OECD:学びの変革プロジェクト ”学習活動の変革”

 

大橋康一 訳

 

 これはOECD教育研究革新センター発行『Innovating to Learn, Learning to Innovate』の抄訳である。すでにOECD出版部門からは正式な日本語訳『学びのイノベーション』(明石書店)が出ているが、あまりに直訳風で読みにくいため、原文から訳し直したものである。

なお拙訳には、原文の一部を省略したり、原文にない補足を加えたり、一部には慣例と異なる訳語を宛てているところがある。例えば筆者は「クリティカル」は日本では『批判的』という訳語が定着しているが、どうしてもマイナスのニュアンスを含んでしまうため『吟味的』の方がふさわしいと考えているので、そちらを使用した。また全体を通して《 》部分は筆者の注である。

 

概要

 

  OECD諸国、すなわち先進国は現在、従来の産業基盤型経済から、学習とイノベーション(技術革新)が中心となる「知識経済」へと変化している。ところが、今日の学校の多くは、二十世紀初頭の数十年間と全く変わらず運営されており、時代の変化について行けていない。
  学校内外の学習で、これからの新しい時代に必要な、深い知識と技能を身につけられるようにするには、どう学校を変えれば良いのだろうか。その成功は、一般市民が経済的に成功するだけでなく、文化的・社会的に充実した人生を送るためにも、重要なことなのだが。
  本書は、教室を新に効果的な学習の場とするために必要な、認知的・社会的方法を明らかにし、「学びの科学」(心理学のうち学習に関する分野)が解明した重要な知見をまとめている。それは、代替学校(オルタナティブ・スクール。日本にはない学校種)から、メキシコの事例まで、先進国のさまざまな具体例を吟味し、そうした研究から見えてきた、従来にない新しいしくみの実現を求めていきたい。さらに、知識経済時代に合う学習を実現することで、広く教育変革を起こす方法が見つかるかもしれない。そのためOECD教育研究革新センターが、政策立案者、研究者、教師、生徒、家庭にとって興味深いこの取り組みを実現するため、本書を刊行した次第である。

 

 第1章 変革的な学習環境

 

第1節 序論

 

  知識経済の出現とともに、先進諸国においては、学習方法や学習環境に関する関心が高まっている。その一方で、従来型の教育は失敗したと考えられており、それで成功したと思われている人たちからも、疑問が投げかけられている。
 また、既存の学習カリキュラムは、現在必要とされている学習方法には適していると思われていない。そのため現在「効果的な実践例」とされているものを超えた方法が必要となっているが、既存の制度の枠内での実践には限界があるだろう。やはり変革というものは、未来志向の取り組みをもとに、実現されるべきだろう。
 現在のOECDの「学習と変革」プロジェクト研究の先駆けとなった「未来の教育変革」プロジェクトの中で、ある研究者が次のような言葉で締めくくった。 「われわれの変革の試みは最終的に、壁というより天井に直面した。それを突き抜ける進歩は不可能に思われた。多くの学校管理者や教師は、学校を”改革”するのではなく”作り直す”べきだという結論に至った」  これは要するに、単なる「改革」では不十分で、「作り直し」レベルの作業が必要ということなのである。そのためには、次の3点が重要になるだろう。   まず第1章では、先進諸国の教育システムにおいて、将来の発展をめざすための「核となる技能」と知識の例を紹介する。さらに、先進諸国の現在の教育組織が、それらの技能の獲得を促す環境をうまく作り出せていないことを示す。そして最後に、21世紀の教育改革方針の中で、特に考慮すべき4つの点について考察する。
  1.  最近の教え方と学び方の研究から判明してきた原則
  2.  「研究成果に基づく改革」と、様々な学習法
  3.  「代替学校」における経験
  4.  変革の事例
 最終節では、知識の伝達より知識の創造に力点を置く方法論について簡潔に紹介する。それは「学びの原理」が重視するもので、先進諸国にとって、教育の革新のカギとなるものである。

 

第2節 なぜ新しい学習方法と学習環境を模索するのか

 

 学校制度に根本的な変化が必要とされる理由は何だろうか。これまで数十年間、OECD諸国をはじめ多くの国々は、教育システムの変革にかなりの国力を費やしてきた。それは、教員研修プログラムやコンピュータの導入、学校カリキュラムの抜本的改革、多くの権限を学校と地方自治体に委ねるシステム、などである。
  これらの改革の根本には、生徒に21世紀の競争力(すなわち認知的・超認知的な知識と技能を与えること)という目的がある。そして、改革の中では、生徒が獲得すべき能力、知識、技能が定義されている。
 今日のような複雑な社会に必要な「カギとなる能力」(キーコンピテンシー)の概要は、OECDのDeSeCo2プロジェクトが初めて作成した。それは以下の3つのカテゴリーにまとめられる。 1.知的手段を状況に合わせて扱うこと 2.多様な社会集団と交流すること  3.自律的に行動すること  同様な意図から、EU議会《EU各国選出議員の総会》とEU評議会《各国の代表者会議》は、生涯学習のための8つの「カギとなる能力」を策定した。それは以下の通りである。   これら8つの能力には、クリティカル・シンキング《ただ情報を受け取るだけでなく、吟味する思考法》、創造性、イニシアティブ《議論のすすめ方》、問題解決能力《問題の見つけ方》、リスク・アセスメント《将来性や安全性を評価する力》、適切な意思決定法、そして前向きな意志のコントロール能力が含まれており、生徒の将来に重要な役割を果たすと考えられている。
 また2011年に実施されたOECDの最新のプロジェクトである「国際成人力調査」も「リテラシー《ものごとを読み解く能力》」を定義しているが、それは「《パソコンやスマホ等の》デジタル技術とコミュニケーション・ツールなどの社会・文化的ツールを適切に使い、情報を管理・統合・評価して新しい知識を組み立て、社会に役立つ形で他者と交流しながら利用することを可能とする、個人の関心・態度・能力――すなわち読解力、数学的思考法、ITを活用した問題解決能力の3つ」と定義しており、DeSeCoやEUのものとよく似ている。(中略)
 これらのプロジェクトは《現代においては、ある一時点で身につけた技能は、すぐ陳腐化するため》ある決まった時期《例えば高校時代》に、特定の社会・文化的手段《例えば学校の教科や、○○検定といった資格》を身につければよい、ということを言っているのでない。これらプロジェクトは、人の一生の中で、その時点に最も適した分析能力と、必要な技能を身につけることを、訴えているのである。(中略)
  以下の部分では、PISA《国際学力》調査が明らかにした、現在の教育システムが生徒の潜在能力を発揮させる学習環境から、いかに遠い状態であるかを示そう。(以下略)

 

2.1 「21世紀型能力」とPISA(国際学習到達度調査)

 

  PISAプロジェクトは、《当時の》学校システムが明らかにうまくいっていないのではないか、という疑いから始まった。結果として、OECD諸国中、読解習熟度リテラシーのPISAレベル3以上(やや複雑なテキストの読解力)段階に達している生徒は57.1%である。
また、レベル3を三分の二の生徒が越えているのは、たった5カ国しかない(カナダ、フィンランド、アイルランド、韓国、ニュージーランド)(PISA調査2007年)。17カ国では、生徒の40%以上がレベル3に達していない(オーストリア、チェコ、デンマーク、フランス、ドイツ、ギリシア、ハンガリー、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、メキシコ、ノルウェー、ポルトガル、スロヴァキア、スペイン、トルコ、イギリス)。(中略)
 PISA調査の目的は「変化し続ける世界にうまく適応するためには、どのような知識や技能が必要か」という点《を明らかにする》ために行われ、特定のカリキュラムの達成度を測ってはいない《それなのに、日本の報道発表にはそういうニュアンスがあり、結果的に平均だけ見て「遅れている/大丈夫」という、明治以来の議論に帰結しがちである》。(中略)
 PISA2003調査の問題解決能力の部分を見ると、OECD諸国全体では、生徒の約20%は、状況分析と決定や、同時に複数条件の処理をすることができる。3分の1弱は論理的に意思決定ができ、3分の1は基本的な問題解決ができると考えられる。しかし残る約16%は、情報収集能力や状況分析能力が劣っており、場当たり的な問題解決しかできない。問題解決能力は、国家間で差があるが、それ以上に大きな差が各国内部にある。こうしてPISA調査は、リテラシーと問題解決能力の点において、多くの生徒が知識社会への準備ができていないことを浮き彫りにした。

 

 2.2 「学びの科学」と現代の社会・経済

 

 さまざまな分野の研究者が、OECD諸国で過去数十年のあいだに起こった、産業経済から知識経済への転換、すなわちモノの生産と供給から知識と情報に基づく経済活動への変化の影響を重視している。また、今後の知識経済における「カギとなる能力」として、創造性、技術革新、独創性が重要であると強調し、何人かの研究者は、今日の経済を「クリエイティブ・エコノミー《創造性主導型経済、略して創造経済と訳す》」と呼んでいる。こうした変化が第2章のソーヤー氏の分析の背景となっている。
  かつて学習科学者が初めて学校の教室に踏み入れた時、ほとんどの学校が、知的作業の基盤である根本的な知識を教えていないことを発見した。その後1980年代までに、認知心理学者は、生徒が、表面的な知識でなく「深い知識」を学んだ時、また現実社会や実際的な場面で使い方を学んだ時、初めて知識が「使いものになる」ことに気がついた。そこで学習科学者は、知識経済と「標準的な学校」のすり合わせ方を議論し始めた。
 今日、学習科学者が理解した事は、学ぶ立場の者は、熟達者が常日頃やるような活動に従事する時、より深い知識を学ぶことができるということである。《これは、見習い職人がどのようにベテラン職人になるかという研究の成果である》
(中略)
「知る」ということは、学習者自身やその場の環境、そしてその目的を実現のための活動、これら全てを含んだ全体的な動きなのである。《したがって、活動のない学習は効率的ではない、ということになる》。
こうした、活動的で状況依存的な「知る」という概念は、伝統的・常識的な「伝達と習得」という学習概念とは、大幅に異なったものである《ため、違和感があるかもしれない》。
 知識経済は人々に、事実と手順の暗記以上のものを要求する。そして教育を受けた人《つまり学校を卒業した社会人》は、常に複雑な概念の理解と、新規のアイデア、新規の理論、新種の製品、そして新規の情報を生み出す力を要求される。その結果、社会人は、読んだものを《無批判に受け取るのではなく》、クリティカル《つまり吟味的》に評価し、科学的・数学的に理解し、口頭や文書で自分の意見を表現できることを《要求される》。
  そしてこれからの社会人は、バラバラで現実から遊離した知識ではなく、整理され、使い勝手の良い知識を身につける必要がある。そのためにも、生涯学習が必要である。こうした力は、経済や民主主義、そして充実した人生を送ることにおいても重要である。
 しかし今日の多くの学校では、そのような自己開発的な行動を起こすための「深い知識」は教えられていない。第2章でソーヤー氏は、現在の標準的な学校教育のしくみこそが、深い理解と吟味的な問題解決力を身につけることを難しくしていることを明らかにした。彼の分析が、これからの教育に関連する事業の展開に役立つことは明らかだろう。(以下略)

 

2.3 学校組織:脆弱な知識の取り扱い手と、変革能力を促すポンプ

 

  多くの研究が、学びと学校組織の、柔軟で開かれた学習のあり方について議論してきた。しかし、良さそうな要素を持つ事例は多いのに、持続的で大規模な変化を起こしそうな事例はあまりない。
 伝統的な教育が変化しにくい要因については、OECD教育研究革新センター(CERI)の分析がある。
それによると、世界の一般的な学校では、教師が教育の研究と開発に費やす費用は、他の知識活用を目的とする団体や組織と比べて、非常に少ない。さらに大多数の教師が日常使う、知識の伝え方に関する技能のほとんどは暗黙知で、めったに明示されず、同僚と共有されることもあまりない《つまり日本の「職員会議」、「授業研究」や「公開授業」、「教科別部会」などの存在は、世界的には非常に珍しい》。つまりCERIによると、非常に多くの学校が知識の扱い方という教育の社会的使命を怠っている、ということである。
  またCERIは、教育に関係する4つの「変革能力《を地下から汲み上げるように促す》ポンプ」の存在をつきとめており、既存の《企業などの》組織に比べ、教育組織には、それを抑制する傾向にある、という問題点を指摘している。以下は、その4つのポンプである。
  1.  科学的研究成果の活用 これまでの教育では、教育科学の研究成果があまり利用されてこなかった。また教育上の新手法に対し、《「生徒を実験材料にする」や「変化に対する」》などの心理的な抵抗がある。
  2. 学校や教員の水平統合 《コンピュータ等の》ネットワーク上にある知識を活用することには、明らかな利点があるが、《教員が自発的に》そうするための方法《特に資金の面は》未だ開発できていない。多くの学校に共通するのは、単独で行動する教師や、単独で運営される教室や学校であり、それらは今後、ゆるやかに結びつける必要がある。
  3. 分散型構造 分散型構造とは、個々にデザインされた小さな組織が協調して動くという、複雑なシステムである。教育者や教育組織は、協調して動くことに慣れねばならないが、一般的な学校も教師も《日本以外では》バラバラになっていることが課題である。
  4. 情報通信技術(ICT)の利用 デジタル技術は、教育を変化させる強力な武器だが、学校での使い方は洗練されているとは言いがたい。その理由の一つは、学校運営と授業のやり方が、変革に対して抵抗があるからである。《ただし企業も、アメリカは1980年代まで、日本も2000年代まではそうだった。しかしグローバル化の波を受けて変化した。》

 

第3節 学習環境を再デザインするための各種の方法

 

3.1 「学びの科学」に基づく手法

 

 「学びの科学」は、様々な科学的視点から教授学習を研究する学際的な分野である。それは学習についての重要な特徴を明らかにした。それは例えば 以下は、ソーヤー氏が第2章で示す知見の要約であり、詳細は2章を見ていただきたい。これらは学習環境のデザインを成功させ、新しい学校教育モデルの開発に役立つだろう《言い換えれば、OECDが実現をめざす教育の理想型である》

 

第2章 学習の最適化

 

 第1節 序論

 

 「学びの科学」は学際的な分野である。それは、《脳科学の一分野である》認知科学や教育心理学、コンピュータ科学や人類学、社会学や情報科学、神経科学や教育学、デザイン学や指導設計学(インストラクショナル・デザイン)などの分野を含んでいる。
 長い間こうした学問の研究者は、学校のような場における公式の学習だけでなく、家庭や仕事や仲間内といった場所で起こる非公式な学習を含む、様々な学習を研究してきた。というのも「学びの科学」の目標が、効果的な学習を起こすしくみを理解することや、教室等の学習環境をデザインし直し、結果として人々が深く効果的に学ぶようにすることだからである。
 1980年代末期、さまざまな分野で別々に学習を研究していた研究者がほぼ同時期に、自らの学問領域を超えて、新しい手法を編み出す必要性に気がついた。そして「学びの科学」が1991年に誕生した。この学問は、学問領域をまたがり、新しい学習に対するアイデアや教育法、新しい見方を生み出した。この分野の最初の包括的概要が、2006年出版の『学習科学ハンドブック(初版)』(ソーヤー,2006b)である《現在第二版》。
  「学びの科学」の研究者は、教室や博物館、放課後クラブ《日本では学習塾や予備校》やオンライン学習、コンピュータを使った個人学習アプリなどから、効果的な学習方法を研究している。
 これまで「学びの科学」の研究は、いくつか新しい学習像を示してきた。第2章では、様々な学習方法の開発に役立てるため、「学びの科学」の知見を紹介していこう。

 

第2節 教育の「標準モデル」

 

  20世紀までに、全ての先進工業国は、公教育をすべての子どもに提供してきた。そうした教育制度は、最初は国ごとに異なったやり方で始まったが、最終的には似たようなモデルに収束した。しかし、そうしたモデルが出現した時点では、科学者でさえ、人間がどのように学ぶか、十分に分かっていなかった。私達が今日知っているように、学校が大きく融通の利かない組織になり始めた1920年代でさえ、人の学びかたの研究は全くなされていなかった。
その結果、学校教育モデルは一度も科学的に検証されることなく、以下の「常識」に基づいてきた。
  1.  知識とは、事実と問題解決手順の集合である。事実とは「地球は23.5度、地軸が傾いている」などと表現されるもので、手順とは、ある段階から次の段階へと進む中で何をどうするのかという、段階の集合である。
  2. 学校教育の目標は、生徒の頭に事実と手順を叩き込むことである。生徒が事実と手順を、より多く備えていれば、その人は教育されている、ということになる。
  3. 教師は事実と手順を熟知しており、教師の仕事は、それをより多く生徒に伝達することである。
  4. 簡単な事実と手順から学び始め、次第に複雑な事実と手順へとつなげていくのが正しい教育法である。どの事実/手順を簡単(複雑)にするか、その教材をどう作るかは、子どもの学び方を研究するのではなく、教師と教科書執筆者、数学者・科学者・歴史家といった専門家にまかされる。
  5. 学校教育の成功/不成功を確かめる方法は、生徒が事実と手順をどれだけ習得したか《つまり知識量》で、生徒をテストすることである。
  学校教育に関する、こうした見方は、あまりに長い間、当然とみなされており、最近までほとんど明示されてこなかった。OECD教育研究革新センター(CERI)の「イノベーティブな学習環境」プロジェクトでは、こうした伝統的な教育モデルを、「標準モデル」と呼んでいる。(中略)
  標準モデルの学校は、生徒を20世紀初頭の産業経済に適応させた《という実績がある》。また、標準量の「事実と手順」を生徒に伝えるのには効果的であり、生徒の標準化の保証が重要な目的である。また標準モデルの学校は、工業化時代の工場を彷彿とさせる、画一化され、計画的で、軍隊的なものである(キャラハン,1962年)。そしてこの構造こそ、生徒を《かつての》労働者に変えることを容易にするものだった。

 

第3節 変革経済への移行
  過去数十年の間に、多くのOECD諸国は産業経済から知識経済への急激な変化を経験した(ベル,1976年、ドラッカー,1993年)。知識経済はモノの生産と供給より、知識・情報の生産と供給に基づいている(ドラッカー,1993年)。
  知識経済における労働者は、機械ではなく、記号(シンボル)を操作する人であり(ライヒ,1991年)、モノでなく概念を生み出す人である(ベレイタ,2002;ドラッカー,1993)。また、知識経済では知識こそが経済の本質であり、労働と資本という伝統的な経済の2要素に加わる、第3の要素であると主張する人もいる(フロリダ,2002;ローマー,1990)。
  さらに、知識経済時代における創造力や変革力、そして創意工夫の重要性を強調し、今日の経済を「創造的経済」と呼ぶ学者もいる(フロリダ,2002;ハウキンス,2001)。フロリダ氏などは、「我々は今や、人類の創造性が動かす経済を持つに至った」、「創造性こそが経済生活における決定的な要素となる」と主張した(2002年)。(中略)
 1990年代までに、教育の専門家は、世の中が、製造業中心の時代でなくなったこと、そして自分たちが、今や急速に消えつつある《製造業中心の》世界のための研究をしてきたことに気がついた(ベレイタ,2002年;ハーグリーヴス,2003年;ソーヤー,2006c年)。
  これが、主要な政治団体や国際機関が、「学びの科学」に関する研究レポートを発行するきっかけだった。そうしたレポートの中には、《有名な》米国学術研究会議(NRC)『人はどのように学習するか』(ブランフォード,2000年)や、OECD『知識経済におけるイノベーション:教育と学習』(2004年)、国際教育工学会の『技術、変革、教育の変化--グローバルな視野から』(コズマ,2003年)などがある。
 標準モデルにおける教育研究の役割は、いかに効果的に、生徒に事実と手順を伝達できるかを補佐することにある。しかし1970年代から1980年代にかけて、「学びの科学」の研究者たちが初めて教室に入った時に気づいたことは、学校が「深い知識」を教えていなかったことである。
  また1980年代に認知科学者たちは、子どもの記憶力が良くなるのは、表面的知識ではなく深い知識を学ぶ時であり、実社会の中で知識の使い方を学ぶ時であり、その方が、より幅広く応用できることを発見した。その結果、1980年代末に「学びの科学」者は、先に述べたように、標準モデルが知識経済とかみ合っていないと主張しはじめたのである。
  確かに、今日の学校の多くは、変革的な行動の源となる「深い知識」を教えていない。しかしだからといって、単に教師がこれまでとは違うカリキュラムで教えれば解決するということにはならない。というのも、標準モデルの構造そのものが、「深い理解」をもたらす学習環境を作り出しにくくしているからである。
  学習科学者が大きな関心を寄せるテーマの1つに、《師匠の業を、弟子が真似るように》専門家が普段行う活動《専門知》と似た活動を生徒がやると、深い知識が学べるのはなぜか、というものがある。この《真に効果的な》訓練に対する関心は、知的作業の基となる「専門知」に関する研究に基づいている。
 1980年代から1990年代にかけて科学者は、科学《者自身の世界》を研究しはじめた。そして《科学の世界の》新規参入者は、その分野の主要メンバー《つまり先輩や師》を倣うことで、成員になっていくことを発見した。
  科学における最先端の研究は、ますます分野間の境界線上で行われるようになっている。そのため本来なら生徒は、多くの科学原理を貫く構造や関係性、規則を学ぶ必要があるのだが、標準モデルの理科の時間では、(例えば太陽系の次は光合成、その次は力学、と進むような)6週間ごとに繋がりのない知識が教えられている。
  また《経営コンサルタントや株式トレーダーなどの》知的労働者の研究からは、彼らが旧式の道具(鉛筆、紙、チョーク、黒板)だけでなく、《コンピューターやスマホなどの》最新のツールも使いこなし、知識を実践的に使っていることが示されている。
  こうした成果によって、研究者は「状況に埋め込まれた知識」を発見した(グリーノ,2006年)。「状況に埋め込まれた」とは、知識が脳内に固定されたものではないことを表している。実は「知る」という行為は、ある人やその人が使う道具、その時同じ環境にいる人、そして彼らが行う活動など、全てが含まれる一連の過程なのである。
 《例えば、「数学が分かる」とは、問題の定義や公式の扱い方などを駆使して、ある問題を結論にまで結びつける過程であるが、数学の問いを自分で考えて解いた(状況に入った)ことのない生徒は、既存の問題の解き方は暗記できても、それを他に応用できない。これまで「標準モデル」は、根拠もなしに学習成果が、自然と他の分野に応用されると信じてきたが、今やそれは否定された。現在広められようとしているアクティブラーニングなどの学習法は、目的を設定した状況の中で、実際に生徒が活動をしながら学ぶ形である》。
 こうした《知識に対する》新しい見方は、標準モデル時代の学習が得意としていた知識の「伝達と習得」という手法にとっては逆風だが、《逆に》協働学習にとっては追い風となるものである(ロゴフ,1990年,1998年)。知識経済《の時代》においては、事実と手順の暗記だけでは、《人が》成功するのに十分ではない。《本当に》学卒者が「教育された」と言われるためには、複雑な概念を理解するだけでなく、それらを使って、新しいアイデアや理論、新製品、そして新しい知識を生み出す力が必要である。
 《さらに》誰もが、《本やウェブサイトなどの》読んだものを吟味的に評価し、科学的・数学的な思考法を使って理解し、考えたことを口頭や筆記で分かりやすく表現できなければならない。また、これまで「標準モデル」で重視された、細切れの脱文脈化された《つながりのない》知識より、統合的で使い勝手の良い知識を学ぶ必要がある。
 しかもそうした学習を自分の意志で継続し、生涯にわたって続けねばならない。こうした《新しい知識を生み出す》力は、《今後の》経済や民主主義政治への参加にとって《すなわち世のため人のため》だけでなく、その人自身の人生のためにも重要である。これまでの学校教育「標準モデル」は、知識を発展させることや、創造的な仕事をする専門家の育成には不向きなのである。

 

第4節 学習科学の重要な知見

 

4.1 「深い概念レベルの理解」の重要性

 

  先に述べた《コンサルタントなどの》知的労働者についての研究は、「標準モデル」で教えられる知識が、知的労働者に役立たないことを明らかにした。知的労働者が持つ知識は、どんな場面で使うか、《刻々と変動する経済状況下で》新しい状況下ではどう修正するかなど、概念レベルで深く理解し、《応用できるほどの》場合にのみ役に立つ。これに対し、「標準モデル」《で得た知識》は学校《の試験の場》以外では使えない種類の学びとなっている。(中略)
  では次に、この「深い理解」について説明しよう。

 

○専門知識の知的基盤

 

 1970年代の認知科学が発見した、最も重要な知見の1つが、特殊な行動より、人間の何気ない行動のほうがコンピュータに理解させにくいということだった。当時の最も優れた人工知能(AI)プログラムは、医療や製造業、通信や財務といった、知識集約型の専門家の能力を真似できた(リーボウィッツ,1998年)。その結果、認知科学者は専門的知識というものを《コンピュータに》理解されられた。(中略)ところが、日々の何気ない行動というものは、未だ人工知能プログラムの能力を超えているのである。《それはさておき》認知科学者は、専門的知識が以下の特徴を備えていることを明らかにした。

 

○問題解決能力

 

  認知科学者は、「問題を解決する」のしくみを明らかにしようと、これまで何十年も費やしてきた。これについての、今最も有力な説は、「問題解決」者が、その人自身の《脳内に》問題に関する十分な背景知識「問題空間」を持っているかどうかが重要ということである(ニューウェルとサイモン,1972年)。
 《一般的に》「問題解決」は、誰かが解決に向けて、《さまざまなその問題に関する情報を含んでいる、その人の脳内の》空間内を何度もくり返し探究し続けるうちに思いつくものである。《逆に言えば、十分な情報を持っていない場合、問題解決は難しい。》知的作業は、一般に問題解決を求められるので、この研究成果は重要である。

 

○思考力

 

  教育者《や評論家》が高度な思考法の重要性を語る割には、彼らが重視する「思考方法に重点を置く教育方法」は、科学的研究に基づかないことが多い。彼らの主張する方法がなぜ学校で教えられるべきなのかという理由さえ、科学的根拠のない直感に頼っていることが多い(クーン,1990年)。
  そこで、1980年代から1990年代初頭にかけて、認知心理学者は、一般人の日常的な論理思考法を研究した(ヴォス, パーキンス,シーガル,1991年)。「日常的」と言うのは、人が簡単に解決できない実生活上の問題に直面した場合、良くも悪くも「日常的に」使う論理のことである。
 また別の研究者は、ほとんどの人々が日常的に犯す思考的な誤りや、何気ない意思決定の方法を研究しはじめた(カーネマン, スロヴィク,トヴェルスキー,1982年) 《なおカーネマンは、この研究から経済における人間の非合理的な行動の分析へと進み、「行動経済学」という新分野を開拓し、ノーベル経済学賞を受賞した》。
 さらに同時期に、発達心理学の専門家は、善悪の判断の基準が、人の一生の中でどのように変化するか研究した。その結果彼らは、有名な認知科学者ピアジェの研究が拡張された、子どもの思考法と大人の思考法が異なることを明らかにした。それは教育にとって、非常に重要な知見であった(ダンバーとクラール,1989年)。

 

4.2 教える方だけでなく学ぶ方にも注目する必要がある

 

  ピアジェ以前、ほとんどの人々は、子どもは大人ほど知識を持っていないと信じきっていた。しかしピアジェは、それと根本的に異なる理論を唱えた。それは、確かに子どもは大人ほど多くの知識を持っていないが、《学習にとって重要なことは》子どもの精神が大人のものとは異なる構造を持っているというものだった。子どもと大人は、知識の量だけではなく、知識の質《や受け取り方》も異なっていたのである。
  そして研究者は先述した1980年代に、子どもは大人と違った形で考えると確信した。彼らは、例えば数学の時間に子どもが問題を間違えた理由は、十分に勉強しなかったり、学習したことを忘れたりしただけでなく、子どもが、教師が予想もしなかった方法で考えるため問題を間違える場合があることを発見したのである。ここで大事なことは、(教師の責任ではなく)これまでの数学教育が、そうした誤解を正すようにデザインされてこなかった、ということである。
  すでに学習科学者は、そうした子ども特有の思考法から生じる《いわゆる》「ナイーブな数学」と「ナイーブな物理学」の特徴を把握し始めており、《子ども特有の理解についての》知見を蓄積しはじめた(ディセッサ,2006年;リン, 2006年)。この研究は、学習環境を考える立場の人が、《次項で説明する》「生徒のもつ知識と誤認識」を、効果的な学習につなげることを可能にする。
  さらに構成主義の研究からは、生徒が、教師の言うことを聞いたり、教科書を読んだりしても深く学べない理由が明らかになった。  今や「学びの科学」の研究は、知識の構築のしくみについて、深いレベルから明らかにしつつある。効果的な学習環境を作るためには、子ども達が教室に入ってくる時に、《何を教えるか、だけでなく》何を知っているかについて、よく理解することが重要なのである。

 

 4.3 学習は、既有の知識が基になる

 

  「学びの科学」研究で最も重要な発見の1つは、学習というものが、常に既有知識をもとに行われるということである。子ども達は、満たされるのを待つ空の容器として教室に入ってくるのではなく、実際には不十分な《知っている人から見れば誤った》世界観と認識を持って教室に入ってくるのである。《例えば「血液型は性格と関係がある」「黒人は先天的に運動能力が優れている」など》。子ども達が就学前に持っている世界観は、「ナイーブな物理学」や「ナイーブな数学」、「ナイーブな生物学」などと呼ばれている。多くの認知科学者は、子どもの世界観が就学前や低学年時に、どのように発展していくか研究してきた。この研究は、今後の学校教育にとって非常に重要となるだろう。
  学校にとって問題なことは、これまでの標準モデルが、子どもが空っぽの頭脳で学校に入ってくるという《古い》前提を元に開発されてきたことである。だから先生の役割は、知識で子どもの頭を満たすこと、という教え方は、子ども特有の、就学前の知識や世界観について全く考慮していない時代のものなのである。
 《これは小学校だけの問題ではない。ほとんどの生徒・学生に共通する問題である。例えば高校生用の教科書では、高校生が何を知っているか、調べずに書かれている。そこで使われている用語は研究者が選定し、文体も研究者が使うものが基本である。それは生硬で、分かりにくいことが多い。数式や用語の量も多く、理論の説明も十分ではない。日本では2000年代になってから、ようやくこの問題に対する研究者の認識が深まるようになり、2020年からの教育課程から、ようやく用語や内容の削減が始まることになっている。手前味噌だが、筆者の「読本」シリーズは、こうした要素を考慮した最初の教科書的なものである。》

 

 4.4 省察(ふり返り)

 

  「学びの科学」は、学習者が自分の知識を外部に言葉で表現《外化》する場合、より効果的に学びが起こることを明らかにした(ブランスフォード,ブラウン,コッキング,2000年)。これは見かけよりも複雑な現象で、単に学習者が学んだ何かを表現すれば良いという話ではない。最良の学びは、学習者が自身の内に存在する、未熟で形成途中の概念を言葉にする時に起こるということなのである。
 つまり、言葉にすることと学ぶことは、相互に補強し合うフィードバック関係の中にある。逆に言うと、学習者は、学んだことを言葉にするまでは、何かを学んだとは言えないということである。さらにこれは、声に出して考える方が、静かに勉強するより、素早く深く学べるということにもなる。《要するに、ただ習うだけより、不十分でも教える方が、理解が早まるということである。》
 声に出すこと《外化》が学習に役立つ理由の1つは、それが省察(《振り返って考える事》やメタ認知《自分の認識が正しいか振り返ること》)を可能にするからである。それはまた、自分が学んでいる過程や状況について深く考えることや、得た知識を吟味することになるのである。
  「学びの科学」研究者は、より深く理解するための、学習における省察の重要性を強調してきた。多くの学習科学の授業は、省察を促すように設計されてきたが、その手法のほとんどは生徒に、頭の中に形作られかけている理解を、口に出させることによって省察へと導くものである。逆に言えば、生徒が、自分の内にある未完成の理解を、口に出せば出すだけ、省察できるような環境《をもつ学校》こそ、良い学習環境《学校》なのである。

 

4.5 足場作り(スキャフォールディング)

 

 「学びの科学」研究で、最も重要な知見の2つめが、前述した「声に出すこと」と省察の援助の仕方と、どのような「声の出し方」や省察が最適か、ということである。そして「学びの科学」は、「足場」が存在する時、学びがより効果的に起こること--つまり、知識が口から発せられると、その結果、《脳がその知識を》最も有益な省察を生じそうな形に導く--を明らかにした。
 これは、生徒が自分の理解を明瞭な形で口に出すには、《教師の》手助けが必要だが、それは彼らがまだ《初心者で》、省察のやり方を知らず、考えたことをどのように語ればよいのか知らないから《つまり練習不足、実践不足だから》である。
 《多くの学生は学部生時代に、後から振り返れば恥ずかしい内容の「卒業研究」をする。しかし、そこで大事なことは、研究内容そのものより、研究発表で行われる、自身の研究の「説明」の方なのである。どんな偉大な学者も、それを(何度も)経ないうちは成長できないということである。》
 「足場」とは《この「手助け」をシステム化しようとするものであり》、学習者の目標を達成する上で、それぞれのニーズに合うように調整された補助線のことである。最良の「足場」は、学習が進む形で作られる。
 例えば、《教師が》生徒にいちいち指示することは、決まった目標を達成する手助けにはなる。しかしそれは、その生徒が積極的にその知識の構築に参加していないため、良い「足場」ではない。これに対し、良い「足場」は、学習者が自力で理解することを手助けするような手順やヒントを示すものなのである。
 効果的な学習環境は、「足場」が建築作業を助けるのに似て、生徒が自力で知識を構築する足場を提供する。建設作業員は、より高い現場へ到達しなければならない時には足場を追加し、完成時には足場を取り除く。
 効果的な学習においても同様で、「足場」は学習者の必要に応じて追加され、修正され、取り除かれ、最後には消え去っていくのである。  《これも「読本」に取り入れた要素で、文中に出てくる分かりにくい表現や概念には、必ず言い換えや具体例、たとえ話を挙げておいた。こうした要素は難解な概念を理解するのに有効であり、他の教育環境、例えばイスラーム世界のウラマー(宗教指導者)養成機関では、必須科目になっている》

 

第5節 学習科学から見た、学習環境《学校教育》が向かう方向

 

  「学びの科学」は、生まれてからまだ日が浅く、今の学校教育に代わるモデルを、うまく語れるほどにはなっていない。それでも、それが生みだしたいくつかの知見は、「変革」経済への移行にとって重要な、今後の学校教育のモデルを作り出すための原則を、いくつか発見している。

 

5.1 個人ごとに合わせた学習

 

 「標準モデル」校では、全員が同時に同じことを学ぶ。それ故、このタイプの学校では、標準化を強いられる。しかし「学びの科学」が得た知見は、生徒は、入学前にもっている認知構造に適した環境に置かれる時、最も良く学習が進むことを示している。
 さらに、学習者ごとに、異なった認知構造を持っていることも明らかになった。こうした結果は、学習者が各自に最適化された学習経験を受けられるなら、より効果的な学習が行われることを示している。  例えば、一人の教師が《日本では少なめだが、海外だと多めの》25人の生徒がいる6クラスの授業(計150人)を担当する場合、ある程度までなら教育ソフトが、各生徒に適した学習経験を提供する。
 また、上手くデザインされたソフトウェアなら、各生徒の固有の学習スタイルと発達レベルに合った教材をあつらえてくれる(ケーディンガーとコルベット, 2006)。コンピュータは、各生徒に合わせたペースで情報を提供できるので、《同じクラスに》学習を速く習得できる生徒と、時間をかけねばならない生徒がいても、対応できる。
 その結果、各生徒は好きな速さで学習できるので、例えば、1日のうちに5年生の読解と3年生の算数を同時に学習することも可能である。現在のような、年齢別の教室では、こういうことは不可能だ。
 しかし、次世代の学校では、年齢別教室の必要性も、進度の速い生徒に我慢させることも、助けが必要な生徒を置き去りにすることもないし、子どもに全ての科目を同じ進度で学ばせる理由もないだろう。
 もちろん、年齢ごとのクラスは、友人を作り、仲間集団を形成し、チームスポーツに参加する機会を提供すること、すなわち子どもを社会化するのには役立つ。従って、もし学習と学校教育が、年齢別クラスで行われることがなくなれば、これらの機会を提供する別の組織が生まれることだろう。

 

5.2 多様化された知識源

 

 標準モデルは、「伝達と習得」の手法に基づいており、その中では、教師は教えるべき全ての知識を持っており、学級は教師から生徒への知識の伝達を容易にするようデザインされている、と仮定されている。
 これに対し、「学びの科学」研究から生まれた「プロジェクトベース」の学習においては、生徒は様々な知識源(インターネット上のウェブサイトや図書館、各種の専門家とのメールのやりとりなど)を通して《自分の力で》知識を得る。
 その中で教師は、もはや教室における唯一の専門知識の持ち主ではないだろう。学習者は、そうした様々な知識源から知識を得るのである。もちろん教師からの専門的な手助けは、学習の過程を助けるだろう。そして教師は知識の唯一の授与者ではなくなるだろう。

 

5.3 《グループ創造型の》知識

 

  知識集約型の職業において、人は本や紙やテクノロジーを駆使することによって、知的な活動を行っている。知的作業はチームと組織の中で行われ、その結果、人は1時間に何度も他の人と交流している。しかし、今日の学校では、生徒がいかなる外部の知識源をも使わず、自分自身で行うことができる場合にのみ、《つまり、生徒が必要な知識を持っている場合にのみ》生徒が問題を理解できるとされている。
 要するに、今日の学校文化と、知識社会で求められる知識は、かみ合っていない。  同様に、「学びの科学」の研究では、協力し合う生徒集団の中での方が、早く学べることを明らかにした(ソーヤー,2006a)。それは、教室内での協力が学習効果の増進を支持するという「学びの科学」の効果の事例ではあるが、同時にそれは、変革経済が求めている、協同的で創造的な学習の高度なスキルを持つ卒業生の例でもある(ソーヤー,2007)。

 

5.4 《首尾一貫した》カリキュラム

 

  標準モデルの学校は、概して高度に整理・統合されたカリキュラムを持っている。そして、教育研究が取り組む課題はだいたい、2年生の算数では何が、6年生の社会科では何が、教えられるべきか、などというものだ。
 米国では《ソ連が原爆開発や、人工衛星スプートニク打ち上げによって宇宙進出で先を越されたショックから》1950年代から1960年代にかけて、「応用科学者」が理科のカリキュラムを重視した(ルドルフ,2002)。ただし、そのカリキュラムは、以前から存在したものを改良したものだった。
 しかし今日「学びの科学」者達は、大人の専門家にとって簡単なものが、学習者にとって必ずしも簡単ではなく、最も効果的な活動というものが、必ずしも専門家が複雑とか簡単と判断する基準には合わないということを発見した。
 子どもは、《生まれつき持っている》「ナイーブ」な理論と誤認識を持って学校に入ってくる。そして学校時代に、通常の知的発達段階を通り抜ける。
  先述した1960年代の教科書とカリキュラムは、科学者との協力で開発されたとはいえ、「学びの科学」が発達する以前にデザインされたものである。しかし今後10~20年のうちに、「学びの科学」に基づいた、幼稚園から高校までの12年間を通じた新しい教育カリキュラムが出現するであろう。
 カリキュラムについては、生徒が各学年でどれくらいの内容を学ぶべきかという問題がついて回る。標準モデルにおいては、各学年で何をどれくらい学ぶべきかで決まるのがほとんどである。
  しかし、内容に焦点化するのは、見当違いである。4年ごとに50か国で、数学と理科における生徒の到達度を比較する国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)によると、米国の数学・理科のカリキュラムは、他国より多くの内容を含んでいる《日本では、その優れた内容や一部の成功例しか紹介されないが》。
 しかし同調査によると、それは生徒の才能を強化するより、むしろ他国と比べて生徒の達成度を弱めている(シュミットとマクナイト,1997)《ちなみにアメリカのPISA調査における生徒の成績の平均は、常に先進国最低レベルである。ただし最優秀層の人口は世界最大》。
  典型的な米国型の授業だと、各々の主題は個別につながりなく教えられ、新しく得た知識は、次の題材に進むと忘れられてしまう。しかしTIMSSの研究では、首尾一貫した深い戦略を求めさせる国の子どものほうが、明らかに米国より良好な成績をとっている(シュミットとマクナイト,1997)。これは、生徒が学ぶ内容を使い、自ら考え、解決するような深い知識を学んでいるとき、学びが高まるという「学びの科学」の知見と一致する。

 

 5.5 教師の役割

 

  知識経済時代の学校では、教師は、法律家・医師・エンジニア・《企業や組織の》管理職・コンサルタントと等しいスキルを持った知的労働者であるべきである。教師は、子どもがどう学ぶかについて、最新の理論と知識を理解すべきである。また教師は、科学者・歴史家・数学家・文芸評論家などの実践に、深く精通しているべきである。
  教師は、他の知的労働者に匹敵する給料を受け取るべきであり、さもないと未来の教師を魅了するのは難しいだろう《多くの国、特にアメリカでは高校以下の教師の給料は非常に低く、日本のブラック企業レベルである》。というのも、「変革」経済時代の教師には、より多くの権限、より多くの創造する力、より多くの知識が必要だからである。
  教師は、テクノロジーとテーマについての深い教育上の理解を十分に持った、高い次元で訓練された専門職であるべきで、各教室で次々生まれる流れに即応できねばならない(ソーヤー, 2004)。そうすれば教師は、機械のように専制的に生徒をコントロールするのではなく、協力して真の学習を育むために、生徒を導くだろう。

 

 5.6 評価方法

 

  今日の成績評価には2つの重大な欠陥がある。それは、今日の評価法が、学校教育の標準モデルのためにデザインされたことによる。  まずその一つめは、今日の成績評価はすべての生徒がどれだけ同時に学んだかという点からなされている。
  《今日まで、上からの》標準化への動きと、《生徒が受ける一斉の》学力テストによって標準化は広まったが、同様に、《いずれ》「学びの」ための科学技術が、個の合わせた学習を広めるだろう。多様な知識源をもつ個別化教育によって、生徒は自分に合った形で内容を学べるようになる。
  学校は、もうしばらくの間、《行政等の》説明責任のために学習評価をする必要があるだろうが、説明責任と個に合わせた学習をどうバランスを取るのかは、いまだに答えが出ていない。
 次に、今日の標準的なテストは表面的な知識を評価しているが、知識社会が必要とする深い知識は評価できていない。標準的テストは、まさにその特性ゆえに、脱文脈化されて《=状況と関わりが絶たれ、実用的でない》、他から区分化された《=他とつながりが薄く、バラバラの》知識を評価する構造になっている。
  例えば、数学のテストは、現実的な解決法があっても評価されない(レーラーとシャウブル, 2006)。理科のテストは潜在的な誤解が残っていないか把握しない(ディセッサ,2006年;リン, 2006年)し、まして、どちらも問題解決能力や探究スキルも評価しない(クラチックとブルーメンフェルド,2006)。こうしたテストが行われる限り、学校が標準モデルから脱することは難しいだろう。
  「学びの科学」が直面している重要な問題の1つが、この、今日の知識型社会が求める深い知識に対応する、新しい評価法をどうやってデザインするかである(カーバー,2006年;ミーンズ, 2006年)。今も何人かの研究者が、深い概念理解に焦点を当てた新しい評価法を開発中である。

 

第6節 「学びの科学」と学習の代替モデル

 

  以下は、前述した論点以外の「学びの科学」研究が明らかにした知見である。

  ここまで見てきた知見からすると、最も効果的な学習環境が、以下の特徴を持つことが明らかである。

 今の学校教育の標準モデルは、これらの特徴を備えていない。学習は標準化されているが、知識源は教師と教科書に限定され、ほとんどの学習は、学習者が個々に行い、表面的な事実と手順の記憶量だけが評価の対象である。
  もっとも、上述した知見のいくつかは標準モデルの学校でも実施できる。例えば、既存の授業の中に、協働学習を導入することはできる(それをやっている学校は多く存在する。《しかも文科省がアクティブラーニングやSSH・SGH計画を打ち出して以来、増加した》)。しかし、上述の知見のいくつかは、標準モデルの中では実施が難しい。例えば「個に合わせた学習」を標準モデルの学校に採り入れることは、まず困難だろう。OECD教育研究革新センター(CERI)の研究が進めているのは、そうした「学びの科学」の知見に適合した、現在の学習像に代わるモデルを探ることである。
  その研究にふさわしい場は、学校ではないものの学習が行われる、自主学習、または非公式学習と呼ばれる場だろう。そうした非正規の学習の場は、これまでも存在した。その中で、多くの研究がなされているのは「見習い修行」である(コリンズ,2006年;ロゴフ,1990年)。例えば、商いを学ぼうとする青年が、熟練者と働く場である。また医学部では、修行すなわち研修制度は必須となっており、学生は《欧米の制度では》教室で2年、病院で医師の傍で働きながら2年を過ごす。見習い修行は、大工や電気工など技術職でも中心となっている。
  他にも、多くの「学びの科学」の研究者が正規の学校に、非正規の学校《で上手く行っている》機能が導入できないか試している。それは特に、自主的学習が当然である機関(美術館や図書館など)に関心が強く持たれている。近年、これらの機関の運営者は、教育機能を強化している。すでに博物館は、探究的カリキュラムを作成して指導者の専門性を向上させるなど、この分野を牽引してきたが、近い将来、美術館や資料館も、同様になるだろう。そのため、これらの機関が本格的な学習センターへ発展する可能性が高まっており、そのうち「学校」で学ぶ内容のいくらかは、こうした機関で学ばれるようになるのかもしれない。
  「創造的な経済」は学習社会でもある。そこでは、すべての労働者が生涯にわたって学習し続けなければならない。教育がある年齢で終了し、その後学習をする必要がなくなるなどとは思えない。
  そうした社会の変化の結果として、正規の教育と生涯教育の境界が、消え始めている。高校と大学における学期の意味も薄れている。というのも、学校における学習の性質が、ますます職人の修行や、成人向け遠隔教育と似てきたからである。ある種の知識、例えば社員が研修中に学ばされる知識は、《座学より》職場で仕事中に学ぶほうが上手くいく。今時の新人社員は当然のようにパソコンを仕事に使うので、職場研修を支援するソフトを使えば、この種の学習は、いつでもどこでも可能となり、急速に進展するだろう。《日本の専門学校や職業訓練校、職業高校にあたる》職業学校は、根本的な影響を受けるだろうが、新しい「どこでも」「必要な時に行う」タイプの学習は、ますます一斉授業型の教育を、衰退に追いやることだろう。
  またインターネットも、新種の学習の場、例えば、学習者と教師が、物理的に離れた場所にいながらネットワークを介して行う遠隔学習の場となっている。2005年現在、米国の22州がインターネット上に学校を設立した。2003~04年度に、フロリダ州では複数のバーチャル公立校がまとめられ、州の73番目の学区とされて、他の学校と同様に州の補助金を受けている。2004~05年度には、21,000人の生徒がその学校を利用した(ボリヤ, 2005)。  生徒が個々にコンピュータで勉強する時代には、年齢で生徒を区分する必然性など存在しない。生徒は、自身の理解度によってのみ、簡単なグループ分けがされ、「学びの科学」が進める「個に合わせた学習」を受けられるようになるだろう。

 

 第7節 結論

 

  学校教育の「標準モデル」は工業化時代に出現し、その時代が必要とした生徒を養成するのには効果的だった。しかし世界的な「変革」経済の出現が、「標準モデル」の弱点を明らかにした。今や「学びの科学」は、新しい学習方法を創り出すための研究成果を提供している。それを活かした学習環境を効果的に開発できる社会《や国》は、21世紀のリーダーとなるだろう(OECD,2000年,2004年報告)。
  我々は、学習の研究において、興味深い時代にいる。研究者は、1970年代には心理学、認知科学、社会学や、他の学問から「学びの科学」の基礎を作りだし、1980年代から1990年代にかけて、学校で教員と密接に協働しながら、研究を続けてきた。
  すでに研究者は、「学びの科学」が見出した新しい知見や、新しい学習を可能にするコンピュータ技術を使って、学校教育の新しいモデルを探っている。これらの研究者が、自分の専門にこだわらずに協働してくれているおかげで、最終的には、人の学び方の詳細が理解できるようになるだろう。既存の学校も、「学びの科学」の成果を使って変化すべきであり、未来の学習像を作り上げるために、図書館や美術館、放課後学習クラブ《塾や予備校》、通信教育校、家庭《学習》などの、「学校」以外の団体と協力すべきである。
  学びについての科学的理解が進めば、保護者と教師、管理者と政策立案者、そして地域や国の運命を委ねている政治家たちが一体となって、《いやでも》学校を変革せねばならないからである。