世界史,歴史,大学入試,認知心理学
◇古代の南アジア世界
■インダス文明
インドはしばしば「インド亜大陸」と表現される。これはユーラシア大陸の一部でありながら南はインド洋、北は世
界最高峰エベレスト山などを擁するヒマラヤ山系とヒンドゥークシュ山脈に囲まれて独立性が強く、その面積は広大で動植物も周囲とは異なっ
た独特なものが多いためである。
そのインドで最古の文明が生まれたのは、西北部を流れるインダス川の流域であった。その発生の時期は、実はまだよく分からない。最近
まで
は紀元前2300年~前1800年頃にはこの流域の下流部にモヘンジョ=ダロ(「死者の丘」の意味)遺跡、上流部で多くの支流に分かれて
いる地域にハラッパー遺跡があり、これらが文明の起源とされていた。しかし近年この二大都市遺跡以外に、いくつかの大きな都市遺跡が
発見
され、一部には紀元前6000年前にさかのぼる遺跡も見つかっている。また遺跡が分布している範囲も、かつてはインダス川流域に限ると思
われていたが、現在ではアラビア海沿岸に広く分布していることが分かっており、分布面積においては同じ時代のエジプトやメソポタミ
ア、そ
して中国の黄河文明よりもはるかに広くなっている。「文明」と呼べるレベルに達した年代は変わらないものの、まだまだその起源については
よくわかっていない部分が多いのである。
こうしたインド最古の文明を作り上げたのは、現在では南部に住んでいる少数派のドラヴィダ系民族と思われている。しかしこのドラヴィ
ダ系
民族自体が前4000年頃北方から移住してきたらしく、先住民のことについてはよく分からない。遺跡から見つかった人骨も、さまざまな民
族の特徴を表していてはっきりしない。
これらの遺跡の特徴は、すぐれた都市機能があったことである。まず、都市が作られる前の段階から設計がされていたらしく、大浴場や穀
物倉
庫、集会堂と思われるものが明らかに計画的に配置されている。大浴場というのは、ローマ帝国の大浴場とは違って入浴と言うよりは沐浴(参
拝の前に身を清めること)の場として設けられていたようである。そのための水は近くの井戸からくみ上げられ、排水口から排出された。
こう
した水の利用においてもインダス文明の都市はすぐれており、都市内のあちこちにこうした排水施設(下水道と言っても良い)が張りめぐらさ
れている。現代でも下水道のない大都市など、インドはもちろん世界的にもそう珍しくないのに、この遺跡では今から4000年も昔にす
でに
装備されているのである。また、こうした施設が集中している場所は遺跡内でも一段と高い場所に置かれており、これも万が一のインダス川の
洪水に備えるためだろうと言われている。
こうした都市の建築に使われていたのが焼レンガである。当時のメソポタミアやエジプトでもレンガは使われていたが、ほとんどが日干し
レン
ガ(泥をレンガ形に固めただけのもの。乾燥地帯では意外に長期間もつ建材である。)であり、焼レンガは珍しい。焼レンガは薪で焼かなけれ
ばならないため、その使いすぎが周辺の自然破壊を起こして文明を滅亡に導いたのではないかという説が出されたこともあった。しかし現
在で は、まだ可能性は残っているものの、学会では否定的な意見が多い。
もう一つ遺跡からよく見つかるものに印章つまりハンコがある。印章を今日でも使用している文化はもう東アジアの中国から日本にかけて
の儒
教文化圏のみであるが、古代には多くの文明・文化圏で使用されていた。今の日本のように押してその形(印影という)を残すハンコもあれ
ば、粘土に円筒形のハンコを転がしてその表面に描かれた印影を残すハンコもあった。インダス文明では日本と同じようなハンコが使われ
てお
り、そのいくつかには文字らしい模様が描かれている。これはまず間違いなくインダス文字と呼べるものであるが、あまりにもその数が少な
く、今でも解読は成されていない。ただコンピューターのおかげである程度までは分かってきていて、どうやらドラヴィダ系の言語に近い
可能
性が高いようである。また、印影に描かれているのは彼らが信仰していた神を表すものが多いのだが、その特徴からは現代のインドで最大の信
者をもつヒンドゥー教との関係性をうかがわせるものがある。
遺跡の近くには墓もあり、埋葬者の副葬品から生前の生活もある程度分かってきている。中には首長か貴族と思われる副葬品が見つかるこ
とも あるが、全体的には庶民と大差がないことから、貧富の差があまりない文明だったようである。
文明は前1700年頃突然滅亡し、都市も機能を停止し、住民の大半がどこかへ去ってしまったようだ。その原因はいまだに分かっていな
い
が、文明の衰退の兆候はその1世紀ほど前には始まっており、気候変動や異民族の侵入といった突発的な原因でないことは確かである。モヘン
ジョ=ダロやハラッパーではその後もしばらくは住民が残っていたようだが、20世紀初めには「死者の丘」と呼ばれるほど薄気味悪い土
地に なってしまったようだ。
■アーリア人の侵入
今から200年ほど前、イギリスのある言語学者が、インド人の言語
とヨーロッパの言語の類似性に気がついた。彼はインドの古典語サンスク
リット語と、ペルシア語や英語などの類似性を指摘し、これがきっかけで言語の類似性に関する研究が始まった。今日ではこのインドからヨー
ロッパにかけての言語の類似性は学界で承認されており、それらは共通の祖語から分かれて派生したのだと考えられている。そしてこの共
通の
起源を持つ言語集団をインド=ヨーロッパ語族と呼んでいる(ただしこれらの人種や民族が同じというわけではない。言葉の先祖が同じと言う
だけである。)。
表題のアーリア人とは、現在北インドの大平原(ヒンドゥスタン平原)を中心に住んでいる人々の自称である。彼らは前2000年頃まで
は中
央アジア、おそらくはカスピ海の北方のあたりに住んでいる遊牧民族だった。ちなみにアーリア人が去った後も現住地に残った人々はその後ま
もなく西南方向に移動を開始し、やがてイラン高原に住み着いて現在のイラン人の元になっていった。なお、イランとはアーリア人の土地
を意
味する古代ペルシア語アイラーン(またはアリヤーン)がなまった言葉である。このように「アーリア人」と「イラン人」は、本来同じ人々を
指していたのである。ちなみにイラン人をペルシア人と呼ぶわけは、彼ら自身は昔から自らをイラン人と言っていたのだが、古くからつき
合い
のあるギリシア人がイラン人の故郷、現ファールス市の古名ペルシスから勝手にペルシア人と名付けてしまい、それが定着してこの名になった
のである。日本がジャパンと呼ばれるのと似た話だ。
アーリア人は前1500年頃その一部が南下を開始し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに入った。彼らがそこに見たのは乾燥した中
央ア
ジアとは違って温暖湿潤で動植物に満ちた天国のような大地だった。かれらはインダス文明が滅亡した後のインダス川流域に入り込み、先住民
であったドラヴィダ系民族を征服したり、融合していった。この頃の彼らの様子が分かるのが、インド最古の文芸作品である『リグ=
ヴェー
ダ』である。リグとは讃える歌、ヴェーダとは聖なる知識であり、『リグ=ヴェーダ』とはつまり神の知識がつまった歌謡集、アーリア人の聖
書という意味なのである。『リグ=ヴェーダ』にはアーリア人を導く雷神インドラが、先住民で都市に住む「黒い人々」を滅ぼしたという
記述
があり、これはおそらくインダス文明の最後の生き残りをアーリア人が征服したことを表すのであろう。ヴェーダには、『リグ=ヴェーダ』以
外に、『サーマ=ヴェーダ』『ヤジュル=ヴェーダ』『アタルヴァ=ヴェーダ』があり、あわせて4ヴェーダまたはヴェーダ文書という。
こう
したヴェーダ文書が編纂された時期である、アーリア人がガンジス川流域に定着したの時代をヴェーダ時代と呼ぶ。ちなみにヴェーダ文書は、
現在でもヒンドゥー教の重要な聖典となっている。
■バラモン教とカースト制度
このようにアーリア人は先住民を征服していったが、少数者であるためにじょじょに先住民との混血が進み、その文化に染まっていった。その
ため現代のインドの言語にはドラヴィダ系民族由来の単語が多く含まれている。また、もともと遊牧民だったアーリア人が現在のような農
耕民
族になったのは、この時期にドラヴィダ人から学んだかららしい。また、インド神話の神の中には、天神ディヤウス(ギリシア神話のゼウスと
似ている。ギリシア人もインド=ヨーロッパ語族)や友愛の神ミトラ(ゾロアスター教の太陽神ミトラと似ている)のように、かつての故
郷か
ら持ち込んだと思われる神もいるが、一方では先住民の信仰する神を取り込んでいったものも多い。たとえば現在ヒンドゥー教で最高神の一人
とされるシヴァ神は、インダス文明で獣の神であったものをアーリア人が取り込んだものらしい。
こうした先住民との人種的・文化的な混交の中で生まれたのがインドの伝統思想であるバラモン教である。バラモン教はキリスト教や仏教
と違
い、特定の開祖はいなかった。また信仰体系も特定の聖書を元に構築されているというものではなく、非常に緩やかであった。大自然の様々な
現象を擬神化した神々を信仰するもので、後のヒンドゥー教のように神像を造って崇拝するというような習慣はまだ無い。
バラモン教で重要なのが人間のあり方についての考え方で、カースト制度として有名であるが、インドではヴァルナと呼んでいる。カース
トと
は、16世紀にインドに初めてやってきたヨーロッパ人であるポルトガル人が、このヴァルナ(本来は色という意味。種姓と訳す)制度をヨー
ロッパに紹介し、そのポルトガル語訳であるカスタから来た言葉である。この制度は、おそらくアーリア人がインド社会に定着する中で、
支配
階級であったアーリア人の神官(バラモン)や戦士貴族(クシャトリヤ)、平民(ヴァイシャ)といった階級が固定されていき、被支配階級が
隷属民(シュードラ)となっていって形成されたと思われている。カーストは日本語では「生まれ」と訳すのが最も近いだろうか。この考
えの
もとでは、人は生まれたときの家の職業と社会的地位がその人のカーストであり、それは死ぬまで変わることはない。あるカーストに生まれた
人はそれを守り抜くのが重要であり、異なったカーストの仕事や地位につこうとする者は社会秩序を乱すものとして罰が下るとされた。
従っ て、カーストは非常に閉鎖的な集団となっていった。カースト制度については後でもう少しくわしく述べよう。
もうひとつ重要な考え方が輪廻の思想である。ところで、古代インドやその影響の強い地域において、歴史について書くことは非常に難し
い。
というのも、インドでは歴史的資料があまり残っていないからである。その理由は、秦の始皇帝のように誰かが特定の書物を組織的に抹殺させ
たのではなく、インド人が歴史にあまり関心がなかったためなのである。たとえば中国では春秋時代のある国で権力を持った家臣が主君を
殺す
事態が起こったが、時の史官は死を覚悟でそれを正史に記録して殺され、死後はその弟が同様に記録してまた殺され、その死後はまたその弟が
同様にしたため、とうとうその権臣もあきらめたという話が残っている。このように史官が死を覚悟してまで記録に残す中国人を特別だと
して
も、他の民族と比べてもインド人の歴史への無関心さは際だっている。その理由がこの輪廻の思想なのである。このあたりの話は直接大学入試
には関係ないが、日本にも非常に強く影響を与えた考え方であり、今や世界が注目するインドを理解する上で非常に重要なことなので我慢
して 読んでほしい。
輪廻の思想というものはエジプトでも生まれてミイラというものをうみ出した。インドではミイラは生まれなかったが、これは自然にミイ
ラが
できる乾燥地帯のエジプトと、一般的には高温湿潤なインドとの気候の違いだろう。輪廻思想によれば、人間や動物の魂は死んでも消滅するこ
とはない。人が死ぬとインドでは普通、火葬にされるが、その後魂は一度月の世界に行く。そして雨と一緒に地下にしみ入り、さまざまな
作物 の中に入って男性の体にはいる。そしてその男性が女性と一緒になって子どもができると、再び人間として生まれ変われるという。
ここまではエジプトと似ているが、インドでは全ての人がこのようになるのではなく、必ず人間に生まれ変われるという保証がないのであ
る。 というのも、死亡したときに魂が選別され、その結果によって次の生がどうなるか変わってしまうのである。
まず生前に正しい信仰によって完全な知識を得たものは、火葬された後に神の世界に行って二度と地上に戻ってこなくてよいとされた。
「戻っ
てこなくてよい」と言うのは、古代のインド人にとって地上は苦しみの世界であり、人間世界に戻るのは苦痛をくり返すことであって「戻らな
くて良い」とはありがたいことなのである。このように輪廻の循環から抜け出ることを解脱といった。バラモン教では解脱をするためにさ
まざ まな修行法が考えられた。有名なヨーガもその一つである。
次に、もし生前に悪い行いをしていたならば、軽い悪行なら他人から差別されても仕方のない人間に生まれ変わることになり、もう少しひ
どい
場合には家畜として生まれ変わり、人にむち打たれたり食べられるための一生を送るとされた。もっとひどい場合には、いつ踏みつぶされても
しかたない虫けらにしか生まれ変われないとされたのである。
こうした生まれ変わりの結果を左右するのが生前のその人の行いであり、これをカルマと呼んだ。ちなみにカルマの考えは仏教にも取り入
れら
れ、日本では業と訳された。その人が生前どういう生き方や判断のしかたを行うかでその人の来世が決まると言う、因果応報という言葉で表現
される思想だった。
こうしたことからバラモン教では、現世の最大の目的は来世でより良いカーストになるために生きることとされた。また、現世での苦しみ
は自
分がそのカーストに生まれたことがその原因であり、それを克服することはできないこととされた。人生がそういうものなら、失敗を成功に変
えることなど意味のないことになる。
話は歴史に戻るが、歴史を記録する目的は失敗や成功といった事実を残すことであり、事態を改善するためのものである。歴史を残すこと
に関
心のないということは、改善の努力を認めないと言うことなのである。カースト制度に基づく生き方というのは、社会を改善=変化させず安定
させるには都合の良いやり方でもあったが、事態を改善することを放棄するものだった。
バラモン教では、人生の送り方についても学生期、家住期、林住期、遊行期の4つの生き方を送ることが理想とされた。学生期とは10
才~15才頃に特定の師匠に入門し、入門後は師と共に生活して朝は師より早く起きて水運びや托鉢をしてから授業に入り、就寝前は師に
マッ
サージをするなどして師の許可が出て初めて寝ることができる。こうした生活はバラモンは12年~48年続き、他のカーストの場合は形式的
なものだった。ただし、入門しない者はその所属する集団に参加できないとされ、つまはじきの目にあってしまう。つまり学生期の入門式
は成
人式にあたるのだった。ただし以上のことは男性についてであって、女性は一般的に学問は必要ないとされ、時には処罰の対象とさえなった。
バラモン教の女性蔑視は激しく、どんなカーストであろうが一般に女性は男性より劣る存在と見なされていた。これは現代インドでもまっ
たく 変わっていない。
家住期は名前の通り家に住む時期で、父の跡を継いで家業をしっかりと継ぎ、結婚して子供を作らねばならない。こうしたことからインド
では
職業は父子の間で相続すべきものとされ、職業選択の自由はなかった。また他人の家業を圧迫するようなことはその家族や共同体を危険にさら
すことになるので、業者同士の競争や経営の合理化などは基本的にはなかった。ついでに言えば、貨幣というものは商取引の合理化(より
安全
に財を運ぶ、蓄える)手段として生まれてくるものであるから地域共同体の中では不要なため、古代インドでは物々交換が地方の商取引の基本
だった。結婚に関しても同じカーストに属するもの同士がすることが望ましいとされ、上位カーストの男性と下位カーストの女性が結婚す
るこ とは容認されたが、その逆は非常に重大な道徳的犯罪行為とされた。インドでは逆玉などありえなかったのである。
結婚年齢も、男性は学生期の後なのでバラモンは当然20才以上となり、他のカーストもそれにならっていた。しかし女性については、血
の穢
れが無い時期に結婚することが望ましいとされたことから10才過ぎ、時には8才くらいで結婚することもあった。さらに結婚の際には持参金
を渡す制度があったが、これが時代を下るにつれて過大になっていった。今では父親の年収の数倍の持参金を用意しないと結婚を拒否され
た
り、できたとしてもそれを理由に妻が夫の家族からいじめられ、自殺に追い込まれる例もしばしば見受けられるようになっている。また離婚は
恥とされており、実際のところほとんど認められないことから、実家に逃げて帰ってもそれを恥じた家族によって殺されるという話も珍し
くな
い。おまけに、夫が妻より先に死亡した場合は妻も後を追って殉死すること(サティという)が賞賛され、そうしない妻がやはり夫の家族から
いじめられて結局は死を選ばざるを得ないこともそう珍しくはなくなっている。こうしたカーストや結婚に関するさまざまな問題は経済発
展に
湧く現代インドの最大の問題である。ちなみにこうしたことはすべて憲法や諸法令で禁止されているが、現実はなかなか無くなってはいない。
また、このような女性蔑視の思想は、仏教と共に日本に伝来したと考えられている。
林住期は、顔にしわが現れて白髪が目立ってくる時期で、家督を息子に譲って単独か妻と共に家を出、神や祖先をまつりながら林野でとれ
るも
のだけを食べて生活する時期である。これは非常に勇気のいる生活だが、古代インド人にとってはあこがれの生活であった。遊行期はさらに年
を取ったあと、単独でほとんど持ち物を持たずに托鉢・乞食(食べ物や金銭をもらいながら生活すること。こうした人に施しを与えること
は善
行であった。)をしながら生活することであった。こうした生活を送ることができれば、解脱に至ることができるとされたのである。ただしこ
うした段階にまで至る人はごく少数であった。現代のインドでも、こうした修行生活を送る人々に対するあこがれと信仰は非常に強いもの
があ
る。こうしたインド人の理想は、やがて仏教の東伝と共に東南アジアから東アジア、そして日本にも大きな影響を与えていくのである。
さて、ここまでは多少問題はあっても、輪廻によって来世によりよい生活を期待できたカーストの話であるが、古代インドにはまだ下に
シュー
ドラと呼ばれるカーストがあった。前にも書いたように、シュードラは生前の徳が無かった哀れな者、穢れた魂で生まれてきた者とされた。そ
のためシュードラは、バラモン教のさまざまな行事には参加できなかった。彼らは、アーリア人がインドに侵入してくる以前に北インドに
広く
住んでいたドラヴィダ系民族の子孫と現在では考えられている。アーリア人の侵入に対する抵抗が、彼らへの蔑視を生んだのだろう。ただし、
グプタ朝期の頃までにはヴァイシャが商工業者になることが多くなったことから、自然とシュードラが農民となっていった。このためカー
スト 制度もそれに伴って変化していき、シュードラの蔑視も緩和されていった。
ここまでが古代の4カーストであり、教科書にもここまでしか書いていないものが多いが、実はその後ヴェーダ時代の終わり頃にもうひと
つの
カーストができあがった。それが不可触民である(現在はアウトカーストとかダリットと呼ばれる)。不可触民はヴェーダ時代初期にはどうや
らシュードラに含まれていたのだが、やがて排泄や人や動物の血や死に関わる仕事(狩猟、皮革製造など)が卑賤視され、その仕事に就い
てい
た彼らが穢れきった人間と考えられるようになった。そしてシュードラが農民となっていくと、ヒンドゥー教の最下層として、被差別階級の地
位を一身に引き受けるようになったようだ。
不可触民については、ようやく20世紀になって不可触民出身の有名な思想家・政治家で現インド憲法の起草者であるビームラーオ=アン
ベー
ドカルによって陽が当てられ、日本の被差別部落解放運動と共に差別撤廃運動の対象として世界的に有名になった。しかしインドでは今でも、
不可触民は触れることはもちろん見てもならない者と考える人が多く、自動車事故でひき殺されるようなことがあったとしても、新聞には
事故 のニュースが載ることさえない、事故が無かったことにされてしまうような状態なのである。
なおこの「穢れ」は、彼らと会話をしたりその手が触れた食べ物を口に入れてもうつるものとされた。こうした穢れの思想も、仏教を通し
て日
本に平安時代頃に流入したと考えられているので、日本人にとっては分かりやすいだろう。穢れはそのまま放っておいてはいつまでたっても自
分は共同体に戻れない。そこでやらなくてはならないのが浄化の儀式(日本では禊ぎという)である。これは断食や沐浴、穢れを清める効
果の
ある食物の摂取といった方法を組み合わせるものである。日本では現在、禊ぎと言えば神社の神主がお祓いをするというのが一般的だが、イン
ド由来のものとしてはおかしな感じがする。実はこれも平安時代に神仏習合と呼ばれる現象があって、神道と仏教が混交された時期があ
り、そ
の影響で神主の仕事となったようだ。こうした浄化の儀式を受けることで、再びその人は本来のカーストの性質を取り戻し、元の生活が送れる
とされたのである。ただしこの穢れは、飢餓に直面しているときなど生命の危険に直面しているときなど緊急時には、たとえ穢れた人々と
の接
触や食物を摂取しても問題がないとされた。こうした緊急避難的な方法は、しばしば拡大解釈されることによってカースト制度の非合理性をあ
る程度緩和することになった。そしてそうした柔軟性があることによって、この制度は形を変えながら2000年以上の間続いているので
あ る。
もっともカースト制度は、ヴェーダ時代にはアーリア人が比較的多かった北西インドでは強かったが東部や南部ではそれほどでもなかっ
た。ま
た、古代には確かに制度は強固であったが、その後時代を経り社会が変化するにつれて緩んでいったようである。実際、インド最初の大帝国マ
ウリヤ朝の始祖チャンドラグプタなど、いくつかの古代王朝の開祖はシュードラ出身である可能性が高い。19世紀までにはすっかりその
影響 力は弱まっていたようだ。
それが今のインドのように再び強力に人々の生活を縛るようになったのは、インドをイギリスが支配したことによる。イギリス人はインド
を支
配するにあたって、インドの現地法を採用しようとした。その際、地域ごと、言語集団ごとに大きく法が異なるインドの現実に対応するため、
彼らが最「発見」し、採用したのが古代の『マヌ法典』であり、カースト制度だったのである。したがって、今のカースト制度は19世紀
に新 たに作り直されたのであって、古代のまま3000年近く続いたわけではないのである。
■ヴェーダ思想の転換
アーリア人の北インドへの浸透が一段落し、先住民との関係が落ち着いた頃、バラモンや上位のクシャトリヤの中に、従来の祭式主義だけでは
飽き足らずにより複雑な哲学的思考を求める動きが強まった。というのも、社会変動が収まってくると祭式主義(表面的なもの)に飽き足
らな
くなるのは人間の常だからである。これはこの後触れるように、インドでグプタ朝期の安定が仏教哲学を発展させていったし、中世後期のヨー
ロッパの安定がキリスト教の神学を発展させていったと同じなのである。彼らの思考の詳細はこの時代に編纂された前述のウパニシャッド
と呼
ばれる百以上ある文書群の中に詳しく述べられており、ウパニシャッド哲学と呼ばれる。その例として一例を挙げてみよう。初期の大哲学者
ウッダーラカとその子の会話である。
(ウッダーラカが子に言った)
「ガジュマル(熱帯性のクワ科の常緑高木)の実を持ってきなさい」
「父上、ここに持って来ました」
「割ってごらん」
「割りました」
「そこに何が見えるか」
「小さな種がたくさんあります、父上」
「そのうちの一つを割ってごらん」
「割りました、父上」
「そこに何が見えるか」
「何も見えません、父上」
父は彼に言った。
「我が子よ、お前に見えないこの微少なもの、このものから大きなガジュマルがこのように生えているのだ。我が子よ、この微細なものこ
そ、 この世にあるすべてのものの本質であり、真に在るものであり、アートマンである。そして我が子よ、おまえもそうなのだ」
アートマンとは、ウパニシャッドの哲学者たちが最も重視した概念で、人間の本質を表すとされた。そしてこの思想ではアートマンと宇宙
を貫 く根本原理ブラフマンの一致を目ざすことが理想とされた。
アートマンのイメージがつかみ易いのは次の話だろう。これはグプタ朝時代の『バガヴァッド・ギータ』に書かれた話である。
クシャトリヤの王子アルジュナは、親族同士が別れて戦争になったことに苦しみ、彼らを殺すような行為はしたくないと深く悩むが、この
悩み
を救ったのがクリシュナ神だった。クリシュナ神は、剣が殺すことのできるのは肉体だけであって、本当の個人存在であるアートマンは剣に
よって殺すことのできない永遠不滅の存在だと言い、恐れずに武人の努めを果たせと勇気づけた。つまり個人的な感情を捨てて持って生ま
れた 義務を果たせと説く話である。
また、ブラフマンとは宇宙のさまざまな現象の背後で働く原理で、この世を変える力であり、人間の理性や感覚では決して捉えられないも
のと された。したがって、これ以上説明することは私のような存在には不可能と思われるのでここらで終わっておこう。
■仏教とジャイナ教
このように古代インド思想はこの時代、少しずつ変化していったが、それでもバラモンを頂点とした祭式中心の社会は変化しなかった。そのた
め、それに物足りない人々の中から、より根本的、現実的な変化を求める動きが起こっていった。それが前5世紀に起こった仏教とジャイ
ナ教 である。
まず早くに起こったジャイナ教から説明しよう。開祖のヴァルダマーナはインドの現ビハール州のヴァイシャーリー市で生まれ、父親は
シッ
ダールタ(!)というクシャトリヤだった。結婚して娘を一人もうけるが、30才の時出家してバラモン教の一派に入門し、激しい修行の結果
42才で悟りを開き、72才でなくなるまで多くの弟子を育てた。死後はマハーヴィーラ(偉大な勇者)あるいはジナ(勝者)と呼ばれ
た。
ヴァルダマーナは生きることを苦しみと考え、その原因を輪廻から逃れられない人間の業であるとし、バラモン教の祭式主義やバラモンの権威
を否定した。そして正しい信仰、正しい知識そして正しい行動をすることが大事だと考え、苦行や禁欲主義は否定せず、「正しい行動」=
戒律 の徹底を信者に求めた。
戒律で有名なのは、不殺生の戒律だろう。これは資料集などにもよく載っている信者の服装、特に口を覆う白布と道を掃くための箒で有名
であ
る。白布は空気中の小さな虫さえも吸い込んで殺さないためで、箒は道を歩くときに使うと説明されることもあるが、そんなことをしていたら
道など歩けない。彼らは普段は注意しながら歩くだけであり、箒は道ばたなどに座るときに虫を殺さないためのものなのである。ただし不
殺生
の戒律は非常に重要であり、自然界全てに生命があると考えているジャイナ教徒にとっては、食事さえもが業なのである。そのため信者にとっ
て最高の死に方は一切の食事を取らずに死ぬ断食死である。ジャイナ教はその戒律との関係から、農民や牧畜民は(どうしても殺生に関
わって
しまうので)信者になりにくく、信者のほとんどは商人とくに金融業や小売業(運送業などは牛馬を酷使して殺す可能性がある)となった。
ジャイナ教がヴァイシャをターゲットとしたわけではないが、自然とそうなっていったのである。
次に仏教については、日本の文化に与えた影響が非常に大きいので、少し詳しく説明しよう。ただし入試問題にはこんなに詳しくは出ない
の で、安心して欲しい。
仏教の開祖はシャカまたはブッダと呼ばれる。生没年は諸説あって不明である。シャカとは彼の所属していた部族の名、ブッダは尊称で漢
字で
は仏陀と書く。他にも彼の呼称はあるが、この本ではシャカで統一する。本名は、本人が話していたパーリ語ではゴータマ=シッダッタ、当時
の共通語サンスクリット語ではガウタマ=シッダールタと呼ばれていた。彼は現ネパールのアーリア系シャカ(正確にはシャーキャ、漢字
では
釈迦)族の王子、すなわちクシャトリヤとして生まれた。後世に形成された伝説では生まれてすぐに七歩歩いて天を指さして「天上天下唯我独
尊」と喋ったと言われるがそんなことはなく、母のマーヤー(神戸の摩耶山の摩耶の語源)が彼を産んで一週間で亡くなった他は、16才
で結 婚して息子をもうける頃までは、恵まれてはいたがクシャトリヤの王子としては普通の人生を送っていた。
シャカは息子が生まれたことで、かねてからの念願であった修行生活を送ることを志した。一国の王子が世を捨てるなどあまり考えられな
いこ
とだが、当時のインドは戦乱の時代であり、一方ではウパニシャッド哲学者やヴァルダマーナがバラモンの権威を否定していて、世の価値観が
大いに混乱していた時代だった。
彼の出家の直接のきっかけという話が仏伝に残っていて(四門出遊)、ある日彼が首都のカピラ城の東門から出るとそこで老人に会ったの
で引
き返し、気持ちが変わって南門から出ようとすると病人に出会ってしまう。そこで西門から出ようとすると死者(葬式)に出会ってしまい、人
生の無常を感じたという。そこで残る北門から出ようとすると次に出会ったのが一人の行者で、そのすがすがしい態度から即座に出家の意
志を 固めたという。ただし実際に彼が出家できたのは29才の時だった。
彼は出家してすぐに有名な行者のもとを訪れて教えを請い、さまざまな難行苦行に打ち込んだが、どれも彼が求めていた「人々を救う道」
とは
違っていた。そこで彼は苦行では人を救うことはできないと悟り、ある村の菩提樹の木の下で瞑想をしていたときに悟りを開いたと言われる。
後にこの村はブッダが悟ったという意味でブッダガヤ(現ボードガヤー市)と呼ばれるようになった。その後彼は人々が苦行をしなくても
正し
く悟る方法(八正道)を編み出し、大国マガダ国王の保護も得て大教団を作り上げた。その後80才になるまで各地で教えを説き、現ビハール
州のヴァイシャーリーの町(ヴァルダマーナの生誕地)のクシナガラの地で亡くなった(入滅という)。シャカが亡くなると、とたんに彼
を支
持し保護していた国々から彼を記念するためにその遺骨(仏舎利という)を貰いたいという要望が殺到し争いになった。そこであるバラモンが
調停した結果、仏舎利は八等分され、それぞれが仏塔(ストゥーパ)に納められた。後にマウリヤ朝のアショーカ王によって仏舎利はその
うち
の七つの塔から再び集められ、8万4千に再分割されたという。その内の一つが日本の滋賀県の石塔寺だという伝説がある。ちなみに仏舎利と
は仏陀の舎利の意味で、舎利とはサンスクリット語の遺体・遺骨を表すシャリーラの漢字音訳である。日本では、仏舎利が米粒大だったこ
とか ら寿司屋で使われる米の隠語となっている。
初期の仏教では、シャカの生涯からも分かるように、煩悩を脱して解脱を求める修行法、八正道と呼ばれる生活態度が重要とされた。それ
は修
行を行う者にとってはバラモン教の行者のような苦行を必要とせず、はるかに分かりやすい方法だったが、それでも修行生活は必要だった。修
行者は、在野の支援者の援助(これをダーナ、漢字で檀那または旦那という)を得てはじめて修行生活が成立したのである。支援者はク
シャト リヤが多かったので、仏教教団もとくにクシャトリヤを重視する布教を行っていった。
■アレクサンドロス大王来たる
ヴェーダ時代の後期にはガンジス川流域のアーリア系国家も、マガダ国やコーサラ国などの大国が割拠する戦国時代の様相を深めていた。シャ
カ族の国も最後はコーサラ国によって滅ぼされるが、その隣の大国マガダ国がガンジス川流域を下流から上流に向かって勢力を広げていっ
た。
一方、インダス川流域では諸国の興亡が続いており、西方のアケメネス朝ペルシア帝国はダレイオス1世の時にガンダーラ地方を征服し、属州
を設けサトラップを置いていた。ペルシア戦争の時アケメネス朝軍に加わっていたインド兵はこの属州から徴収されたものであった。
前4世紀末に突如現れてアケメネス朝ペルシアを征服したのがアレクサンドロス大王である。大王は前330年にアケメネス朝を滅ぼす
と、そ
のまま東方へ遠征を続け、前326年にはインダス川を越えた。インド側ではこの新たな征服者の到来に当惑し、抵抗か服従か態度を決めかね
ていたが、幸いにも大王は部下の抵抗でインドを去っていった。なお、歴史家プルタルコスによれば、アレクサンドロスがインドに侵入し
たと
き、大王のもとに一人の若者が訪れてインドの道案内を申し出たという。この若者はサンドロコットスという名とされているが、彼こそ後の
チャンドラグプタのことであるという、面白いが出来すぎた話が残っている。
■マウリヤ朝のインド支配
大王によるペルシアの滅亡、そしてその後の大王の急死はインドに混乱をもたらした。インド北西の大王領は、大王の死後ギリシア人たちが西
方に逃げ帰ったことから無政府状態に陥った。こうした起こった混乱を利用して勢力を広げたのが、マガダ国の将軍であったチャンドラグ
プタ
で、マガダ国の王家を滅ぼして首都をパータリプトラ(現パトナ市)に置くマウリヤ朝を興した。ちなみにチャンドラグプタは当時のバラモン
が残した文書では低いカースト(おそらくシュードラ)の生まれとされているが、仏教系の文書ではクシャトリヤ出身とされている。しか
し現
在では、先述したようにマガダ地方がカースト制の身分の縛りが強くない地域だったため、彼がどんなカーストであろうがあまり気にされな
かったということがわかってきている。チャンドラグプタは一時アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)であるセレウコス(セレ
ウコ
ス朝シリアの建国者)とも戦ったが、その後同盟を結んでその使者がインドを訪れて詳しい記録を残したたためこの時代の様子がくわしく分
かっている。この本もその記録『インド誌』に多くを依っている。
マウリヤ朝はその後も着実に勢力を拡大し、第三代アショーカ王の時には南方の強国カリンガを征服することで、ほぼ全インドの支配がな
し遂
げられ、古代最大の大帝国に発展した。伝説では、このカリンガ征服戦は10万人もの人が殺されるなど犠牲者が多く、それまでは無慈悲で血
も涙もない冷酷な国王であったアショーカもこれには心を動かされ、まもなく仏教に帰依するようになったという。ただしアショーカ王は
仏教 だけを保護したのではなく、ジャイナ教なども同様に保護している。ただ個人的に仏教を信仰しただけであった。
アショーカ王は、仏教に対して二つの大きな功績を残している。一つはその精神に基づく「法(ダルマ)の政治」を王朝支配の根本とし、
自ら
全国を巡幸してこれを宣伝し、王子たちを各地に使節として派遣したことである。最も遠くまでいった者は、現スリランカにまで行ったことが
はっきりしている。スリランカが現在仏教国であり、その後ここから上座部仏教が生まれたのは、これが起源である。
もう一つの功績は第3回仏典結集を行ったことである。仏教はすでにシャカが生きている頃からその教えが弟子たちによって異なる状態が
生ま
れていた。これはシャカが生前からそう重要でない戒律は信者間の同意があれば変えてかまわないと言ったことが原因であった。特に有名なの
はシャカの従兄弟であるデーヴァダッタの一派で、非常に過激な説を唱えていたので、シャカを殺そうとしたとか反逆を企てたとかで(現
在で
は否定されている)否定的に扱っている宗派が多い。しかし実際、仏教教団は多くの宗派に分かれており、いくつかの間では対立も起こってい
た。こうしたことから、シャカの死去後間もなく教団幹部らが集まり、シャカの教えを確認し合う第1回仏典結集が行われている。
こうした分派活動が盛んだった初期の仏教を部派仏教と呼ぶ。のちに北インドで生まれた大乗仏教は、こうした初期仏教の個人を対象に救
済し
ようとする態度を、器が狭い態度だと考えて小乗仏教と呼んだ(乗は乗物の意味)。いまでも高齢の人の中にはこうした呼び方をする人がいる
が、蔑称なので使わないように。部派仏教はやがてほとんどの宗派が大乗仏教に吸収されてしまう。しかしスリランカだけには残ることが
でき たため、やがてここから初期仏教の最後の一派上座部仏教が東南アジアに広まっていくことになる。
アショーカ王は他にも各地に自分の功績を記した石柱を立てるなどしたが、マウリヤ朝は王の死後、次第に衰退して約50年後の前2世紀
初め
に滅亡したようである。マウリヤ朝に代わったその後の王朝も比較的短命で興亡していった。その後前1世紀頃までのインドは、あまり大きな
勢力も現れない分裂時代であった。
■クシャーナ朝の北インド統一
この長らく分裂状態が続いたインドに大きな影響を与えたのが、西北部の異民族であった。アレクサンドロス大王の帝国がディアドコイ戦争後
分裂し、その後旧ペルシア領をほぼ継承したセレウコス朝も、東方でギリシア系のバクトリア王国やイラン系のパルティア王国(アルサケ
ス
朝)が独立するようになると衰退していった。前1世紀にはまずこのバクトリア王国が東西貿易で栄えてインドに大きな影響を与えるようにな
り、インドにギリシア系文化をもたらした。さらにその衰退後には中央アジアからスキタイ系民族、イラン高原方面からはパルティア王国
がイ ンドに侵入するようになり、ギリシア系・スキタイ系・イラン系の3民族が豊かなこの地域の覇権を争うようになった。
こうした対立の最後の勝者が、中国北方から移住してきた大月氏族とその後継者クシャーナ朝(漢字表記は貴霜)であった。大月氏はもと
もと
モンゴル高原の西南部タリム盆地のあたりに住んでいた遊牧系民族だったが、匈奴が冒頓単于のもとで強大化して本拠地を追われると、中央ア
ジアに移住してきた。有名な漢の武帝の使者の張騫が立ち寄ったのもこの頃である。大月氏はここを根拠地に支配を広げていくが、その過
程で
貴族の一つクシャーナ氏が王位を奪い、ガンダーラ地方(現アフガニスタン)のプルシャプラに都を置いた。クシャーナ朝は大月氏国以来の漢
との交流を継続し、倭国と同様、金印をもらっている。また張騫がきっかけとなって活発化した東西交流でも大きな影響を果たし、貿易で
大い
に栄えた。クシャーナ朝は後述するサータヴァーハナ朝と同じく貿易で多くのローマの金貨を獲得し、それを改鋳して流通させた。貿易による
繁栄で首都近辺のガンダーラ地方は大いに栄え、インドから伝わった仏教も王家の保護を得て大いに栄えていった。クシャーナ朝は前1世
紀か ら西北インドに侵入するようになり、1世紀にはインダス川流域からガンジス川流域までのほぼ北インド全域を支配した。
■ガンダーラ文化と大乗仏教
このクシャーナ朝の本拠地で始まった新しい文化がガンダーラ文化である。それはこの時代の西北インドにいたインド人(仏教)の文化と異民
族ギリシア・イランなどの文化が混交したものであった。たとえば仏像の造営が世界で初めて行われたのがこの頃である。もともとインド
人は
偶像を拝むという習慣はなく、シャカは偉大な行者であるが神ではないため拝む習慣もなかった。そのため初期の仏教ではシャカを表すのに仏
塔(ストゥーパ)や仏足石(足跡)、菩提樹を描いて代用していた。それがクシャーナ朝の頃に信仰の対象になり始め、最初の仏像が作ら
れた
のである。最初の仏像を作った人々はギリシア系文化の影響を強く受けていた人々らしく、その顔かたちや衣装には明らかにギリシア風の意匠
が見られる。
また思想の面でも大乗仏教がこの王朝の保護のもとで発展する。大乗仏教がいつどこで生まれたのかはっきりしないが、場所については状
況証
拠から北西インドと思われる。大乗とは先述したように大きな乗物と言う意味で、多数派であった部派仏教(上座部仏教)に対抗して自らをそ
う名付けたらしい。ただし当初、部派仏教側はこの批判を受け流して特に反論などはしていない。
大乗仏教では、いくらシャカにならって修行してもそれはシャカの後追いでしかなく、真理に到達できないのではないかという疑問から発
生し
たようだ。また仏陀(原義は「覚醒した者」)はシャカ一人だけではなく、過去、そして未来に何人も現れるものとされた(最後が弥勒仏)。
シャカ自身も前世では全ての命を救うために難行苦行を続けてきたと考えられ、同じことは誰にでもできるとされた。また、出家せずに世
俗に
まみれながら信仰を続ける在家信者でさえ、他人の修行を援助することで来世(次の輪廻)に解脱にたどり着けることが約束されるとした。
こうした考えの象徴が菩薩で、本来なら覚醒して仏陀になることができる立場なのに、わざわざ人々を救うためだけにこの世にとどまっ
た、最
も理想的な信者の姿とされた。こうした考え方から、大乗仏教では数多くの仏や菩薩、またはその一歩手前の羅漢(正確には阿羅漢)が数多く
考え出され、多種多数な像が造られていったのである。仏としては有名なもので薬師如来・阿弥陀如来・盧舎那仏、菩薩としては弥勒菩
薩・観 音菩薩・地蔵菩薩・文殊菩薩、羅漢としては十六羅漢や五百羅漢などがある。
さて仏教界では1世紀中頃のクシャーナ朝第三代カニシカ王の時に、アショーカ王以来久しぶりに第四回仏典結集が行われたが、これはま
るで
大乗仏教のために行われたようなものになった。というのも、大乗仏教はこの頃までにインド亜大陸のほとんどの部派仏教の教義を吸収してし
まったからである。そしてその教義が広まるのに大いに貢献したのが、ナーガルジュナ(漢字表記は龍樹)であった。彼は南インド出身の
僧侶
だったが、大乗仏教の教典中最大のものである般若経の「空」の理論をもとにして、大乗仏教を理論的に再構築することに成功した。このため
中国や日本では彼のことを菩薩として信仰するようになったくらいである。この仏教徒にとっては記念碑的な事業のため、この時代の記録
は比 較的多く残っている。
クシャーナ朝はカニシカ王の時が最盛期であった。王の死後は王朝は分裂が始まったらしく(詳細は記録が無く不明)、3世紀中頃には西
方か ら新興のササン朝ペルシアが領土を侵略し、ローマ帝国との交易も先細りとなって国力が衰退していった。
■サータヴァーハナ朝の南インド支配
クシャーナ朝が栄えたのと同じ頃、インド中部にも巨大勢力が現れた。それが1世紀頃中央インドにあったアーンドラ国である。この国はサー
タヴァーハナ朝のもとで強大化し、やがて北方のマガダ国を滅ぼす。サータヴァーハナ朝は王家がアーリア人ではないことが確実である
が、詳
しいことは資料がほとんど無いため分からない。その後この王朝も、先述した西北部のサカ族の圧力で弱体化したが、2世紀には再び勢力を回
復した。
この王朝が有名なのは、西方のローマ帝国との交易で、ギリシア人貿易商人が残した航海記録『エリュトラー海案内記』にその様子がくわ
しく
書かれているためである。それによれば、貿易商人らはインド洋の季節風(夏には南西風、冬には北東風)と偏西風(中緯度地方でほぼ常時吹
く西風。ギリシア人たちはヒッパロスの風と呼んでいた。)を利用し、西アジアからインドに東行するときは夏の季節風か偏西風を利用
し、逆
に西行するときは冬の季節風を利用した。こうした風はほぼ安定していて比較的安全な航海が期待できたので、帆船が活躍した時代には大いに
利用された。ちなみに、こうしたインド洋の風を知らなかった大航海時代のヴァスコ=ダ=ガマの艦隊は、わざわざ夏に(逆風の中を)西
に向
かったため、往路より大幅に航海が長引いてしまい、食料とくに生鮮食料品に不足し、ビタミン不足から多くの壊血病患者(死者)を出してし
まった。無知とは怖いものだ。
また、こうした交易がヨーロッパ~インド間で終わるわけもなく、先に金貨のところで触れたように商人たちは東南アジアにまで交易品を
求め
ていった。商人たちは東南アジアから香料や象牙を入手し、インドの特産品の綿織物や西方の珍品などと交換し、差額はローマ金貨などで決済
したようだ。先にも触れた扶南王国はこの時代を代表する東南アジアの国である。また、こうした接触を通じてインド思想がこの地域に広
まっ ていく。
■ヒンドゥー教の成立
こうした外部からの異民族の侵入と支配という民族およびカースト制の危機の時代、内部では大乗仏教の発展の時代、危機感を感じたバラモン
たちは必死になってこの新しい時代に対応しようとした。彼らは試行錯誤の中、以前は無視していたような民間信仰や小民族の信じる神々
をど ん欲に吸収してい、バラモン教はじょじょに新しい形に変化していった。その結果生まれたのがヒンドゥー教である。
まず北インドで一般的であったさまざまな生活様式をまとめた『マヌ法典』が編纂された。マヌとは想像上の人類の先祖で、それが語ると
いう
形式でこのインド最古の法典が作られた。成立は2世紀頃だが、以後この法典は実質的には現代に至るまで、インド人の生活一般を支配し続け
たのである。その中には社会秩序の維持の仕方から、各カーストが行うべき義務、男女の役割に至るまで多種多様、生活の隅々にまでイン
ド人 が守るべき項目が述べられている。
信仰の形の変化として、わかりやすいものでは最高神の交替があった。バラモン教で重要な神は、インドラ神(暴風神)・ヴァルナ神(水
神)・アグニ神(火の神)などであるが、ヒンドゥー教ではそれがシヴァ神・ヴィシュヌ神・ブラフマン神に変わっている。シヴァ神はバ
ラモ
ン教時代にはそう重要な神ではなかったのが、先住民の神々をその眷属(取り巻き神)として従える形で成長していった。もう一人の最高神の
ヴィシュヌ神の場合も、やはり同じように先住民族の神を続々と取り込んで成長していったのだが、取り込み方はシヴァ神とは異なり、こ
うし
た神々を自身が化身(権化とも言う。英語でアヴァター)したものという形で取り入れていったのである。つまり、どんな神もその偉大さは実
はシヴァ神によって与えられ支えられたものであったり、ヴィシュヌ神が必要に応じて変身したものであったりとされたのである。となれ
ば、
先住民の神よりシヴァ神やヴィシュヌ神のほうが偉大なのであり、そうした神を信仰することとシヴァ神やヴィシュヌ神を信仰することは同じ
事になってしまい、より偉大な神を信仰するようになるだろう。ヒンドゥー教は、こうした異質なものを取り入れるのが非常にやり易い宗
教な
のである。こうしたことから仏教もこの時代、シャカがヴィシュヌの化身とされてヒンドゥー教に吸収されてしまった。現在インドに仏教徒が
ほとんどいない(0.7%、700万人ほど)理由の一つは、こうしたことが原因なのである。
こうしたヒンドゥー教の興隆の圧力に、仏教側ができることはあまりなかった。マウリヤ朝やクシャーナ朝で国家の保護を得ていた仏教教
団
は、彼らの好んだ高度な哲学を発達させ、ナーランダ僧院などでその研究は時代と共に進んだが、一方で庶民の切実な悩みに答えると言った、
宗教本来の目的には鈍感になっていった。気がついた頃には、宗教としての根幹である庶民の支持を失っていったのである。このため布教
の分
かりやすさを図るためか、ヒンドゥー教の要素である真言(マントラ、呪文のこと)を唱える修行法を取り入れたり、ヒンドゥー信仰の一部で
あるタントラ主義を取り入れて師子相伝(師匠から弟子に緊密な関係の中で正しく伝えること)を守りながら教えを守ろうとした。このタ
ント
ラ主義とはさまざまな秘儀(非公開の儀式)、すなわち激しい運動や向精神薬物を使用して精神的肉体的な高揚感を起こし、修行者と神とが直
接交流できるという考え方で、こうした秘儀重視の姿勢が次第に強まっていった。こうした仏教を密教という。密教はすでにグプタ朝時代
には
生まれており、玄奘が持ち帰った経典の中にも含まれていた。その研究から生まれたのが中国密教で、中国において学んだ空海や最澄によって
日本にも伝えられている。なお、タントラ主義を取り入れた密教は、その後の中国では嫌われて普及しておらず日本にも伝わることはな
かった が、チベットには伝わってチベット仏教の基となった。
バラモン教とヒンドゥー教の違いとしては他にも、バラモン教時代には神々の偶像を祭るという習慣はあまりなく、光や風や雨そのものを
神の
現れと見て、神の祠や神域にその象徴を置いて祭るというのが一般的だった。それがヒンドゥー教時代になるとさかんに神々の偶像が作られ、
それらを祭る寺院の建立が活発になる。
さらに聖典の面でも、ヴェーダ文書の重要性には変わりないが、それ以上に重要になったのが『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』と
いった
物語であった。物語が聖典扱いされているというのはおかしく感じられるかもしれないが、キリスト教でも聖書などは基本は物語であり、その
中に描かれている思想や主人公の思考様式が信仰の重要なポイントとなっている。特に民衆にとっては難解な聖典よりは、わかりやすい物
語の ほうが取っつきやすい。ヒンドゥー教の場合もそれと同じ事なのである。
■グプタ朝時代のインド
4世紀はじめの320年にガンジス川中流域にグプタ朝が成立する。創始者はチャンドラグプタ1世であるが、彼は王朝を創設しただけであ
り、帝国と呼べるほどの大領域を誇るようになったのは第二代のサムドラグプタからであった。彼はガンジス川流域のほぼ全域を直接の支
配下
に置き、インド各地の諸侯を従わせた。また首都をマウリヤ朝と同じパータリプトラに置き、この都市は久しぶりに繁栄を謳歌する。第三代皇
帝で、「武勇の太陽(中国語表記で超日王)」と呼ばれたチャンドラグプタ2世はそれを受け継いでさらに発展させ、この王朝の全盛期を
築い
た。中国史で触れた法顕がインドを訪れたのがこの王の時代である。法顕はその旅行記『仏国記』でグプタ朝時代のインド諸都市の繁栄を描い
ている。
こうした繁栄を背景に、グプタ朝時代のインドは古代最大の繁栄を謳歌している。その特色は都市の生活に結びついた文化であり、それは
この
時代を代表する文書である『カーマ・スートラ』にくわしく見ることができる。この時代、都市に生まれた者は家住期におけるその生活を思う
存分楽しむことが大事とされ、この文書も、信仰・実利とならんで家庭生活をいかにおくるべきかを詳細に述べている。
文化の面では、先に述べたヒンドゥー教最重要文書であり古代最大の作品である『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』がほぼ完成する。
ヒン
ドゥー教では他にもこの時期、各地の神話や伝説を集めた「プラーナ文献」と呼ばれる補助的な作品群が編纂され、ほぼ今の形が整った。こう
したヒンドゥー教の発展に対して仏教は、じょじょに民衆の支持を奪われていき、各地の僧院を中心に仏教哲学の研究を進めることが中心
と
なっていった。中でもナーランダ僧院はインド最大の仏教研究機関として有名となり、後の中国唐代に玄奘や義浄も訪れて学んでいる。
しかしこうした哲学研究の深化・進展は、庶民の魂の救済という宗教本来の目的からすると庶民の距離を広げる結果になってしまい、結果
とし
て仏教の衰退を早めることになってしまう。これはジャイナ教も似たようなものであった。両宗教ともその後かろうじて命脈を保ち続けるが、
バラモン(ヒンドゥー)教に対する対抗勢力としての役割は事実上このグプタ朝期に終わることになる。
また、美術の面ではそれまで盛んであったクシャーナ朝以来のイラン・ギリシア系の美術が影を潜め、インド古来の美術が盛んになった。
その
代表がアジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院に見られるグプタ様式の仏教絵画で、ガンダーラ仏のような均整のとれた美や写実的な表現で
はなく、インド伝統の神秘的な風貌や肉感的な表現が見うけられる。
この時代のインドでは諸産業の発展から必要に迫られて科学も発達する。天文学や数学、物理学や医学も発達するが、世界に与えた影響で
はゼ
ロの発見が何より大きいだろう。今ではゼロというものは小学校で当たり前のように扱われているが、グプタ朝時代の5世紀の世界において、
ゼロを計算に組み入れていた文化・文明は存在しなかった。ゼロという概念自体は古代マヤ文明にもあったが、インドではゼロはただ見つ
けた
だけでなく、これを使った位取り計算や数字の表記法まで、ゼロを実用的に使いこなす技術が発達したのである。こうしたゼロの概念と計算法
は、このあとイスラーム世界に取り入れられてやがて世界に広まっていく。それが世界の科学技術の発展に与えた影響力は非常に大きかっ
たの である。
こうした文学や思想、科学の発展においてサンスクリット語の果たした影響も非常に大きい。日本ではサンスクリット語は梵語と呼ばれ
て、古
代の僧にとっては学習することが必須とされていた。現代の日本でもさまざまな言葉の中に残っている。特に仏教関係では僧(サンスクリット
語のサンガ=僧伽から)、南無阿弥陀仏(ナモ・アミタ=「私は限りない存在であるお方に帰依します」という呪文から)、卒塔婆(ス
トゥー
パ=仏塔。日本では墓地に立てる木製の墓標になる)、先述した檀那(ダーナ。旦那とも書く。お布施をする事、人)など。また、日本語の五
十音表はサンスクリット語の学習用に作られたものが日本語に応用されたと考えられている。サンスクリット語の表では最初の音がaで、
最後
の音がhum(ン)であったが、aは呼気、humは吸気を表すとされ両者を組み合わせた阿吽は、「阿吽の呼吸」という言葉にあるように両
端が息を合わせることを表すとされた。寺社の仁王像や狛犬は片方が口を開き、片方は口を閉じているが、これもそれを表している。また
aと humは表の最初と最後なので、世界の最初と最後を表しているともされた。
■グプタ朝の滅亡とインド古代の終わり
グプタ朝はチャンドラグプタ2世の死後50年ほどは力を維持するが、やがて滅亡する。そのとどめを刺したのが、その頃中央アジアから侵攻
したエフタル帝国だつた。エフタルはインドではフーナ(白い匈奴)と表記された。これが匈奴と本当に関係があるのかどうかはよく分か
らな
いが、インドではそうと信じられた。エフタルは中央アジアの広大な地域を占領し、グプタ朝のとどめを刺すと共にササン朝の衰退につけ込ん
で属国とした。
グプタ朝の滅亡後、インドでは大領域を長期間維持した勢力はなく、戦国時代と表現していいほど諸勢力の群雄割拠の時代が600年あま
り、 1206年の初のイスラム王朝である奴隷王朝の支配まで続く。
こうした中、かろうじて比較的くわしい事情がわかっているのが、7世紀初めに即位したハルシャ王(中国表記は戒日王)がカナウジ(中
国裏
記は曲女城)を都に建国したヴァルダナ朝である。というのもこの王の時にインドから玄奘が渡来し、インドの様子をかなり詳細に旅行記『大
唐西域記』に残したからである。ハルシャ王は玄奘の渡来を非常によろこび、ナーランダ僧院での研究が終わって帰ろうとする彼を何とし
ても
引き留めようとした。しかしその意志が堅いのを知ると、多くの仏典を携えて帰ろうとする彼を安全に中国まで帰れるように最大限の配慮をし
た。さらに唐の最盛期の皇帝である太宗との交流を求め、玄奘の仲介もあってその使節がカナウジを訪れている。しかしハルシャ王は、十
分な
統治体制を築く間もなく亡くなったことから、死後王位継承争いがおきて帝国はあっという間に崩壊してしまう。建国からこの間わずか40年
あまりだった。玄奘のインド行きに刺激された義浄が683年に海路インドに着いた頃は、北インドはヴァルダナ朝の分裂国家による紛争
の時 代であり、彼は玄奘のようなハルシャ王のような保護も得られずに海路中国に帰らざるを得なかったのである。
このヴァルダナ朝以後のインド史で重要なのは11世紀に最盛期を迎える南インドのチョーラ朝である。この王朝は10世紀末にセイロン
島や
デカン高原まで支配を及ぼす大帝国に成長し、ラージェンドラ1世の時代には艦隊がガンジス河口地方やスマトラ島まで遠征軍を送るほどの大
王朝となり、インド洋貿易の支配権を完全に掌握するほどになったが、じょじょに衰退していき、13世紀には隣国との紛争から滅亡す
る。
■イスラーム教の伝来とインドの中世
チョーラ朝がインド洋海域を制圧して最盛期を迎えた頃、はるか北方の中央アジアではイスラム教徒となったトルコ人が西アジアの諸王朝が示
す富に誘われ、ある者は奴隷兵士マムルークとして、ある者は部族丸ごと率いて傭兵として西方に大移動を開始していた。10世紀にイラ
ンの
サーマーン朝に始まりアフガニスタンのガズナ朝に受け継がれたマムルーク養成制度は、トルコ人軍団への給与支払い制度であるイクター制の
成立で確立し、マムルークを軍団の中心にした王朝の強大化をもたらした。ガズナ朝は1000年代には盛んにその軍団の力でもって北イ
ンド
諸国に略奪攻撃を加えるようになり、インダス川流域からガンジス川流域にかけて支配した。12世紀中頃にガズナ朝が後継者争いで内部崩壊
するとその領域はマムルークが作ったゴール朝が受け継いだが、この王朝も北インド支配を強化した。しかしそのゴール朝も13世紀初め
には
やはり内部分裂から滅亡してしまい、マムルークのアイバクが1206年にインドで自立し、インド初のイスラム支配王朝である奴隷王朝を建
国する。
こうした派手なイスラム王朝のインド侵入の大嵐が何度も襲い来る陰で、弱い、しかし絶えず吹き付ける風がインドに大きな変化を起こし
てい た。
すでにインドについては8世紀のアッバース朝時代にその高度な文明が知られるようになり、ゼロの発見やインド式記数法などが取り入れ
られ
るようになっていた。しかしイスラム勢力のインドに対する態度は、あくまでも貿易の利や文化の発展に役立つかどうかといった関心にとどま
り、インドにイスラム教を広めようとはしなかった。一方イスラム教にはその頃スーフィズムという、神秘的体験を意図的に起こして神と
の直
接の対話を果たそうとする思想があった。それが12世紀頃ガザーリーという偉大な神学者が現れたことで、この異端思想が正統思想と結合
し、各地にスーフィズムが広まっていった。スーフィズムの行者スーフィーは、ある者は危険を厭わず単身で粗末な服を着て町々を回り
(こう した人を特にダルヴィシュという)、ある者は共同体を作って着実に、各地にその信仰を広めていった。
こうしたスーフィズムは、インドで当時広まっていたバクティ信仰と行動や考え方が非常に似かよっていた。バクティ信仰はひたすらな神
への
信心を説く一派で、当時偉大な指導者を得てインド全域に広まっていた。こうした類似点からスーフィズムはバクティ信仰と同様に受け取ら
れ、容易にインド各地に勢力を広めることができた。
イスラム教は神の前の平等を説くことから、カースト制度の弊害に苦しむ下位カーストを中心に、改宗する人々が増大していった。以前同
じよ
うにカースト制度を否定していた仏教やジャイナ教がすでに勢力として無くなっていたこの時代、彼らのより所はイスラム教だけだったのであ
る。
現代のインドでは9億人の人口のうち1億人をイスラム教徒が占めるという。インド一国だけからいえばこれは少数派であるが、隣国パキ
スタ
ンやバングラデシュ(60年前までは現インドと同じ国の一部だった)の教徒と合わせれば7億人になる。これは11億の全イスラム教徒の過
半数を占める大勢力であるが、こうなったのはスーフィズムのためだった。
この後スーフィーたちの活動は.インドにとどまらず、東南アジアや中国にまで教えを広めていった。15世紀に永楽帝の南海遠征で活躍
する
明王朝の宦官鄭和や同じ世紀に東南アジアの要マラッカ王国が国を挙げてイスラム教に改宗するのはこうした地道な努力の成果なのであった。
なお、これ以後の歴史はイスラム教の歴史と重なるので、そちらを参照してほしい。
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