人類がいつどこで生まれたかは、現在の所まだ正確にはつかめていない。アフリカ東部の、いわゆる大地溝帯のどこかに600万年前には遠い
祖先がいたことははっきりしている。が、この年代の数字もすでにここ十数年で700万年、800万年とさかのぼっていて、このままだ
と 1000万年くらいになる可能性さえ出てきている。
さらにその後の現代人への進化の過程もここ100年間でかなり認識が変わってきており、私が30年前の高校時代に習った、猿人→
原人→旧人→新人という直線的な進化の過程は、すでに古人類学の世界では否定されている(今でもほとんどの教科書に残っている
が)。特に、旧人の代表とされて現生人類の直接の先祖と考えられていたネアンデルタール人などは、その前の原人から枝分かれし、
現生人類とはほとんど関係がないことが明らかになってきている(下図)。
それはともかく、現生人類は20万年前までにはアフリカで誕生し、10万年前頃にはアフリカ大陸を出て世界に広がっていった。そ
して彼らは各地に岩絵や洞窟画を残すなどの痕跡(芸術の萌芽)を残し、岩石の破片を道具(石器)として使う技術を発明し、狩猟採
集生活を始めた。そしてついに1万年前頃に西アジアで「農業」を発明したのだった。
その頃、地中海東岸からイラン高原南部にかけての地域(「肥沃な三日月地帯」とよばれる)には野性の麦が生えていた。これを採集
することで食べることへの不安は少なくなったが、採集生活が基本である限り生活は安定しなかった。そこで考案されたのが「農業」
だったのである。
初期の農業は、種をまき、雨水の降るのにまかせる形の、ごく初歩的な形態だった。こうした形態を天水農業、あるいは粗放農業とい
う。しかし肥料をやる事もなく、大地の栄養分だけに頼った農業だったため、一か所に何年か同じ作物を作ると「輪作障害」といっ
て、すぐに大地は栄養分を失って収穫が激減するか、土地が砂漠化する現象がおきてしまう。しかしこうした天水と大地の栄養分に
頼った農業は、後に肥料の使用が始まるまでは世界中ではごく一般的な農業の形式だった。土地をだましだまし使うしかなかったので
ある。肥料は、中国で紀元前後、日本では室町時代に堆肥や人糞の醗酵物が使用され始めたのが最初である。ヨーロッパでは19世紀
に化学肥料が発明されるまではあまり使用されなかったようだ。
最古の農業が行われた場所は、正確にはまだわかっていないが、先ほど述べた肥沃な三日月地帯、今でいうとイスラエルからイラクに
かけての地域に最古の遺跡が集中していることから、そのあたりだったことは間違いない。
こうして農業が始まると、人間の生活が大きく変わっていった。農業は種蒔き→育成(水やり)→収穫というサイクルで行われるが、
先述したように2~3年ごとに農地の確保が必要になるので、そのたびに新しい耕地を探さなくてはならない。土地が見つかれば一斉
に、集団でそこを耕地に変えていかねばならない。そして収穫までの間水やりを絶やしてはいけない。さらに収穫時には一斉に刈り
取って、脱穀から貯蔵までしなければならない。農業の開始は人間が本格的に集団生活を始めるきっかけとなった。そこで都市が誕生
する。この時代は一つの都市が一つの国家だったため、都市は都市国家でもあった。
ちなみに、日本でも青森県の三内丸山で巨大な遺跡が発見され、古代日本にも文明があったのではないかと騒がれたことがあったが、
三内丸山は最盛期が先述したトルコのチャタル・ヒュック遺跡の3千年ほど後であり、人口も三内丸山が最大で500人に対してチャ
タル・ヒュックでは少なくとも5千人、多ければ1万人くらいだったことがはっきりしているなど、時代でも規模でもかけ離れている
ことは知っておいた方がいい。
古代においては、どの地域でも農業をやる上でさまざまな問題を抱えている中、肥料の問題や土地を新たに開拓する苦労が全く必要ない 地域も存在していた。人が何もしないでも毎年土地が肥えて作物が問題なく作れるという夢のような土地。その一つがティグリス・ユーフ ラテス川に挟まれた「メソポタミア」だった。メソポタミアとはギリシア語で、meso(間の)+potam(河)+ia(土地)つま り河の間の土地を意味する。この地域は名前の通り両大河に挟まれていた。
この両河の上流の山岳地帯に冬に降った雪は、春とともに溶けてじょじょに川に流れ込んでゆく。下流域では5月から6月にかけてが増水
のピークとなり、いくつかの地域では自然と堤防が決壊して洪水になる。そして辺り一面が泥の海となるのである。現代なら不幸なできご
ととして、「大自然の脅威」「行方不明者○千人」などの見出しが新聞に躍り、悲惨な光景がくり広げられたかもしれない。しかし当時の
人々にとってはこうした光景は喜びの対象なのである。
泥は上流域から大量のミネラル(鉱物性の栄養分)を運んでくるが、これは天然の肥料なのである。水が引き、泥がやがて乾くと、そこは
一面のまっさらな農業適地が広がっている。あとはそこに線を引いて誰がどこを耕すのか決め、水をやる設備を稼働させるだけで十分なの
である。ただしこれが難しい。土地の線引は一斉にやらないと、不平等になるからである。トラブルが起きることもあるだろう。したがっ
て、こうした場面をうまくまとめられる人物が必要になってくる。それが「王」であった。
古代メソポタミアで最初に文明を築き上げたのがシュメル人だった。彼らの言葉は周囲のセム語族(今のアラビア人と同系統の言語を話 していた民族)とは異なっていたようだ。彼らがいつ頃メソポタミアに住み着いたのかはっきりしない。彼らの文明が残したもの以外、子 孫がいるかどうかも分からない(おそらくはいない)し、詳しいことは今でもわかっていない謎の民族なのである。彼らは世界最古の文字 である楔形文字を発明し、それを記録する手段である粘土板を発明した。メソポタミアの諸民族、例えばこのあと登場するアッカド人も アッシリア人も、シュメル人が与えた影響は非常に大きかった。そのなごりは現代にまで及んでいる。粘土板と楔形文字(くさびがたも じ、せっけいもじ)という記録手段のセットは、世界最古の方法として西アジア中に普及し、二千年後のアケネメス朝ペルシア帝国の時代 まで公式の記録手段であり続けたのである。
他にもシュメル人は、洪水の後の土地の区画割りを正確に行う必要から発明された測量術、さらにはそれを使いこなすための数学や太陰
暦、そして時刻の六十進法(六十分が1時間)を発明している。太陰暦とは月を基準とした暦で、月の30日周期をひと月とする。しか
し、一年は365日なのでどうしても30日では割り切れず、5日だけ余分になってしまう。そこでシュメル人はこの5日間を不吉な月
13月とし、なるべく外出を控えたという。キリスト教世界に今でも残る13を不吉とする迷信はこれが原点らしい。また、太陰暦と言っ
ても厳密には月の周期だけでなく太陽の周期(1年)も基準に組み入れているので、正確には太陰太陽暦と言う。
シュメル人の中で最も有名な人物は、ギルガメシュである。神話上の人物だが、かつては完全に想像上の人物と考えられていたが、現在で
は誰か実在の(恐らくは複数の)人物がやったことを反映していると考えられている。ギルガメシュは都市国家ウルクの王で、父が人、母
が神という半人半神で、さまざまな冒険を行った。不老不死の方法を探す話。森の中に潜む怪物フンババを倒す話。そしてこの話の中で、
かつて人類を襲った大洪水の話が語られていることから、これは聖書のノアの方舟の物語の原型になったのではないかとも考えられてい
る。メソポタミアではウルク以外にも、ウルやアッカドといった都市国家が有力で紀元前二千年頃まではこの地域の覇権をめぐって諸都市
が争う状態が続いた。
初めてメソポタミア全域を支配した都市国家がアッカドだった。紀元前2300年頃のサルゴン王の時に有力となり、ついに全メソポタ ミアを征服する大帝国を築いた。最も力があったときは地中海にまで力が及んだらしい。しかし孫の代から弱体化して帝国は滅びる。
その後、紀元前1790年頃にメソポタミアを再び統一したのが、セム語族に属するアムル人が築いた都市国家古バビロニア王国(バビロ
ン第一王朝)の王ハンムラビである。ハンムラビ法典の制定者として日本中の高校生で知らない人はいないだろう。
ハンムラビ法典は楔形文字で書かれ、バビロン市の主神マルドゥクの神殿に置かれていた。これが1901年に発掘されたとき、人々を驚
かせたのがその内容だった。法典196条に書かれた有名な文「もしある市民が、他の市民の目をつぶすならば、彼の目をつぶさなければ
ならない」は、キリスト教徒ならだれでも知っている『旧約聖書』の文言「命には命で、目には目で、歯には歯で、手には手で、足には足
で、火傷には火傷で、傷には傷で、打ち身には打ち身で償わなくてはならぬ」と同様な内容であり、しかも旧約聖書よりはるか昔のもの
だったことが衝撃的だったわけだ。何せ聖書=聖なる書がオリジナルじゃなかったことが分かってしまったのだ。ちなみにこの聖書の文言
は今は世界中で「目には目を、歯には歯を」の表現で、復讐を意味する表現として使われていて、余りにも有名になっている。
古バビロニアでもう一つ有名なのが「バベルの塔」である。これは聖書に記載された伝説上の建物で、古代の人々が神を恐れずにこの巨大
な塔を建てて神(天空)に近づこうとしたため、神の怒りで塔は崩れ落ち、かつて同じ言葉を話していた人々のことばは混乱し、人々は互
いに通じない言葉を話さざるを得なくなってしまったというものである。そのため聖書ではバベル=混乱という意味で使われている。
現在ではバベルの語源は古代アッカド語のバブ・イル=神の門を由来とするバビロン市と考えられている。バベルの塔も古代メソポタミア
では少し大きな町ならどこにでもあった宗教施設ジッグラトがもとになったのだろうと考えられている。
古バビロニア王国はハンムラビの後は徐々に衰退し、前1600年頃にイラン高原から侵入したカッシート人の活動もこれを加速した。こ
のカッシート人というのも正体不明な民族である(おそらくは後でも触れるインド=ヨーロッパ語族だろう)。そして古バビロニアに最後
のとどめを刺して滅ぼしたのが次に述べるヒッタイトだった。
古バビロニア王国滅亡後にメソポタミアの覇権を握ったのは、北方のアルメニア高原に本拠地を置いていたミタンニ王国と、西北のアナト
リア半島(今のトルコ)に本拠地を置いていたヒッタイト帝国だった。特にヒッタイトは、古代オリエント地方で初めて鉄の製造法を持っ
ていた国として有名である。もっともこれはヒッタイトの発明ではなく、先住民から受けついだものらしい。
ヒッタイトもミタンニも、その言語がインド・ヨーロッパ系であることがわかっている。後で詳しく述べるが、気候変動か何かが原因で、
もともとカスピ海から黒海の北のあたりで遊牧生活を送っていたインド・ヨーロッパ語族が、この頃から活発に移動を開始しており、イン
ドからヨーロッパにかけての文明世界に侵入をくり返している。
鉄の製法を独占していたヒッタイトは非常に強力な軍事力を持っていた。そしてこの頃シリア地方まで進出してきたエジプト新王国と、オ
リエントの覇権をめぐって激しく争った。紀元前1286年のカデシュの戦いではエジプトと互角に戦い、引き分けに終わったことがわ
かっている。この際に結ばれた和平条約は、世界最古の国際条約と言われている。
ところが紀元前12世紀初め、このヒッタイトが突然滅亡してしまう。これも原因ははっきりしていないが、首都のハットゥシャ(現ボガ
ズキョイ村)は炎上し、あとかたもなく破壊されてしまったらしい。発掘されたボガズキョイの遺跡には大量の炭化物つまり燃えかすが含
まれており、破壊の激しさを物語っている。オリエント最強の軍隊を持ったヒッタイトを滅亡に追いやったのはどんな勢力だったのか、長
い間謎だった。
ようやく最近わかってきたのはそれが当時「海の民」とよばれた勢力だったと言うことである。紀元前13~12世紀頃というのは長く続
いた地球の温暖期が終わり、寒冷化が始まった時期である。このため世界中で北方に住んでいた民族の南方への移住が始まり、それが玉突
き現象的に南方の諸民族を押していった。彼らは生きていくために安住の地を探し、排除しようとする勢力とは戦った。彼らからすれば生
存のためだが、向かった先の住民からすれば侵略者でしかない。「荒々しい」「野蛮な」と形容される「海の民」とは、現代の言葉で言え
ば、環境難民なのである。
さらにこの「海の民」というのは単一民族や単一勢力なのではなく、複数民族集団の総称らしい。彼らは突然現れ、各国の防衛力の薄い部
分から進入を試みた。戦争なら次の一手が読めるが、無計画な侵入を防ぐのが難しいのは、史上最強の軍事国家である現代のアメリカ合衆
国がメキシコ国境からの難民の侵入を防げない例でもよく分かる。彼らの破壊力はすさまじく、ヒッタイトだけではなく、エジプトでもメ
ソポタミアでも大なり小なり彼らの影響を被っていると言っていい。