世界史,歴史,大学入試,認知心理学

『世界史読本』

◇中国文明の始まり

■黄河文明と長江文明

中国は世界の四大文明のうちの一つが生まれた国である。ただ、長い間中国文明=黄河文明とされてきたが、現在では中国にはもう一つ異なっ た文明があったことが分かってきた。

まず古くから知られて来たのが、19世紀に発見された黄河文明である。紀元前五千年前に発生した。この文明は、使用された土器によっ て、 前期と後期に分けられている。前期は仰韶文化といい、比較的低温で焼かれた彩陶(彩文土器)と呼ばれる様式の土器を使用し、他には磨製石 器を使用していた。後期は龍山文化といい、比較的高温で焼かれた、黒陶や灰陶と呼ばれる土器が使用されていた。他には青銅器が使用さ れて いた。麦やコウリャン(日本ではあまり見ない、トウモロコシの近縁種)といった作物の畑作が中心だった。

もう一つの文明は長江文明という。黄河文明とほぼ同じ時期に誕生し、全く異なる生活様式が営まれていた。こちらは米作が中心である。 日本 に縄文時代の終わりに伝わった稲作の原点らしい。ただ、まだ発見されて30年余りしか経っていないので、よくわからない点が多い。

■邑の発生

農業が活発化すると、やがて人口も増えていった。こうして多くの人が集まる村=邑(ゆう)とよばれる小都市が各地にできた。とくに黄 河中 流域は、黄河という大河の性質から、常に堤防を強化する必要があり、早くから人々は協力し合って作業をする習慣ができていた。性質という のは、黄河はその上流に黄土(オウド、またはコウド)と呼ばれる土砂が大量に堆積し、黄河の水がそれらを削って常に下流に土砂がもた らさ れる。土砂は年々河底に積み上がっていくので、常に土手をかさ上げしたりしないと、大雨が降ると図のように洪水を引き起こすのである。

河底をさらったりや堤防を強化するといった治水の土木工事はきちんと計画しないと、うまく行かない。黄河流域でひんぱんに起こる洪水 の被 害を防ぐために、さらには邑同士の紛争のもめ事を調整するため、有能な指導者が必要とされた。彼は自然と邑をまとめ、やがて強力な邑が周 囲の小さな邑をまとめ上げる形の集団を作り上げていった。こうした中心的な邑を大邑という。大邑は近くにある多くの小邑を事実上支配 下に 置くようになり、後には大邑の名がその地域名になっていった。後の春秋戦国時代に中国各地を支配する諸侯の国名は、この時代に付けられた 大邑の名前である。

紀元前2000年頃に夏王朝が諸邑を統一したという伝説がある。これは考古学的にも大いに可能性はあるのだが、確実に存在したという 決定 的な証拠はまだ見つかっていない。このため存在したかどうかは微妙なのだが、中国では存在したと断定されている。

この伝説では、帝堯が王朝を始め、三代にわたって中国に文明をもたらしたとされている。しかし彼らはいずれも寿命が500年ほどある な ど、素直には信じがたい。さらには超能力を発揮するなど、神話的要素が大きすぎるためその実在は疑問視されてきた。しかし、世界各地に残 るこうした神話や伝説には、それが生まれる背景となった事実が存在することが明らかになってきたため、夏王朝も伝説上の帝王はいな かった だろうが、何らかの歴史的事実はあったのではないかと歴史家は考えているのである。

■殷と周

確実に存在する王朝として最古のものが紀元前1600年頃に始まった殷王朝である。ただし殷という名は、その後の周王朝が呼んだ名 で、自 身は「商」と名乗っていた。

殷はその様子が文献上からも、考古学的な発掘からもかなり詳しく分かってきている。都は大邑商で、その遺跡は現在の河南省安陽市小屯 村で 発見された。この場所は、殷の遺跡という意味で、殷墟と呼ばれることもある。ただし現在では、殷は何度か都を移したことが分かっており、 大邑商はその中でもっとも長く都が置かれていた町にすぎない。

殷の時代は青銅器文化の時代で、多くの大邑を支配していた。殷はそうした配下の邑に、青銅製の宝器を贈ることでその支配者の権威を保 障 し、全体の支配権を維持していた。殷の王は天子と呼ばれ、天の信仰(天神を祭る)が広まっていた古代中国において、唯一天意を知ることが できる存在とされた。天意は卜占(ぼくせん)とよばれる占いで知ることができるとされ、その技術は殷王が独占していた。占いの結果 は、紙 がまだ存在しなかったこの時代、獣骨や亀甲の表面に刻まれて保存された。この時に使われた文字が甲骨文字である。この文字は現在の漢字の 原型であることが分かっている。

殷の時代はこのように、王が神意の解読を独占し、その知識・技術を持って天下を支配する政治体制であった。こうした体制を神権政治と い い、祭儀と政治が一体であったことから祭政一致の政治ともいう。

殷は紀元前1046年に滅ぶ。有名な歴史書『史記』によると、最後の王の紂(ちゅう)王は傲慢で強欲であった。妲己(だっき)という 女性 を愛し、その好意を得るために、烽火(のろし)をリレー式に使った緊急連絡網を遊びに乱用するなど、政治の私物化が激しかった。そのため 諸侯の信頼を失い、西の大邑の周が反乱を起こしても誰も助けに来ずに滅びたとされる。

周は殷を滅ぼすと、都を漢中盆地の鎬京に置いた。周王も天子と呼ばれたが、神権政治は行わなかった。その代わりに行ったのが封建制度 であ る。これは、王の一族や功績のあった家臣を「諸侯」として地方に送り、密接な婚姻関係を結び、血のつながりを頼りにして全国現地を治める という制度である。諸侯はその下に卿・大夫・士という身分階級の家臣団を持っていたとされる。

こうした血縁を通じた集団の統率は、当時の中国社会では一般的であった。血縁集団を宗族(そうぞく)といったことから、こうした集団 をま とめるしくみを宗法(そうほう)という。この他に、土地を漢字の井の字型に区切り、農民に割り当てる井田(せいでん)制という土地制度が 行われたという記述もあるが、これは実際に行われた証拠はない。

■周の「東遷」

周の12代目の幽王は、有力な大邑出身の皇后を廃して、愛人を皇后にしようとしたことから、その大邑に反乱を起こされて異民族の犬戎 の介 入を招いてしまった。犬戎が幽王を殺し、都の鎬京を荒らしたため、仕方なく残った人々は東方の洛邑に都を移した。このことを周の東遷と呼 ぶ(これ以後を東周と呼び、これ以前を西周と呼ぶ)。諸侯はすべて周王朝の親族であったから、これは要するに親戚の家に本家が居候し てい る状態なのである。紀元前770年のことである。

ただ、最近ではこの一連の事件は、もう少し複雑な事情があるらしい。周では当時鎬京にいた幽王と、東方の洛邑に根拠地を置いていた別 の王 族が対立していた。つまり周は東西に分裂していたのである。その中で東周と共同戦線を張った犬戎が、鎬京を攻略して西周を滅ぼした、とい うのが真相らしいのだ。

周王朝が東に都を移したこの事件以後、王室の権威は衰え、有力な諸侯の力を借りることでしか王が天下を治めることができなくなった。 この ような王に代わるほどの力を持つ諸侯は覇者と呼ばれた。東遷以降、周王が権威を全く無くすまで5人の覇者(春秋五覇)が生まれた。この時 代を春秋時代と呼ぶ。これは孔子が著わしたとされる魯国の歴史書『春秋』からとられた時代名である。

斉の桓公はその一人目で、管仲という優秀な宰相を得て、周王に代わって諸侯をまとめた。この管仲は、有能ではあったが王族でも何でも な く、西周時代なら絶対に高位に就くことができない人物だった。中国では、この頃から諸侯の間で、有能な人物を側近に招き重用する例が増え ていった。さらに、こうした人物たちに関する逸話が、後世の人たちの参考にされるようにと故事成語として残されていく。その一つ「管 鮑の 交わり」を紹介しよう。

管仲は、初めは桓公が王位に就く上でのライバルの王子の補佐役だった。その命を狙ったこともあったので、ある時とうとう捕えられ、殺 され かけた。それを救ったのが、管仲の親友で、当時桓公の補佐役になっていた鮑叔だった。鮑叔は桓公に対して「あなたがこの小さな国だけを治 めたいなら、私の補佐で十分です。しかし、あなたが覇者になりたいのなら、何としても管仲を使うべきです」と進言し、その言葉を桓公 は受 け入れた。宰相となった管仲は、この扱いに感激して、以後全力で桓公を支え、斉は盟主として全盛期を迎えたのである。

後に管仲は、当時を思い返して言った。「まだ私が若く貧しかった頃、鮑叔と一緒に商売したが、いつも私が利益を多くとったのに、彼は 何も 言わなかった。私の家の貧しさを知っていたからだ。鮑叔のためになると思ってやったことが失敗して、かえって迷惑をかけたことがあった が、それでも彼は何も言わなかった。彼は、ものごとにはうまく行く時と行かない時があると知っていたからだ。私は何度も多くの主に仕 えた が、結局は全てクビになった。それでも彼は私を馬鹿なやつだとは言わなかった。私が必要な時代が来ていないことを知っていたからだ。私は 三度戦いに行って、三度とも逃げ帰った。でも彼は私を卑怯者だとは言わなかった。私に年老いた母がいることを知っていたからだ。かつ て私 が補佐した王子は殺され、私も殺されかけるというという、みじめな目にあったが、彼は私をみじめだとは思わなかった。私にとっては自分の 才能が世に知られずに死ぬ事の方が、みじめであることを知っていたからだ。私を生んでくれたのは両親だが、私を本当に理解してくれた のは 彼だけだ。」

世の人々はこの話を聞いて、管仲の賢さ以上に鮑叔の人を見る目を称賛したという。そしてこうした真の友に出会えることを願ったとい う。こ のような交わりを管鮑の交わりという。

五覇の他の四人は、史記では晋の文公、宋の襄公、秦の穆公、楚の荘王としているが、穆公・荘王の代わりに、呉の夫差、越の勾践の名を あげ る書もある。これは当時の価値観で5が尊いとされたことから5人になったかららしい。従って春秋七覇でも良いのだが、まあここは慣例で五 覇としよう。

春秋時代も終わりになると、諸侯間の争いは少なくなっていった。これは、各国の実権がじょじょに上級貴族である卿に移っていき、他国 との 戦争が望まれなくなったからである。また、もう一つの変化としては、農業生産が増大したことがある。これは当時、鉄製農具が普及し、いま までより土地を、深く楽に耕せるようになり、新たな土地の開墾も容易になったためであった。その結果、こうした変化をうまく利用した 国と そうでない国との間に格差が生まれていき、従来の秩序は崩れていった。そしてこの春秋時代末期の社会変化は、大きな政治上文化上の変化を 巻き起こしたのである。

■晋の三分

紀元前453年、大国晋が、三人の大臣(韓・魏・趙の三氏)によって分割されるという事件が起こり、社会に衝撃を与えた。これは晋の 事実 上の支配者であった智瑶が、他の実力者である韓氏・魏氏の二人を伴って、一人対立していた趙氏を攻め滅ぼそうとしたのだが、その中で趙氏 が韓氏と魏氏に「おれが滅ぼされたら次はお前らの番だぞ」と言った。韓氏も魏氏も智瑶には不信感を持っていたのでこの言葉は重く響 き、三 氏は結局同盟を結んで彼を攻め滅ぼし、晋は三つに分割されたのである。

周王も結局はこうした事態を認めざるをえなくなり、半世紀後の紀元前403年には韓・魏・趙の三国がそれぞれ諸侯に認定された。この 出来 事を境に、中国人の価値観が一つ大きく変わった。

これ以前は国同士の対立が起こりどちらかが破れても、諸侯が一人残らず殺されることはなかった。というのも、一族国家を根絶やしにす れば その一族の呪いを受けるということが信じられていたからである。しかし、晋の三分割から半世紀経ってもそんなことはおこらず、韓魏趙三国 は、かえって発展し強大になる一方だった。こうして一つのタブーが破れ、これ以後は、遠慮なしに国が滅ぼされることになる。春秋時代 には まだ数多く残っていた小国が絶滅し、諸侯は勝手に王を名のるようになった。韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の七国(戦国七雄)が有力であっ た。この時代、もはや周王は権威を完全に失い、諸国は他国に滅ぼされないよう、富国強兵政策を実施していく。その為には、良い人材を 集め ることが必要とされた。そして従来以上に身分制にこだわらない、実力が物を言う社会になっていったのである。さらにこうした時代を背景 に、下の身分のものが上の身分のものを蹴落してのし上がっていくことも珍しくなくなっていった。こうした現象を下剋上という。下が上 に克 つ(乗り越える)という意味である。

こうした時代の要請から、多くの思想家が活躍するようになる。有名な歴史書『漢書』の中で、著者の班固はこれを整理し、儒家・法家・ 道 家・墨家・陰陽家・名家・縦横家・雑家・農家の九家に分類した。

儒家は孔子を始祖とする一派で、国家を強くするのに仁や義といった精神的な心構えやその表現である儀礼の重要性を強調した。孔子の死 後は 荀子や孟子といった後継者が現われ、その思想は後の王朝のほとんどの政策に影響を与えていった。

法家には、特定の始祖はいない。先に述べた管仲も法家と言っていい思想の持ち主である。思想を集大成したのは戦国時代の韓非子であり 著書 『韓非子』を残している。他にも秦の宰相となった商鞅や李斯が有名である。法家は、儒家と違って人の善意や道徳をあてにせず、法治主義や 信賞必罰といった、人の外側に枠を設けることで国家秩序を構築することが国を強くすることだと訴えた。

道家は老子を始祖とし、荘子が思想を大成した。二人の考えを合わせて老荘思想とも言う。無為自然という考え方が最良の政策とされた。 これ は国が豊かになるためには儒家や法家のように政府が何かをするのではなく、あるがまま、なすがままにすることこそがかえってものごとをう まく行かせるのだという、一見すると逆説的な政策である。戦国諸侯には受けが良くなかったが、統一国家の時代になり法家や儒家がもて はや され、国家の搾取が盛んになったり、煩雑な法律が頻出して煩わしくなったりすると庶民や貴族官僚たちの心をとらえて大きな勢力を持つこと があった。また、後には民間信仰と融合し、中国最大の信仰である道教の中核的な思想となっていった。

墨家は墨子を始祖とする一派で、普遍的な愛(=兼愛説)と平和思想(非攻)を訴えた。しかし後になると非戦を貫くためとして、防衛策 の研 究を盛んに開発するようになり、兵法の一端を担うようになってしまった。このため諸勢力が対立し合う時代には存在意義があったが、結局は 統一をめざす大勢力に憎まれるようになり、最後は始皇帝時代に弾圧されて消滅してしまう。

縦横家も特定の開祖はいない。戦国末期の蘇秦や張儀が有名で、外交政策を論じた。蘇秦が、強国に成長した秦に対抗するため他の七国を 連合 させた合従策や、これに対抗して張儀が秦との2カ国間の同盟を結ぶことで国家の延命策を訴えた連衡策は、その代表的なものである。

名家は弁論術を得意とした。公孫龍がその代表である。外交や内政で重視されていた議論を有利にするため論理思考を重要視したが、しば しば 遊びやからかいから、論理のもて遊びで人を煙に巻いたため、あまり評判が良くなかった。

陰陽家は、鄒衍を代表とする一派で、世界の動きを計測するための理論、陰陽思想を構築した。世界のすべてのものは陰と陽の性質を持っ てお り、これと世界の物質の根本である五行(=木・火・土・金・水)の組み合わせを理解できれば、世界の動き、人間界の動きも理解できるとし た。それを実現するための手段として卜占術が導入される。後にその思想は道教に取込まれ、風水や占いといった形で今でも残っている。

農家は、農業技術を開発する一派で、当時は有名だったが、詳細な思想の内容は残っていない。

なお、班固は漢書に載せていないが、兵家も重要な思想である。これは戦争術を説くもので、春秋時代の孫子(本名は孫武)や戦国時代の 孫臏 (ソンビン。こちらも生存時には孫子と呼ばれた)が有名である。戦いに勝つためには戦わないことが最良の策である、敵を知り己を知れば百 戦危うからずなど、人生訓としても役立つことから、有名だった。また戦争法=兵法は軍司令官の必読書とされた。

こうした諸子百家が後の中国や世界の思想界に与えた影響は大きい。あまりにも大きすぎて、以後の中国の思想界は少数の例外を除けば新 鮮さ がほとんど見られないくらいである。

■秦の強大化

法家の説をもっともうまく利用し、強大化したのが西方の大勢力、秦国であった。まず紀元前4世紀中ごろ、秦の孝公に登用された商鞅が 変法 を実施する。これは国策の大変革であり、伝統的な政策を放棄して法治主義一色の政策を実施するものだった。その分かりやすさ、合理性から 支持者は多く、国政のムダも省かれたことから秦の国力は徐々に他国を圧倒していく。また、紀元前4世紀末には南方の蜀の地が征服さ れ、秦 の食料庫の役割を果たすようになる。これも秦の国力増大の一因となった。

孝公以後もこうした人材登用、法家重視の政策は継承され、100年後には秦の国力は他国を圧倒するようになっていた。商鞅自身は、守 旧派 の貴族の反発で殺されたが、法家への信頼は歴代の王によって受け継がれた。

■故事成語①

本文では管鮑の交わりしか紹介できなかったが、あまりに面白い話が多いので、あといくつか紹介しよう。まずは戦国時代。

隗より始めよ
遠大なことも手近なことから始めなければならないという意味。燕の昭王が、滅亡間近な自国を再興するために優秀な人材を集めるにはど うし たらよいかと賢臣の郭隗にたずねた。すると郭隗は、昔、馬の骨を500金で買った馬買いの元に3頭の名馬が集まった故事を昭王に話し、 「まず私めを厚遇することからお始めください。そうすれば、あの郭隗ぐらいでさえ優遇されるのだから、と有能な人物が集まるに違いあ りま せん」と説いた。昭王はさっそく郭隗のために立派な御殿を建てて厚遇したところ、名将の楽毅や学者鄒衍などの優秀な人材が集まって燕は再 興したという。最近有名になったライフハックと称する仕事術にも同じ内容が見られる。

完璧
欠点がなく立派であること。ある時、趙の恵文王は天下の名玉として知られている楚の和氏の璧(ドーナツ型の宝石)を手に入れた。その こと を耳にした秦の昭襄王は、秦の15の城と璧とを交換しようと求めてきた。使者として秦に入ったのは藺相如という人物で、彼は秦に城を割譲 する意志がないのを察知すると、気転を利かして璧を取りもどし、命がけで昭襄王と渡り合い、最後は璧を無傷のままで趙に持ち返った。

刎頚の交わり
その友人のためなら、首を刎ねられても後悔しないほどの親しい交わりの事。趙の藺相如はもともとは身分の低い者であったが、完璧の使 者の 功績により上卿の地位を得た。ところが、口先だけで功績を挙げたことを快く思わなかった武人の廉頗将軍は、「今度相如の顔を見たら恥辱を あたえてやる」と公言していた。それを聞いた相如は、なるべく将軍を避けながら暮らすようになった。相如の側近はこれを恥ずかしがっ た が、相如はこれに対して「秦でさえ恐れることのない私が将軍ごときを恐れるわけがない。だが強国の秦がこの趙国を攻めないのは、私と将軍 がこの国にいるためだと思われる。もし二匹の虎が闘えば、喜ぶのは秦であり、超に全く益がないのは明らかである。私は国家の利益を先 に し、私情を後にするために将軍を避けるのだ」と言った。

このことを人の噂で聞き知った将軍は、むち打ちの刑に用いる荊を背負って相如の家へ行って謝罪した。その際、2人は心を開いて歓談 し、以 後は首を刎ねられても悔いのないほどの親しい交わりをしたという。

鶏鳴狗盗
一見して役に立ちそうもない技能でも使い方次第では役に立つと言うこと。戦国時代の斉の宰相となった孟嘗君は普段から「食客三千人」 を抱 えているとして有名だった。あるとき秦に使いに行ってもめ事に巻き込まれ、秦から脱出する際に、狗盗(こそ泥のこと)と、鶏鳴(鶏の鳴き 真似)が巧い食客に助けられた故事による。

一字千金
優れた文章・文字のこと。戦国時代、秦の宰相の呂不韋は、彼の食客たちに命じて二十余万語よりなる大冊『呂氏春秋』を作らせた。数日 後、 呂不韋は出来あがった『呂氏春秋』を都咸陽の城門の前に陳列させ、その上に千金をぶら下げて、「この文章に一字でも手を加えられる者があ ればこの千金を与えよう!」と人々に呼びかけた。人々はあらそって挑んだが、誰も直せなかったという故事に基づく。

奇貨居くべし
掘り出し物は迷わず買っておいたほうがいいと言う意味。先述の呂不韋がまだ商人として趙にいた頃、人質となって惨めな生活をしていた 秦の 王子の子楚に目を付け世話をした。呂不韋は子楚が将来大物になるはずと見抜いて、私財を尽くしてまで世話をしていたのである。実際に後に 子楚は荘襄王として即位し、呂不韋は宰相に取り立てられ、荘襄王の死後はその子の政(後の始皇帝)の代まで二代にわたって仕えること に なった。呂不韋の掘り出し物は大当たりだったというわけである。

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