世界史,歴史,大学入試,認知心理学
『世界史読本』
◇モンゴル帝国と元朝
■モンゴル帝国の誕生
紹興の和議が成立してから半世紀ほど経って金と南宋の関係がすっかり安定し、そして金の支配が弛み始めた頃、モ
ンゴル高原に変化が起きていた。
金の前の契丹帝国が滅びて以降、モンゴル高原の諸部族は金の支配を受け入れていた。しかし労せずして南宋から得られる歳幣は、しだい
に金
の支配層の経済感覚をおかしくして財政は悪化する。その一方で辺境のモンゴル高原への関心が薄れ、その支配方針は次第に場当たり的になっ
ていき、遊牧民には不満が高まっていった。そこに民族を再統一する勢力が現われた。それがチンギス=ハン率いるモンゴル族であった。
チンギス=ハンは、幼名をテムジンという。生年は不明で、1155年から1167年まで諸説ある。ちなみに、チンギス=ハンは源義経
が衣
川の戦いで死なずに大陸に渡って名前を変えたという話があるが、源義経は1159年生まれだから、ほとんど同じ時期に生まれたのは確かで
ある。
テムジンはモンゴル高原を統一し、モンゴルの部族長の会議クリルタイで皇帝に即位した。モンゴルでは皇帝の称号をハンという。チンギ
ス= ハンの誕生である。
ちなみに高原の覇者の呼称は、匈奴の時代は単于(ゼンウ)であったが、北魏以降、柔然や突厥の時代には可汗(ハガン)と呼ばれ、それ
がモ ンゴルの頃はハンとなった。
本題に戻ろう。チンギスは、高原を統一した後、これまでの北方民族王朝とは異なった行動を示した。これまでなら、南下して中国王朝と
何ら
かの関係を結ぶことが多いのだが、チンギスはそうせずに、西方に目を向けた。理由は簡単で、彼らの南方には、衰えたとは言ってもまだ強力
な金王朝が存在していたからである。
西方には、西遼(カラ=キタイ)があったが、当時は内紛で滅亡したばかり、地域一帯が混乱の中だった。チンギスはこれを一気に制圧す
る
と、続けて中央アジア全体を制圧した。当初はそこらで止めるつもりだったが、イランの大国ホラズム王国がモンゴルの使節を斬殺したため、
あっという間にこの国を滅ぼした。この事件はユーラシア一帯にモンゴル帝国の存在を強烈にアピールした。
チンギスはその後、西夏王国も滅ぼし、金との戦いでも次々と勝利を収め、一代で大帝国の発展の基礎を築き上げた。
モンゴル軍の強さの源は、なんと言っても軍事組織にある。騎馬を駆使した千戸百戸制と呼ばれる軍事組織は、非常に機動力に富み、持続
力に
も優れていた。モンゴル軍の弓は軽くて強く、鉄砲が発明される以前の最強の武器の一つと言われている。それを神速と言われるスピードをも
つ騎馬軍が使いこなし、20万人の軍勢がわずか5年間でユーラシア大陸の東西までを制圧できるほどの威力を持っていたのである。そん
な彼 らに勝てる国は、当時はもちろん、過去にも無かったことだろう。
二代皇帝オゴタイ(オゴディ)の時代には、ついに金を滅ぼすことに成功した。このためモンゴル帝国は、漢民族の南宋と淮河で国境を接
する
ことになった。ただし、まだこの時代には、河川や湿地が多い中国南部を制圧する方法を身につけていないため、南宋との全面戦争は行われて
いない。
モンゴル帝国はオゴタイの時代まで、皇帝の所在地を定めていなかったが、この頃初めてカラコルム(中国名は和林)に首都を定めてい
る。た だし首都と言っても、中国風の都市ではなく、常設の遊牧用テント(ゲル)の集合体といった形式だった。
オゴタイの時代に征服はさらに進められ、弟のバトゥは、ロシアを通ってヨーロッパに侵入し、1241年にはドイツ諸侯の連合軍をワー
ル
シュタットの戦いで破り、近くのリーグニッツ城に攻め寄せた(このためリーグニッツの戦いとも言う)。この勝利の後も、バトゥはさらに
ヨーロッパ奥深くに侵入しようとしてイタリア近くのアドリア海にまで軍を進めた。しかし、ここでローマ教皇の特使と会見した頃にモン
ゴル 軍には重大な知らせがもたらされた。皇帝オゴタイが亡くなったのである。
有力な帝位継承者であったバトゥはモンゴルに帰らねばならなかった。征服は中止され、モンゴル軍は東方に去った。ヨーロッパは絶体絶
命の 危機をすんでの所で救われたのだった。
結局バトゥはクリルタイには間に合わず、ロシアまで行ったところで新皇帝が決まったという知らせが届いた。彼はそのまま南ロシアのキ
プ
チャク平原に本拠を置くことになった。後に彼はあたり一帯を分国として与えられ、キプチャク=ハン国(キプチャク草原にあったのでこう
ヨーロッパ側から呼ばれたが、正しくは彼の父ジョチの一族の国という意味で、ジョチ=ウルスである)とよばれた。
クリルタイで選ばれた新皇帝(第3代)は先帝オゴタイの子グユクであるが、これにチンギスの末子(オゴタイにとっては末弟)トゥルイ
の一
族が反発した。実はもともとモンゴルでは、漢族と違って長子相続ではなく末子相続が一般的で、本来ならチンギスの末子トゥルイがハン位を
継ぐはずだったのである。だがトゥルイが固辞したため、そのすぐ上の兄オゴタイが帝位を継いだという経緯があったのである。モンゴル
人の
感覚では、オゴタイは一時的なつなぎの皇帝であり、その死後は本来帝位になるはずのトゥルイの家系が継ぐべきなのだと考えられていた。な
のに、オゴタイの妃と家臣たちの策略でグユクの即位となったのである。反発は当然だった。
しかしグユクは即位後わずか2年で病没する(暗殺説もある)。この間、ローマ教皇の使いプラノ=カルピニがモンゴルに来て、西欧とモ
ンゴ ルとの交渉を行う(十字軍の支援を要請した)が、これは失敗に終わっている。
グユクの死後は、南ロシアに根拠地を持つバトゥの支援もあったため、トゥルイの長男のモンケが皇帝に即位した。モンケは二人の弟に征
服活
動を命令する。まず、すぐ下の弟フビライには中国征服を、そして次の弟フラグには、西アジア征服を命じた。フビライは南宋を攻撃し、手始
めに作戦の一環として雲南地方の大理国を征服する。一方でフラグは1258年にはアッバース朝の都バグダードに到達し、あっという間
に征
服してしまった。そして、アッバース朝のカリフを殺害し、751年から続いていたこの王朝のとどめを刺した。イスラム世界からカリフがい
なくなったのである。
ちなみに、この頃の西アジアでは、十字軍が建てた国々がイスラム側の反撃で、滅亡の淵まで追い詰められていた。そんな時にカリフを殺
した
新手の集団がやってきたのである。彼らはモンゴルの襲来を、伝説の東方のキリスト教国からの援軍がやってきたと勝手に勘違いして大喜びし
た。ところが喜びに沸くヨーロッパ人を尻目に、フラグは軍の一部をシリアに残してモンゴル高原の方向に移動させてしまった。実はこの
頃、 中国から皇帝モンケ死去の報せが届いていたのである。
一方でこの頃のエジプトでは、モンゴル軍の到来が危機感を生んでいた。十字軍勢力がこれと結び付いて、シリア方面の支配権が奪われる
こと
を恐れたのである。エジプトにあったマムルーク朝では、将軍バイバルスをパレスティナ地方に派遣し、アインジャールートの戦いでモンゴル
軍の残存部隊をうち破った。これでモンゴル勢力がシリア方面から一掃され、マムルーク朝の支配が確立された。
一方この間のフラグはと言えば、モンゴル帝国の帝位をめぐる東方の動向、すなわち第5代ハンをめぐる兄フビライ一派と末弟アリク=ブ
ケ一
派の争いに関心を向けざるを得ず、さらにはこの争いの余波で、キプチャク=ハン国やチャガタイ=ハン国と間に亀裂が生じており、北方への
備えが常に必要となっていた。こうしたことから、もはやフラグの西方への進出は不可能になった。状況はキプチャク=ハン国も同様であ
る。
こうしてウィーンとカイロから西の世界は、これ以上のモンゴルの征服から救われたのである。結局フラグはイランを根拠地とすることにし、
ここにイル=ハン国(これも正式にはフラグの国フレグ・ウルスと言う)を建国する。
■モンゴルの平和……元と3ハン国の成立
こうしてモンゴル帝室の内紛は、4代モンケの死後に爆発した。南宋攻撃の戦中に亡くなったモンケの直属軍団は、そのまま弟のフビライに引
き継がれた。末子相続の原則がすでに破られていた状況の中で、モンゴル高原では末弟のアリクブケが当然のように次の皇帝に即位する準
備を
進めたのに対し、フビライはモンケ軍の吸収で巨大な勢力となり、内モンゴル(モンゴル高原のうち中国に近い地域)で独自にクリルタイを開
いて皇帝に即位した。あわてたアリクブケもこれに対抗して即位する。こうしてモンゴル帝国は、二人の皇帝が並立する時代を迎えた。
この争いは、まもなくアリクブケの敗北で決着したが、その後もオゴタイ家のハイドゥが中央アジアでチャガタイ家やジュチ家と提携して
反抗 を続けたので混乱は続いた。これをハイドゥの乱という。
この間、モンゴル帝国本国と各ハン国は互いに対立し、かつてのような世界征服活動は実行不可能になった。しかし乱が収まった後はふた
たび
ユーラシア大陸の中央部は安全となり、陸上交易は史上空前のにぎわいを見せるようになった。ちなみにこの頃、フビライ側について功績を挙
げたと言う事で、チャガタイ家の分国が認められている(チャガタイ=ハン国、またはチャガタイ=ウルス)。
モンゴル帝国による通商保護政策の下で、各地にジャムチ(中国では站赤)と呼ばれる宿駅が設けられ、役人はもちろん、旅行者や商人ま
でが 設備を自由に使えることができて、交易の安全性は従来より格段に高まった。
モンゴル帝国が商業を保護したことは、帝国の官僚に多くの色目人(中央アジア出身者の中国での呼び名)を採用したことでも分かる。彼
らは
大ハンに保護され、色目人のやりかたで中国の農業や商工業に投資を行い、利益を回収した。それは経済的には現代とまったく同じ理念で行わ
れる、非常に合理的な経済行為だったが、中国の伝統とは明らかに異なる方式だったため、中国人は激しく反発した。また、フビライの側
近の
中には信頼を利用して私腹を肥やすものもいたが、大多数の色目人は職務に忠実だったようである。だいたい、例え色目人が貪欲で私利の追求
に熱心だったとしても、それがこれまでの漢民族王朝の特権官僚よりひどかっただろうか。モンゴル帝国統治下の中国経済の繁栄ぶりを見
ても 答は明らかだろう。
■元朝の征服活動
フビライは即位後すぐにモンゴル本国の体制を一新する。まず、中国人向けに初めて元(正式には大元)という国号を命名した。さらに行政府
として、中書省を置き、さらにその下には六部を置いて行政の中心組織とした。しかしこれはあくまでも漢民族など華北に住む農耕民族を
統治
するための組織であり、モンゴル貴族や中央アジアの民族はまた別の組織で治めた。元朝はこの点、遼や金と同じ姿勢で漢民族に接したのであ
る。それに、中書省にしても六部にしても、構成員はモンゴル貴族だった。また近年の研究によれば、モンゴル貴族と言っても民族的には
漢民
族を含め様々な民族が含まれており、かつて言われていたような「モンゴル至上主義」という言葉では表現できない状況だったようである。
フビライは西方でのハイドゥの乱に苦しみながらも、彼は新しい帝国の足場を中国に築こうとした。帝国名を中国風にしたのもその一環で
あ
り、組織も一見中国風に変えたのもその表れだった。しかしまだ中国には漢人王朝の南宋が健在であり、これを征服するまでは安定した帝国支
配を行うことは難しかった。
元の南宋征服計画は、先述したようにモンケの時代から行われていたが、フビライ即位時の混乱で中断され、アリクブケを破った後に再開
され
る。そして再開後10年ほどたった1276年に南宋は都の臨安を奪われ、王朝としては機能を停止する(最後の皇帝が亡くなるのは、この3
年後の厓山の戦い)。
フビライの征服活動は、南宋の征服だけにはとどまらなかった。まず南宋への攻撃に取りかかる前に、背後の安全を確保する策を進める。
東方
では朝鮮半島に激しい攻撃を行い、高麗王朝を服属させた。高麗では以後、皇太子となる皇子は、幼時から即位直前まで元の宮廷で過ごすこと
が義務づけられる。これは皇太子を人質にする以外に、将来の高麗王を親モンゴル派にする目的があった。ちょうど19世紀末から20世
紀初
頭の第二次大戦時まで、イギリスがインドなどの植民地支配者層の子弟を、イギリスに留学させていた制度と共通の目的を持っている。しかし
そうした留学生の一人ガンディーが、後に反イギリス勢力の中心になったように、この人質策も必ずしもうまく行ったわけではなかった。
朝鮮の服属後は、日本が狙われた。ただし海を渡って日本を征服することには、河川の多い南宋を攻める以上に困難が予想されたため、当
初日
本に対しては、服従の態度さえ示せばそれ以上のことをする考えはなかったようである。しかし日本はこの形式上の服従さえも拒否した。鎌倉
幕府は若き執権の北条時宗を中心として断固モンゴル使節を無視したのである。これではモンゴル側も強攻策をとらざるを得ない。こうし
て日 本侵攻作戦(日本では蒙古襲来、江戸時代からは元寇)が行われる。
1274年に第一次日本遠征が行われる(日本では文永の役)。戦力は高麗軍が中心で、これに女真人など旧金朝の人間が加わり、モンゴ
ル兵
はごく少数だけだった。この戦争は緒戦は日本軍の完敗だった。日本の伝統的戦闘開始の儀式である「名乗り」(日本ではこれが行われている
最中は攻撃してはならなかった)を行っている最中に攻撃されたり、一騎打ちを求めた武者が元軍から集中攻撃されたり、火薬を使用した
新兵 器を使われたりと、日本人にとってはカルチャーショックといっても良い戦争だった。
しかし日本軍も半日程度で戦闘法の違いに馴れたので、そこからは戦争の形になっていった。戦争は幸い元軍が撤退の際に大混乱を起こし
て潰
走したため勝利で終わった。モンゴル側もあまり本気で戦争をする気はなかったため、第一次侵攻はそれきりだった。一般にはこの時最初の神
風が吹いて元軍が壊滅したとされているが、そのような記録は存在しない。
その後の対日作戦は、南宋攻撃が本格化したために中断されるが、南宋の滅亡後の1281年に再開される(日本では弘安の役)。フビラ
イは
すでに使者を二度も送っていたが、二度とも鎌倉幕府によって殺害された。この外交常識を無視した対応にフビライは怒り、二度めの攻撃は史
上最大の作戦規模になった。
江南から出発した江南軍などは、3500隻の大船団に、十万人の軍人が乗り込んでいた。三百年後にイギリスを占領しようとした、当時
史上
最強と言われた無敵艦隊でもたった130隻である。フビライの海軍はその30倍もあったのである。ちなみに、東シナ海でこの規模の軍事行
動が行われたことは、この後現在に至るまで一度も無い。まさに人類史上最大の作戦だったのである。しかし無敵艦隊同様、大軍が必ず勝
つも のではない。
今回は一度目と違って、日本側にも準備ができていた。防衛線は堅固になっており、武器の違いにも対応ができていた。日本側の弱点はほ
ぼ解
消されていたのである。さらに好運も味方した。開戦の日の深夜、現場を暴風雨が襲い、モンゴル側の大艦隊はほとんどが甚大な損害を受けて
しまったのである。艦隊は日本側に拿捕されるか沈没するかしかなかったと思われている。実はどれほど損害があったのか今でも分かって
いな い。何とか帰ることができたのはせいぜい1~2割でしかなかったようだ。
フビライはその後も日本に対する三度目の侵攻作戦を計画したが、その後他の地域での作戦が本格化したため、結局行われることはなかっ
た。
その「他の地域」として、フビライは南方の東南アジア諸国に対して積極的に軍事作戦を開始する。
まずヴェトナムに対しては、北部の陳朝大越国に侵攻するが、失敗する。ヴェトナム南部のチャンパー王国に対しても、弘安の役の後に二
度に
わたって侵攻するがいずれも失敗に終わる。ビルマ(現在のミャンマー)のパガン朝にも雲南地方を越えて攻め込み、これは1287年に攻め
滅ぼすことに成功した。続いてジャワ島のシンガサリ王国にも遠征軍を送り込むが、これは現地の人々の抵抗で失敗に終わった。この後
ジャワ では、この事件をきっかけに新国家のマジャパヒト王国が成立する。
■世界の一体化のはじまり
このように、フビライの遠征は必ずしも成功したとは言えないように思われるが、軍事行動というものは征服することが全てではない。実際に
はこうした一連の遠征が圧力になり、モンゴル帝国統治下の商人の乗った中国船は、東シナ海から南シナ海、そしてインドのベンガル湾ま
での
交易ルートをほぼ独占するのである。さらにインドから西は、イル汗国統治下のムスリム商人が交易ルートを握った。陸上でも内陸部はチャガ
タイ=ハン国やキプチャク=ハン国、そしてイル=ハン国が交易を支配していたので、当時の陸海の交易は、全て事実上モンゴル勢力の管
理下 に置かれたである。フビライの狙いは十分に達せられたのだった。
ただしモンゴル人たちは自分たちが貿易の実務に向いていないことはわかっていたので、それは全て中国人やイスラム教徒の商人にまかせ
てい
た。モンゴル人は、あくまで支配者として、そして投資家、管理者として収益を最大にするために尽力しただけだった。モンゴル人は自分たち
のことを実によくわかっていたのである。
元朝の支配の時代、ユーラシア大陸は、東から西まで同一の支配勢力の下、安定した政治情勢を享受していた。後に「パクス・モンゴリ
カ」あ
るいは「パクス・タターリカ」と呼ばれた時代だった。これは100年余りしか続かなかったが、この間に人類は大きな変化を経験したのであ
る。世界史上はじめてユーラシア大陸が中央部で太く一つに結ばれ、西洋は東洋を直接知り、東洋も西洋を知ったのである。以前ならおそ
らく
年にごくわずかな人間しか経験したことのなかった大旅行を、何百何千という人たちが、モンゴル族がもたらした秩序と手段(ジャムチや海
港)を使って体験していったのである。
イタリア人マルコ=ポーロは大都(今の北京)でフビライに謁見し、中国での見聞をヨーロッパに持ち帰った(『世界の記述』通称は『東
方見
聞録』。ただしマルコ=ポーロが実在した証拠はない)。そしてモロッコ人のイブン=バットゥータがヨーロッパ・アジア・アフリカの三大陸
を旅行し、記録を残した(『三大陸周遊記』)。彼らの旅は、後漢の甘英や唐の玄奘の旅と違って、管理されたルートを利用した安全なも
の だったのである。
13世紀に一度は確立されたシステムの記憶は世界中に残った。モンゴルの大帝国が滅びた後も、一度確立されたノウハウは無くなること
はな
かった。また、それが復活することを願う人々は大勢いた。こうした期待を背景に、自らの勢力を拡大していったのが、14世紀末のティムー
ルであり、明朝であり、16世紀のオスマン帝国やサファヴィー朝、ムガル帝国であり、17世紀のロシア帝国や清朝だった。民族も文化
も違
うが、こうした国々は諸民族を多元統治することが上手かった。それ故、こうした国々はいずれも巨大な領域を中央政府が一元的に治めるのが
上手かった。また基本的に通商路の安定とそれがもたらす富は歓迎されたのである。
■モンゴルの中国統治
元が、漢民族を征服し支配した遼や金と違うのは、中国文化に対する距離である。遼と金は、しだいに自らと比べて高度な中国文化に傾倒する
支配者層が増大し、民族本来の戦闘性を失って弱体化してしまった。そして最後には多数派である漢民族に飲み込まれる形になって滅んで
いっ た。
しかしモンゴルは既にこのころまでにもう一つの優れた文明であるイスラームに接触しており、漢民族の文化を相対的に見ることができ
た。官
僚の登用に関しても、実力主義が取られ、漢民族出身者であっても、有能なものは高位に進むことができたのはこうした理由である。したがっ
て、フビライの時代には、科挙もその必要性を認められずに停止された(後に中国文化オタクの仁宗アユルバルワダの時にだけ復活す
る)。
さらにモンゴル人たちは、自身の民族文化を守りながら、支配下の異民族に対しては、何かを押しつけると言うことをほとんどしなかっ
た。そ
のため、中国社会は、かつて信じられていたように漢民族に対する抑圧的な政策はほとんどとられることはなく、以前と比べて文化はもちろん
のこと社会にもほとんど変化が起きておらず、明らかに宋代との連続性が見られる。
通貨政策の面では、元は漢民族王朝と違って銅貨に固執することがあまりなく、むしろイスラーム以西の世界で重視された銀貨や、世界で
初め
て中国で使われていた紙幣を重視した。紙幣は、先述したように金・南宋両王朝の時代にかなり普及していたが、それでも両王朝ともに本位
(中心となる)貨幣は銅銭であり、紙幣は補助貨幣の扱いだった(信じられないことには、当時の紙幣には有効期限があった)。元は紙幣
(交
鈔)を本位貨幣とし、有効期限をなくした。そして金銀との交換を保証した。19世紀になってヨーロッパで初めて成立した銀本位制は、実は
500年以上前にアジアで成立していたのだった。
■モンゴル時代の中国文化
かつてモンゴル人は中国文化を抑圧し、特に儒教に関しては「九儒十丐(乞食(丐)の少し上という意味)」と言う言葉が残るほど不当に低い
扱いをしたと信じられていた。しかし現在の研究では、決して漢民族を抑圧したのではなく、イスラム文化というもう一つの優れた文明体
系を
知っていたが故に、中国文化を特別扱いしなかっただけと言うことが分かっている。中国人についても、有能なものは高官に上っている例は非
常に多い。むしろ漢民族王朝より民族差別が少ない時代だった。先述したように、「モンゴル至上主義」という言葉の「モンゴル」も他民
族を 含むことが分かっている。
このように元王朝は、支配下の民族に対しても、反抗するものには容赦しなかったが、そうでないものは宗教にしろ民族文化にしろ、ほと
んど
自由にさせている。支配階級にはフビライの側近の僧パスパ(正しくはパクパ)の影響もあって、チベット仏教を信仰する者が多かったが、こ
れは一般民衆にはほとんど広まっていない。九儒十丐を代表とする元朝の「中国文化の抑圧」というのは、主に明代に生まれた、モンゴル
帝国
の不当性を非難し、それを倒した明朝の正当性を強調するために作られた一種の宣伝であり、中国人が北方民族に対して伝統的に持っている、
中国文化を理解できない野蛮人、愚か者、という、自らを第一級のものと考えたい心理から生まれた偏見である。少なくともこの時代のモ
ンゴ
ル人たちは、非常に合理的だった。それゆえ、あの巨大な帝国が生まれたのであり、突発的な事態で滅びたとはいえ、100年間それは維持さ
れたのだった。
このような元朝の統治方針から、中国文化への圧迫や干渉はほとんど行われず、一方で統治対策として、孔子廟の再建を始めとして、漢民
族の
文化遺産は丁重に扱われ、保護された。しかしそれでもその態度は、これまでの中華王朝と比べれば軽かった。今で言えば能や狂言と同じ扱
い、無形文化財や絶滅危惧種のマグロと同じ扱いであり、弾圧もされなければ、重用もされなかった。儒者たちは結果的に軽視されたので
あ る。プライドの高い彼らからすれば、それは我慢ならなかったのだろう。
一方で民衆は、安心して日々の暮らしを送ることができ、繁栄を享受できた。すでに宋代から経済の大衆的な盛り上がりは、民衆文化と言
える
ものを生みだしていたが、それがさらに発展した。民衆の間では、宋代と変わらず歌謡が盛んであったが、それに加えて劇が盛んになった。宋
代に生まれた印刷術のおかげで、劇中に歌われる歌詞をまとめた「曲(元曲)」とよばれる出版物が盛んに発行された。とくに人気が高
かった
作品は、王実甫の書いた『西廂記』、高則誠の『琵琶記』、そして馬致遠の『漢宮秋』であった。いずれも当時の支配階級を暗に風刺したり批
判したりする内容を含んでいるのに、後の明や清と違って、作者が弾圧されたり発禁処分になるなどの扱いを受けなかったところに、元代
の自 由な雰囲気をうかがわれる。
このほか、同じく民衆文化の一つとして、小説の流行も顕著だった。宋代に活躍した実在の人物をモデルとした冒険小説である『水滸伝』
や、 おなじみの『西遊記』、そして『三国志演義』の原型となった作品が広く読まれていた(これらが現在の形になったのは明代)。
元代は、モンゴル帝国の国際性によって、西方から新しい宗教が伝来した。イスラーム教はすでに唐代に伝来していたが、支配階級の末端
であ
る色目人のほとんどがイスラーム教徒だったため、ある程度までは広まったが、中国に大きな影響は与えなかった。カトリックは、先述したよ
うにプラノ=カルピニによって大都(北京)で布教が行われ、さらにフランチェスコ会やドミニコ会も布教が認められたが、これらもそれ
ほど
広まることはなかった。カトリックはむしろ、キプチャク=ハン国の領域で広まり、これがイスラム教を受け入れたイル=ハン国と対立する原
因の一つになった。
元代の宗教で目立つのは、何と言っても道教で、金代に広まった全真教が、さらに広く民衆に浸透したことである。
■元朝の滅亡
フビライの死後、モンゴル本国には彼ほど大胆でリーダーシップのある皇帝は出なかった。ほとんどは幼いか病弱で決断力が無く、即位後3年
ほどで亡くなる者ばかりだった。新皇帝は、皇帝の母か軍の最高司令官が擁立するというパターンが多かった。こうして皇帝に実権がない
とき
に決まって起こるのが、権力争いと後継者争いである。そして権力を握ったものが、それを安定させるために中立派に対して行うのが利権のば
らまきである。モンゴル人もこの歴史上の法則に逆らうことはできず、財政は代を重ねるごとに規模が拡大し、財政赤字がひどくなった。
財政難の原因の中には、皇帝や王族が宗教に没頭して(チベット仏教の信者が多かった)、寺院への寄進や寺院の建造や拡張を過度に行っ
たり
したことも原因になっているが、それは全体からすればたいした額ではなかった。いちばん大きかったのはやはり軍事支出である。赤字の大半
は権力争いから来る内戦、つまり内輪もめの帳尻合わせなのであった。
こうした放漫財政のつけを払うのが庶民であるのも歴史のワンパターンである。14世紀の半ばになり、雲南方面(おそらくビルマ地方)
から
ペスト(黒死病)が中国そしてモンゴル帝国の交通網を通じてユーラシア大陸のほぼ全域に広がった。当時は正体不明のこの病気は世界各地に
混乱を巻き起こす。それは中国でも例外ではなく、政府の無策と病気の原因に対する疑心暗鬼から、反乱が起こった。紅巾の乱である。乱
の首
謀者は黄巾の乱と同じく宗教指導者、仏教系の白蓮教の教祖の韓山童である。白蓮教徒たちは仏教の伝説である末法思想(まもなく世界の終わ
りが来るが、自分たちは救世主=弥勒菩薩が救ってくれるという思想)を利用し、1351年に蜂起を呼びかけた。元朝の支配に苦しんで
いた
農民たちや元朝では不遇だった漢民族の地方有力者たちはこれに呼応して次々と各地で蜂起し、あっという間にモンゴル人支配は崩れていっ
た。そしてこの反乱の渦の中から現れたのが朱元璋、後の明の太祖(洪武帝)である。
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