世界史,歴史,大学入試,論述問題,副読本,認知心理学

世界史読本01-原始古代

◇エーゲ文明

■ハインリヒ少年の夢

少年の夢は荒唐無稽なものが多い。ハインリヒ=シュ リーマンはドイツで 貧しい牧師の子として生まれた。彼が7才のクリスマスに買って もらった絵本『イー リアス』。作 者は古代ギリシアのホメーロス。彼はそこに描かれてい た神話、特にトロヤ戦争の 話に夢中になった。 すっかりその話を真実だと信じた彼は、大きくなったら絶対ここに行くんだと言った。しかし周囲の大人は笑って彼に「これはおとぎ話で、本当の話じゃないん だよ」と言った。しかし納得できない彼は、いつか自分がこの話が本当のことなんだと証明してやる、と心の中で誓っ た。

それから30年余り、ハインリヒは努力して語学の達人となり、商人として大成功した。彼がマスターした言語は、母語であるドイツ 語の 他、英語、フランス語など、全部で13言語にのぼったという。彼はこれらをほぼネイティブと同じくらいに使いこなせたのである。彼の 成功は特に、ロシア語をマスターしていたおかげだった。当時ロシアは大国として認められてはいたが文字や文法が西欧のものとは異 なっ てい たため、商売がやりにくい国として知られていた。それに当時ドイツには、ロシア人は大使が一人いるだけだった。このためロシア語が堪 能な彼は、競争相手が少ないために簡単に商売を成功させられたのである。

彼の語学習得の方法が著書『古代への情熱』の中に記されているので紹介しよう。彼は現地人と同様に会話するためには、
(1) 大量に音読すること。
(2) 決して翻訳しないこと。
(3) 毎日必ず1時間あてること。
(4) 興味ある事についてその言語で作文を書くこと。
(5) それを教師の指導によって直すこと。
(6) 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること。
ということが必要だとしている。もう少し解説すると、(2)については、語学をマスターする上で理想はその言語を使って考えるこ とが できるようになることであり、「翻訳」という作業はそれを放棄することを表わしている。(4)については『ドラゴン桜』でも日記代わ りに英作文をすることが良い方法だとして紹介されているが、自分に関わる身近な内容について作文をすることは、昔から非常に効果 があ る 語学学習方法なのである。外国語をマスターしたければその国の人の恋人を作れ、というアドバイスもあるくらいだ。(5)(6)は先生や学校を 徹底的に利用することを薦めている。シュリーマンの場合、裕福でなかった時代から自費で語学の教師を雇っていた。

こうした努力の末に彼は億万長者となった。しかし40才を過ぎてからは徐々に商売の第一線から退き、投資や不動産で利益を得るよ うに した。すべては時間を作るためだった。これまで封印してきた考古学の学習に時間を費やしたのである。彼はその後、パリ大学で考古学を 学んだ。さらに見聞を広めるために世界中を旅して回った。日本にもその途中で立ち寄っている。

47才の時にギリシア人の若い妻(何と17才)と再婚した頃には発掘への情熱が燃え上がり、翌年から本格的な発掘に取りかかっ た。そ して彼の話を荒唐無稽と笑う人々をしり目に、自分でも驚くほどの成果を出した。彼は当時のトロヤの推定場所を無視して近くの丘を発掘 し、見事そこから都市遺跡を発掘した。これこそ歴史に名高い考古学上のドラマの一つ、トロヤ市の発見である。独学の素人学者は一 躍世 界的に有名になったのであった。

彼が次に取りかかったのが、トロヤ戦争のもう一つの舞台であるミケーネだった。そして慎重に調査をした上でギリシアに乗り込み、 今度 も見事に発掘に成功した。次に取りかかったのは神話の舞台クレタ島だった。しかしこの頃すでに有名人となっていた彼の名声と財力に目 をつけた発掘地の所有者が、さまざまな名目で彼から金を巻き上げようとしたため、彼は怒って発掘を中止してしまった。彼が目をつ けた 場所からは、のちに重要な遺跡クノッソス宮殿がエヴァンズによって発見された。シュリーマンの目は正しかったのだ。

以上がよく物語になって広く知られているシュリーマンの物語である。しかし今では、これらが全て真実ではないことが分かってい る。

まずシュリーマンには虚言癖があった(つまり嘘つき)。彼が商売に成功したのは事実だが、幼いときから考古学やトロヤに関心が あった と言うことはなく、全ては自分より30才も若く教養も知性もある妻へのコンプレックスから、彼女の気を引くために彼が作り上げた話が 始まりらしい。つまり見栄を張りたかったわけだ。

そこから彼の「考古学への情熱」が始まったわけだが、当時はこの学問自体が宝探しとほとんど変わりがなく、その手法はとても科学 的と は言い難かった。彼自身も遺跡がトロヤである証拠を見つけることにしか興味がなく、後世の研究に寄与するつもりなど全くなかった。遺 跡の重要性に気づいたトルコ政府が発掘(=破壊)中止命令を出しても無視され、発掘物の扱いについても約束が破られることは稀で はな かった。これは彼の他の発掘でも共通して見られたことであり、シュリーマンの本当の姿を物語っている。

しかしそうしたマイナス面があったとしても考古学においてシュリーマンやトロヤ発掘が与えた影響は大きい。この発掘をきっかけ に、神 話を疑う動きは影を潜める。今では多くの国で、神話とは何らかの過去の出来事を反映しているというふうに見られているのである。

■トロヤ戦争…ギリシア神話とその真実


それではシュリーマンの時代から100年以上を経た現在わかっ ている古代ギリシアの歴史を物語ってみよう。

ギリシアの地に文明が生まれたのは紀元前2600年頃、まずアナトリア半島(小アジアともいう)のトロヤの付近に文明が発生し た。こ れをトロヤ文明という。さらに同様な文明が紀元前2000年頃にエーゲ海の島クレタ 島の地にク レタ文明、そして紀元前1500年頃に はミケーネの地にも同様なミ ケーネ文明が おこった。いずれもエジブト文明の影響を受けており、基本的には戦争も少なく平和な時代だっ たようである。エジプトと同じような王政が行われ、青銅器時代であり、文字は線状文字A(未 解 読)や線状文字Bが使用されていた。こ のAとかBというのは、両者を区別するための学界用語がそのまま定着したもので、A・Bそのものに意味はない。線状文字Bはイギリス 人のヴェントリスが1950年頃解読に成功し、古代ギリシア語の一種を表わしていることが解 明さ れている。

クレタ文明を築いた人々は地中海の先住民であり、ミケーネ文明を築いた人々はこの地に入り込んだギリシア人の一種であるア カイア人 だった。トロヤ文明を築いていた民族はまだ分かっていない。

やがてミケーネのギリシア人は、紀元前1400年頃クレタ島に進攻してクレタ文明を滅ぼした。トロヤ文明も紀元前1200年頃に 滅ぶ が、ギリシア神話にあるようにミケーネに滅ぼされたのかどうかについては証拠がなく、はっきりしない。しかしながら、遺跡には大規模 な火災の跡や戦闘の様子がはっきり残っており、なんらかの戦いが行われたことだけは間違いない。ギリシア神話のようにミケーネが 滅ぼ したのかも知れない。それはこれからの発掘調査で明らかになるだろう。

さて、伝説のトロヤ戦争は以下のような話である。

トロヤの王子パリスはその賢さにおいてギリシア中で名高く、神々にも知られていた。ある時女神のヘラ(主神ゼウスの妻)、アテナ (知 恵の女神)、アフロディテ(美の女神。ローマ神話ではヴィーナス)の3美神が、誰がもっとも美しいかを巡って口争いとなり、神々の判 断を仰ぐことになった。しかしいずれ劣らぬ美しさを持つ三人なので、これを決めることは難かしかった。それに、女性の恨みはいつ の世 でも恐ろしいものだ。もし美しくないとされた女神に恨まれでもすればどんな災いがあるかわからなかった。だれも答えてくれないため、 仕方なしに三人の女神はパリスに判断を仰ぐことにした。

パリスは困ったが、賢明にも三人の女神のそれぞれの美しさをありとあらゆる美を語る言葉を駆使してほめたたえ、最後には美しさを 基準 にせずに美を司ることを理由にして、つまり美の担当者であることでアフロディテに軍配を上げたのである。美しさは同等、そして担当が 違うとなれば、ヘラとアテナには文句を言うことはできなかった。パリスはこれで何とか難を逃れたと思ったが、しょせんそれは男の 論 理。自分がもっとも美しくはないとされた女心までは分からなかった。ヘラとアテナは密かにパリスを恨み、彼に復讐を仕掛けたのであ る。

ある時パリスは父の代理でスパルタ王の結婚式に出かけた。ところが新婦ヘレネーと出会ったことで運命が狂った。二人の女神から依 頼さ れた復讐の女神の呪いで、出会った瞬間二人は、燃え上がる恋心にとらわれてしまったのである。次の朝二人の姿は町から消えていた。新 婦を奪われたスパルタ王は怒り、結婚式の総責任者だったミケーネ王も面子をつぶされて怒り狂った。即座に新婦を奪ったトロヤに対 する 戦争が宣言され、ギリシア連合軍がトロヤの町に攻め寄せた。これがトロヤ戦争の始まりだった。

ギリシア側は勇者アキレウスを先頭にトロヤの町を攻めたてたが、町は難攻不落の城壁を持ち、勇者ヘクトルを中心にこれに耐えた。 戦い は10年続き、その間ヘクトルはアキレウスとの一騎打ちで殺されるが、アキレウスも唯一の弱点である(アキレス腱の由来)足のカカト に毒矢を撃たれて殺されてしまう。最後に知恵者オデュッセウスの謀で「木馬の計」でトロヤの町は落城するのである。

ギリシア軍がある日突然撤退するが、その後に一台の巨大な木馬が残されていた。トロヤ側が不審に思って逃げ遅れていたギリシア兵 をと らえて聞き出した。すると男は、前日ギリシア側に神託が下り、戦いを続ければ神々の罰が下るため、それを避けるために木馬を作ってそ れを神々に捧げたことが告げられた、と自白した。トロヤの町は喜び、この木馬を勝利の印として神殿に供えることにした。しかした だ一 人ラオコーンという知恵者だけが反対したが、彼は突如息子たちとともに蛇にかまれて死んでしまう。女神によって口を封じられたわけで ある。しかし彼の死は神の罰とされ、木馬は運び込まれた。

その夜、木馬の中に隠れていたギリシア兵がトロヤの城門を開け、闇にまぎれて密かに戻ってきていたギリシア軍が町に乱入した。ト ロヤ の町は攻め滅ぼされ、炎上して滅んでしまった。ちなみに、悪性のコンピュータプログラムに「トロイの木馬」という種類がある。これは 普通のファイルにくっついたりして密かにコンピュータの中に侵入し、入ったとたんに内部を荒らし回るのだが、その性質との神話と の類 似からその名 が付いたのである。

■「ヘラクレスの帰還」


ギリシア神話の中で最大の英雄ヘラクレスは全能の神ゼウスの子 であるが、いつものようにゼウスの浮気で できた子だったためにゼウスの 妻ヘラの呪いを受けてしまう。本来彼はペロポネソス半島全体の王となるべき運命だったのが、呪いによって変えられてしまったのであ る。ヘ ラクレスが本来の自分の運命を取り戻すためには試練を乗りこえねばならなかった。試練は12もありいずれも困難なものだった。その中 からいくつか紹介しよう。まずはネメアの獅子退治。ネメアの谷に住む獅子はぶ厚い皮膚を持ち、皮膚の下には甲羅があるという怪物 で、 人や家畜が多数襲われて人々は困っていたが、ヘラクレスはこれを3日間絞め続けて殺すことに成功した。ヘラクレスはその後このライオ ンの皮を鎧代わりにいつもまとうことになる。またライオンはその後、神によって天に上げられ、獅子座になった。

ヘスペリデスの園にある黄金の林檎をとってくる時には、ヘラクレスはどうやって手に入れたらよいのか全くわからなかった。そこ で、人 間に火の使い方を教えたためにゼウスに罰せられてコーカサス山(カフカス山脈)に鎖で縛り付けられていたプロメテウスを救い出して教 えてもらった。プ ロメテウスは長い間同じ格好をしていたためにしびれた手足をさすりながら、「ヘスペリデスの園に住んでいるニンフ(妖精)たちは巨人 アトラスの娘だから、アトラスから話してもらえば何とかなるだろう」と答えた。アトラスという巨人は、はるか昔にゼウスらとの戦 いに 敗れ、罰として天空を担ぐ仕事を命ぜられ続けていたのである。ヘラクレスがアトラスのところに行って相談すると、アトラスは自分に代 わってヘラクレスが天空をしばらく担いでいてくれれば、その間に娘たちから林檎を持ち帰ってやろうと言った。仕方なくヘラクレス はこ の条件を聞き入れた。怪力の持ち主ではあるが、正直者であまり頭が良くないアトラスは、約束どおり林檎をヘラクレスのところへ持ち 帰ってきた。しかし再び天空を担ぐ重さを思い出すと急にいやになって、林檎は自分が持って行ってやると言い出し始めた。ヘラクレ スは すぐにアトラスが逃げるつもりなのに気づいて、「よしわかった。私がきみの代わりに担ごう。だけどさすがに天は重いので、楽な担ぎ方 を教えて欲しい」と頼んだ。そしてアトラスが見本を見せている間にヘラクレスは礼を言って林檎を取って立ち去ったのである。

こうして自分自身の力と多くの人の助けによったりしてヘラクレスは12の試練をすべてなし遂げた。彼の偉業はすぐにギリシア中に 伝 わった。これで焦ったのが、本来彼が就くはずだった王位に就いている人物である。彼は地位を奪われるのを怖れたが、その後ヘラクレス は殺されて王位に就くことはなかった。それでも心配になった王はヘラクレスの息子たちを殺そうとするが、逆に反撃されて王位を奪 われ てしまったのである。結局予言は、すこし変わった形で実現されたのである。ギリシアではスパルタやアルゴスといったペロポネソス半島 の諸ポリスが先祖を英雄ヘラクレスとしている。こうした「ヘラクレスの子孫の帰還」という話には歴史的な背景がある。ドーリア人 の侵 入という事件である。

◇ギリシア文明


■神話の真相


ギリシア人やローマ人が属する「インド=ヨーロッパ語族」とい う民族集団は、かつてはカスピ海の北からアナトリア半島(今のトル コ) あたりの草原地帯にいたらしい。それが紀元前8000年~6000年頃に移動を開始し、東に行った人々は中央アジアからインドへ、そ して西に行った人々はヨーロッパに向かった。

彼らは紀元前1000年代になると文明地帯に侵入し始め、ギリシアの近くではまず紀元前2000年頃にその一部ヒッタイト人がア ナト リア半島に侵入しヒッタイト帝国を作った。続いて紀元前1500年頃にギリシア人の一派アカイア人がミケーネ市を中心にミケーネ文明 を築いた。アカイア人の別の一派と見られる「海の民」と呼ばれる民族もこの頃地中海東岸地域に侵入し、各地を荒らし回っていくつ かの 王朝を衰退に追い込んでいる。ヒッタイト帝国の滅亡はアカイア人のせいではないかという有力な説もある。

同じ頃東方ではインドにアーリア人が侵入し、すでに滅びかけていたインダス文明を吸収し、現在のインド文明の基を築いていった。 また メソポタミアではイラン人がイラン高原部に侵入していった。そして最後に、少し遅れて紀元前1100年頃にバルカン半島を南下して いったのがドーリア人である。彼らは先住の諸民族や同族のアカイア人やアイオリス人の国を滅ぼしながら南下し、最終的にはシチリ ア島 や南イタリアにまで進出していった。こうしたドーリア人のギリシア侵入と支配を正当化しようとしたのが各地に残る「ヘラクレスの子孫 の帰還」伝説のもとと考えられている。

■暗黒時代


ドーリア人の侵入はエーゲ文明を完全に滅ぼすことになった。線 状文字は忘れられて使われなくなり、人々はもとの集落を放棄し、同 じ言 葉をしゃべれさえすれば出身地に関係なく、外敵を撃退しやすいように小高い丘の周囲に新しい形の集落を作り始めた。そうした集落は、 まわりに城壁を巡らし、中央の丘アクロポリスに守護神・部族神をまつる神殿を建てるようになった。普段の生活は城壁の中で行な い、農 作業は城壁の外で展開する。外敵に攻められやすい夜には堅く城門を閉ざし、理由もなしに夜間に外出する者、城門を開けようとするもの は死罪とされた。こうした「集住(ギリシア語でシノイキスモス)」と呼ばれる形で作られた集落をポリス(都市国家と訳される)と い う。ちなみに日本でもこの頃、弥生時代の末期に「高地性集落」とよばれる似たような構造の集落が全国に作られている。

この時代は文字による記録がいっさい残っていないことから暗黒時代と呼ばれる。暗黒時代は、ドーリア人がエーゲ文明を滅ぼしてか ら、 その後先住民とともに新たなギリシア文明を作り上げた前7世紀までの時代をさす。この間にギリシアにはペロポネソス半島にドーリア系 のスパルタ市、アカイア地方にイオニア系のアテネ市、そしてアナトリア半島の地中海岸にミレトス市やエフェソス市といったポリス が多 数作られている。

◇ギリシアの民主政


■ポリス時代


これらポリスはすべて高い城壁、中央の神殿丘、周囲に農地とい う共通点を持っていた。そしてポリス内の人は同じ言葉を話すという こと で、互いに仲間意識を感じていた(この仲間をヘレネスと呼ぶ)。そして異なった言葉を話す人々をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す 人々の意味)と呼んで区別していた。しかし一歩中にはいると、その社会構造にはほとんど共通点がなかった。ポリスによって、成立 の過 程つまり歴史が異なっていたからである。エーゲ文明時代からいた人々が中心になって作ったものもあれば、征服者が先住民を支配して 作ったものもあった。王のリーダーシップで作られたものもあれば、貴族の合議で作られたものもあった。同じ社会を持つものはほと んど なかった。ポリスは「違うのが当たり前」であり、他のポリスを自分のポリスと同じように変えることなど考えもつかなかった。「普通」 がないのである。したがってポリス同士の付き合いをすることも難しかった。こまかなことまで事前に約束しておかないと、あとでそ れが トラブルの元になるからだった。

■ギリシアの産業


ではそのギリシア人の主な生活が何によってまかなわれていたの か見ていこう。ギリシアという地域は、有史以前にアルプス山脈から ヒマラヤ山脈まで連なる山塊の一部が、地殻変動で陥没してできたところである。そのため海岸線はリアス式の複雑なものとなっており、平地 も少なく、海は多くの島々が浮かぶ多島海であった。したがって、農業はさかんではなく、おなじ条件をかかえていたフェニキア人に ならって早くから海上交易に乗り出していた。彼らとの競争は激しかったが、まだ手をつけていない土地に進出して、そこに植民地を 築き上 げ、周辺民族との交易を行っていった。

ギリシア人が植民地に住みついた理由はさまざまである。ギリシアで人が住める土地が狭いため、人口はすぐに過剰になりがちだっ た。ま た交易が多額の利益を生み出すようになったため、積極的に海外に出ていくこともあった。植民地のほうが本国より生活条件がよい場合も あっただろう。

やがてギリシアの地形を利用して、オリーブとブドウ栽培(つまりオリーブ油とワイン製造)が始まると、ギリシア人の交易がいっそ う活 発化していった。オリエントでこれらの需要がしだいに増加していったのである。もともとオリエントでは油は高価な牛か豚の脂が使わ れ、酒も麦を発酵されたビールのほうが一般的だった。しかしギリシア産の安価で高品質なオリーブ油とワインが知られるようになる と、 一般庶民から上流階級まで一大ブームとなったのである。オリーブ油とワインの使用はやがて定着し、オリエントの家庭には無くてはなら ないものとなっていった。そしてこのことはギリシア人の生活に変化をもたらしていったのである。

ギリシアの地形が穀物栽培に適していないことについてはすでに述べたが、オリーブの木やブドウ栽培となると話は変わる。これらの 作物 は斜面の多い土地でも作りやすく、またギリシアのように雨の少ない気候でもそれほど問題なく作れるのである。またどちらも雑草を嫌う ので周囲の木を切る必要があるが、伐採した木材は油やワインを入れるための陶器製の壷を焼くのに使われたのである。こうして普通 の農 業に不適な土地だったギリシアの地形に最適な農業が生まれたのである。

さまざまな産物を満載したギリシア人の船が地中海東岸の港に出入りするのが珍しくなくなった。ギリシア人は船乗りとして、そして 商人 としての適性を見せつけるようになり、生活は徐々に豊かになっていった。

ギリシア人にとってもうひとつの収入源が「傭兵」である。ギリシアでは市民は自前で武器を用意し、それで自分の町を守る義務が あった のだが、そうした武器は傭兵として出稼ぎに行く際にも役立ったのである。

ギリシア人傭兵が得意なのが、青銅製の盾と長槍をもって部隊が横一列にぎっしりと並び、槍を正面に掲げたままあいてに向かって突 進す る密集戦法だった。こうした重装備の歩兵を重装歩兵、そしてこの重装歩兵が横1列に並んだ1部隊が通常8列ほどの重なりで相手に突進 する戦法をファランクス(Phalanx)という。この重装歩兵部隊はギリシア独特の軍隊であり、攻撃に対しても防御に対しても 絶大 な威力があった。独特といったのは、戦法をマスターするためには部隊全体がちょうど二人三脚のように歩調をあわせる必要があり、小さ い頃から訓練が必要なのである。そう簡単にだれでもやれるというわけではなかった。

オリエントでは一般的に司令官や部隊長は、貴族で馬に乗っており(騎兵)、集団となって部隊を形成する場合もあった。さらにはこ れに 戦車(オリエントのところで述べたように装甲戦車tankでなく騎馬戦車chariot)が付随することもあった。ペルシア軍も、主 力は多くの平民で形成される弓歩兵だった。これに対するギリシア人の重装歩兵戦法は、騎兵が近づけば長槍で対抗し、弓歩兵に対し ては 盾と鎧で対抗できた。さらに騎兵や歩兵の突撃に対しても、手と手を結び合った強固な重装歩兵集団は、まるで部隊全体が針で覆われた動 く岩のように相手を粉砕できたのである。古代でこれに対抗できたのは、アフリカの戦象部隊くらいしかなかった。

当時の軍隊はどの国でも地方領主を主体とする小部隊の寄せ集めという形だった。各国の王たちは、自前の重装歩兵をゼロから養成す るよ りギリシア人を雇うほうがはるかに安くついたので、競ってギリシア人傭兵を雇っていた。後で触れるペルシア戦争の時も、ペルシア側に 多数のギリシア人傭兵団が雇われて同朋と戦っている。アレクサンドロス大王のペルシア遠征の時も、やはりギリシア人傭兵団がペル シア 側で戦った。一般的に傭兵と言えば、金だけで動く不誠実な兵士というニュアンスが含まれている。たしかにそのような兵士も多かっただ ろうが、少なくとも記録に残っているギリシア人傭兵はそうしたものではなかった。たとえばアレクサンドロス大王と戦った傭兵軍団 は、 同じギリシア人との戦いにもかかわらず、頼りないペルシア皇帝を最後まで守って戦っている。そうした忠誠心はプロの兵士としてのプラ イドから来ており、傭兵としての信用を高めることにもつながったに違いない。どんな仕事もそうだが、仕事というものは収入を得る 手段 ではあるが、同時に生きがいややりがいを感じる機会でもあり、その人の人格の一部でもあるのだ。仕事にいいかげんな人はプロではな い。

■民主政の確立とアテネの台頭


ポリスの多くは「暗黒時代」には王政であったり、貴族の合意で 決定が行われる貴族寡頭政だった。しかし紀元前7世紀頃にはその多 くが 民主政に移行していったようだ。この間の経過については、ほとんどのポリスの記録は残っていないが、数少ない例として、まずアテネ市 を取り上げよう。

アテネはイオニア人が作り上げたポリスである。古代にはアテナイと呼ばれた。ギリシア神話の知恵の女神アテナからとられた名前で あ る。アテネ市もギリシアの例に漏れず穀物農業に適した土地には恵まれず、商業に活路を見いだす市民が多かった。アテネはバルカン半島 から飛びだした形のエウボイア島の突端近くにあり、その立地条件を活かして黒海と地中海を結ぶ交易の中心に位置するようになっ た。

アテネも初期には王政・貴族政だったが、やがて民主政に移行した。そのきっかけとなったのが紀元前621年のドラコンの成文法成 立 だった。これは貴族ドラコンが、それまで貴族の寡頭政であったアテネ市の社会問題を改革しようとする中で制定した法であるが、だれも が目に見える形で残したことが画期的だった。

ドラコンの法は、今では部分的にしか残っていない。だがどうやらこの法はアテネ市の問題を解決することには成功しなかったよう だ。そ こで前594年に行われたのが民主化の大きな一歩であるソロンの改革だった。

ソロンは紀元前7世紀後半から前6世紀前半に生きた人物で、古代ギリシアでは七賢人の第一として有名であった。有名な哲学者のプ ラト ンはソロンの兄弟の遠い子孫に当たる。七賢人とは、ある時漁師が海で魚をとっていたところ、海底から黄金の壷が上がってきて、それが 原因で大きな争いが起こってしまった。当時こうしたことが起こったときは、有名なデルフィ市の神託を聞くのが通例だった。

デルフィ市にはアポロン神の神殿があり、その神殿の中心で巫女(みこ)がアポロン神のお告げをする場所があった。このお告げは非 常に 当たると評判であり、ありとあらゆる人々がお告げを求めてやって来ていた。今では荒れ果てているが、かつては周りは緑豊かで大きな岩 の間からガスが吹き出す場所があり、巫女はそれを吸ううちに神懸かり状態になってお告げをするのだった。古代にはギリシア中どこ ろか 隣国ペルシアの王までがお告げを求めてきたほどだったのである。

デルフィの予言では、壷は「最も賢き者に与えよ」ということになったので、当時賢者として有名なミレトス市のターレスに渡される こと になった。ところがターレスは、私はそんな者ではないと言って、別の人物を推薦した。そこで壷は次の人物に渡されることになったのだ が、その人物もまた別の人物を紹介した。こうして壷は次々と渡っていき、結局はターレスの所に戻ってきてしまった。ターレスは 困って それを神殿に奉納したのだが、この時壷が渡った七人のことを「七賢人」と呼ぶようになったのである。ソロンもその一人だった。

話は元に戻る。ソロンの時代のアテネでは、貴族の支配体制が揺らいでいた。貴族は古くからの社会体制の頂点におり、農民から収穫 物を 一定の割合で税として取り上げる形で支配していた。しかし当時は交易で豊かになる平民が続出しており、農民の子弟の中には貿易に乗り だして成功する者が増えていた。そして貴族よりはるかに財力で勝った平民が増えてきていて、市の政治も彼らから入る貨幣の税収な しに は立ちいかなくなっていたのである。しかしながら彼らは平民であり、市の政治に参加して何かの決定をすることは許されていなかった。 また、こうした時代の変化の中では、成功する人より多いのが失敗する人である。失敗した人達は、破産して自らの身を売って奴隷と な り、ようやく借金を返すしかなかった。こうした人が続出して社会不安が増し、激しい社会対立がおこっていたのである。何やら今の、 「ヒルズ族」とよばれる、若くして大金持になる人が出てくる一方で、ネットカフェ族とかニートとか呼ばれる若者が出てきている時 代と 似ていないだろうか。ソロンはこうして格差社会が問題となっていたアテネ市の改革を任された。賢者として有名なのが第一の理由だが、 彼自身が中産階級の出身であって、貴族でも富裕市民でもなく、貧民でもなかったことが最も大きな理由かも知れない。対立していた どの 派閥にも属さないというわけである。

ソロンの改革の内容は、まずは市民の負債をすべて破棄し、すでに借金が理由で奴隷身分に転落していた人もそこから解放した。つま り自 由市民の身分に戻したのである。そして以後は借金を返すために自らを奴隷として売ることも禁止する。さらに貴族や平民などの生まれつ きの身分に代わって、財産や収入によって市民を4等級に分け、上の階級ほど政治に関与できる場を広くできるようにした。貴族は比 較的 豊かなので、上位に入る可能性が高い。一方で最も貧しい階級でも民会(今の国会にあたる)に出席できるようにし、裁判に参加すること もできるようにした。他にもさまざまな貴族に有利な法律を改め、新法を制定し、以後のアテネの法律の根幹を作り上げたのである。 他に も改革では、オリーブ以外の農作物の輸出を禁止した。これは、慢性的な食糧不足にもかかわらず、価格が高騰したときには平気で国外に 穀物を輸出する業者がいて、庶民を困らせていたからで、市民の食の安全保障に気を配った改革だった。ソロンは、身分制がもはや機 能し なくなっている現実を認め、代わって財産という新しい尺度を導入し、財産が多ければ出身身分にかかわらず有利になる体制を作り上げる ことで、社会的に上昇したければ財産を増やせばよいという、今で言うところの能力主義を打ち出したのである。そして一方で、もっ とも 低い階級でも市民としての最低限の権利が守られるようにした。つまり最低限の生活を保障しながら能力主義を導入するという、今世界的 に主流となっている「新自由主義」を標榜する政治家の見本となる改革を行ったのである。

ではこの改革はうまくいったのだろうか。答はノーだった。改革の犠牲者となった貴族たちは借金の帳消しで多大な経済的被害を被る ため 改革に反発し、最も恩恵を受けるはずの最も貧しい層は、最も望んでいた土地の再分配(今で言えば最低限の収入の保障を望んでいた)が 実現されなかったため不満を持っていた。つまり変化の影響を受ける人が皆不満を持ってしまったのである。どんなに客観的に素晴ら しい 改革でも、多数が満足しなくては成功しない。ソロン自身は地位を利用して私利私欲を得ようとする人ではなく、社会正義を実現しようと したのだったが、結局改革は失敗したのである。

失敗の責任を取ってソロンが政界からの引退に追い込まれ、非難の嵐に耐えきれずに海外への移住(事実上の亡命)に出た後、その地 位を 受け継いだのが友人のペイシストラトスだった。彼はソロンのような話合いによる解決に限界を感じ、力による解決を試みた。彼はわざと 自分で自分の体に傷を付けてそれを政敵によるものと訴えて同情を買い、合法的に警護する人を周囲に置くことを認めさせた。そして 次第 にその警備団の力で人々を従わせていき、ついにはその力で貴族中心の政権を打倒し、僭主(タイラント)に就任して軍事独裁政権を樹立 した。こうした政治を僭主政(タイラニー)という。

彼は政権につくと、北方から多くの鉱夫を連れてきて、当時存在が知られていながら技術的な問題で採掘が行われていなかったラウレ イオ ン銀山を開発し、アテネ市に多量の銀の収入をもたらし、市民の支持を得た。また、ペイシストラトスはアテネの諸産業の発展を支えたた め、それらが発達し、特に製陶業は大発展する。従来は西方のコリントがギリシア最大の産業都市であり、陶器もコリント産が最大の 生産 量を誇っていた。それが彼の時代になるとコリント産を圧倒し、アテネはギリシア第一の産業都市に登りつめるのである。またペイシスト ラトスの時代からアテネでは市の祭りが非常ににぎわうようになり、さまざまな新しい文化が生まれている。古代ギリシアで初めて演 劇が 行われるようになったのも彼の時代で、本来は歌(合唱)の歌い手のマイクパフォーマンス(今で言うMC)が独立したものだった。演劇 はわずか半世紀の間に芸術として洗練され、次の世紀になるとアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスの三大悲劇詩人を生むこ とに なる。

こうして彼は軍事力と経済、そして文化の発展を背景に、貴族を弾圧して平民主体の政治を確立した。現代でも発展途上国で軍事独裁 政権 が経済発展を図りながら独裁政を行う「開発独裁」という形態の政治体制をとることがあるが、これと僭主政は非常によく似ている。

独裁政には眉をひそめる人々も、彼の政治姿勢とその政策は支持したため、アテネの政治は一気に市民中心の政治への移行が進んだ。 しか し独裁政はその方向が独裁者の個性に左右されてしまう。ペイシストラトスは生涯、穏和・寛容・中道といった姿勢を維持し、人によって は黄金時代と称賛した人もいたが、後継者がその姿勢を継ぐことは難しかったため、その後この体制は倒された。この時期アテネ以外 でも 貴族や平民出身の僭主が出現することが多く、その多くが政治姿勢に問題があったため、次第に僭主=暴君というイメージができあがっ た。

ペイシストラトス一派の僭主政が前510年に倒されると、彼に排除されていたグループが政権を奪回した。その中から登場するのが クレ イステネスである。彼は新たな改革を行うが、僭主政時代の政策のほとんどは、好評で効果的だったため、あまり変えることはできなかっ た。改革の一つは、二度と僭主政が誕生しないように、陶片追放(オストラシズム)制度である。陶片追放とは、投票で僭主になりそ うな 可能性のある人物を10年間国外に追放する制度で、財産の没収など市民権を侵害するような事はせずに、10年という政治家として忘れ 去られるのに充分な間だけ国外にいてもらうという制度であった。この投票の際に使われたのが、今のように紙ではなく(当時紙は存 在せ ず、それに代わる羊皮紙も非常に高価であったため)、アテネ最大の産業陶器業で生まれるゴミ=陶器の失敗作のかけら(陶片)だったた めこの制度の名が付いた。投票者は陶片の表面に、尖った金属片などで名前を書いたのである。

クレイステネス改革の要点は別の所にあった。彼はアテネの政治制度の枠組みに残っていた、当時はほとんど意味が無くなっていた氏 族制 に基づく区分を廃止し、市を行政的に平等な10の単位に分けた(十部族制)。貴族の権力基盤は分断されてその存立基盤を失った。貴族 という存在は二度と復活しなくなり、アテネの民主政の基盤が確立された。貴族もこの頃はしだいに富裕な市民と代わらなくなってい て問 題はあまりなかったのである。さらに当時アテネに長期にわたって居住していた外国人や解放奴隷が多数市民として登録され、平民の数が 増加した。これも市民中心の政治の確立には役だった。

こうした政治改革によってアテネ市の民主政は確立したが、形だけ整ってもそれでうまくいくわけではない。実際、陶片追放制度は制 度が 出来ても実施されるまで20年もかかっている。アテネ市民も、いくら僭主を再出現させないためとはいえ市民の権利を侵害する危険性の ある制度の実施には自信がなかったのだろう。これが実施がなされる時、それはアテネ市民が自分たちの体制に自信を持った時であっ た。 その機会はクレイステネスの改革の仕上げをするかのように、改革開始から8年後にやって来る。ペルシア戦争だった。

■スパルタの民主政


ここらで目を西方のもう一つの「民主政」国家に転じてみよう。 スパルタ市である。スパルタの民主政を「 」付きとしたのには理由 があ る。

前に書いたように、スパルタはドーリア人が先住民のアカイア人を征服して成立したポリスである。スパルタは王政で、二つの王家が 代々 国王を共同で務めていたが、国王の役割はよくわからないし、あまり権限は強くなかったようである。貴族もいたようだがそれもたいした 特権を持ってはおらず、市民間はかなり平等だった。スパルタは民主政ではあるが、後述するように非常に独特であった。それはこの ポリ スの成立事情から生まれていた。

スパルタ人は征服で先住民を支配すると彼らを奴隷化し、市民に平等に分け与えた。この奴隷化した人々をヘロットという。スパルタ には 他にも従属的市民(周辺民ともいう)ペリオイコイと呼ばれる市民がいたが、彼らは主に手工業や商業に従事し、小規模ながら農地も持っ ていたが政治的な権利は持っていなかった。ペリオイコイがどういう起源を持つのかはよくわかっていない。何にせよスパルタは、人 口わ ずか5万人の自由市民で、ペリオイコイ2万人、そして15万から25万人はいたヘロットを支配せねばならなかった。そのために作り上 げられた体制を作り上げたのがリュクルゴスという人物だった。ただしリュクルゴスが実在の人物かどうかは、よくわからない。

しかしこのリュクルゴスの改革により、スパルタは「軍国主義」と呼ばれる体制になった。スパルタ人は男性も女性も、支配体制を維 持す るために人生を送ることになる。先述したように彼らは財産はほぼ完全に平等である。そして狩りと宗教行事以外は食事は共同食事会で取 らなければならなかった。家族毎の食事などなかった。他にもぜいたくの禁止、成文法の禁止などの項目があり、ぜいたくの禁止のた めに 金銀貨幣の使用禁止が徹底され、おかげでスパルタは商業にはほとんど無縁であった。先述したペリオイコイの商工業も、必要最低限の需 要のためらしい。そしてリュクルゴスが定めたスパルタの制度の最も特徴的なものが「スパルタ教育」であった。

まずスパルタ人は生まれるとすぐに選別の儀式をうけねばならなかった。ワインに体をつけられ、その時にひきつけを起こして泣きわ めく と、オオカミがうろつく荒野に捨てられてしまうのである。この非情な選別に耐えられても、次に待っているのが集団生活である。6才に なると男の子は強制的に母親から離され、共同生活を送るようになる。この時彼らが着るものは、夏も冬もマントたった一枚だけだっ た。 ギリシアは南ヨーロッパにあるが、冬はけっこう寒くなり雪も降る。それでもマント一枚だけなのである。体の弱いものは耐えられずに死 んでしまう。さらに食べ物も不足気味にしかもらえなかった。これも戦場の現実を考えた上である。どうしても食べたいときには食物 を盗 んで手に入れなければならず、それが当然と考えられていた。これも同じく戦場での体験からである。しかし盗みの現場を見られることは この上なく恥ずかしいことと考えられていた。飼われていたキツネを盗もうとした少年が、見つかりそうになって必死にマントの中に 押し 込んでごまかしたものの、押えつけられたキツネに腹部を食い破られて死亡したという話が残っている。スパルタでは古代から千年たった 後でも、少年たちが大人たちによってむち打ちの苦行に耐える儀式があったらしい。このような、強き称え、弱きを嫌い、弱肉強食を 当然 と考えていたのがスパルタだった。

スパルタ市民はその後も共同生活を送りつづけ、戦時には共同体がそのまま部隊となった。男性がこの共同生活から離れて家庭を持て るの は30才を過ぎてからだった。しかし家庭を持ってもそれで引退というわけではない。次は子供を作ることが要求されるのである。もし子 どもが出来なかったらどうなるか。

ある時一人の老人が人々の集まっている所にやってきたが、だれも彼に席をゆずろうとはしなかった。スパルタでは老人は一般的に尊 敬さ れている。彼はある若い男に席を譲ってくれといったが、彼は「あなたが、私に席をゆずってくれるような子どもがいればね」と言い放っ たという。その老人が子供を持っていないことは周知のことだったのだ。もし子どもができそうにもないということがわかったなら、 この 話のようにならないためには夫は妻に子供を何としてでも作らせなければ自分の恥となった。これが何を意味するかは分かるだろうか。ス パルタでは「浮気」「不倫」というものはなかったのである。

スパルタでは女性も男性と同じく肉体を鍛えること、軍事訓練を受けることが求められた。戦争中男性が出払っていて女性しかいない とき にヘロットやペリオイコイの反乱があっても町を守るためである。ギリシアでは一般的に女性は男性より一段劣るものと考えられており、 女性が日中一人で出歩く姿を見られることさえ非常に恥ずかしいこととされていた。そういう女性は売春婦の類としか見られなかった ので ある。ところがスパルタでは女性も男性と同じように競技会に出場し、男性と同じように競技会で失敗した人をからかったり、人前で踊っ たり歌ったりしたのである。男女がほぼ同権だったのはギリシアではスパルタだけだった。貴族と市民がほぼ同権、男女もほぼ同権。 しか しながらその実態を見れば、現代の感覚では民主主義と言うことにはためらいがある。それでも、それはそれで一種の民主主義、さらには 男女共同参画社会、それがスパルタ市なのだった。

◇ギリシアとオリエント


■オリエントとギリシア人


前にも述べたが、ギリシア文明の源流であるエーゲ文明はオリエ ント文明の影響を強く受けた文明だった。それはこの地域がオリエン トの 近くに位置していたためであり、それはギリシア文明の時代になっても条件は同じだった。ギリシアの産業の所で述べたように、ギリシア 人商人たちも、フェニキア人商人たちと競って地中海交易に参入し、ほぼ互角の経済競争をくり広げていた。さらに傭兵はギリシア人 に とって手軽な出稼ぎの手段であり、オリエントの君主たちにとっては貴重な戦力となっていたことは前に触れた通りである。

アテネ市で貴族と平民の対立が始まり、ドラコンの成文法が制定されて間もない頃、アッシリア帝国が新バビロニアとメディアの連合 軍に よって滅亡した。そしてギリシアの東方のアナトリア半島(現トルコ)では、その一属州であったリディアが独立した。このリディア王国 は、世界初の鋳造貨幣を生みだしたことで有名である。ギリシア人が後に貨幣を鋳造したのは、このリディアの発明を学んだと言われ てい る。

リディアはその後強国となり、アナトリア半島沿岸(ギリシア人はイオニア地方と呼んでいた)に住んでいたギリシア人たちのポリス はリ ディアの支配権を受け入れた。またリディアも、先述したようにギリシア人の傭兵を貴重な戦力として受け入れていた。

■ペルシアの西進


リディアは紀元前6世紀後半にはアナトリア半島の東方に進出す るほど強大化したが、そのタイミングはあまりにもまずかった。当時 そこ には新興国家アケメネス朝ペルシアがキュロス2世大王のもとで急激に強大化していたのである。アッシリアを滅ぼしたイラン高原の強国 メディア王国がすでに滅ぼされ、メソポタミアの強国新バビロニア王国の運命も風前の灯火だった。そんな状況の中にリディアは飛び 込ん だのだった。リディアとペルシアの、オリエントの覇権をめぐる戦いが始まった。これはリディアが勝利した時もあったが、けっきょくは ペルシアの攻撃の前に総崩れとなり、首都のサルデュスが征服されてリディアは滅ぼされた。反転したペルシアはその後新バビロニア を滅 ぼし、次のカンビュセス王の時代にはエジプトまでが征服されてオリエントは統一された。

この間リディアの滅亡で一度的に独立を回復したイオニア地方のギリシア人ポリスだったが、結局はペルシアの支配を受け入れざるを 得な かった。ペルシアは各都市に一律に手先となる僭主を送り込み、間接的な支配を行った。しかしそのやり方は、独立自主を尊ぶギリシア人 の自治を認めたリディアとは違って、実態を無視し、ギリシア人のメンタリティを無視する政治であった。これがギリシア人の怒りに 火を つけた。ペルシアの明らかな政策ミスだった。こうしてイオニア諸都市はミレトス市を中心に反乱を決行したのである。イオニアの反乱の 発生であった。

ミレトス市は本土のギリシア人にも参加を呼びかけ、アテネはこれに参加することにしたが、スパルタは断わった。アテネの参加には 訳が あった。それはこの反乱の本当の原因にも関係があった。ペルシアはオリエント全体を統一した際、その海軍力をフェニキア人に頼った。 そのため彼らの生業である地中海交易は当然のように保護され、必然的に商売敵であるギリシア人にとって不利な状況になっていたの であ る。また、ペルシアと当時対立していたのが北方の大帝国スキタイであり、彼らと密接な交易を行っていたギリシア人が、ペルシア帝国内 で不利な扱いを受けるのも仕方なかった。この反乱は、イオニア諸都市にとってもアテネにとっても、自らの生活と将来をかけた戦い であ り、商業に冷淡なスパルタ市が不参加を決めたのも当然だった。

イオニアの反乱は、時勢も見計らって行われていた。当時ペルシアではオリエントを統一したカンビュセス2世がエジプトからの帰途 に殺 され、後継者をめぐる争いの中で、王家では傍系のダレイオス1世が即位していた。そしてこの継承が帝国内に反発を巻きおこし、あちこ ちで反乱や独立の動きが起こっていた。ダレイオスは即位後9年間もこうした反乱の鎮圧に帝国中を駆けまわらざるを得なかった。よ うや く国家が安定したと思われたら、今度はスキタイ帝国との間で大規模な戦争が起こり、やむなく北方に軍を進めたが、結局これは失敗に終 わっていた。

ペルシアはかつてのペルシアではない。ダレイオス弱し。ギリシアに近く、古くからの交易相手であるスキタイ遠征の失敗がギリシア 人に そう思わせたのである。イオニアの反乱もこうした状況の中で起こされた。

しかしこの判断は誤っていた。一時はイオニア連合軍が旧リディアの首都サルデュスを占領するなどの戦果をあげたが、結局は物量・ 軍略 すべてに勝っていたダレイオスの勝利に終わってしまう。そしてペルシアは敗者には容赦しなかった。反乱に参加したイオニア諸都市の神 殿はすべて破壊され、若い男性はすべて去勢され、若い女性はすべて奴隷とされた。これらの都市は将来を担う一世代を失ったのであ る。 新たにペルシアが送りこんだ支配者が各都市を支配するようになり、イオニア諸国は完全に支配下に置かれることになった。ただしダレイ オスは愚かな人物ではないので、今度は慎重にポリスの実情を把握して市政を実行するように命じており、交易活動についても配慮を し た。そこでこれ以後のイオニアはペルシアに対して忠実な地域となっていった。

ダレイオスの次なる目標は、イオニアの反乱に加担したアテネなどのポリスである。ようやく安定してきたとはいえ、これを放置すれ ば帝 国内に再び不穏な動きが起こらない保障はない。見せしめのためにも反乱を起こしたものがどうなるかと言うことを徹底的に示さねばなら なかった。ダレイオスは大軍をエーゲ海の向こう側に送りこむことに決めた。こうして起こったのがペルシア戦争だった。

■ペルシア戦争


ペルシア戦争とは計3回にわたって行われたギリシア侵略戦争で ある。この戦争の詳細は、現在ヘロドトスが記したペルシア戦争の記 録集 『歴史』しか残っていないため、客観的な事実は十分ではないが、かなりの状況がわかっている。

まずはダレイオスが行ったのは、甥に一軍を率いさせて、アナトリア半島からギリシア北方にまわってギリシア諸ポリスに向かって南 進す るという作戦だった。『歴史』ではこれを第一次ペルシア戦争としている。しかしこの戦争は途中で海軍が突然の嵐に遭って多くの損害を 出してしまい、陸軍も山岳地帯で原住民の襲撃にあって司令官が重傷を負うという事態になったので、けっきょくは撤退している。し かし それでもこの際にギリシア北方の多くの部族がペルシアの覇権を受け入れたため、それなりの成果はあった。

次の第二次ペルシア戦争が、ギリシアの真の危機の始まりだった。ダレイオスは今度は前回とは比べものにならないほどの大軍で、陸 と海 からギリシアを攻め立てた。まず海軍はアテネを追放されて当時ペルシアに亡命していたペイシストラトス一族の地盤でもあったアテネ市 の外港マラトン港周辺に来襲した。アテネはスパルタに応援を求めるとともに、近くのポリスの援軍を得て、奴隷たちさえも武装させ てマ ラトン周辺の防衛網を固めた。ペルシア海軍は上陸には成功したが、重装歩兵の本家本元のすさまじいほどの破壊力を見せつけられ、得意 の騎兵部隊を展開することもできずに敗退し、けっきょく艦隊ごと退却せざるを得なかった。ペルシア軍の完敗、そしてアテネ側の完 勝 だった。その鮮やかさは、大急ぎで駆けつけたがスパルタの援軍が、到着したときにはすでに戦闘は終わっていたくらいだった。しかしマ ラトンの勝利に沸くアテネ軍にはまだやるべき事があった。実は当時、アテネ市内にはかつて無い大敵の襲来という事態に、不安感か ら起 こった降伏論が高まっていたのである。もちろんペルシアから資金を得ていた党派もこうした市民心理を利用してこれを広めていた。一刻 も早くこの勝利を市民に知らせる必要があったのである。

ローマ時代の歴史家プルタルコスが記した伝説によれば、この時司令官に命じられてエウクレス(別の伝説ではフィリッピデス)とい う男 が完全武装のままマラトンからアテネ市まで走ってこの喜ばしい知らせ(ギリシア語でエヴァンゲリオン)を市民に告げたとたんに、心臓 マヒでも起こったのかそのまま息絶えたという。ただしこの話、どうやら後世になって作られた話らしい。しかしこの有名な話をもと にし て現代になってオリンピックにマラソン(Marathon)競技が作られた。

この戦いはアテネ市民に大きな自信を与えた。なにせ当時、陸上で大敵と戦う場合には絶対に「歩く凶器」の集合であるスパルタ軍の 助力 がなければダメだという常識があったのである。しかしそのスパルタ兵無しでもアテネは勝てたのだ。これはアテネの国のあり方、民主主 義に対する自信と確信を大いに高めた。アテネでは直後から市内にいた親ペルシア派の追放が始まり、陶片追放でその多くが町を去っ て いった。

しかし破れた方のペルシアは自信を失ってなどいない。ダレイオスは戦争直後から再度の侵攻を宣言していた。しかしその準備のため の増 税が原因でエジプトで反乱が起こったことからギリシアへの再侵攻は延期せざるを得なかった。けっきょくダレイオスは侵攻軍の出発を待 つことなく、マラトンの敗戦後4年後に亡くなってている。

ダレイオスの遺志を引き継いだのは、その子クセルクセス1世だった。初め彼はギリシア遠征には関心が薄かったが、エジプトの反乱 が鎮 圧されたことと、敗戦の司令官たちの懇願を受け入れて3度目のギリシア遠征を開始した。第3回ペルシア戦争である。

クセルクセスは自ら大軍を編成し(ヘロドトスによれば総数528万人、そんなバカな、という数である)、ギリシア諸ポリスに降伏 を要 求した。ただしアテネとスパルタ以外、である。ペルシアはこの両ポリスは許す気はまったくなかったのである。

ペルシアの「本気」が伝わると、前の戦闘には直接関係のなかったポリスもじょじょに事態を把握し始めた。アテネの政治家テミスト クレ スは、スパルタと連絡を取り合って、ギリシア連合軍の結成を働きかけた。この結果、それまで何かと小さな紛争をくり広げていたギリシ ア諸ポリスの間で、オリンポスの祭典の期間以外では歴史上初めてすべての戦いが停止され、連合軍が結成された。ギリシア人も史上 初め て本気になったのである。

連合軍はどのようにペルシア軍を迎え撃つか協議を行い、その結果、陸ではテルモピレー、海ではアルテミシオン海峡の2点で迎え撃 つこ とが決定された。テルモピレーの地はギリシアの主要街道が通っていながら道幅が狭く、ペルシアの大軍が来ても行動が限定される場所 だった。アルテミシオン海峡も同様で、いずれも大軍を迎え撃つには最適の場所だった。しかしながらペルシア軍も前回の敗戦にこり てお り、万全の構えで来ることはまちがいなかった。何よりペルシアは物量においてギリシア軍を圧倒しており、資金力も同様だった。長引け ばギリシアに不利になることは明らかである。何としても早期にペルシア軍を圧倒することが重要だった。

協議では結局テルモピレーはスパルタが中心となって守備をすること、そして海戦はアテネが中心となることが決定された。しかし実 際に ペルシア軍が迫ってきたとき、あいにくスパルタでは重要な宗教行事の最中になってしまい、守備隊に派遣できるのはわずか300名だけ となってしまった。その後周囲のポリスの援軍が集まったためにようやく5000人余りにはなったが、それでもペルシア軍の21万 人に 比べれば話にならない数だった。ペルシア軍のほうがこの人数の余りの少なさに、何か奇策があるのではと疑い、数日様子を探らせたくら いだったのである。

それでも実際に戦闘が始まると、この地を決戦に選んだギリシア人の目の付け所の正しさと、歩く凶器のすさまじさが証明されること と なった。ペルシア軍は初日1万人もの被害者を出しながら、まったく守備陣を崩すことができなかったのである。そこでペルシア側は、情 報網を駆使してようやく脇道の存在を察知した(一説によればギリシア人からの密告があったという)。ペルシアの別動部隊がこの道 を 通って、ギリシア軍の向こう側に回ったことで形勢は逆転した。ギリシア軍は急いで協議を行い、ほとんどの兵が自国に戻ることになっ た。結局最後まで残ったのは国王レオニダス以下のスパルタ兵300名と2つの他のポリスの兵を合わせた1000名だけだった。彼 らは 生きて帰ることが不可能なことを知りながら残ったのである。

3日目の戦闘が始まった。1000人の兵は必死に抵抗し、中でもスパルタ兵300名の働きはずば抜けていた。彼らは最初は長槍で ペル シア歩兵を圧倒したが、いかんせん数の少なさからじょじょに圧倒されていく。ヘロドトスの表現を借りれば「槍が折れれば剣に持ち替 え、剣が折れれば素手や歯を使い」文字通り全軍が死ぬまで戦ったのである。戦闘が終わったとき戦場には彼らの10倍の敵兵の死体 が倒 れていた。後に彼らの勇敢さをたたえるために作られた墓碑には有名な詩人シモニデスによって作られた詩が刻まれた。「旅人よ、ラケダ イモーン(スパルタ市の美称)の国人に行きて伝えよ。我ら御身らの掟のままに、ここに死にきと。」

一方のアテネでは、スパルタでさえもペルシア軍を撃退できなかったと言うことで、アルテミシオン海峡での迎撃作戦の意味が無くな り、 海軍はアテネに帰還することになった。こうして市民たちは前回以上の不安感に襲われることになり、善後策を探るため、急いでデルフィ の神殿に使いが送られ神託がもたらされた。しかしその内容は、(実はだいたいがそうなのだが)何とも理解に苦しむものだった。最 初の 神託はアテネ市の壊滅を予言する内容で、市民はこれで不安のどん底に突き落とされてしまった。そこでもう一度神託を求めると、その内 容が「聖なるサラミスよ、ゼウスは、アテネがために木の壁を、唯一不落の塁(とりで)となし、汝らを救うべく賜るであろう。」と いう ものだったのである。この「木の壁」が何なのかで議論が分かれた。ある人は木と塁という言葉から、昔アテネの町が木造の城壁で囲われ ていた時期があったことから、これは市内に籠城(たてこもる)してペルシア軍をやりすごせば神が奇跡を起こしてくれるだろうと主 張し た。しかし当時のアテネの指導者の一人テミストクレスは、熱心にこの「木の壁」を木造の軍艦だと主張したのである。軍事的な視点から すれば、アテネ市をペルシアの大軍から守る方法はなかった。ペルシアの前例からすれば、アテネ市の運命は、婦女子は奴隷として売 ら れ、男性は殺害されることが明らかだった。かくなる上は、女性は全員を避難させ、男性全員が軍艦に乗って戦うべし。それがテミストク レスの述べた軍略だった。それに彼の戦略には根拠があったのである。

第二次ペルシア戦争の始まる3年前、アテネの郊外でラウリオン銀山に新鉱脈が発見され、臨時に多くの銀の産出があった。当時この 臨時 収入をどうするべきかでアテネの民会で議論があった。こうした収入は市民に平等に分けることが通例であったが、この時テミストクレス が熱心にこれを大艦隊建造の資金にすべきだと説いたのである。当時はダレイオス1世が亡くなったばかりで、後継者はギリシア遠征 に不 熱心という情報が伝わってきていた。しかしテミストクレスは独自の情報網(ペルシアの高官との交友関係があったらしい)から、ペルシ アの再来は必ずあると確信していたのである。結局この意見が通って大艦隊が建造されたのだが、それがこの時生きたのだ。さらにテ ミス トクレスは情報網を活かして、アテネは海戦を避けて陸戦で抵抗するというニセ情報も流していた。これは、最悪の場合(アテネ滅亡)で も、自分がペルシアに内通したとして評価してもらう実績を残す意味もあったという。まったく愛国者なのか売国奴なのかよくわから ない 人物である。

けっきょくペルシアはこのニセ情報を信用し、ほとんど市民のいないアテネ市に入るとパルテノン神殿などを破壊したあと、陸軍はス パル タをめざして西進した。一方海軍は情報通りにアテネ沖を通過して西進し、サラミス湾に入った。ここでペルシア海軍は意外なものを見た のである。情報にはなかったアテネの大艦隊の陣容だった。それでもペルシア艦隊は700隻弱、ギリシア艦隊は400隻弱。艦の大 きさ も圧倒的にペルシア海軍のほうが大きかった。

しかし艦隊の大きさでは決まらないのが戦争である。エーゲ海特有のアフリカから吹く強風シロッコをよく知らないペルシア海軍は翻 弄さ れ、夕方には西から吹く強風に苦しめられた。さらにサラミス湾自体が大艦隊の行動には狭すぎた。こうした要素とギリシア海軍の活躍 で、数で圧倒していたはずのペルシアの大艦隊が敗退してしまったのである。慎重なテミストクレスは、追撃してとどめを刺すべきだ と主 張する司令官たちを説得し、とどめを刺そうとすればペルシア軍が死にものぐるいで反撃し、かえってギリシア側が打撃を受けるとして断 念させた。皆は納得したが、実は彼は密かにペルシア王に、自分がギリシア海軍の追撃を止めさせたと伝えて恩を売っていた。とにか くこ の男は食えない人物である。

サラミスの海戦はペルシア戦争の流れの転機となり、以後のペルシアはじょじょに後退を迫られることとなった。翌年にはスパルタ陸 軍と のプラタイアの戦いが行われ、今度は準備万端整ったスパルタ陸軍中心のギリシア軍がペルシア陸軍を粉砕している。形成が悪化したペル シアは、少しずつギリシア方面から撤退していく。

◇ギリシア文明の衰退


■アテネの絶頂期


しかしペルシアの政治は皇帝が変わるたびに大きく動くことをギ リシア人は知っていた。当面の襲来はなさそうだが、いざというとき には 備えておかねばならない。そこでプラタイアの戦いの翌年出てきた構想が、ギリシア連合軍の永続化であった。今で言うと、ヨーロッパの NATO(北大西洋条約機構)軍のようなものである。NATOの本部は小国ベルギーにあるが、このギリシア連合軍の本部もエーゲ 海の 小さな島国デロス島に置かれた。そこでこの組織はデロス同盟と呼ばれる。同盟の中心は、ふつうならスパルタとアテネとなるのだが、他 国との同盟を望まないスパルタはけっきょく同盟には参加しなかった。よってこの同盟は、アテネ中心のものとなる。アテネは同盟の 主導 権を握り、やがてペルシアの脅威が薄れると、同盟の金庫をパルテノン神殿内に移して財政の主導権も握ってしまう。やがては同盟の資金 を「同盟の強化のため」と称して神殿の改修資金に流用するなどし、反発して同盟を脱退しようとするポリスに対しては見せしめのた めに 罰するなど、次第に同盟を私物化する傾向が強まった。そのためこの同盟の成立以後を「アテネ帝国」と表現する場合もある。

この時期のアテネは、ペルシア戦争に事実上勝利した(正式な終結はまだ少し先になるが)ことから、自分たちの社会体制に自信を持 つよ うになった。さらにペルシア戦争初期に生まれた、この戦争は文明人が野蛮人と戦う正義の戦争であるという考え方(イデオロギー)を確 たるものとした。ギリシア人が他民族を蔑視する傾向が強まるのもこの頃からである。自信が過信、そして相手への蔑視につながるの はア ヘン戦争後のイギリスや日露戦争後の日本に共通する心理である。

ペルシア戦争でもっとも目立った活躍をしたのは、従来の戦争の中心であった重装歩兵を多く生み出していた自由市民層ではなく、従 来な ら自費で武器を購入できずに戦争に参加できなかった貧民層だった。彼らは第三次ペルシア戦争では体一つで三段櫂船に乗りこんでペルシ アの大艦隊に立ち向かった戦争の主役だった。彼らの活躍がなければ、ギリシアは破滅していた。こうした結果が貧民層に自信を与 え、そ の後のアテネの民主政に大きな影響を与えた。

アテネ市政では、このころ軍人出身のペリクレスが主導権を握っていた。彼は政治改革を行って、公職はすべての市民に開放し、希望 者が 抽選でなれるようにした。さらには当時は議員は無給の名誉職であったので、貧民でも議会に出席できるように議員に給料を出すようにも した。すなわち平凡な市民でもやる気さえあれば高位に就くことができるようにしたのである。これは民主主義の最高段階、理想的な 姿と して古くから称えられているやり方だった。

ただし理想は必ずしも現実とは仲が良くない。素人のやる政治は試行錯誤の連続となる。事情を知る者からすれば悪夢のような決断が しば しば行われる体制でもある。なのにアテネの市政は非常にうまく行った。それはペリクレスが黒幕としてうまく調整していたからだった。 彼はもともとは政治家ではない。軍人のトップとして政治に関わった形でいたのである。しかし演説のうまさが群を抜いていたためい つの 間にか政界の中心人物になっていた。彼は一方では民会(国会)の派閥争いのバランスをとりながら、また一方では市民の人気を気にしな がら、彼の最大の魅力である演説を武器にして長年にわたってアテネの政界を牛耳ったのである。当時のアテネでは民会の議論で多く が決 まった。今の日本のように政党が国会の裏舞台で取引をするなど絶対にない時代である。すべては国会の論壇で、演説家同士の激しい論戦 ですべてが決まったのだった。すばらしい演説に対しては、政敵であっても立ち上がって拍手を送る、そんな雰囲気があったのであ る。ペ リクレスの演説はこの時代最高の武器だったのである。だれも彼に演説でかなう者はいなかった。当時はしばしば有能な政治家が陶片追放 され、アテネからは有能な政治家が次々といなくなる傾向にあった。ペルシア戦争で活躍したテミストクレスも、この時期に追放され た人 物の一人だった。それがペリクレスは一度もそんな目に遭っていない。いかに彼が政治家として生残る能力に長けていたかがこれだけでも 証明されよう。

ペリクレスは慎重に政治家たちに、ある時はアドバイザーとして、ある時は軍人として影響力を行使した。この状況を見て、後のロー マ時 代の歴史家トゥキディデスが「形式上は民主主義、しかし事実上はペリクレスの独裁」と表現したくらいだった。アテネの市民も彼を「地 上のゼウス」と表現している。

■ペロポンネソス戦争


アテネの事実上のギリシア支配に反発したのがスパルタだった。 同盟の資金を流用して軍事的に強大化する一方のアテネを脅威に感じ てい たし、その力を怖れて他のポリスが相対的にスパルタを軽んずる傾向にも反発を感じていた。しかし何よりアテネ風の政治体制、経済合理 主義に基づいた、全市民が参加する民主主義が広まることがもっとも問題だった。これはスパルタ国内の隷属民ペリオイコイやヘロッ トの 独立心に火を付けていたのである。アテネの成功は決して許してはならないものだったのである。こうして次第にアテネとスパルタの関係 が悪化していった。そして争いはアテネ中心のデロス同盟と、スパルタ中心のペロポネソス同盟(古くからあるスパルタ周辺のポリス の軍 事同盟)の対立という形になっていった。

ペリクレスはこうした事態に直面し、いまだ正式に終結していないペルシアとの戦争を終わらせる決意をした。こうして結ばれたのが カリ アスの和約(前449年)で、3年後には一旦スパルタとも和平条約を結ぶことに成功した。これはペリクレスの名をいっそう上げること となったが、これですべてが終わるはずがなかった。スパルタの不満はことあるごとに噴出し、ついに前431年戦争に発展する。ペ ロポ ネソス戦争である。

ペリクレスは当初、強力なスパルタ軍と直接対決して万が一にも敗れて自分の責任につながる事を避け、籠城することで様子をうかが おう としたが、その彼を不運が襲った。籠城するアテネ市内に伝染病が発生し、またたく間に市内に広まった。それでも籠城を続けようとする 彼に、アテネ市民の不満が高まったが、その後彼自身も病気に冒され死亡する。この伝染病は、かつてはペストではないかと言われて いた が、現在は否定されており、最近ではインフルエンザかマラリアではないかと言われている。

ペリクレスの死がアテネに与えた打撃は、あまりにも大きかった。事実上の独裁国家が独裁者を失ったのである。以後のアテネ市は、 操る もののいない操り人形が好き勝手なことを言って庶民を右往左往させる国になってしまう。現在ではこの時代のアテネを「衆愚政治」と批 判する言い方があるが、本来の民主主義は衆愚政治となる可能性が織り込み済みの政治体制なのである。20世紀の偉大なる政治家の 一人 で第二次大戦時の英国首相ウィンストン=チャーチルが、彼独特の皮肉った言い方で「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられ てきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と言ったように、その体制には常に無能な指導者による誤り、無能な官吏によ る公 費の私的流用などが起こりうる。それでも民主主義は他の政治体制よりはまだましと言える。この時期のアテネの、そしてペリクレスの失 敗は独裁政治の失敗なのである。独裁者は国民から真実を隠す。真実を知らない国民は、必ず誤った判断を冒す。ペリクレスは民主主 義の 場がありながら、そこに真実を提供することを怠っていた。真実を自分の都合がよいものだけ提供していた。彼の死後にそれを提供できる 者もいなかった。市民は当時最良の民主主義の場は持っていながら、最良の手段である国民による正しい判断をする機会を持っていな かっ たのである。

アテネ民会の判断は迷走する。真実を知らないアテネ市民は、国民受けする発言をすることしかしか能がないデマゴーグ(扇動政治家 と訳 される。1年前と意見が正反対になっても気にしない人が多かった)と呼ばれる指導者に動かされ、間違った判断をし続けた。

ペロポネソス戦争もアテネが勝てるチャンスは何度もあった。引き分けにするチャンスも何度もあった。しかしその度ごとにアテネ市 民は 間違った判断を下し続けるのである。にもかかわらずアテネは30年近く戦争を続けることができたのである。それほどアテネの国力はこ の時期他国を圧倒していた。しかしとうとうアテネが破れる時がやってきた。戦争開始から20年も経つと、アテネの混乱は同盟都市 の離 反を引き起こし、アテネにそれを押しとどめる力は残っていなかった。それにともなって同盟資金は先細り状態になっていく。さらにこの 時期宿敵スパルタは、アテネの近郊に要塞を築くことに成功しており、亡命者の扇動でアテネの資金力の源泉であった鉱山の奴隷が反 乱を 起こしたため銀の産出が止まりとうとう戦争資金が枯渇してしまった。またスパルタは、この時期海軍を持つに到っていた。このできたて ほやほやの海軍に敗れたことがアテネの致命傷になった。アテネ市は降伏し、長かった全盛期も終わる。

■ギリシアの混迷


アテネの降伏後、正式にデロス同盟は解散し、ギリシアの支配権はスパルタが握ることになった。こうしてスパルタは全ギリシアの盟 主と して代表として振舞うことが要求されることになる。すなわちすべての国が経済的に繁栄するような、ポリス間の調整役をする必要があっ たのである。当然そういう役割をすれば、スパルタ人の嫌う貨幣経済にいやでも関わることになってしまう。スパルタ市民の中に、貨 幣経 済にうまく関わった市民とそうでない市民との間で次第に貧富の差が目立つようになり、リュクルゴス以来の体制は崩壊の危機に陥った。 天下無敵のスパルタが、ギリシアの覇権を得たことによって弱体化するという皮肉な結果になったのである。

このスパルタを破って新たな覇権国家となったのがテーベ(テーバイが正式名。エジプト王国の首都とは別)だった。しかしこのテー ベの 覇権は、あまりにも指導者エパメイノンダスの能力に負う部分が多く、彼が戦死すると続かなかった。

最近、こうしたギリシア全体の没落に影を落としていたのが、ギリシアの自然環境の悪化ではないかという説が出されている。実はペ ルシ ア戦争の頃から、ギリシア全体で山から木が無くなるという事態が起こっていた。ペルシア戦争前、アテネでは短期間に大量の軍船を建造 する必要に迫られ、山の木が大量に伐採された。それでなくてもギリシアの産業はオリーブやブドウ生産を主とする農業である。これ らの 作物にとって、うっそうとした森林や、豊かな土壌に生える雑草は栽培の大敵である。オリーブ油を詰める容器である壷も、焼くためには 大量の薪がいる。こうした森林伐採の進行にとどめを刺したのがペルシア戦争だったのだろう。ギリシアの森林は、前7世紀から前5 世紀 にかけて、かなりの面積が失われたのではないかと推測されている。こうした説を提示した安田喜憲氏の推測によると、森林の消滅によっ て雨が降っても本来それを受け止めてくれる下草がないため、露出した表土はすぐに川から海に流れ込んでしまう。このため河口は大 量の 泥土で埋ってしまい、しだいに湿地帯に変わっていく。こうした湿地帯では蚊が発生するようになり、蚊が媒介するマラリヤがギリシア人 を苦しめるようになる。ペロポネソス戦争でマラリヤがアテネで広まったのは、こうしたギリシア人の自然破壊が原因だったのだ、 と。も しアテネを襲った伝染病がマラリヤだったとしたら、これは非常に興味深い説となるだろう。

■ギリシアと奴隷制度


ところでこれまであちこちに登場してきた奴隷について、ここで 触れておこう。奴隷とは古代世界のほとんどで見られる制度で、日本 にも 原始古代にはあったようだ。奴隷は主に戦争の敗者や捕虜となった者が勝者によって売られたり、あるいは自ら借金が返済できない場合に 自らや家族の者によって奴隷に売られたものである。

奴隷制度については現代でもこの状況は変わっていない。貧しい国々では家族の借金を返済するために家族が奴隷売買業者(普通は人 材斡 旋業者という名前を持っている)に娘や息子を売ったり、あるいは業者が自ら幼児や若い男女をさらったりする形で奴隷制度は続いてい る。あなたの周囲に、外国人の若い女性が昼間小さなアパートで押し込められるかのように共同生活をしていたりすれば、それは現代 の奴 隷制度の犠牲者なのかも知れない。またワーキングプアと呼ばれる人々も、仕事を失うと住む家も失う恐怖から、しばしば違法すれすれの 低賃金労働を強制されているという点で現代の奴隷と言えるかも知れない。

古代の奴隷は、しばしば「物言う家畜」として扱われた。奴隷の購入者はその人格のすべての所有者であり、つまり奴隷には人権を考 慮する必要がないのである。奴隷が死のうが病気になろうが、治療をするか命を救うかはすべて所有者の判断によると言うことなので ある。気に入らない奴隷、反抗的な奴隷を所有者が処罰することは当然の権利と考えられており、結果として奴隷が死んだとしても、 それが法 に触 れたり問題になることはなかった。

ただし現実には、虐待が行われることはあまり無く、特に家内奴隷(家事や家庭教育など家庭内で使われる奴隷)の場合はほとんど無 かっ た。というのも、現実の奴隷はかなりの額を払って購入された贅沢品であった。乱暴にできるはずがないのである。我々は奴隷という言葉 を聞くと、ついつい18~19世紀のアメリカ大陸においてひどい扱いを受けた黒人奴隷のことをイメージするが、あれは長い奴隷の 歴史からすれば、全くの例外的なものなのである。あれでもって奴隷をイメージしてはいけないのである。

戦争が行われれば、当然多くの捕虜がでるが、それらを売る権利は現場の司令官にあるのが一般的だった。したがって戦争の現場では 洋の 東西を問わず、司令官にとっては奴隷の獲得、兵卒にとっては戦場での略奪行為が副収入され、現実のところ、これがなければ兵卒は集め にくいのだった。また、奴隷の価格は、他の商品と同じく需要と供給の関係で決まり、大戦争が起これば供給過剰で価格は急落し、平 和な 時は供給不足で高騰した。

話はギリシアに戻るが、ギリシアの奴隷は植民都市の周辺から奴隷狩りで連れてこられた者や、オリエントの奴隷市場で買われてきた 者が 多かったが、貴族政時代の末期には借金から自らの身分を売って奴隷になる者が急増し、社会問題になった。ギリシアでは奴隷の地位はオ リエントに比べれば比較的高く、特に知的な能力の高い家庭内奴隷は子弟の教育にたずさわったり、主人の仕事の補佐をすることが多 く、 家族の一員としての扱いを受けることも多かった。そのため奴隷「解放」が行われることも珍しくなかったし、解放奴隷と結婚する者もい た。奴隷解放とは、しかるべき手段をとれば奴隷身分の解放宣言が行われ、以後は一自由市民として暮らすことができたのである。古 代ギ リシアでは、『イソップ物語』で有名なイソップ(アイソプス)も解放奴隷だったという話が残っている。ローマ時代になると奴隷解放は いっそう多くなるのだが、それはまたローマのところで述べることにしよう。

ギリシアではそれほど知的能力が高くない奴隷は、女性なら家庭内労働、男性なら肉体労働につく者が多かった。多くの自由市民は奴 隷を 少なくとも数人、多いものは数百人も所有しており、アテネのラウリオン鉱山の鉱夫奴隷のように、国家が所有している奴隷もいた。市民 は奴隷の労働のおかげでいっさい肉体労働をすることが無く、「仕事をする」=仕事の計画を立てる、判断をする、つまり市民がする 仕事 は頭脳労働だけだったのである。当時は「汗水たらして働く」ことが即ち奴隷の仕事であり、自由市民のすることではなかった。要するに ギリシア・ローマ時代は肉体労働は奴隷のものであり、一般的に蔑視されていたのである。アリストテレスでさえ、「奴隷は肉体に よって 所有者に奉仕する」といって、奴隷制度の存在を当然視していたくらいだった。
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