世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇古代の中央ユーラシア世界


■中央ユーラシアとは

この章は、これまで見てきた中国の大陸部のさらに北から西に広がる、大草原地帯を舞台に活動した、遊牧民族の歴 史を語っていく。ただし歴史上、遊牧民族は中国の王朝と何度も関わったことから、中国の歴史ともダブる話があるが、それもこの章ではでき る限り遊牧民族側から見た歴史として語っていく。したがって、同じ事件でも印象が異なるが、それはこうした見方の差からくるものだと いう ことを理解して欲しい。

さてユーラシア大陸は、地球上最も巨大な大陸である。それゆえその中央部は大陸中で最も海から遠く、水分の供給源に乏しいために一般 的に 乾燥しており、北極に近い地域を除けば、砂漠や草原地帯が広がっている。この農業に不適な広大な地域に住み着いた人類が生みだした生活の 手段が遊牧であった。

遊牧は、一家族から数家族が集まった集団が家畜の群をコントロールして草原から草原へと移り住みながら生活していく。家畜はヤギやヒ ツジ を飼うことが一般的だが、砂漠地帯ではラクダが飼われ、比較的湿潤な地域では牛が飼われることもある。また、そうした家畜の群をコント ロールするために馬が使われるのも一般的である。こうした家畜は、その肉やミルクは食料になり、毛皮(羊毛や山羊毛、ラクダや牛・馬 の 皮)は衣服や道具の材料になる。現代日本人の感覚では肉とミルクだけではビタミン不足になりそうだが、肉やミルクも生に近い状態で摂取す ればかなりビタミンを含んでいるのでそう困ることはない。ただそれでも毎日たっぷり食べられるわけではないし、家畜の餌である草も、 いつ でもどこでもタップリあるわけではない。雨が少ない年には草が育たず、食糧不足から家畜もやせ細ることがあるので、穀物類はあればあるほ どありがたい。

ちなみに遊牧生活は一年のかなりの期間を移動に使っているので、農耕とは無縁である。無縁どころか、彼らは自分たちの生活を誇りに 思って いることもあっるのか、土をいじることを軽蔑している。ただこれには、原始社会では一般的な、大地を傷つける行為をタブーとするメンタリ ティが残っているのかもしれない。このため穀物類を手に入れるためには、後述する交易か掠奪しかなかったのである。

ところで、農耕こそしないものの、彼らの国にまったく農民がいなかったわけではなく、現在では彼らの国に一定の数の農耕民が暮らして いた ことも分かっている。そうした人々は、さらわれてきた人も多かったようだが、中には自発的に移ってきた人々もいたようだ。遊牧国家も牧畜 という生活形態の不安定さは理解しており、食生活の安定のためには農耕民を抱えていた方が何かとありがたい。そこで移住してくる農耕 民は 歓迎されていたようだ。ただその数は少なかったようだ。

さて、彼らも文明とは無縁ではないので、娯楽や文化も楽しみたい。また首長などは、自分の権威や威厳を高めるためにも、それなりの装 身具 が必要である。それに必要なのはお金である。では彼らは何でお金を得ていたのか。その手段が交易である。交易とは物と物を交換して始ま る。彼らがまず元手としたのは自分たちの家畜から取れる材料から作った毛皮や革製品だろう。羊毛から作った衣服や毛布が断熱性に優れ た素 材であることはわかるだろう。皮革はプラスチックや合成繊維の発明以前は最も人類に身近な生活道具の材料だった。しかしそれらは手近な材 料であって、決して高価なものではない。交易の最大の目玉は何と言っても遠方の地から持ってくる珍奇な品々だった。

ここで読者の中には、遊牧民がもたらす物とは、本当に「珍奇」と表現できるほど珍しいものなのだろうかという疑問を持つ人もいるだろ う。 先の写真のような所から、一体どんな珍奇な物が得られるのか、と。実は遊牧民にとって、最高の宝は「馬」であった。後で詳しく触れるが、 馬こそは古代から世界中の人々にとって、最も身近で最高の移動手段だった。現代20世紀に至るまで、これに代わる手段はなかったので あ る。このため馬は非常に高く売れたのである。

遊牧民たちはこの馬やロバを使って隊商(キャラバン)を結成し、市場を移動しながら目的とするものを得ようとした。もちろん遊牧民ら が交 換する物は珍奇な物ばかりではなく、穀物などの食料も手に入れていたし、数量で言えばそちらの方が多かっただろう。こうして遊牧民族と農 耕民族の接する地には、自然発生的に交易地すなわち市場が成立するようになったのである。こうした市場が立ったのは中国北部から中央 アジ アの草原地帯に点在する隊商都市であった。そうした都市を結んだ線が「草原の道」である。ただしこれ、実際に道があったわけではない。

遊牧生活はもともと草原を求めて遠距離を移動する生活を送っている。移動すると言っても適当に移動するのではなく、だいたいコースは 集団 によって決まっている。夏季は比較的生活しやすいので一家族から数家族で行動することが多いが、冬季は寒く生活条件が厳しいから、より多 く、時には数十家族が固まって生活する。こうした集団を「部族」という。移動距離は現代の遊牧民では、わずか十数キロしか移動しない 部族 もあれば、中には年に一千キロも移動する部族がいる。歴史的な記録では年間2500キロも移動した部族もあったらしい。これはほぼ北海 道~沖縄の距離に等しい。普段からこの距離を移動するのであるから、遊牧民の隊商が商品をリレーすれば、ユーラシア大陸の東西を結ぶ 交易 を行うことなど、たいしたことなどなかっただろう。

こうした移動距離を可能にしたのも馬である。馬は普段は家畜をコントロールする時に使われたが、交易の荷を運ぶのにも使われた。馬と 言っ ても、現代の日本人が思いうかべる馬は競走馬だろうが、あれは走るのこそ早いが、起伏に富んだ実際の草原地帯を走るのや荷物運びには向か ない。遊牧民族が使う馬は実際にはもう少し背が低く、足も太いが、抜群に丈夫で、粗食にも耐える種類である。

実際、遊牧民の生活基盤である草原の生活条件は厳しい。少しでも雨が少なかったら草は育たず、たちまち家畜のエサが無くなってしま う。冬 が早すぎたり遅くまで続いた場合も同様である。こうしたときや、交易をめぐるトラブルが起こったときは部族の間で争いになることがある。 そうした時のために、部族の首長は指導力が求められ、普通は若くて健康な者が選ばれ、老いた者は自然と集団の指導者層から抜けねばな らな い。そして指導者の指示には絶対的に従うことが要求されるのが普通だった。また集団内では実力主義が基本であり、これは厳しい自然と共に 生きるためには、指導者にそれなりの能力のある者がなっていないと部族民全員を危険にさらす可能性があるからである。

一年の間で一番厳しい時期は、何と言っても冬である。遊牧民とて生きていかねばならない。このため秋になると、自然と彼らは指導者の 元に 終結し、大挙して南に向かうのである。どこへ?それは決まっている。農耕民族の所しかない。こうして行われるのが遊牧民族による「掠奪」 である。馬という高速で移動できる乗り物を駆使した彼らに農耕民族がかなうはずがない。

ただし掠奪と言っても、彼らが奪うものは食料や金目のものではない。遊牧民はそんなものは奪わない。少なくとも『史記』などの歴史的 な記 録には、食料や貴金属を奪ったという例はほとんど無い。彼らが奪うものはただ二つ。人間と家畜だけなのである。ただしそれは一人や二人と いうレベルではなく、数千から数万という数である。考えてみても、たとえ食料や貴金属を奪ったとしても、それで何とかなるのは数日か ら数 十日の間であり、それよりは農耕民や家畜を奪って働かしたほうが、はるかに生活は安定する、ということなのである。遊牧民、というより人 類は、基本的に合理的な生き物なのである。

くどくどと遊牧生活について述べてきたが、それはこれから詳しく述べる遊牧民族の性質、つまりなぜ遊牧民と農耕民が対立する歴史がく り返 されてきたのかを説明するためなのである。要するに、気候の変化に対応する能力が比較的弱い遊牧民の生活様式にとって、自分たちの生命を 安定的に維持するにはどうしても農耕民の存在が不可欠である。また後で述べるオアシス地帯の農耕民も、交易の上で遊牧民の存在は不可 欠で あった。両者は互いに補完的な関係にあったのであり、どちらにとっても不可欠な存在であった。一方で南方の湿潤地帯の農耕民は、オアシス 農耕民に比べれば遊牧民をそれほど必要とはしていない。したがって、気候変動や政治変動などで一旦勢力バランスが崩れた時、それは大 きな 対立関係に陥ってしまうのであった。

■騎馬民族の誕生

遊牧民族と馬の話について触れる場合、避けて通れないのが騎馬の術である。どうやら少なくとも紀元前4世紀頃まで、遊牧民は滑りやす い馬 の背中の上に何もつけずに乗っていたらしい。この姿勢は非常に不安定であり、長時間乗り続けるのは難しい。その後馬の背に毛布などを丸め て乗せて少しは滑りにくくなるようにしたが、それもたいした改善ではなかった。馬の上に乗って長時間走ることは、よほど小さな頃から 慣れ ていないとできない特殊技能であり、遊牧民族のみが有していた技だった。しかしそれもあくまでも走るためであり、馬上で武器を使うなど全 く不可能なことだった。

鞍(くら)の発明は紀元前4世紀末~前3世紀はじめ頃で、これで一気に乗馬姿勢は安定した。特に写真のような木製の硬い鞍は紀元4世 紀に は使われ始め、格段に馬に乗りやすくなった。しかし馬を使いこなす上で最大の発明は何と言っても鐙(あぶみ)の発明である。これは前5世 紀頃にインドで生まれて広まり、8世紀頃にはヨーロッパにまで広まっていく。この発明によって、(足が踏んばれるのだから当然だが) 乗馬 姿勢は飛躍的に安定するようになり、熟練者なら図のようなローマ帝国が戦ったパルティアの騎兵のように、馬に乗って後ろを向きながら矢を 射ることなども簡単になったのである。







鐙の発明は、騎馬の兵士の戦闘力を格段に向上させた。一部の歴史学者などは、この鐙のヨーロッパへの伝播こそが中世封建社会の成立を 促し たのだと言っている。それほど大きな影響力を人間社会に与えたのだった。遊牧民にとっても事情は同じだった。生まれつき馬を乗りこなすこ とが、三度の食事と同じくらい身近な彼らが強力な武器を手に入れたわけだから、鐙の導入は遊牧生活を格段に便利にし、いざというとき の戦 闘もしやすくした。こうして騎馬遊牧民は20世紀に自動車や飛行機が出現するまでは人類が使える最高の機動力を持っていたたのである。

■オアシス農耕民

ユーラシア大陸の中央を横断する北緯50度線上には東西に一面の草原地帯が広がっている。東からモンゴル高原、カザフ草原、南ロシア 草 原、そしてハンガリー草原である。この草原地帯こそは、先に述べた騎馬遊牧民の生活の場であった。そしてその南、北緯40度線上には、今 度は巨大な砂漠が広がっている。東からゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、キジルクーム砂漠、カラクーム砂漠である。砂漠とは完全な乾燥地 帯で あり、年間を通してほとんど雨が降らない。また一日の間の寒暖の差も激しく、昼は40℃以上になるが、夜になると0℃近くにまで冷え込む こともある。普通こんなところで人間が暮らすことはできないはずだが、その例外がオアシスであった。

こうした砂漠地帯には、周辺に山脈がある。こうした山脈でもほとんど雨は降らないが、それでも標高が1000メートルを超えるとそれ なり の降雨(降雪)があり、低い気温でそれらが凍り、万年雪や氷河にまで発達する場合がある。オアシスとは、これがじょじょに解けて流れ出す 川が砂漠の下を通ってわき出す泉にできた場所にできた町だった。文字通り砂漠の中のオアシス、砂しかない死の世界の中の生命の孤島で あっ た。

オアシスには古くから人間が住み着き、砂漠地帯の高温と適度な水量を使った灌漑農耕が発達していた。オアシスでの農業は、紀元前後の 時代 では湿潤地帯より水量が安定し気温も高いことから、収穫は多く安定していた。このためオアシス都市は一般的に人口が多かった。また家畜も 重視されており、その文化には遊牧民と似た部分がある。こうしたことから、遊牧民は乾燥地帯の農耕民から生まれたという説もある。

オアシスの農耕はこのように効率的であったが、一方では周囲が砂漠地帯であるために耕地の拡大には限界があり、ある程度人口が増える とそ れ以外の形で生活をしなくてはならなくなる宿命があった。このことから、オアシスでは古くから余った生産物を他所に売る交易が盛んとなっ ていた。後で述べるソグド人などはその代表である。しかしオアシスの民は比較的少数であり、交易のために砂漠を横断することは危険が 伴っ ていた。そこで重要だったのが遊牧民との関係である。

一般的にオアシスの水源である山脈の麓や山間部にはそれほど大きくはないが、そこそこの広さの草原がある。こうした山間の草原地帯に は、 比較的少数ではあるがそれでも遊牧民が住んでいた。こうした遊牧民は住む場所がオアシス農耕民と近いことから、さまざまな交流があった。 中でも最も重要だったのが交易の際の安全保障である。遊牧民は時にはオアシス民の道案内となり、時には護衛となって盗賊から守って やっ た。そしてその代償として通行税としていくらかの貨幣や物品を得たのである。この点は完全にギブアンドテイクの関係であった。またこうし た遊牧民小集団は、自らの安全保障のためにより巨大な遊牧国家とも主従関係を結ぶことが普通であった。史上有名な匈奴や突厥といった 巨大 国家は、いずれもこうした小さな遊牧民集団を配下にしており、オアシス民や小遊牧集団から取り上げる税(農産物や貨幣)はこうした国家の 重要な収入源となったのである。

■中央ユーラシア諸民族の言語

中央ユーラシアには多くの民族が原始古代から住み着いていたが、今となっては全ての民族がどのようであったか把握することは困難であ る が、人類学的な特徴では大きく分けて2種類、言語学的には4種類に区別される。まず人類学的には日本人や中国人と同じ顔つきをしたモンゴ ロイドと、ヨーロッパ人やインド人と同じ顔つきのコーカソイドである。そして言語学的には、中央ユーラシア西部にインド=ヨーロッパ 語族 の人々、そして中央部にはトルコ語系、その東にはモンゴル語系、そして中国東北部からシベリアにかけてがツングース語系と呼ばれる言語集 団がいた。ただし、トルコ系とモンゴル系は、現在でこそ言語が区別できるようになっているが、それはモンゴル帝国の頃から両言語が分 かれ ていったせいで、それ以前には方言程度の違いしかなく、明確には分かれていなかった。従って古代の民族をモンゴル系とトルコ系に分けるこ とはできない。また人類学的にも実際の中央ユーラシアの人々はほとんどがモンゴロイド系とコーカソイド系の混血であり、多少どちらか が濃 いといった程度である。こうした点からも民族を区別するのは難しいのである。いまだに入試でこうした区別を要求する問題があるが、全く現 実に合わない問いとしか言いようがない。

■スキタイ帝国

紀元前の話から始めるが、騎馬民族の文化に大きな影響を与えた民族が前9世紀~前3世紀にかけて中央ユーラシアの平原地帯に大帝国を 築い たスキタイ帝国である。この国の詳しいことについては、近年かなり発掘作業が活発化してきているが、まだ実態についてはよく知られていな い。彼らについてはギリシアの著名な歴史家ヘロドトスの『歴史』に比較的詳しい記述があること(スキタイという名称も彼からついた) か ら、どうやら支配者はインドヨーロッパ語族であったこと、帝国内には遊牧民と農耕民、そして支配者の三部族がいたこと、毛皮交易が国家の 主要産業だったことが分かっている。

今までに発掘されたこの国の文化の特徴である動物をモチーフとする紋様は、東はモンゴル高原から西はギリシアや中部ヨーロッパにまで 及ん でいることが分かっている。スキタイ人自体も、かつては南ロシアの草原地帯が本拠地と考えられてきたが、最近の考古学の成果によると、本 拠地は中央ユーラシア平原にあった、もしくは中央ユーラシアから西方に移動したという可能性が高い。また彼らの墓は日本史でいうとこ ろの 円墳であり、前8世紀~前4世紀に巨大な墳墓を中央ユーラシアの各地に作った。これと日本の古墳に関係があるのか無いのかは分からない。 ちなみに、後で述べる匈奴の墳墓は方墳である。

彼らの影響力は強かったようで、中央ユーラシア全域に文化的な影響を及ぼしただけでなく、古代オリエントでは国家の興亡に関与し、 アッシ リアやメディアとも戦った。前7世紀には一時エジプト侵入を図ったこともあった。前6世紀末にアケメネス朝のダレイオス1世などは自ら遠 征軍を率いてスキタイと戦い(一般的に第一次ペルシア戦争と呼ばれるものはこのペルシア=スキタイ戦争のこと)、黒海からエーゲ海に かけ てのギリシアの植民都市とは交易を通じた密接な交流を続け、相互に文化的な影響を与えあっている。例えばギリシア神話で有名な英雄イアソ ンとアルゴ号の冒険は、このスキタイの本拠地であった黒海北岸地域を舞台にしている。また、聖書にも記述のあるイェルサレム北方のベ ト・ シェアンなどは昔スキトポリス(Scythopolis)と呼ばれており、これはスキタイ人の町という意味だった。

スキタイは前3世紀に、かつて支配していたサルマタイ人によって覇権を奪われ、西方に逃れたが、その後の消息は不明である。その地の 他民 族と同化したのだろうと思われる。一方で、前2世紀にサカと呼ばれる民族がインドの北方に現われ、バクトリア王国を滅ぼして、クシャーナ 朝やパルティアとともに一時北インドに大きな影響を及ぼした。このサカがスキタイと同族であるという説もあるが、はっきりした証拠は な い。

■ソグド人と中央アジア

南アジアのところでも説明したが、イラン人とインド=アーリア人はもともと同族であった。民族神話などには共通する部分が多く、言語 も同 じインド=ヨーロッパ語族である。中央アジアにいた頃は遊牧民であったが、イラン高原に移動した頃から徐々に農耕民族に変わっていく者が 増えていった。そしてアケメネス朝、アルサケス朝パルティア王国そしてササン朝と、時代が下るにつれてその割合は増えていったよう だ。し かし、まだまだ中央アジア方面には遊牧生活を続ける者は多く、また民族文化にも遊牧生活の名残は強く残っていた。

中央アジアに残ったイラン人の中で、後世に大きな影響を与えたのがソグド人である。彼らは今のウズベキスタン共和国の東にあるソグ ディア ナ地方を本拠地とする、オアシス農業を生業とする人々だったが、ユーラシア大陸のちょうど中央に位置する地の利と、その豊かな農産物を特 産品として売り歩くことができたことから、古代から商業民族としても有名だった。

しかし、彼らの住む大地の豊かさと、交易の副産物として持つユーラシア大陸各地の情報が災いし、多くの大帝国によって狙われることに なっ たのである。有名なものだけでもアケメネス朝、アレクサンドロス大王、大月氏国(クシャーナ朝)、エフタル、ササン朝、突厥、ウマイヤ 朝、アッバース朝、唐などがこの地を征服している。史上有名なアレクサンドロス大王の東征の一因はこの地を巡る争いであり、大王はこ の地 の貴族の娘ロクサネを后にしている。また、匈奴に追われた大月氏がこの地を本拠にできたために大発展し、後にクシャーナ朝の大帝国が成立 する要因となった。またこの地を巡るアッバース朝と唐帝国の争いがタラス河畔の戦いであり、敗れた唐は以後衰退の一途をたどることに な る。

しかしソグド人は強大な国家から狙われるだけのひ弱な民族だったわけではない。中央ユーラシアではすでに紀元前後から彼らの影響力は 大き く、その言語や風習はこの広大な地域の共通語になったり、各地の文化に影響を与えていた。例えばソグド語はかなり早い時期からこの地の共 通語となっており、後で触れる6世紀末の突厥(第一)帝国も公用語がソグド語だったようで、当時作られた石碑はすべてソグド語で刻ま れて いる。ほかにも彼らの祭りの特徴である、正月15日に行われた「元宵観燈」という祭りは、町中の家々がそれぞれ多数の灯籠をその前に掛け 連ね、着飾った男女が夜中踊りあかす祭りであり、中には長い竿に多数の横木をつけてそこに灯籠を吊すものもあった。これは今の中国の 元宵 節の祭や、青森県や秋田県で行われているねぶた祭りや竿燈祭りのルーツと考えられている。

ただ、ソグド人は12世紀頃までは民族独自の信仰(といってもゾロアスター教やマニ教などのイラン系伝統宗教)を守ったが、その後は イス ラム教を受け入れたため、他のイラン系イスラム教徒との差が薄れていき、商業を重視する民族性も、もともとイスラム教自体が色濃く持って いるため、その特色が薄れることとなり、民族としては消滅することになる。しかしそうなった後も、この地に住む人々がユーラシア大陸 の交 易をリードすることは少しも変わらなかった。やがてソグディアナ地方にはトルコ系諸民族が北方から移住するようになり、住民は言語的にも 文化的にもトルコ化するようになり、地域名もトルキスタンと呼ばれるようになる。

このように、歴史上ソグド人が中央ユーラシア世界に果たした役割は大きく、遊牧民や農耕民との交易活動の主役となり、東西の文化的交 流の 媒介者となった。唐代にゾロアスター教やマニ教、ネストリウス派キリスト教が中国に伝来したのにはおそらくソグド人が大きな役割を果たし たと思われる。またペルシア帝国やローマ帝国に中国の絹製品や陶磁器が伝わったのも彼らが大きく関わっていただろう。古代日本にもイ ラン 系民族がやってきていたという説があるが、それもソグド人だったのかもしれない。

■匈奴帝国

紀元前の中央ユーラシアは、スキタイ系遊牧文化と、乾燥地帯を点々と東西を結んだソグド人などによる交易ネットワークでつながってい た。 しかしこのネットワークはまだひ弱で、各地に盗賊が出没し、ちょっとした気候変動が起きるたびに農耕民族とのトラブルが発生したが、弱小 な遊牧民やオアシス農耕民では、たとえ騎馬の技能を持ってしても、人口の少なさはどうしようもないので、人口と組織力に勝る農耕民の 集団 に勝つことは難しかった。こうして紀元前のこの時期、中央ユーラシアにも生活の安定と通商の安全を求める大帝国を必要とする状況が生まれ ていた。

こうした状況の中、中央ユーラシアに大帝国を築き上げたのが匈奴だった。匈奴はモンゴル高原に住む典型的な遊牧民だったが、前3世紀 に冒 頓が現われると急速に強大化し、周辺の諸部族を従える大帝国に発展した。

もともとモンゴル高原の諸部族は独立性が強いが、自然の脅威にさらされた場合は有能な指導者のもとに集結する。この指導者(中国にな らっ て皇帝と表現する)を、紀元前後は単于(ゼンウ)と呼び、6~7世紀には可汗(カガンもしくはハガン)、そして10世紀頃には汗(カンも しくはハン)と呼ぶようになる。しかし普段は小部族ごとに生活し、広大な地域を遊牧して回る。各部族は言語的および民族的にはモンゴ ル系 またはトルコ系であるが、先述したとおり、この時代に両者を区別することにあまり意味はない。

匈奴では単于が誰になるかは部族長の会議で決定され、基本的には能力主義であったが、母方の血統が重視される母系社会の伝統を持って い た。ただしこれは匈奴だけでなく、遊牧民の伝統的な社会の仕組みであり、これ以前も以後も受け継がれる伝統であった。族長は複数の妻を持 ち、多くの子を持っていた。彼らの社会についての詳しいことは、残念ながら彼ら自身が記録を残さなかったため、もっぱら敵対者であっ た漢 族のものしかなく、そのため多くの偏見の色眼鏡がついた記述しか残されていない。

漢族がもっともその文化で反発を感じたのが権力に関するものだった。匈奴では一般的に老人は疎んじられ、若者で力がある者が尊ばれ た。こ れは漢族の伝統である高齢者の尊重、長幼の序と呼ばれる精神とは全く異なる。また族長が死んだ時は男子がその地位を継承するが、その際彼 は、自分の実母以外、そして父の正妻以外の妻をすべて自らの妻にするのである。漢族はさまざまな記録書(『史記』や『漢書』など) で、こ れをまるで獣同然の風習だと非難している。ただし一方ではバランスをとるためか、彼らの風習を合理的なものと擁護している人物も登場させ ているが。

たしかに農耕社会なら、高齢者はさまざまな知識の宝庫であり、その知識は農耕社会や農耕技術を継承するには都合が良かっただろう。し か し、先述したように遊牧社会は本質的に不安定な気候条件に備える必要があり、またそんな時には戦闘も頻繁にある。そしていったん戦闘にな れば、多くの男性が亡くなることは避けられない。現代でもそうだが、夫を亡くした妻が子どもを抱えて女手一つでやっていくのは非常に 難し い事なのである。残念ながら現代の日本は母子家庭に優しくはないが、他の現代の先進国、特に北欧諸国なら進んだ社会福祉制度でそうした時 も安心だが、今見ているのはそれから2000年以上前の中央ユーラシアである。この時代、世界中どこであってももっとも良いのは適当 な地 位の男性と再婚することだろう。一夫多妻制度をもつ社会とは、こうした事態に備えている社会であり、決して男性の欲望を満たすことのみを 念頭に設けられたのではない。

例えば、現代においても一夫多妻制度を持つことで有名なイスラーム社会も、この制度の創設時に念頭にあったのはこうした寡婦やその子 女を 救済するためであった。さらに一人目の妻と二人目以降の妻の間に、愛情や待遇上の差別をしてはならないとするなど、夫の側には厳しい覚悟 を求めている。つまりイスラーム教では、宗教の中に生活扶助制度が組み込まれているのである。要するに近代以前の社会において(現代 にお いても一部先進国以外では)もっとも優れた福祉制度を持っているのがイスラーム国家なのである。イスラーム教が現代の諸宗教の中でダント ツの信者数の伸びを記録しているのは、それなりの理由があるのである。イスラーム教も砂漠の遊牧社会から生まれた宗教であり、匈奴と 同様 の文化をもっているのは不思議ではない。

ちなみに文化人類学では結婚後の配偶者の死という事態に対し、夫の死後に妻がその兄弟と再婚するのをレヴィレート婚、妻の死後に夫が その 姉妹と再婚するのをソロレート婚というが、いずれも原始古代では広く世界中で行われた制度であった。たとえば『旧約聖書』のルツ記にもそ のような記述がある。そういえばユダヤ人も、もとは遊牧民だった。

話を元に戻そう。こうした文化的な違いから農耕民族からは偏見を持たれてはいたが、匈奴は典型的な遊牧民の文化を持つ集団だった。中 国の 歴史書にその名が現れるのは前3世紀頃である。当時は戦国時代。強国であった趙国と戦ったという話が匈奴という勢力に関する初出である。 趙と遊牧民と言えば、その最盛期の王である武霊王が、隣国の魏や秦そして遊牧民の匈奴の圧迫に対抗するため、伝統的な漢族の服装を捨 てて けがらわしいとされていた夷狄である騎馬民族の「胡服」を採用したために趙の軍が強大となった胡服騎射の話は、実利のためには自らのアイ デンティティをも捨てる覚悟が必要だということを説く話として、『史記』の中でも人気のある話である。ただしこの時はまだ匈奴の名は 出て きていない。

次にその名が出てきたのが始皇帝の時代で、秦の北辺をしばしば荒す匈奴に打撃を与えるために、始皇帝は名将の蒙恬(モウテン)将軍を 派遣 し、さんざんその軍をうち破った。そして秦の統一以前に、遊牧民の侵入に備えるために戦国諸国が作った、数百キロもの土壁を修築、結合し て数千キロにおよぶ防護壁を完成させた。これが現在、万里の長城と呼ばれる建造物である。ただしこの秦代の長城は、あくまでも騎馬の 兵が 飛び越えられないようにするためだけの高さしかなく、現代人が知っているあの万里の長城とは全く違うものである。位置も現代のものよりは 何百キロか北に位置していた。現在見られる長城は、明の時代に築かれたもので、その目的は遊牧民(当時はモンゴル人)の侵入を最後に くい 止める防衛目的の城壁としてである。これに対して、秦やそれ以前の長城は遊牧民を北方に追い払いそのままくい止める攻撃目的の城壁(全て ではないが)という、異なった目的で築かれたためものなのである。

蒙恬に敗れ万里の長城で南進を阻まれた匈奴は、しばらくはおとなしくしていたが、始皇帝の死後、宮廷内の乱れと陳勝・呉広の乱などの 反乱 鎮圧のために北辺警備が弛むことになった。そんな時期に現われた若き指導者が冒頓(ボクトツ)である。彼は若い頃は近隣の有力部族である 月氏(ゲッシ)の人質となっていたが、その月氏が匈奴と戦争になり危うく殺されそうになったことがあった。彼は危機一髪で何とか逃げ 出 し、部族のもとに帰ることができた。しかしその後、父との不和が原因で、父を殺すことになる。冒頓は匈奴の新しい指導者、単于(ゼンウ= 皇帝)となった。やがて彼を殺そうとした月氏は西方に追いやられ、さらには匈奴の長年の敵であった東方の遊牧集団の東胡も滅ぼされ る。こ うして冒頓は、モンゴル高原の全遊牧民を率いる大皇帝となっていった。

前200年、冒頓単于率いる大騎馬軍団は南進し、秦の滅亡後の分裂状態をようやく収めた漢王朝を攻め立てた。この攻撃は漢を混乱のる つぼ に陥れ、最前線の将軍は降服し、援軍を率いてきた初代皇帝の高祖(劉邦)も白登山の戦いで包囲されて降服せざるをえなかった。ここは何と か和議に持ち込んだものの、以後漢王朝は毎年莫大な財物を贈ることとなり、後の五代皇帝などは息女を差し出すなど、屈辱的な国書にも 耐え るしかなかった。つまり事実上、漢は匈奴の属国となったのである。ちなみに彼女は匈奴の二代皇帝の老上単于の正妃となり、三代皇帝の軍臣 単于の母となる。こうした漢から贈られる財物は単于の権威を高め、財政を潤し、組織的な反抗を見せない漢の辺境地域は襲い放題であっ た。 この頃が匈奴の全盛期であった。

状況が変わるのは漢の第七代武帝が即位する頃である。この頃には漢の国力がかつてないほど強化されていた。すでに武帝の即位以前に、 漢朝 の中央集権化と皇帝の強大化を阻んでいた封建諸王は呉楚七国の乱をきっかけに次々と権限を弱められ、皇帝の意志に抵抗するような勢力はす でに無かった。しかも皇位継承順位の低かった彼を即位に導いた恩人も、彼の即位後まもなく亡くなり、目の上のたんこぶがいなくなった こと で、武帝は誰はばかることなく強大な権限を振るうことができたのである。彼がやったことはまず、有能な人物を中央に集めるための郷挙里選 制であり、そうした人物たちが献上してきた策を実施することであった。有名な儒学者の董仲舒が起用されたのもこの頃である。これで漢 の国 力は着実に増した。武帝はさらに長年の懸案であった、匈奴との屈辱的な関係を清算しようとした。そのために打った手が、まず敵の手の内を 知るためとして、漢族にとっては未知の西方の事情を知ることであった。

公式の目的としては、かつて匈奴によって西方に逐われた月氏との同盟を図ることであった。月氏はかつては匈奴に匹敵する大勢力を誇っ てい たが、冒頓単于に攻められて勢力を大幅に減らし、第2代の老上単于の時には壊滅的な打撃を受け、殺された王の頭蓋骨は加工されて単于の酒 杯にされたという。漢ではこうした経緯から、月氏が匈奴に恨みを持ち、同盟の話に乗ってくるものと考えたのである。

■漢族と中央アジア

武帝が募集したこの使いに応募してきたのは張騫という若者だけだった。武帝はこの若者に厳重な警備をつけて西方に送り出した。しか し、さ すがに大帝国の情報網は侮れない。すぐに一行は匈奴に捕えられ、彼らはそのままこの北方の地で10数年を過ごさねばならなかった。ただし これは拘束というものではなく、張騫の才能を見抜いた匈奴側が彼がこの地に心の底から馴染むように気長に待ち続けたと言うことらし い。や がて張騫には匈奴人の妻と子ができた。その頃には表面的には彼もこの地になじみ、すっかり落ち着いたように見えていたので、匈奴側も彼の 態度に満足して監視の目もゆるめた。しかし彼は実は密かに漢朝の正使の印だけは肌身離さずに持っていたのだった。

ある時とうとう脱出の機会が訪れ、彼は仲間と共に、妻子をつれて匈奴の地を離れた。ようやく落ち着くことができたのは、ソグディアナ 地方 にほど近い大宛国(今のフェルガナ市)であった。大宛の王は張騫の正使の印を見ると、漢とのつながりができると大喜びし、案内を付けて彼 を月氏の国にまで案内してくれた。

月氏は当時、故郷に残った一部の小集団(小月氏)が分離していたが、大部分はソグディアナを征服し、ここを本拠地を定めていた。彼ら は大 月氏国と呼ばれ、豊かなオアシスの産物に恵まれたこの地の利を生かした交易で栄えていた。大月氏の王は張騫を歓迎してくれたが、もう匈奴 への恨みは消えていると言って、漢との同盟には消極的だった。実は当時大月氏は南方の、現在のアフガニスタンにまで勢力を伸ばしてお り、 交易の利益が増大する一方になっていたのである。もはや彼らの目は過去(東)ではなく、未来(南)に向いていた。張騫は何度か説得を試み たが、無駄だった。彼はしばらくこの地にとどまった後、報告のために漢に戻ることにした。

帰る途中にはまた匈奴につかまってしまったが、幸いにもまもなく三代皇帝が亡くなり、代替わりの混乱(この時代は多くの国で代替わり の際 に官僚や地方官の総入れ替えがあるのが普通だった)に乗じて脱走に成功した。

こうして張騫は13年振りに都の長安に戻ってきた。最初に匈奴に捕まって消息不明になった時に、武帝も漢朝政府もすっかりあきらめて いた だけに、まさに国を挙げての大歓迎だった。だれよりその帰国を喜んでくれたのはもちろん武帝だった。張騫のもたらした情報は、彼が即位し て匈奴との関係を変えようと決意して以来、もっとも欲しかったものだった。すでに3年前には、匈奴との戦争に突入し、皇后の弟の衛青 とい う新人将軍が大活躍して匈奴・漢の上下関係が変わろうとしていた。張騫のもたらした報告をもとに、あらためて戦略が練り直され、匈奴は大 打撃をこうむったのである。衛青に加えてもう一人、新たに霍去病(カクキョヘイ)という新人も現われ、ますます匈奴は追いつめられて いっ た。

追いつめられた国では良くあることだが、匈奴ではこの頃から内紛が激しくなり、とうとう匈奴の西部地方を支配する渾邪(コンヤ)王が 漢朝 に降服してきた。武帝は彼を許し、そのままの風俗のまま漢の北方で暮らすことを認めた。そして以後の彼は最前線に置かれ、同族と戦うこと になったのである。夷をもって夷を制す、という政策である。

2年後にはふたたび戦闘が始まり、匈奴は大打撃をこうむった。かつて中央ユーラシアのほぼ全域に勢力を誇っていた匈奴も、もはやモン ゴル 高原を維持するのがやっとの状態だった。今度は漢が匈奴に代わって中央ユーラシアに覇をとなえる番だった。武帝は再び張騫を西方に送り出 した。

張騫はゴビ砂漠の西に点在する遊牧国家の烏孫(ウソン)や、オアシスの国々(漢ではこうした地域を西域(さいいき)と呼んだ)に服属 と通 交を求めたが、彼らはいずれも漢に使いを送ることを約束しただけだった。張騫の任務は今度も成功とは言えなかった。

しかし、こうした国々の使いが漢に対する好意的な感想を母国に伝えたことから、周辺の国々にまでその評判が伝わり、これ以後多くの西 域の 国々が通交を行うことになる。これは西域諸国だけでなく、東方や南方の国々も同様で、都の長安にはこの頃から多くの国々からの使いで、華 やかな国際文化の文物があふれるようになっていく。さらに国対国だけなく、民間の交流もしだいに盛んになっていく。それまでも中国と 中央 ユーラシアは、匈奴やオアシス国家によって間接的な交流が続いてはいたが、それが今や直接的な交流も始まった。張騫の使いはこのように結 果としては成功となり、半世紀後には西域に漢朝の出張所である西域都護府が置かれることになるのである。しかし、中央ユーラシアの覇 権を 奪われることは、交易が収入の多くを占める匈奴には死活問題である。漢はまだ十分に覇権を握りきっていない。せいぜい東半分である。匈奴 は必死に抵抗するようになる。

武帝の治世の後半には、西域名産の名馬を求めて当時の寵姫の兄の李広利が遠征軍を率いて砂漠地帯を西に進んだ。武帝が求めた馬は汗血 馬と 呼ばれる馬で、一日に千里(500km)を走り、血のような赤い汗をかくという伝説を持つ有名な馬だった。しかし李広利は、目的は達して 数千頭の名馬を獲得したものの、必死になって西域を奪われまいとする匈奴と戦って敗北し、最後は降服して匈奴の客将になってしまう。 この 時李広利に使えていた将軍の李陵も降服するが、この敗北は武帝を怒らせ、一族は皆殺しにされてしまった。

この際、唯一この処罰に反対したのが李陵の友人である史官(公式の記録を作成する官僚)の司馬遷だった。結果として彼も武帝の怒りを 買う ことになってしまい、宮刑(男性のアソコを切り取られる刑)という男性にとってもっとも恥ずかしい刑を執行されてしまう。司馬遷がこの屈 辱をエネルギーに変えて完成させたのが、史書の中で最高の書とされる『史記』であることは有名である。

漢朝と匈奴の関係は、こうして漢朝が優位なまま推移するが、匈奴の側も一定の勢力を維持していた。前58年に匈奴は兄弟で単于の位を 争う 事態が起こり、親漢派(東匈奴)と反漢派(西匈奴)に分裂した。東匈奴の呼韓邪(コカンヤ)単于は初めて匈奴の単于として漢に服属し、皇 帝から王の位を与えられた。この時彼に友好の印として与えられた美女が、のちの元代に小説の主人公として有名になる王昭君である。そ の 後、西匈奴は漢・東匈奴連合軍によって滅ぼされる。しかし漢朝も前1世紀にはじょじょに弱体化し、匈奴が勢力を回復して高原と西域の覇権 を手中に収めていった。

漢朝はその後、宦官と外戚の抗争で紀元8年に王莽によって滅ぼされ「新」王朝が建国されるが、その2年後には漢の皇族の劉秀によって 復活 する(後漢)。王莽は儒教に基づく価値観に凝り固まっていたため、匈奴は王の位を取り上げられた。そのため新には服属しなかったが、光武 帝が再び王の位を承認したことで後漢とは友好関係を維持した。しかしその後漢が全国を再び統一するまで、モンゴル高原から西域にかけ ての 覇権は完全に匈奴のものだった。

1世紀半ばには匈奴では内紛から、再び親漢派(南匈奴)と反漢派(北匈奴)に分裂する。南匈奴は万里長城の南に移り住み、漢の傭兵と なっ て北匈奴に対する勢力として期待された。その後、漢と南匈奴の圧力で北匈奴の勢力は次第に衰え、2世紀半ばを最後に中国側の記録からは消 える。その後の北匈奴の行方は分からないが、その後200年あまり後にローマ帝国の東北方面に現れ、帝国を大混乱に陥れる原因となっ たフ ン族がその末裔ではないかという説がある。

さて話を元に戻そう。後漢が再び西域に乗りだすのは、1世紀の半ば班超の存在が大きかった。彼は兄の班固と妹の班昭が『漢書』(漢朝 の公 式の歴史書(正史))を著わすという、文官中の文官の一族の出身ながら、武勇に優れた人物だった。皇帝の命で鄯善国(もともとは楼蘭とい う名。現在地は不明)に行った時、最初は歓迎されていたのに、徐々に周囲が不穏な雰囲気になってきた。調べさせると匈奴の使いが来て いる という。死の危険を感じた彼は、逃げようと言う部下たちを説き伏せ、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という名言を発して、わずかな手勢で 匈奴の使節団を追い払い、西域中にその勇猛さが響きわたったというエピソードの持ち主である。

漢朝の西域に対する態度は、諸国に対して勢威を見せるための積極策と、そのコストの高さからくる消極策の間をゆれ動いていたが、1世 紀の うちは班超の力で何とか積極策が維持されていた。彼は西域都護に任命され、97年にははるか西方にあるとされた大秦国(ローマ帝国)に部 下の甘英を一軍を率いさせて派遣した。甘英率いる遠征軍はシリア(もしくはペルシア湾岸)の付近まで行くことができたが、この年は ローマ の最盛期である五賢帝の最初の皇帝ネルウァが、先帝の暗殺後の混乱をようやく落ち着かせようとしており、またその事が原因でローマとパル ティア王国の間が緊張状態であった時期で、甘英らの軍はへたに動けば両国の紛争に巻き込まれる恐れがあった。また、ローマと漢朝の間 はあ まりにも遠く、こうした諸情勢から結局は国交を開くことはできなかったようだ。

班超がその5年後に引退して西域都護を辞任すると、もはや後任の者にはその勢力を維持することはできなかった。漢朝はその後も西域都 護の 廃止と復活をくり返すが、結局、班超がいた時の勢力を取り戻すことはなく220年に王朝そのものが滅亡する。このため西域は、本来なら匈 奴の手に戻ることになるはずだったが、南匈奴は当時は長城の南でおとなしくなっており、北匈奴はモンゴル高原の覇権を鮮卑(センピ) 族に 奪われて、すでに西方に去っていた。

その後南匈奴は、4世紀始めに起こった西晋の八王の乱で王朝が混乱する中で自立し、漢を建国した(後に前趙と改名)。これ以後、中国 北部 では135年間に漢族を含めて五つの部族の十六の王朝が各地でそれぞれ皇帝を自称して相争う時代が続く。これを五胡十六国時代という。

南匈奴の族長の劉淵が一時とはいえ漢の国号を名のったのは、彼が匈奴の単于でありながら、一方で漢の帝室の血も混じっている(白登山 の戦 いの後、漢の皇女が匈奴の皇后となっていた)という、父の代から名家の血筋を示す意味で劉の姓を名乗る事を許されていたことに由来する。 彼は幼い頃から儒教を学んでおり、人柄も当時の人々の中で抜きんでて高潔と評価されていた。劉淵からすれば、光武帝劉秀と同様、自分 こそ が漢を復興するにふさわしいと考えたのだ。前趙(=劉淵の漢)は彼の死の翌年には西晋を滅ぼし、逃げのびた皇族の司馬睿が長江の南に東晋 王朝が成立するきっかけを作った。以後中国南部では270年にわたって漢族の政権が続く(東晋→宋→斉→梁→陳。総称して南朝)。

一方華北では、約20~30年ごとに諸王朝が交替する時代が続く。376年にはチベット系の氐(テイ)族が建国した前秦が一時華北を 統一 し、中国統一を目指して東晋への遠征を行うが、淝水(ヒスイ)の戦いに敗れたため失敗した。前秦はこれがきっかけで坂を転げるように滅亡 してしまい、華北は再び混乱状態になる。そしてその華北に秩序をもたらすのが、モンゴル高原の支配者であった鮮卑(センピ)族であっ た。

面白いことにこの時代の異民族諸王朝のトップは、従来の「皇帝」ではなく「天王」と呼ばれる例が多い。これは当時急速に広まっていた 仏教 の中に「四天王」などの用語が広まっており、儒教でも春秋時代に周王をそう呼んだ前例があったことから生じたと考えられる。日本でもほぼ 同時代の雄略天皇(南朝の宋朝に遣使した倭王武と推定されている)の時代には大王(おおきみ)を天皇でなく天王と呼んだ可能性があっ たら しいので興味深い話だ。

■鮮卑と柔然

話は再び中央ユーラシアに戻ろう。東方のモンゴル高原で匈奴の大帝国が崩壊した後、かつて彼らが滅ぼした遊牧民の東胡の一派であった 鮮卑 族が支配領域を拡大していった。かつてはこれを「遊牧民が華北の農耕民を追い払い、支配するようになった」と信じられていたが、現在わ かっている事実は以下の通りである。

1世紀から2世紀にかけての中国北部では、それまで漢王朝が整備していた灌漑農地が戦乱等で放棄されたり、漢代以来の産業の発展で大 森林 が伐採されていったため、草原が広がっていた。もともと黄河流域からゴビ砂漠の間は半乾燥気候で、遊牧にも適しており、人間が手を入れな ければすぐに大地の様相が変化する地域であった。過剰な土壌の酷使による農地の乾燥化や、環境破壊による森林の消滅と土地の砂漠化は 現在 でもブラジルやアフリカなど世界各地で見られる現象である。

当然、農耕民である漢族は華北には少なくなり、生活が可能な江南地方に移住していった。そしてその後を埋めるように、モンゴル高原よ り気 候が穏やかで、はるかに暮らしやすいこの地に、匈奴や鮮卑といった遊牧民が相次いで南下していったのである。こうして漢王朝が弱体化する につれてこの地域には自然と遊牧民が入り込むようになり、華北は遊牧民の世界が広がっていった。しかしこれが原因で、高原部では新た な支 配勢力が生まれることになるが、それはまた後に述べることにする。

鮮卑ははじめ長城の南に小さな国を築いたが、これはすぐに華北で最強の国家であった前秦に滅ぼされ、その支配下にはいることになっ た。し かし前秦が淝水の戦いで破れて国家が崩壊すると、ただちに独立を回復する。拓跋(タクバツ)氏のもとで新王朝を築いた彼らは国号を魏(北 魏)と変え、最初の都を平城(現大同市)に定めた。

この頃多くの漢族を領内に抱えた北魏では、国家の支配体制に対する試行錯誤が始まった。伝統的な遊牧国家の体制を維持しようとする一 派 と、自らが少数派であり漢族が多数である現実を受け入れて彼らの伝統的支配体制を取り入れようとする一派である。漢族の豪族らも積極的に この一派と提携したため、徐々に両者は融合していった。

北魏は439年には第3代の太武帝が華北の他の王朝をすべて滅ぼして統一し、江南の宋(南朝の宋)王朝と対立した。一時北魏は宋を攻 撃す るが、失敗した後は基本的に華北を維持することで満足した。これ以後の華北はこの北魏、さらには北魏の後継王朝によって、589年の隋王 朝による中国統一まで一貫して治められることになる。この一連の諸王朝を北朝といい、南北対立のこの時代を南北朝時代という。

太武帝は統一前から漢族の宰相に絶大な信頼を置いていた。その宰相と道教の指導者であった冦謙之の提案にもとづいて行ったのが仏教へ の弾 圧であった。多くの僧侶が弾圧され、強制的に還俗(ゲンゾク。世俗の人間に戻ること)させられた。さらに寺院が破壊され、その財産は没収 された。ただしこの弾圧は太武帝による仏教そのものへの嫌悪もあるが、それ以上に仏教寺院の持つ土地や財産を取り上げて財政を強化す る目 的の方が大きかった。これ以後唐の末期まで4回の大弾圧が起こされるが、いずれもこうした性質が強い。ただ、こうした仏教弾圧政策はその 後の皇帝には受け継がれず、むしろ仏教を保護する皇帝が相次いでいる。

第4代の文成帝は熱心な仏教徒であり、有名な僧侶である曇曜を信奉していたことから、その提案に基づいて首都の平城の郊外の雲崗の断 崖地 帯に多数の石窟寺院を建設した(雲崗石窟寺院)。この石窟寺院は、造営に西域から多く布教や技師としてやってきていたイラン系やインド系 の僧が関わっていたことから、ガンダーラ地方やグプタ地方に見られる様式の影響が非常に強い。このように、当時の華北では多くの民族 が集 団の中に見られたのである。

北魏の華北支配が安定し、南北対立が弱まって平和な時代がくると経済活動が活発化する。後漢時代以来の漢族の移動はまだ止まっていな い が、それでもその農民政策は徐々に効果を上げていった。北魏が重視したのは北朝伝統の農民が安心して耕作にはげむための基盤作りであり、 手本になったのは三国の魏王朝の屯田制そしてその後継策である西晋王朝の占田課田法であった。北魏はこれに少し改良を加えて、第6代 孝文 帝の時に均田制として実施に踏みきった。

この孝文帝時代には、一層の政権安定のために、拓跋氏一族の中にそれまで残っていた遊牧民的要素を禁止し、言語から衣服に至るまで漢 族の ものを採用する政策(漢化政策)を実施する。孝文帝はこの大改革を実施し、反対派の反発を避ける意味もあって、首都を平城から漢族王朝の 古都の洛陽に首都を移した。そして洛陽郊外には、新たに断崖部に石仏寺院(龍門石窟寺院)を建立して仏教の保護者の面を漢族にアピー ルし た。この石窟寺院の造営地となった龍門の崖は石の質が雲崗と比べて格段に硬かった。そのため工事ははるかに困難だったが、硬いが故に繊細 な模様も壊れずに彫れるため、雲崗石仏よりはるかに優美な表現が描けたのである。またその表現も、雲崗石仏がインド・西域の仏像と似 た表 情をしているのに対して、龍門石仏は中国人好みの表情をしており、造営責任者の文化的背景の変化を物語っている。

太武帝以後のこの間、鮮卑族の北魏皇帝一族(拓跋氏)と遊牧系貴族や漢族の貴族は王朝の安定に協力している。これは拓跋氏ら遊牧民が 軍事 力では圧倒していたものの、人口的には少数派であったからである。また、鮮卑族が南進以来すでに2世紀も長城の南で居住していたため、漢 族の文化に染まっていたからであった。それともう一つ、彼らが故郷の草原から切り離されてしまう事情もあったのである。それはモンゴ ル高 原の情勢の変化であった。

漢の衰退のところでも述べたが、鮮卑をはじめとする3世紀の諸部族の南下で、モンゴル高原では一時的に権力の空白状態が生まれた。そ の空 白を縫って一気に大勢力となったのが、柔然率いる遊牧国家だった。高原を支配した柔然は、続いて西域にも進出して北魏とその支配権を争う こととなった。これに対して北魏(鮮卑)はモンゴル高原を取り返そうとするが、逆に柔然は、北魏に脅威を抱いている周辺諸国、南朝の 宋 や、東北の高句麗や西方の国などと同盟を結び包囲網を築いた。太武帝時代に両者の間で大激戦が繰り広げられ、一時、柔然は大打撃を受けて 弱体化したが、すぐに勢力を盛り返したため結局北魏は高原部をあきらめざるを得なくなった。

5世紀から6世紀の東アジアは、中国にのみ目を向ければ確かに南北朝と呼ばれる状態だったが、もう少し広くモンゴル高原から西域にか けて を視野に入れるとそれは南北に三国が並立する時代だったのである。ちなみに当時朝鮮半島付近でもそこは高句麗・新羅・百済の三国時代と呼 ばれる時代だった。北魏は太武帝の死後は、南朝との対立も激しくなり華北の支配に集中せざるを得なかった。こうした事情も北魏の漢化 政策 の原因であった。

ただしこの政策は、漢族支配の都合上は仕方なかったかもしれないが、その徹底は逆に部族内に反発を生んでしまう。特に孝文帝が漢人文 化に 染まりすぎて洛陽に遷都して根拠地が草原地帯から遠く離れてしまったことは、北魏の軍の主力の遊牧軍団と宮廷の間に距離感を生んだ。また 孝文帝以後は宮廷で漢人を重視しすぎたことへの反感が生まれていた。こうしたことから、6世紀の北魏では騎馬遊牧軍団の大反乱が起 き、こ れが原因で国家が分裂してしまう。分裂した両王朝はどちらも魏を名のったが、区別するため東の鄴を都とする方を東魏、西の長安を都とする 方を西魏という。

旧北魏の軍団はほとんどが故郷に近い東魏の方に付き、人口も多かったため、全体的な国力は当初は東魏のほうがはるかに強力だった。こ のた め西魏では圧倒的な東魏の軍事力に対抗するため、領内の漢族・遊牧民から一定数の家ごとに兵員を徴発し、一から軍事訓練を施して兵を育成 して作りあげた軍団でもって東魏に対抗した。この制度が府兵制である。西魏はこれによって十分以上に東魏と互角以上に渡り合えたばか り か、しばしば大打撃を与えることにも成功した。

ところで東魏も西魏も王朝の実態は、皇帝が宰相の傀儡(あやつり人形)であったことで共通していた。そのため、どちらも建国後約20 年後 には、実権を握っていた宰相によって禅譲という形で帝位が奪われ、東魏は北斉、西魏は北周へと変わった。とはいっても国名が変わっただけ で、王朝の実態は何も変わらなかった。つまりあいかわらず鮮卑族のしかも拓跋部の出身者が両王朝の中心を占めていたのである。その 後、北 斉では内紛が続いたため国力を消耗し、自滅としか言いようの無いような形で577年に北周に滅ぼされてしまう。

華北は統一されたが、戦乱で華北は疲弊していた。統一の立役者である北周の武帝は道教・仏教の寺院を破壊しその財産を没収、僧侶を還 俗さ せた(三武一宗の法難の2)。そうして強化した財政をもとにして、南朝(当時は陳朝)の征服を視野に入れた。しかしその前に北方の安全を 確保するために行った北方遠征が武帝の命を奪った。彼は出発直後に病に倒れ、まもなく死亡する。

後に残されたのは皇帝としての資質に欠ける人物で、帝位も即位の翌年にはまだ幼い長男に譲り、自らは快楽にふけって5人の皇后を設け (漢 人の皇帝としては異例だが、遊牧民出身者には前例がある)、政治はすべて幼い皇帝の祖父で大軍団の司令官の一人であった楊堅に任せっきり だった。しかも譲位の翌年にはそれが原因となってか、急死してしまう。政治の実権は当然楊堅が握ることとなり、翌年には幼帝に禅譲さ せて 新王朝を開始した。これが隋王朝である。

■突厥帝国と唐王朝

北魏によって柔然が大きな打撃を受けると、モンゴル高原では西方のトルコ系部族集団が急速に力を伸ばしていった。中でも最も強大に なった のが6世紀の突厥である。突厥以前にも5世紀には丁零(テイレイ)、鉄勒(テツロク)といった部族が柔然の支配下から独立していったが、 これらはいずれもトルコ族の古名Türkt(テュルクト)の漢字表記の名称である。突厥は柔然時代には故郷であるアルタイ山脈の南の 麓で 鉄製品の製造や金の採取に従事していたが、しだいに遊牧国家として強大化していった。

彼らが柔然から独立すると、これに注目した北魏やその後継王朝である北朝はすぐにこれと同盟を結び、挟み撃ちで柔然を追いつめていっ た。 このため6世紀半ばには柔然は滅亡する。しかしその代わりに今度は突厥が恐ろしい勢いで東は高原部から西はソグディアナ地方にまで勢力を 広げ、北朝はかえって強大な敵と立ち向かう羽目になったのである。こうして成立したのが第一次突厥帝国であった。突厥はその西方にお いて 当時中央ユーラシアで大勢力となっていたエフタルとの対立が激しくなり、その支配下にあったイランのササン朝の名君ホスロー1世求めに応 じて同盟を結ぶと、挟み撃ちでこれを滅ぼした。また同時に、ササン朝を飛び越えて東ローマ帝国との間で交易を行おうともしている。こ うし た工作で活躍していたのが先述したソグド人であり、ソグド語はこの時期匈奴第一帝国の共通語となっていた。

6世紀も終わりに近づくと、北朝はいずれも突厥の圧力に屈するようになる。突厥は安定して西域すなわちユーラシア中央部における交易 を支 配するためにも、中国王朝を分裂させ、対立の芽を育てようとした。これに対して北朝では、隋が華北の支配者となると、その初代皇帝の楊堅 (文帝)は巧みな外交で突厥内部の不和の芽を探り出して対立を煽り、583年には突厥は東西に分裂してしまった。

東突厥は西突厥との対立に備えるためにも隋とは和平策を採るようになった。しかし突厥内部の混乱は東西対立どころか、複数の皇帝(可 汗) が乱立する有様で、結果的に中国優位の状況がしばらく続く。もちろんこうした状況を裏で操っていたのは隋であった。

隋では文帝の後継争いで次男の楊広が母の独狐皇后に気に入られ、兄から後継者の座を奪って父の文帝の死後に二代皇帝煬帝として即位す る。 煬帝は父を殺して即位したと唐代に書かれた歴史書に書かれているが、そうまでする理由が見あたらないし、書いているのが歴史の改ざんで有 名な唐王朝なのであてにならない。

煬帝も基本的には父の政策を受け継ぎ、東突厥を抑える政策を採ったが、そのやり方は彼の内政と同様に(大運河工事の強制など)、非常 に高 圧的なものがあったため、突厥側はこれに反発し、隋とは対立関係に戻った。煬帝の失策として有名な高句麗遠征も、突厥側からすれば煬帝が 自分たちの内庭を侵しに来たとしか映らなかった。これは現代で言えば、ロシアの内庭にあるウクライナに対して、EUやアメリカが NATO に加盟することを誘おうとして反発をかっているのと似た話である。煬帝は結局この遠征の失敗でやる気を失い、以後は大運河の南端近くの江 都の町の離宮に引きこもりきりになる。以後の隋は一連の敗戦で疲弊しきったことと、政府が機能を停止したことから大混乱に陥り、各地 で反 乱が勃発した。

こうした反乱軍の主力になっていたのは、皮肉にも隋王朝が各地を治めるために置いていた軍団司令官たち(府兵制の軍団の主力)だっ た。つ まりローマの軍人皇帝時代と似た構造である。この中から台頭するのが煬帝やその后の独狐皇后と縁戚関係にある李淵だった。ちなみに李淵の 一族李氏は楊堅と同じく鮮卑族拓跋部出身で、隋の帝室の楊氏と同じ軍閥出身であった。それに李淵の夫人が独狐皇后の妹であるように両 家は 縁戚関係にあった。当初李淵は、隋への忠誠を公言していたが、子ども達の説得を受け入れて、隋の都の大興城(長安)を占領し煬帝の親族を 皇帝に据えて自立した。やがて煬帝が家臣によって殺されると、李淵は自ら皇帝に即位する(唐の高祖)。しかしまだこの時期の唐は数あ る諸 勢力の一つであり、首都の洛陽を攻略する際には有名な少林寺の僧兵の力を借りなければならないほどであった。

この時期、唐以外の諸勢力は、しきりに東突厥の大可汗に使いを送りその援助を受けようとしている。大可汗はこうした使いにはいずれに も良 い返事をし、臣従の証として小可汗の位を乱発している。ようするに東突厥の可汗は八方美人で、弱小勢力を自身に都合良いように操るつもり が明白だったのだが、それを責めることができない弱みが中国側にあったのである。李淵はこうした勢力とは異なり、小可汗の位こそも らって いないが、本当にそうなのかどうかはわからない。何せ先に書いたとおり、この時代の記録を残しているのは唐代の記録官であり、唐は歴史の 改ざんを何度もやったことで悪名高い政権なのである。後の世の批判を受けまいとして、こうした記録をわざと捨てた可能性もある。突厥 は李 淵親子が首都の大興城を攻略する際に、多数の兵馬を提供している。何も無しにこんなことをするはずはないのである。

こうした状況を一気に改善したのが唐の二代皇帝である太宗(李世民)であった。彼は父や兄弟との不和から起こっていた内紛を、クーデ ター (玄武門の変)をおこして一気に政権を父から奪って解決する。そしてこの情報を聞いてすぐに攻め寄せてきた東突厥に対しては、渭水(首都 長安の側を流れる大河で黄河の支流)のほとりにまで攻め寄せた100万の突厥軍に対して、自らが先頭に立って立ち向かって突厥軍を追 い 払ったという(まるで映画。さすがに信じられないが)。

さらに太宗は、当時東突厥国内で起こった反乱をひそかに援助し、大軍を送って挟み撃ちにするとあっという間に滅ぼしてしまった。この 余り の鮮やかな成功に、遊牧民らは太宗に「天可汗」の称号を奉った。これは、素直に理解すれば天(漢族にとっても遊牧民にとっての最高神)に も匹敵する大可汗、すなわち東アジア世界の最高位の存在となる。しかし一方で唐王朝は、遊牧民からは、単に一連の拓跋王朝のつづきと 考え ていたため(当時は中国の皇帝をタブガチ=拓跋と呼んでいた)、単に遊牧世界の大王という意味だったのだろう。つまりアイツは俺たちの王 であって、漢族の王じゃないんだよ、という意味である。

さて、東突厥は滅亡したものの、それに代わって全ての遊牧民を支配する力もその意志も唐には無い。かといって遊牧民の世界をこのまま 放置 すれば、ふたたび突厥に代わる大勢力が生まれるのは目に見えていた。そこで唐は、唐に忠実な勢力に唐の官位を授け、その代官として遊牧民 を治めさせることとした。何のことはない、歴代の漢族の王朝が採ってきた册封体制と違わないやり方なのだが、これを拓跋系の唐王朝が やっ たということがこれまでと違う点だった。

こうしたやり方を特に唐では羈縻(キビ)政策と呼ぶ。羈縻とは牛馬を綱でつなぎ止めることであり、その文字通りの意味であった。羈縻 政策 で治める地域を羈縻州といい、これを統轄するのが都護府とされ、太宗とその子高宗の時代に唐の東西南北に6つの都護府が作られた。そして この都護府の近くで唐と遊牧民族は貿易を行うことになったのである。中国側の商人からは絹が、そして遊牧民族の側からは馬が交換され た。 差額が生じるときは貨幣も使われたが、基本は物々交換だった。こうした貿易を絹馬貿易という。絹馬貿易はその後ウイグル時代に最盛期とな る。

ちょうどこの頃西突厥では、最盛期の可汗の死後に皇位継承をめぐる争いが起こっていた。すると、これを知った唐は好期とばかりにすぐ さま 遠征軍を送って、その経済基盤である西域に進出し、安西都護府を置いた。

さて突厥問題が解決すると、その次に取り組まねばならない相手は高句麗だった。高句麗は、当時中国東北部から朝鮮半島北部にかけて広 く住 んでいたツングース系民族が建てた国で、半農半牧畜の生活を送っていた。それが4世紀末に即位した広開土王(好太王とも言う。日本史では 倭の進攻を撃退したとして有名)の時期に急成長し、中国東北部の遼河流域から朝鮮半島北部までの広大な地域を支配するようになる。そ して 朝鮮半島上で対立する新羅と戦うために百済と、さらに海の向こうの倭と同盟を結ぶようになる。また遼河以南を巡って争う北魏(およびその 分裂以後の北朝)と争うため、突厥や南朝と同盟を結んだ。北朝は何度か高句麗と戦うが、その度ごとに手痛い打撃をこうむった。中でも 隋の 煬帝の遠征はそれまで類を見ないほど大掛りだったために、その失敗による打撃も比較にならないほど大きく、王朝滅亡の原因とまでなってし まった。

唐では隋の二の舞にならないよう、二代太宗から三代高宗の時代にかけて、慎重にこれに対処している。まずは遠征軍が何度か送られた が、高 句麗はこれらを撃退してしまう。そこで唐は次に、半島内で高句麗と敵対する新羅と同盟を結び、高句麗の同盟国の中で最も弱体な百済を、海 と陸の二方面から攻めて先に滅ぼした。百済の残存勢力が倭の力を借りて国を復興させようとすると、これを利用して倭に対しても白江の 戦い (日本史では白村江の戦い)で壊滅に近い打撃を与えている。このように少しずつ敵方の同盟を崩していった結果、ついに668年唐・新羅連 合軍は高句麗を滅亡に追い込むことに成功したのだった。

こうして唐はあと一押しで朝鮮半島全域を支配できる状態に持ち込んだ。しかしその後、今度は新羅との半島支配をめぐる戦争が起こって し まった。また、東方での戦いにかまけているうちに、北のモンゴル高原ではトルコ系諸部族が再び独立の動きを強め、西では吐蕃が政権交代を きっかけに唐の西方領域を奪い取る動きを示したため、そちらの対策を優先した唐は、新羅の新政権が唐の册封体制下に入る姿勢を示した た め、結局は朝鮮を支配することを認めざるを得なかった。

唐はその後、南方遠征でヴェトナム北部までをその領域に組み入れることに成功する。これ以後も、多くの周辺民族が唐に忠誠を誓い、そ の文 化や体制を真似る。たとえば朝鮮半島の東南にある倭国も、一時唐と戦うが、その後和解し国名を「日本」として国交を開いて積極的にその文 物を輸入し、新羅や吐蕃や大理などと同様に唐の文化を取り入れていくのである。周辺諸族はこうして唐の柵封体制下に入る入らないに関 わら ず、自らその軍門に下ってその制度や文化を受け入れていったのであった。

さてここらで目を北方に向けよう。先ほど書いた高句麗滅亡の頃のトルコ系部族の反乱であるが、これは唐の政策が民族弱体化を狙ったも ので あったことから不満が高まって起こったもので、これがきっかけとなってやがて突厥帝国が復活する(第二帝国)。この帝国では、遊牧民が初 めて自分の言葉で自身を表現した記念碑が建てられた。これが有名なオルホン碑文である。これはトルコ語で書かれており、突厥第二帝国 がト ルコ語を使っていたことがわかる。突厥第一帝国が当時の国際語であるソグド語を主にしていたのとは対照的であった。

しかし第二帝国は短命であった。唐が則天武后によって一時周に代わった際の混乱期には唐と対決していたが、玄宗の治世になって再び周 辺諸 国に勢力を拡大しようとすると、これと共存する姿勢に転換した。これは玄宗の軍制改革、すなわち節度使制度の充実によって、著しく軍事力 が充実してきたせいであろう。

たとえば有名な節度使の高仙芝などは、もともと高句麗の王族だった可能性が高い人物であるが、母国の滅亡後は唐に仕え、その能力が評 価さ れて節度使となった人物である。当時は吐蕃などのチベット勢力がしきりに西域に進出しようとしており、高仙芝はそれを何度もうち破ったこ とで評価された。しかしその軍事的成功が西域諸国の警戒を呼び、西トルキスタンの近くまで進出していイスラム勢力を巻き込む紛争に発 展し ていった。

イスラム勢力は唐が西域に再進出する少し前に大きな政変を経験していた。ウマイヤ朝の滅亡とアッバース朝の成立である。この際、アッ バー ス朝の遠征軍は、カスピ海東岸のホラサーン地方から出発し、イラン~イラク各地で現地イスラム教徒の不満と内紛に苦しんでいたウマイヤ朝 の軍を次々とうち破り、ついに750年に新王朝が樹立された。この間この地域はこのアッバース朝成立の立役者であった男、日本の世界 史で は無名のアブー=ムスリムという人物の善政で治められていた。高仙芝が率いる軍が飛び込んできたのはこうした地域であり、唐はここでは全 くのよそ者、不愉快な乱入者に過ぎなかった。こうして751年タラス河畔の戦いが行われる。唐軍三万、イスラム側もおそらくは同程度 の軍 勢がぶつかったこの戦闘は、アッバース朝軍の圧勝に終わった。高仙芝は何とか逃げのびたが、唐側の多くの兵が捕虜になった。

この際どうやら捕虜の中に紙職人がいたようである。まもなくすぐ近くのサマルカンドの町で大規模な製紙工場が作られ、イスラム世界に 紙が もたらされるのである。俗に言う製紙法の西伝である。

話は元に戻ろう。高仙芝の遠征は失敗したが、それでもこの時期の唐はイスラム帝国と張り合えるくらいに国力を回復していたのである。 しか しその力はまもなく起こる内戦で雲散霧消してしまう。安史の乱の勃発である。

安史の乱の主役である安禄山は、父がソグド人、母が名門の突厥人という生まれで、父の死後母の再婚でソグド系の軍閥のボスの養子と なった 人物である(後継者の史思明もサマルカンド近郊の出身者)。唐王朝は、自身が漢族出身でないことから、能力さえあればどの民族出身だろう がまったく気にしない国だった。安禄山も6カ国語に堪能で軍事的才能もあったことから当時の宰相に認められ、順調に昇進した。玄宗お よび 楊貴妃にも気に入られ、ついには3つの節度使を兼任するほどの軍事力を持つに至ったのである。ただしそれだけの軍事力を持つと言うことは それだけ他人から警戒されると言うことであったから、保身のためには細心の注意を払っていた。

しかし楊貴妃の兄、つまり外戚の楊国忠と宰相の権力争いが発生し、優勢であった楊国忠に味方したことから彼の人生は狂ってしまった。 勝っ た楊国忠は猜疑心から安禄山を警戒し、徐々にその権力を取り上げようとした。身の危険を感じた安禄山には、自殺するか逃亡するか、それと も反乱を起こすかの選択肢があったが、多大な軍事指揮権を持っていた彼はためらわずに反乱の道を選んだ。こうして755年に安禄山の 反乱 が起こった。反乱は成功し、首都の長安近辺に頼りになる軍事力を持っていなかった玄宗や楊国忠はたまらず四川省への逃亡に追い込まれ、食 料も十分に得られず疲労の極に達していた玄宗一行の恨みは楊貴妃、楊国忠らに集中し、二人は一族もろとも殺されてしまった。

勝った安禄山らはそのまま新王朝の成立に踏みきろうとし、国号も燕、帝号も聖武皇帝と名のった。もともと有能な男だったから、このま ま行 けば新しいシステムを持った王朝ができてもおかしくなかったのだが、不幸なことにこの時期に安禄山は持病が悪化し、失明してしまう(糖尿 病らしい)。これが元でイライラが募った安禄山と周囲の人間との間に不信感が生まれるようになり、王朝の屋台骨は急速に揺らいでいっ た。

ここからは基盤が固まらないうちに崩壊する王朝のパターン通り、すなわち裏切りと内紛の連続である。周囲から禄山の後継者と思われて いた 実の子と、禄山自身が可愛がっていた養子との争いで実子によって禄山は殺されてしまう。その実子も禄山の片腕の史思明に殺され、史思明が 国を継承した。しかしその史思明も、同じように実子と養子の争いに苦しみ、実子に殺されてしまう。安史の国は、せっかく中国を支配す る実 力があったのに失敗した国だった。

けっきょく安史勢力は、こうした内部分裂と、唐の反撃、そして唐が反乱鎮圧を依頼したウイグル族の攻撃に遭い、少しずつ勢力を失って 763年、10年に及んだ反乱は失敗に終わった。しかし結局は敗北したとはいえ、安史の乱はもう一歩で成功するところであった。もし これ が成功していたら、面白いことになっていただろう。というのも、唐王朝はこれまでにも触れたとおり鮮卑(拓跋)族と漢族の混成政権であっ たが、安史勢力は非常に異民族色が強い政権であった。しかも統治能力は高いものがあったことから、もしかしたら中国史上初の非漢族に よる 支配、すなわち後の契丹や女真が行った支配を先取っていたかもしれなかったのである。ということで、その地位は結局契丹の登場まで待たね ばならない。

■ウイグル帝国

さて安史の乱に登場したウイグル族について触れよう。ウイグル族も突厥と同じトルコ系の部族である。彼らは突厥第二帝国が全盛期を過 ぎよ うとする頃に現れ、突厥の衰退と共に急速に勢力を拡大した。

今、中国に新彊ウイグル自治区というのがある。ウイグルは漢字で回鶻(元は回紇)と書く。現代のウイグル族のほとんどがイスラム教徒 であ り、イスラム教徒の中国名が回教ということから、回教の語源がウイグル族にあるという説が昔あったが、現代では否定されている。

実は、確かにイスラム教は回回(フィフィ)教と呼ばれていた時期があったが、回回とはモンゴル帝国時代にウイグル族より西方にいた同 じト ルコ系のカラ=ハン朝やホラズム朝から来た、イスラム教を信仰していた商人たちを回回商人と呼んだことから生まれた。しかしまだこの唐の 時代、ウイグル族は仏教徒であり、イスラム教徒ではない。ちなみに現在の中国では日本と同様に、イスラム教のことを伊斯蘭教と表記し てお り、回教の名はもう使われていない。キリスト教徒を耶蘇教と呼ぶようなものである。ついでに書くと、現在中国にいるウイグル族(回族)は 20世紀後半になってオアシス地域に住むトルコ系民族が、自称としてかつての偉大なウイグルの名前を名乗り始めただけで、本物の 9~13 世紀に活躍したウイグル族とは関係ないのである。

話を元に戻すと、初期のウイグルは、遊牧民族対策の一環として突厥に対抗する存在として唐が支援を行っていた。しかし突厥が衰退して ウイ グルが突厥帝国を滅ぼすと、今度は厄介もの扱いされていく。したがって唐・突厥関係は唐・ウイグル関係にそっくりそのまま移行するはず だったが、そうならなかったのは前述の安史の乱のせいだった。乱の頃は草原の世界ではウイグルにたてつくような勢力はほとんどおら ず、彼 らは唐と安史勢力の両方から味方になるよう懇願された。結局、ウイグルは唐王朝の側を選んで同盟を結び、安史勢力を滅ぼすことに協力し た。ウイグルはその報酬として東トルキスタンの交易の利権を得、国力は大いに強化された。また安史の乱を利用して一時長安を占領する ほど の勢力を持っていた吐蕃とは対立し、8世紀末に激戦の上に勝利を勝ち取った。さらには草原の西北方でウイグルと対立していたキルギス族に 対しても激しい攻撃を加え、完膚無きまでたたきのめした。この頃がウイグルの最盛期である。

その後ウイグルは、一時王家が断絶したのと、その後の継承がうまくいかなかったことから急速に分裂の度合いを深めていった。9世紀に 北方 ユーラシアをおそった気候変動もこれを加速した。安史の乱から約100年後の840年、かつての恨みに燃えるキルギス族8万の大騎馬軍団 が襲来し、ウイグル帝国はあっという間に滅亡した。しかしキルギスも気候変動による寒冷化には苦しみ、草原世界の覇権を維持すること はで きなかったことから、この地域はしばらくの間混迷の時代を迎える。

ウイグルは最盛期に、中央ユーラシアの支配民族としては初めて城郭都市を建設している。もちろん都市自体は匈奴時代から存在したが、 これ は以前にも書いたように、遊牧国家が農耕民を少数ながら抱え込んでおり、その人々が住むためで、遊牧民はその中には基本的に住んではいな かった。それがウイグル時代に初めて遊牧民も住むようになったのである(年間の一時的だけらしいが)。ウイグルはどうやら、漢族とイ ス ラーム教徒の両方から、都市での安楽な生活を送る魅力を知ったらしい。

ウイグル帝国の崩壊後も、中央ユーラシアの国家では都市を造ることが一般的になっていき、独自文字を作ったり経済政策が行われるよう にな り、農耕民を直接支配する国家が生まれるようになる。後のキタイ帝国や金、モンゴル帝国のような農耕民を支配する遊牧国家の体制の源流の 一つは、実はウイグル時代にあったのである。

さらに帝国滅亡後のウイグル族は、オアシス地帯に根拠地を移して半定住生活を送るようになり、ほとんどが仏教徒になって商業民族とし て活 躍するようになるが、その芽も実は最盛期に生まれていたのである。また一部には、すでに中央ユーラシアに広まり始めていたイスラム教を受 け入れた者もいたようだ。たとえば後で触れるトルコ系初のイスラム王朝のカラ=ハン朝などはウイグル族が建てた可能性がある。そして ウイ グル族の言葉や文字(ソグド文字を改良したもの)は中央ユーラシア東部で広く使われるようになり、後の契丹文字やモンゴル文字、そしてそ の子孫である満州文字の源流となっていった。

■吐蕃

ウイグルと並んで8世紀から9世紀にかけて中央ユーラシアの覇を競ったのが吐蕃である。吐蕃はチベット人のソンツェン=ガンポが7世 紀半 ばに建国した国であった。建国当時は隣接する唐もやはり建国したばかりであり、先述したように東方での問題にかかりきりであったことか ら、唐=吐蕃関係は良好だった。ソンツェン=ガンポは太宗に息子と唐の皇族の女性との結婚を願うと、太宗は文成公主を送り出してい る。吐 蕃ではこれをきっかけに仏教が広まり、9世紀には仏教が国教化された。

ソンツェン=ガンポの死後も吐蕃は唐の制度を参考に国力の強化を進めた。しかし強大化する吐蕃の存在は、唐にとって脅威となってい き、一 方で吐蕃も国力のさらなる強化のためには東西交易の要であるシルクロードの交易路を押さえる必要があった。しかしそこは、突厥やウイグル といった北方遊牧民にとっても譲ることが出来ない場所である。

先述したように、唐と高句麗・百済・新羅・倭が入り乱れて戦っていた7世紀半ばから後半にかけて、吐蕃は交易の利を狙ってタリム盆地 (東 トルキスタン地方)の占領を図った。唐はこれに反撃しようとして失敗し、その隙を狙って突厥帝国が復活する。しかし8世紀には唐の強大化 によって突厥は滅亡し、吐蕃もその属国となった。

しかし唐で安史の乱が起こって弱体化すると、この機会を利用して吐蕃は領域を拡大し、763年には唐の都長安を占領した。これは半年 で撃 退されたが、唐は国力を大幅に低下させる。安史の乱がウイグルの援軍によって鎮圧され、東トルキスタンが事実上ウイグルの支配領域となる と、吐蕃とウイグルの間に争いが起こった。

これに敗北した吐蕃は現実を受け入れ、9世紀にはこの吐蕃・ウイグル・唐三国の関係は安定化に向かった。822年にはこの関係樹立の 証と して唐蕃会盟碑がラサに建てられた。しかし9世紀とは、先述したように気候変動による寒冷化が始まった時代である。吐蕃もその影響を受 け、次第に国力は衰退に向かった。ウイグルが840年に滅亡すると吐蕃は一時東トルキスタンを領有するが、その支配力は弱く、敦煌市 で漢 人が反乱を起こして、780年の両税法などでやや国力を回復した唐が支援をすると支配権を失ってしまった。こうして国力を弱めた吐蕃は、 877年に滅亡する。三国の中で最終的に残った唐も、間もなく907年に節度使の朱全忠に滅ぼされる。


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