユーラシア大陸一帯に衝撃と関心が 渦巻 いた。アッバース朝やセルジューク朝の分裂国家からも使節や臣従の使いがモンゴルの宮廷に殺到した。十字軍の退勢に悩んでいたヨーロッパ 側からも、さっそくローマ教皇が動静を探るために、使者カルピニを派遣し、フランス王ルイ9世も同様な思惑でルブルックを派遣して提 携相 手にふさわしいか見極めようとした。この交渉はうまく行かなかったが、どういう相手なのかは、その後5年ほどたつと誰の目にも明らかに なっていった。

第4代大ハーンのモンケは弟フラグ(フレグ)を西方遠征に出発させた。目的はイスラーム世界の征服である。1258年にフラグの軍は バグ ダードに達し、アッバース朝建国以来のイスラームの中心都市が略奪、破壊された。これまでも諸勢力の間を巧妙に渡り歩いてきたカリフは、 この時も命乞いをしたが、フラグはこれを許さず殺害した。すでに200年近く前に実体がなくなっていたとはいえ、アッバース朝が 500年 の歴史を閉じて滅亡し、カリフがイスラーム世界から消滅した瞬間だった。イスラーム世界にとっての非常事態であった。

バグダード征服後もモンゴル軍の西進は止まなかった。当然次に狙われるのはシリアであり、エジプトである。建国したばかりのマムルー ク朝 にとって、とてつもない試練であった。

ここで登場するのが若きマムルークの司令官バイバルスである。彼は刻々と集められたモンゴル軍の行動、戦略を研究した。勝利の目はあ ると 考えたバイバルスは、1260年モンゴル軍が不馴れな砂漠の戦闘に持ち込んで、アイン=ジャールートの戦いで世界最強の軍団をうち破っ た。モンゴル軍は結局それ以上の西進を止めた。

実はこの前の年に彼の兄でありモンゴルの皇帝であるモンケが亡くなり、戦いが始まる頃にはフレグの実兄フビライと弟のアリクブケ、さ らに は従兄弟のハイドゥとの間で後継者争いが起こりはじめていた。フレグとすれば、関心は西方よりは東方にあった。彼は根拠地を東に移し、そ の後このイラン高原に国を作ることになった。イル=ハン国(フレグ=ウルス)の建国である。

フレグはアインジャールートの敗戦から5年後に亡くなり、イル=ハン国はその後1295年には第7代ガザン=ハン自らイスラーム教に 改宗 し、国全体もイスラーム化する。また、中央ユーラシアの大草原をめぐってロシアのキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)と対立するように なり、現地に根を下ろしたモンゴル勢力の関心は、北方および東方に向かったのである。こうしてイスラーム世界にとってモンゴルは脅威 では なくなった。

こうしたモンゴルの動きに翻弄されたのがキリスト教世界であった。ローマ教皇やフランス王はモンゴル軍の西進を強く望んでいたが、そ れは かなわず、イル=ハン国自体がやがてイスラーム化してしまう。フランス王ルイ9世の戦略はモンゴルの脅威の存在を前提としていたため、根 本から狂ってしまった。けっきょく彼が起こした2回の十字軍はマムルーク朝やチュニジアの地方君主に撃退されて失敗し、彼自身も最後 の十 字軍の最中に、失意のうちに亡くなった。1291年にはキリスト教徒が作った最後の国もマムルーク朝によって滅ぼされ、こうして十字軍は 2世紀足らずの歴史を終えるのである。

□ティムール帝国の興亡

■ティムール帝国の成立

チンギス=ハーンから5代かけて築き上げられた、史上空前のモンゴル世界帝国は、13~14世紀の間世界を支配した。この間内陸アジア は、モンゴル帝国によって打ち立てられた平和のもとで、空前の繁栄を謳歌していた。

しかし繁栄したのは内陸アジアだけではなかった。フビライによって、中国の南北が運河と沿海航路によって結びつけられると、従来から あっ た東西交易路のうち、草原の道と絹の道が海の道と結びついた。この結合で、最終的に利益を得たのが海の道だった。14世紀以降、海の道で は船の改良が進み、輸送のスピードと量において他のルートを圧倒していく。そして20世紀に世界的な鉄道網ができるまで、世界の運輸 手段 の中心であり続けることになる。これに対して陸上交通は、らくだや馬やロバが中心であったため、確実ではあったが、量とスピードでは劣っ ていく。しかし、14世紀までは取扱量の大半は陸上を通っていたのである。それは遅いとはいえ、安全・確実であった。ではなぜ、陸上 交易 が衰退したのであろうか。実はこれは、皮肉にも陸の王者モンゴル帝国が引き金となったのである。

話はモンゴル第5代皇帝をめぐる争いの場面に戻ろう。一時は大モンゴル帝国の中央部を支配したカイドゥ(ハイドゥ)も最後はフビライ に敗 れ、大内乱は収まり、モンゴルの統治下でユーラシア大陸には過去に例を見ないほどの貿易ブームが起こり、各国は空前の繁栄を享受すること になった。ローマ帝国にならってパクス=モンゴリカ(またはパクス=タターリカ)と呼ばれる状況である。しかしこの大帝国を14世紀 半ば に突如悲劇が襲う。正体不明の病気によって大帝国は混乱し、貿易網も社会も各地で寸断され、不安と不信感が大陸中に蔓延する。商業は互い の信用を前提とするため、できあがったばかりの「世界経済」は深刻な打撃をこうむった。貿易手段が海上貿易に移っていく傾向が強ま り、中 央ユーラシアの大国チャガタイ=ハン国もイル=ハン国も、社会の混乱と貿易量の衰退に悩まされ、内紛から分裂していった。この混乱の中、 表われたのがティムールである。

ティムールはトルコ語で「鉄」という意味で、チャガタイ=ハン国の貴族の子として生まれた。ただし貴族と言っても数人の従者を持つだ けの 名ばかりの貴族で、若い頃は盗賊のような生活を送っていたのだが、軍事・政治の才能に恵まれ、分裂と貧困化に苦しむ王国内でしだいに有力 者にのし上がっていった。面白いことに、その前半生は同時代の明の建国者朱元璋(太祖洪武帝)とよく似ている。

やがてティムールは中央ユーラシアの広大な領域を支配するようになり、1370年にはチャガタイ=ハン国を滅ぼしてティムール帝国を 建国 する。ただし、彼はチンギス=ハーンの子孫と自称していたが、直系の子孫ではないため、皇帝位ハーンに即位することはなく、彼の後継者も その一段下の地方君主の称号アミールで通した。しかしそれはあくまでも公称の話で、実質ティムールが皇帝であることは、誰も否定する こと ができない事実だった。

ティムールはすでに滅亡していた旧イル=ハン国領を征服し、続いてキプチャク=ハン国に攻め入って東部を奪い、キプチャク=ハン国か ら分 裂したトルコ系遊牧民のウズベク人が建てたシャイバーン朝も一旦滅ぼした。そしてイラン西部を進撃するうちに、逃げた現地の王族が助けを 求めたオスマン朝と戦闘になってしまったのである。

■オスマン朝とティムール朝

オスマン朝は1299年に小アジアに生まれたセルジューク朝の分裂国家の一つであった。開祖オスマン1世は気の良いおやじといった人柄 で、一度引き受けた約束は何が何でも遂行するという人柄で、人望を集めていた。オスマン朝が発展するのは、十四世紀末の皇帝バヤズィ ト1 世になってからで、その原動力が彼の父ムラト1世によるイェニチェリ軍の創出であった。

オスマン帝国では初期からデヴシルメ制と呼ばれた支配方式が行われていた。デヴシルメとは強制徴用という意味で、オスマン朝が多民族 の混 在する小アジアやバルカン半島の現実に対応し、キリスト教徒の子供で優秀なものをスルタンの奴隷として徴発してイスラーム教に改宗させ、 これに軍事訓練を施して親衛隊イェニチェリ軍とし、最優秀なものは軍や行政の高官になれるという制度であった。

徴発された者にとっては、普通なら決してなれない富貴な身分になれる。支配されるキリスト教徒側からすれば、いやな場面で直面するの はキ リスト教徒を棄てた恨みやすい人々であり、帝国の支配に対する反発が直接支配者側に来ることはない。ここまで読むとわかったかも知れない が、デヴシルメ制はマムルーク制度とよく似ており、そのヨーロッパ人版という性格である。

バヤズィト1世は1396年にはニコポリスの戦いでハンガリー王の軍を破り、バルカン半島における覇権を確立した。彼の次なる狙い は、地 中海東方最大の都市コンスタンティノープル市であり、古代ローマ帝国からの遺産を受け継ぐビザンツ帝国であった。そのバヤズィトのもと に、ティムールの攻撃を逃れてきた王族たちが助けを求めてきた。これを断わることは、オスマン朝の伝統に反する。彼はこれを了承し、 ティ ムールとの対決を決意した。

戦争はアナトリア半島中央部で行われた。1402年アンカラの戦いである。初めは地理感のあるオスマン朝が優勢だったが、最終的には 戦略 の差でティムールが勝利した。バヤズィトは捕えられ、オスマン朝は崩壊した。その後小アジアは再び群雄割拠時代に突入し、バルカン半島で もキリスト教勢力が回復した。

しかしこの戦いの頃、ティムールのもとに気になる報せが届いていた。はるかユーラシア大陸の東方で、一大政変が起こっていた。ティ ムール も属するモンゴル族は、13世紀半ばの大異変を契機に各地で支配権を失っていた。モンゴル本国(中国では元朝)もすでに明の太祖洪武帝に よって1387年に中国の支配権を失い、その後モンゴル高原に追いやられ、その後も断続的に続けられた遠征軍によって、息の根を止め られ ようとしていた。

遠征軍の司令官である燕王は、父の洪武帝の命令でモンゴル高原への玄関である北平(もと元の首都大都で、後の北京)を本拠地に、モン ゴル 族圧迫に成功していた。チンギス=ハーンの子孫たちは、燕王の遠征もあってこの頃は深刻な内部対立をくり返し、往事の勢いなど見る影もな い状況であった。多くのモンゴル貴族が中国風に改名し、燕王に従っていた。モンゴル高原の制圧にはもう一押しだったが、それが何とか 防が れていたのは、皮肉にも明朝内部の対立であった。

燕王の名声を怖れたのが第2代皇帝建文帝(燕王の兄の子)であった。洪武帝と違って軍事的才能もカリスマもない。叔父の燕王にはそれ があ る。ただ自分が、洪武帝の直系子孫と言うだけで皇帝でいられるのは分かっていた。そして常に朝廷の柱の陰で叔父と自分を比べる声のあるこ とも。

建文帝の政府は何かにつけて、燕王の対モンゴル政策の足を引っ張った。狙いは明らかである。いずれ決着をつけなくてはならなかった。 そし てこの戦いの先手を取ったのは燕王であった。

1399年彼は皇帝の近臣の失政を排除するため(難を靖んずる)と称して挙兵した。靖難の変(靖難の役ともいう)の発生である。戦い は燕 王の側が勝利した。1402年、彼は皇帝として即位する。成祖永楽帝である。

建文帝は混乱の中、不明死したとされた。建文帝の近臣に全ての責任が押しつけられた。しかし誰の目にも、真実は明らかだった。そうし た目 を怖れてか、あるいは彼の生涯の目的であった対モンゴル政策のためか、永楽帝はすぐに首都を北平に遷都し、北京と改称した。そして彼の最 大の関心事であるモンゴル勢力の息の根を止めるための戦略が次々と実行されていく。史上有名な、宦官鄭和の南海大遠征さえも、明朝の 勢威 を示すという以外に、この戦争の軍資金調達という側面があったくらいである。

話はティムールのところに戻る。永楽帝の即位はモンゴルにとって最大最強の敵が中国の支配者になったことを意味した。これを打ち破る こと は、すなわちモンゴルの救世主となることである。実現すればもはや老人となった彼の生涯最後の、そして最高の栄誉となるだろう。すでにこ の頃チンギス=ハーンの後継者と称していたティムールはそう考えたに違いない。アンカラでの勝利の美酒を味わうまもなく、ティムール は地 球の反対側、中国遠征の準備を始めた。

西アジアの覇者が攻めてくる。事実上の中央ユーラシアの支配者となっていた永楽帝のもとにもその報せはまもなく届いた。戦場となるで あろ う中央アジア一帯に緊張が走った。永楽帝のモンゴル遠征は即位後すぐに準備が始まっていたが、北方に向かう明の軍団の一部に、急きょ方向 転換の命令が発せられた。

ティムールは1405年に東方遠征に出発する。しかし、その大軍が中国に到達することはなかった。69才という彼の年齢がこの遠征を 許し てくれなかったのである。英雄はこの年の暮れ、遠征途中のオトラルの町で亡くなった。

■ティムール朝のその後

ティムール亡き後、その子たちの間で後継者争いが起こった。大帝国を継承したシャー=ルフとその子ウルグ=ベクの親子二代は帝国の再統一 に生涯を捧げたが、それでも帝国の分裂は止められなかった。二人は明と和平策を採ったため、中央アジア貿易が再開され、根拠地であっ たヘ ラートとサマルカンドを中心に、イスラーム文化が栄えた。二人はともに文化人として優れており、ウルグ=ベクなどは有能な歴史家であり天 文学者でもあった。サマルカンド郊外には天文台も作られた。

しかし帝国は、ウルグ=ベクが後継者争いの中で長男に殺され、後継者争いが続く中で周辺諸部族の侵攻と内部対立で帝国は急激に衰退 し、半 世紀後の1500年に滅亡する。

その頃西方では、一旦滅亡したオスマン帝国が、ティムール帝国が内向きの姿勢になったこともあって勢力を復活させていた。またイラン では この頃、土着化したトルコ人の部族集団がじょじょに統合され、ティムール帝国滅亡後の1501年イスマーイール1世がサファヴィー朝を建 国するが、間もなく1514年にオスマン朝と戦争になり、セリム1世に攻められ、国土の西半分を奪われてしまう。この時失われた領土 は、 その後1603年にアッバース1世によって回復された。またアッバースは、中央ユーラシアでもウズベク人のシャイバーン朝から領土を奪 い、主要都市サマルカンドを奪っている。彼の時代、首都のイスファハーンは中央アジア最後の繁栄を謳歌する。アッバース1世はまた、 ヨー ロッパ~インド間貿易を支配していたスペイン・ポルトガル連合王国の喉元に刺さったトゲであった要塞ホルムズ島を、イギリス軍の助力に よって奪回する。この時期こうしたスペイン・ポルトガルの植民地や要塞は、オランダやイギリスによってあちこちで奪われていたが、そ うし た動きの一環である。

この王朝はまた、イラン人の王朝であることを強調し、国王はイスラーム世界でよく使われるスルタンやカリフといった称号は使わず、 「シャー」の称号を使用した。シャーとはイラン人の間では、アケメネス朝以来のイランの大王という意味がある。またこの王朝では、他 の地 域では少数派のシーア派が国教として保護された。ただアッバース1世が死去すると、求心力を失って急速に衰退してしまい、最後はこれまで 抑え続けてきたシャイバーン朝に逆襲されて滅ぼされてしまう。

サファヴィー朝の滅亡後、その旧領域ではトルコ系部族の抗争が続く時代に突入する。やがて東方のアフガニスタンではアフガン人が自立 し、 イラン高原にはカージャール朝が成立する。またサファヴィー朝を滅ぼしたシャイバーン朝も内紛から、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、 コーカンド=ハン国の三国に分裂するが、これらはいずれも弱体であり、西方からオスマン帝国、北方からはロシア帝国の圧迫を受けるこ とに なる。

■オスマン朝の発展

オスマン朝は一時滅亡した後、15世紀初めには復活した。その後はティムール朝との友好関係樹立に伴い、国家の発展の方向を西方に向け た。メフメト2世の時代にはアンカラの戦い当時の領土をほぼ回復していた。しかしその後の発展を考える上で、なくてはならない要素 が、東 西貿易の重要拠点であり、地中海最大の都市コンスタンティノープルの征服であった。メフメト2世はこの都市を征服するため、数年の準備の 後、1453年に攻撃を開始した。そして激戦の末に、2000年間続いた大帝国は滅びたのである。

オスマン帝国はすぐさまこの都市に遷都し、聖ソフィア大聖堂はモスクに作り替えられた。また首都の名もイスタンブルと改められた。た だし これはあくまで俗称で、公式にはコンスタンティノープルのトルコ名コスタンティニエ。正式な変更は1930年トルコ共和国時代になってか らである。

この都市を得たことで、オスマン帝国の発展が促進された。メフメト2世の治世末期には黒海の対岸クリム=ハン国が属国となり、東西貿 易の 陸上ルートの重要拠点がほぼオスマン帝国の支配下に置かれた。そして一代おいたセリム1世の時代にオスマン帝国はさらなる大発展をとげる のである。

■オスマン帝国の発展と大航海時代

セリム1世の話を始める前に、その即位前に行われた重要な戦いの話から始めよう。ヴァスコ=ダ=ガマのインド到達以後、西方の新興軍事国 家ポルトガル王国は、アフリカ~インド洋沿岸に次々に要塞を建設し、その軍事力を駆使して香料(スパイス)貿易を初めとする東西貿易 を支 配していった。

このため、これまで香料貿易で潤ってきた紅海~エジプト~地中海ルートの取引量が激減し、この利益で栄えていたエジプトのマムルーク 朝お よびカーリミー商人は存亡の危機に陥った。急きょマムルーク朝は海軍を組織し、妨害者ポルトガルの支配を打倒しようと企んだ。こうしてマ ムルーク朝海軍対ポルトガル海軍の、西方貿易支配権を賭けた大海戦がインドで1509年行われた。ディウ沖の海戦である。戦いは海戦 に慣 れ、圧倒的な火砲を駆使したポルトガル海軍の圧勝で終わり、これを境に急速にマムルーク朝は衰退する。

この期を逃さなかったのがセリム1世であった。彼はまず長年国境争いをくり返してきたサファヴィー朝を攻撃し、チャルディランの戦い に勝 つと、領土の西半分を奪った。そしてすぐさま軍を引き返すと、さっそくエジプト征服に乗り出した。

まずシリア、そしてマルティン=ルターが95箇条の論題を教会の扉に張り出した1517年にはカイロを征服してマムルーク朝を滅ぼし た。 オスマン朝はこうして東地中海全域の支配者となった。同時に、マムルーク朝の支配下にあったメッカとメディナ、そしてイェルサレムという 三聖都を支配・管理する立場となったのである。この際、カイロでファティマ朝以来保護され続けていたカリフの子孫をさがしだし、イス タン ブルに連れて帰った。この後アッバース家のカリフは断絶してしまうが、その頃のオスマン朝は、たとえカリフの権威が無くても宗教面の最高 決定権を振るえる立場となったため、事実上スルタン=カリフ制が成立した(アッバース朝のカリフから位を譲られたという話は19世紀 に意 図的に作られた伝説で、事実ではない)。

その後もオスマン朝の発展は止まらず、さらに地中海を西へ拡大していく。セリム1世がわずか8年の短い治世を終えた。この間領土は3 倍、 人口は十倍近くに達している。1520年に即位したその子スレイマン1世は、西方の小国フランスの王フランソワ1世から持ちかけられた対 ドイツ(神聖ローマ帝国)同盟を受入れ、攻略を始めた。彼は1526年にモハーチの戦いでドイツ文化圏のハンガリーを征服した後、 1529年神聖ローマ帝国の事実上の首都ウィーンを攻撃した。オスマン朝の第一次ウィーン包囲である。

東方の大帝国の進撃はヨーロッパ中を震え上がらせた。包囲は2ヶ月に及び、ウィーンの陥落は間近かと思われた。しかし険しい山岳地帯 のバ ルカン半島で大軍を行動させるのは、20世紀のNATO軍でも非常に困難である。結局食料や武器弾薬、兵員の調達に悩まされ、まもなく冬 が到来するという理由でオスマン軍は引揚げ、神聖ローマ帝国皇帝カール5世はあやうく難を逃れた。

実はこの時期、カール5世は神聖ローマ帝国の分裂の危機にも直面していた。1517年に始まったルターの宗教改革に伴うドイツ国内の 宗教 対立、これに乗じたドイツ農民戦争の勃発、さらにはルターを保護するザクセン侯ら反ハプスブルク勢力との対立、そしてそれら全ての勢力の 陰で暗躍するフランス王の存在。もしこの時ウィーンが陥落していれば、それはハプスブルク家の帝国の崩壊だけでは済まなかったかも知 れな い。宗教改革の成功の陰には、オスマン帝国の存在があったのである。

こうしたオスマン帝国の存在は、その後のヨーロッパ諸国に大いなる脅威を与えた。オスマン皇帝の前に、いつかヨーロッパ各国の王が頭 を並 べて平伏す事態もあるかも知れない。もうそんなに時間はないのかも知れない。いそいで何か、状況を打開する方法を探さねばならない。多く のヨーロッパの支配者層の人々がそう考えただろう。そしてオスマン朝の支配から最も遠い、それゆえ最も時間的余裕があったイベリア半 島の 国々は、その「何か」を探すことにしたのである。

幸い彼らは当時、イスラーム教徒との一つの戦争に勝利を収めつつあった。国土回復運動(レコンキスタ)で彼らは、13世紀半ばにはイ ベリ ア半島の大半をすでに回復していた。のこるはイスラーム側最後の砦グラナダ市に立てこもるナスル朝のみであった。これを打倒するのは、地 理的にカスティリア王国かアラゴン王国の仕事である。人口150万ほど(滋賀県と同じくらい)のポルトガル王国の出番はなかった。そ こで 15世紀にポルトガルの王子の一人エンリケが奇妙な実験をし始めたのである。王立航海学校の設立であった。

この学校を作った目的は、伝説の「東洋のキリスト教徒の王プレスター=ジョン」を探すこと、ということだが、本当は東洋との貿易の魅 力が 大きかった。西洋と東洋との貿易は当時イタリア商人とイスラーム(とくにカーリミー)商人を介して行われていたが、それがオスマン朝の西 進で両勢力共にトルコの覇権に屈していた。オスマン朝の経済は当時ユダヤ人が担っており、当時地中海世界の三大商業民族がすべてオス マン 帝国の覇権下にあり、ヨーロッパ諸国は東方貿易の首根っこをオスマン帝国に握られていたのである。ポルトガルの王子がアフリカ西海岸から 東洋へいたる道を探すと言う(当時としては)無謀な事を言い始めても、それを止めるだけの理由は誰も持っていなかった。それに当時ア フリ カ西岸との貿易はすでに部分的に始まっており、交易で獲得された金と砂糖でポルトガルはかなりの利益を上げていたのである。1460年エ ンリケ王子が亡くなったときは、アフリカ探検事業の行く末が心配されたが、ガーナでの金鉱脈発見でそれも払拭され、事業は続行される こと となった。

そしてこの事業の成果が、1486年のバルトメウ=ディアスの喜望峰回りでのインド航路発見、そして1498年のヴァスコ=ダ=ガマ のイ ンド到達として結実した。

こうしたポルトガルの航海事業の成功は、ライバルであるアラゴン・カスティリア両国にとっても大いに刺激になった。折しも、1469 年に は両王国の王子王女が結婚し、十年後には両王国が合併し、人口500万の大国イスパニア王国(英語名スペイン)が成立した。スペインは 1492年最後のイスラーム王国グラナダのナスル朝を滅ぼすと、同年イタリア人コロンボ(英語名コロンブス)の、西方からのインド到 達の 提案を受け入れ、アジア到達競争の出遅れを取り戻そうとした。

このように、ポルトガル王国とスペイン王国の海外進出、いわゆる「大航海時代」の始まりにも、時代背景としてオスマン帝国の東進の影 響が 色濃い。以前はオスマン帝国が、ヨーロッパ人のアジア貿易を妨害したという説が流布されていたが、まともな政治勢力が、自らの依って立つ 産業基盤に不利な行動をするわけがないので、おそらくキリスト教徒側の、イスラーム教徒への敵対心から出た根拠のない噂であろう。も しか したら、オスマン帝国の覇権に屈したイタリア人やユダヤ人の商人が、混乱に便乗して東方の奢侈品を値上げした際の理由かも知れない。

■オスマン帝国の最盛期とその後

何はともあれ、オスマン帝国の東欧における覇権は確立した。つぎは、貧しい東欧ではなく、豊かな地中海域の覇権である。これは、十字軍以 来イタリア商人に奪われた商業上の権益をイスラーム側が奪回するという面もあった。それに気がつかないほどイタリア人も愚かではな い。す でにコンスタンティノープル攻防戦では、勝ち目が薄いのに、ヴェネツィアもジェノヴァも大兵力を送っていた。

オスマン海軍とヨーロッパ連合海軍の戦闘は1538年ギリシア近海で行われた。プレヴェザ海戦である。ちなみにこの戦いの1600年 前に はこの近くで、アントニウス・クレオパトラ連合軍がオクタヴィアヌス軍に敗れたアクティウムの海戦があった。

ヨーロッパ側はスペイン海軍を頭にしていたが、実質はヴェネツィア海軍が主力であった。オスマン海軍の司令官は、もとは北アフリカの 海賊 の頭だったウルージ、キリスト教徒からはバルバロッサ(イタリア語で赤髭)と呼ばれていた。

この戦いもオスマン側の勝利に終わり、オスマン朝は地中海の覇権も手にする。戦いに敗れたヴェネツィアは生き残るためにオスマン帝国 の覇 権を受入れるしかなかった。こうしてカール5世はまたしても、一つ、南方からイタリアへの圧力という不安を抱くこととなった。

スレイマン1世はこの後、亡くなるまで北アフリカの征服を行い続けた。西欧諸国は東からも南からも、完全にオスマン朝に包囲されたの であ る。

このような四面楚歌の状況の中でカール5世は亡くなった。彼のやり残した事業を継いだのはスペイン王位を継いだ息子フェリペ2世だっ た。 幸運なことに、フェリペ2世には、追い風が吹いていた。先ほど述べたように、1545年南米でポトシ銀山が発見された。この銀山から産出 される銀は発見から50年間で1万8000トンにのぼり、スペインからヨーロッパ中にあふれた。この結果、銀の価値は下がり、銀貨の 価値 は以前の三分の一に下がってしまうことになる。フェリペ2世が、その意味を理解していたかどうかは分からないが、莫大な富を対オスマン帝 国戦争、そして対宗教改革・宗教戦争に投入したからである。

1571年オスマン艦隊に対する復讐戦がギリシアで行われたレパント海戦であった。今度の主役は名実ともにスペインである。スペイン 艦隊 の大量・最新型の大砲が火を噴き、プレヴェザでヨーロッパ人を震え上がらせたオスマン艦隊は、得意の接近攻撃をする間もなく次々と沈めら れていった。

しかし海上では敗れたオスマン帝国も、陸上ではまだしばらくは敵なしであったし、レパント海戦の後には勝者連合が仲間割れで分裂して しま い、あきれたヴェネツィアはさっさとオスマン帝国と和解してしまい、結局は制海権は揺るがなかったのである。オスマン帝国の覇権が揺らぎ 始めるのは、100年後の第二次ウィーン包囲がポーランド王の真っ向からの攻撃で大打撃を被り、「オスマン帝国怖れるに足らず」とい う意 識をヨーロッパ側が持ったときであった。しかしその後でもオスマン帝国はまだまだ巨大な脅威であり続け、その存在はヨーロッパにさまざま な影響を与え続けた。

たとえば18世紀に帝国宮廷でチューリップ栽培がブームとなり、珍種が高値で取引されるようになると、利益に敏感なオランダ商人が さっそ くトルコ原産のチューリップの品種改良に乗り出し、さまざまな新種を生み出した。現在オランダ=(イコール)チューリップのイメージとな るのはこの時に始まる。これに影響されて、投機的なチューリップブームが西欧で起き、まだどんな花が咲くかわからない球根が法外な高 値で 取引されるといったことも珍しくなかった。しかし、こうしたブームの張本人のオスマン皇帝が政変で失脚すると、各地で商人の破産が続出す るというチューリップ・バブルの崩壊と呼ばれる事件も起きた。

そしてこの18世紀のオスマン帝国は、やることなすことが裏目に出るという、末期症状の国家にありがちな状況に陥った。周辺諸国が 次々と 独立、領土が縮小し税収も減少、少なくなった財源を奪い合う国内勢力、それに反発してますます分離独立が進むという悪循環に陥る。中でも 最大の失地は、19世紀のエジプトの独立であった。穀倉地であり最大の人口を誇るエジプト無き後のオスマン帝国は、坂を転げ落ちるよ うに 衰退してゆく。第一次大戦敗北後の1922年のトルコ革命でオスマン帝国は消滅したが、そのときの領土は、くしくもオスマン1世から 100年後頃の、帝国が立ち上がった当時のものであった。

ちなみにオスマン帝国は、かつてオスマン=トルコと呼ばれたり、単にトルコ帝国と呼ばれたりした。しかし近年分かってきた帝国の実態 から すると、この呼称は正確ではない。

オスマン帝国では、当初は皇帝は皇后を置かず、後継者は皇帝の後宮(ハレム)にいる女奴隷の産んだ男子から選ばれる仕組みになってい た。 そして後宮の女性はその多くがヨーロッパや地中海東岸周辺の属国や友好国のキリスト教徒国家から、貢納の一部として送られたり海賊にさら われた者が売られたりしてやって来て、そのほとんどがコーカソイド(いわゆる白人)だった。となれば当然、皇帝は次第にコーカソイド の血 が強くなる。また政府高官たちも、デヴシルメ制やイェニチェリ制などでキリスト教徒が、ある者は改宗してその地位に就くが、中には宗教を 保持した就く者もいた。つまり、皇帝も政治・軍事の組織も共に、「トルコ人」色が薄い国なのである。したがって、オスマン帝国を「ト ルコ 帝国」などと表すことは間違いであり、何より当時の支配層そのものが、自分たちをトルコ人とは考えていなかったのである。実際、19世紀 にフランスに赴任した帝国公使がパリで「トルコ人」と呼ばれてショックを受けたという記録が残っているのである。

■インドのイスラーム王朝

インドにイスラーム教が浸透し始めたのは、アッバース朝の一時的支配からかなり時間がたった後だった。

十一世紀にインドの西北の高原地帯アフガニスタンに、サーマーン朝の分裂国家ガズナ朝ができた。その王が、インド北部の分裂状態に乗 じ て、しばしば略奪的な遠征を行った。しかしガズナ朝も例によってマムルークが実権を握るようになって、半世紀後にはゴール朝に取って代わ られる。ゴール朝も同様にインドに略奪的な遠征を行なっていった。そしてその過程で北インドの支配権を握るようになっていった。た だ、こ の段階ではインドをイスラーム政権が一時支配したというだけのことである。

イスラーム教がインドに浸透するようになったのは、この両王朝のインド侵攻が起こるのと同時期に、イラン方面から広まってきたイス ラーム 神秘主義派の修行者(スーフィー)がインドに布教を始めたからであった。スーフィーとはアッバース朝期からイスラームの知識人(ウラ マー)が時の政権に重用され、一種の官僚のような扱いとなったために、生活は安定した一方で民衆からは遠い存在となったのと同時期に 出て きた人びとである。本来イスラーム教には布教を行う人などいなかったのだが、例外的に彼らは積極的に民衆に向かって教えを説いていた。そ の教えは分かりやすく、神秘的な手段で神アッラーに近づく手段があると主張するもので、当初は主流派から異端視された。しかし11世 紀末 セルジューク朝期に活躍した哲学者ガザーリーによってその思想が公認されて以来、じょじょに広まっていった。多くのスーフィーは毛皮一枚 だけをまとって、わずかに鉄鍋や大きなスプーンだけしか持たずに、各地を放浪して教えを広めていった。彼らは別名ダルヴィーシュとも 呼ば れ、民衆にとって最も身近なイスラームの教え手であり、聖者として扱われる者も多かった。インドや東南アジア、アフリカなどにイスラーム 教が広まっていく上で、スーフィーの活動が果した影響は非常に大きかった。まずスーフィーの小さな波が伝わっていき、その後でスンナ 派な どの正統イスラーム宗派が押し寄せていったのである。決してその逆ではなかった。

インドにおいてはスーフィーの持つ神秘性は、ヒンドゥー教でたまたまよく似た考え方の聖者信仰(ヒンドゥー教のバクティ信仰)が広範 囲に 存在していたことで、一般民衆にとって分かりやすかったことが、インドでイスラーム教が広まる原因となった。

1206年、モンゴル高原でチンギス=ハーンが皇帝に即位した年、アフガニスタンのゴール朝が崩壊した。そのゴール朝のマムルーク司 令官 の一人アイバクが、支配を担当していたインドで自立して奴隷王朝(インド・マムルーク朝)を建国した。これ以後約300年間、ちょうどモ ンゴル帝国~ティムール帝国とほぼ同じ期間、北インドをマムルーク政権が支配する。王朝は奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サ イィド 朝→ロディー朝と変わるが、この間新王朝を前王朝のマムルークが建国するパターンが続き、都もデリーであり続け、政策もほぼ一貫してい た。そこでこの5王朝をひっくるめてデリー=スルタン朝(デリー=スルタナット)という。

1526年再び新たな嵐がアフガニスタンからやってきた。ティムール朝の王族の一員であるバーブルが、王朝滅亡後の混乱から逃れてイ ンド に侵攻してきたのである。パーニパットの戦いが行われてロディー朝は壊滅し、インドのモンゴル王朝ムガール帝国が成立する。

バーブルはさっそくデリーに都をおいてインド支配を始めたが、建国後わずか4年で亡くなってしまう。あとを継いだ二代皇帝フマーユー ンの 支配はまだ弱体で、近隣のヒンドゥー王朝との戦闘に敗れると、王朝は崩壊してフマーユーンは隣国イランのサファヴィー朝に亡命せざるを得 なかった。彼はサファヴィー朝の援軍を得てようやく王朝を再興した。

この弱体王朝が大発展をしたのは三代皇帝アクバルの時であった。ちなみにアクバルとは「偉大な人」という意味で、イスラーム教徒の祈 りの 決まり文句アッラー・アクバル(神は偉大なり)は、アクバル帝時代のインドでは「アクバルは神のごときである」という意味となる。

アクバルの治世の初期は父帝同様弱体であったが、近隣のヒンドゥー王朝である勇猛な民族として有名だったラージプート族との和解が発 展の きっかけとなる。アクバルは和解の証として、イスラーム国家では必須であった、異教徒に対する税ジズヤ(人頭税)を免除した。これでラー ジプート族の協力すなわち軍事力を手に入れたムガール帝国は強力であったし、次々とヒンドゥー融和政策を広げたため、あっという間に イン ドの大半が彼の支配を受け入れ、南インド諸国やアフガニスタンなど北方の国々も支配下に入った。直接支配したのは北インドのみであった が、実態はグプタ朝以来の全インド統一王朝の出現であった。

しかしアクバルの政策は、インドの支配者としては正しかったが、イスラーム教徒としては聖法シャリーアを逸脱している(インドの高位 の法 官はこれを承認していたので、法的には問題なかった)。アクバルはイスラーム教徒が集住する都市デリーを逃れて新都アグラに遷都せざるを 得なかった。この点はアクバルも気が引けたと見えて、難問を解決するために、わざわざ新しい宗教「神聖宗教」を創始しようとさえし た。こ れには失敗したが、こうしたアクバルの政策は、その後も5代皇帝シャー=ジャハーンまで受け継がれる。そのシャー=ジャハーンは、早死に した愛妻を祀るために葬祭宮殿タージ=マハルを建造したので有名な皇帝である。

しかし6代皇帝アウラングゼーブはアクバルの政策を受け継がなかった。彼は厳格なスンナ派の教師に育てられたこともあって、イスラー ム君 主としては正統派となる政策を実施する。それがジズヤ免除の廃止(ジズヤ復活)であった。また、支配下のシーア派やヒンドゥー教徒に対し ても抑圧的な態度に出た。その結果起こったのが支配下の諸国の反発であり、全インド征服戦争であった。その結果ムガール帝国の領域は デカ ン高原南部に及び、史上最大の領土となった。しかしそれは不満を抱えたままの支配であり、強大な軍事力とそれを維持するための重税に支え られた支配であった。

アウラングゼーブの死後に不満は爆発する。口火を切ったのはラージプート族であった。次々に諸勢力が自立し、大帝国は名目的には全イ ンド の支配者であるが、実態はデリー市周辺だけを支配する、建国当初の弱体国家に戻っていた。そして、後のインドの歴史を左右する大戦争プ ラッシーの戦い(1757年)には関与することさえできなかったのである。


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